江戸のアントワネット

あかいかかぽ

文字の大きさ
9 / 127

九、 菓子を作る

しおりを挟む
「ぼくの国だよ。お姉さまとお父さまはまだフランスにいらっしゃるの。いつかぼくとお母さまも帰るつもりだけど……しばらくは無理みたい」

「まあ、シャルルは家族と離ればなれなの。どうしてお母さまと吉原で暮らすことになったの」

「逃げてきたんだ。民衆がすごく怒って……ぼくらを守った護衛が殺された。切り落とした護衛の首を槍の先に刺して……ほら見てみろって城の外からこれ見よがしにかざしたんだ。それで、なんとか城から逃げだしていろんな国をまわってここに辿り着いたんだ」

「まあ、ひどい。いくさが起きたの?」

「うん、まあ、そんなかんじ」

「そんな恐ろしいところに帰ることはないわ。ここで暮らせばいいじゃない。お父さまとお姉さまも呼び寄せたらいいわ」

 シャルルは困りきった顔でお照を見上げた。

「そうできたらいいけど……ぼくはフランスでお父さまのあとを継がないといけないんだ。お母さまも望んでいらっしゃるし」

 お照は安易に口走ったことを反省した。
 シャルルが大人びているのは、背伸びしてでも成長しなければならない理由があったからだろう。
 この小さな肩が背負っているものはお照には想像できないが、とてつもなく大きくて重いものに思えた。

「将軍さまの牛をなくしたら打ち首獄門になってしまうの?」

「それはないと思うけど、牛がいなくなったら牛乳が手に入らなくなる」

 話をしながら元来た道を急ぎ戻り、道すがら、かたっぱしらに声をかけたが牛を見かけた者はいなかった。
 次第に顔が曇るシャルルを見かねてお照はたずねた。

「牛乳って牛の乳? 牛の乳がないとそんなに困るの?」

「クレームキャラメルが作れなくなっちゃう」

「え、あれに牛の乳が入っていたの?」

 お照は思わずぎょっとなった。知らぬ間に口にしていたのだ。とたんに胃の腑から獣臭さがこみあげてきた。

「牛乳は吉宗が認めた滋養薬だよ」

「おくすり、おくすり……あれはおくすり」

 先ほどシャルルを脅したことが呪詛返しのように返ってきた。
 お照自身は獣を食べるのは抵抗があったのだ。

「おくすり、おくすり」

 題目のように繰り返し言い聞かせているうちに、気がつくと玄関の前に戻っていた。
 玄関の右の柱にさきほど見落としていた小さな木板が下がっている。
 菓子耕地屋。こうちやと読むのだろうか。意外に地味な店名である。
 店といっても見かけは仕舞屋である。商売をしている雰囲気はない。菓子舗は別にあるのだろうか。

 ふとシャルルを見やる。玄関の戸を睨みつけ、肩を強張らせている。
 女将さんに叱られることがよほど怖いのだろうか。

「ねえ、シャルル。もし女将さんがどうしても牛の乳がほしいって言うなら、近くの農家にもらいにいってあげる。吉原の回りは田んぼばっかだもの。牛を飼ってる農家もあるでしょう。子牛を産んだばかりの雌牛だってきっといるはず」

 シャルルはお照の指先をぎゅっと掴んだ。

「ぼくは大丈夫だよ」

 けなげにもシャルルは微笑んでみせた。
 お照を安心させるための笑顔だ。胸の奥が苦しくなる。
 そんなお照を置いて、シャルルは勢いよく戸を開けるやまっさきに声を張りあげる。

「お母さま、ごめんなさい! 吉牛をなくしてしまいました!」

 女将は土間に立っていた。

「どこへいっていたの、ふたりとも。わたくしを手伝ってちょうだい」

 女将は鶏卵を丸い容器に割り入れている。台の上には砂糖が山盛り、そして碗にたっぷりと白い液体。
 シャルルがそれを見てぽかんと口を開ける。

「吉牛は小屋にいますよ。足りないからもっとシボってきてくれるかしら」

 合いの手のように遠くからモーウと聞こえてきた。

「吉牛!」

 小屋に向かって駆けだしたシャルルにお照もついていった。

 小屋には神々しいほど真っ白な牛がいた。闖入者ちんにゅうしゃのお照を横目でちらりと見て、興味なさげに地面の草を食む。
 お照はシャルルと顔を見合わせて頬をゆるめた。

「ちゃんと帰ってくるなんて利口な牛ねえ」

「もう、勝手に出かけちゃだめ……うひゃ、くすぐったい」

 シャルルの顔を舌で舐める仕草にさえ、妙に威厳のある牛だった。

 安堵したお照が一足先に土間に戻る。
 女将は鶏卵の入った丸い容器を手渡してきた。

「アワダてないように溶いて。テジュンをしっかりと覚えてね」

「はい」

 動きやすいように着物をたすき掛けしていると、女将が前掛けを手渡してくれた。腰にきゅっと結ぶ。
 いまから菓子作りが始まるのだと思うと期待に胸が膨らんだ。大きな茶筅ちゃせんのような道具で卵を溶く。女将はそのあいだに砂糖を煮詰めて、砂糖のあんかけ……キャラメルソースとやらを作る。

「お照さん、シャルルをどう思いましたか」

 女将はかまどの火を調えながら質問を投げる。
 お照は言葉に気をつけて答えた。

「良い意味で大人びていますね。将来大物になる予感がします」

「大切な牛を逃がしてしまうなんて、うかつな子よね。罰が必要だわ」

「罰……」

 女将の口調はとげとげしいと感じた。女郎の折檻を連想して、お照は慎重に言葉を選んだ。

「でも無事でしたし……きちんと世話をしていたんでしょうね、吉牛はシャルルになついていますもの」

「あ、お照さん、牛乳に砂糖を混ぜてちょうだい」

 女将は手早く茶碗を並べ、キャラメルソースを注ぎながら指示を出す。

「これが、牛乳ですね」

 思わずくんくんと匂いを嗅いでしまう。少し生臭く、懐かしい匂いがする。

「これらを混ぜて茶碗蒸しのように蒸せばいいだけなのですか」

 思いの外、手間がかからない。自分ひとりでも作れそうだと思うと、少し心が浮き立った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...