雑貨屋リコリスの日常記録

白瀬 いお

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74.懐かしみ、愛でる

 憂とアレクセイが宿泊施設へ移動するために、ほんの二十分前に玄関から鏡港まで転移魔術で送って行った伊織は、しんと静かになったリビングで桜黒と二人、洋梨をお茶請けにしつつ紅茶を楽しんでいた。

「賑やかだった声がなくなると、途端に静かに感じるな」
「そうだな。だが、ほんの少し前まではこれが当たり前であったのだ。主も吾も、憂のいる生活に随分と慣れたものだ」
「そうだね。ここへ帰って来た時は色々あったし、異世界からの来訪者を引き取ることになるとは考えてもいなかったけど……、うん。あの賑やかさは嫌いじゃない」

 煩いわけではない。ただ、憂がいることによって部屋の空気が明るくなるのだ。伊織と桜黒だけだと、静かでのんびりとした時間を過ごすのだが、彼が加わると、途端に場が華やかになる。

 生来のものなのだろう、誰かの心にするりと入り込みながらも、決してその領域を侵さない憂は、傍にいても嫌だと思うことがない。それは、とてつもない才能だ。

 伊織は元々面倒見の良い質ではない。寧ろ世話を焼かれてばかりで、かつて手塩にかけて育てた弟子からは「アンタは石かコラ!」という文句と共に羽毛布団を引き剥がされた経験もあった。

 もしかの弟子が今の様子を見ていれば、その目を疑ったことだろう。そして失礼なことを言って来たに違いない。そんなことを思いながらつい笑ってしまった伊織に、桜黒は首を傾げて見上げて来る。

「いや、あの子のことを思い出して。ほら、俺に石か! って言いながら布団を剥いだ子」
「ああ、あやつか。あの頃の主は外との接触を厭うていたからな、その分あやつが引き受けていたのだ。そのくらいの文句は言われても仕方なかっただろう」
「まあそうなんだけど。で、あの子が今の俺を見たら目を剥くだろうなと思ってね」
「……ふっ、はは。確かに。熱でもあるのかと騒ぎ出しそうだ」

 桜黒の頭の中にもあの赤毛の弟子が浮かんだのだろう、こうして過去を懐かしむことが増えたのも、憂を引き取ってからだ。それまではただ過ぎた時と思っていたことが、次第に頭を掠めるようになって来た。

 それは悪いことではない。懐かしい顔ぶれを、その時起きたことを、ただ思い出しても語り合える者が桜黒しかいないからという理由でしまい込んでいただけのこと。

 だが、こうしてゆっくりと記憶を辿る時間を設けるのも、楽しみとして良いかもしれないと伊織は思う。良いことも悪いことも、楽しいことも悲しいこともあったが、それは全て今へと続いているのだから。

「……さて、開店前の確認に、出張店舗に行って来る。桜黒はどうする? 行く?」
「吾は残っていよう。ああ、そういえば主よ。開店日の前日に出張店舗へ来るようにとの話、忘れていたのではないか?」
「あ。思い出してくれてありがとう、今連絡入れておく」

 出張店舗を開ける前日にレジの使い方についてなど、本店とは異なる部分についての説明をするために前日の火曜日だけは追加で水晶カードを使えるようにしていたのだ。しかし、それを伝えそびれていた。

 すぐさま二人へとメッセージを送ると、それぞれから了承の返事が返って来たので、二三やり取りをしてから画面を閉じる。その間にも桜黒は姿を消していたので、どこかへ出かけて行ったのだろう。

 伊織も鴇羽ときは色の着物を纏ってショートブーツを履いてから、玄関から出張店舗の扉前へと転移する。今日の目的は二つ、まずは一つ目からやっていこうと鉱石ペンを呼び出して、そのペン先を扉へと触れさせた。

 刻むのは、雑貨屋リコリスという店名と、その下に少し小さく出張店舗の文字。更にそこから下へは営業日と営業時間を書き連ねれば、完成と共に文字がほんの微かに輝きを持つ。

「よし、これで完成」

 後は開店前の説明を憂とアレクセイへするばかりだ。さっさとペンを寝室へと転移させてから、伊織は出張店舗の庭先に足を向けた。

 テラス席は、まだ誰も座ったことがない場所だ。そこに一人腰かけて、ティーセットを呼び出し紅茶を淹れる。敢えて時間促進はせずに、完成をゆっくりと待つのだ。

 ネモフィラと海、そして空ばかりが広がるここは、郊外ということもあり喧騒とは程遠い場所だと伊織は感じている。ゆったりと過ぎる雲を眺めて、波の揺らめきを楽しみ、風に揺れる青を慈しむ。ただそれだけの、豊かな場所。

 次第に紅茶の香りが辺りに広がって行き、こぽこぽ、とティーカップに注がれた紅茶からより強くそれは立ち上る。指でハンドルを摘み、唇に縁を寄せてから、ゆっくりと傾けた。

 赤色にすこうしの茶色を混ぜたそれが、少しずつ伊織の口紅で彩られた唇の間へ迎え入れられるさまを、周りの景色たちだけが見つめている。人の気配のない、ただ静寂だけの場所だ。

 けれども、その静かな空間は子供たちの華やかな声で彩られた。きゃあきゃあと駆け回りながらも、決して花畑には入っていかない子供たちの一人と伊織の視線が合う。

 片手にティーカップを摘んだまま、もう片手を振ると、その子供——少女はほんのりと頬を赤く染めながら手を振り返してくれた。

 その様子に気づいたのだろう他の子供たちも伊織の方を見つめて来るので、にっこりと笑ってみると、彼らは輪になって何かを相談した後、伊織の元へと勢い良く駆け出して来る。

 その姿を椅子に座ったまま見つめていた彼は、やがて「こんにちは!」と元気良く向けられた声に、「こんにちは」と穏やかに返した。

「おにーさん、ここに新しく住む人?」
「違うよ。ここはお店、期間限定のお店なんだ」
「ふーん。何の店? 食べもの?」
「アクセサリーとか、小物とか、そういうのを置いているんだ」
「アクセサリー! どういうの? あたしにも似合うかなあ!」
「ばっか、絶対お小遣いじゃ買えねーよ!」
「何よ、分かんないじゃん!」
「分かるね、お前こそそんなことも分かんねーのかよ!」

 伊織に手を振り返してくれた女の子と、彼女に気があるのだろう、伊織を睨みつけていた男の子が言い争いを始める。それも日常茶飯事なのだろう、周りの子はまたやっている、という顔だ。

「このお店のアクセサリーに興味があるの?」
「だから……っ! あ、うん! あたしね、そういうの見るだけでも好きなんだ。買えないかもしれないけど、見に来ても良い?」
「見るだけなんて迷惑だろ!」
「アンタはちょっと黙ってて!」

 女の子が一言話せば突っかかる、正に年頃の男の子の様子を、伊織は微笑ましく思いながら見つめる。しかし、話が進まないのもまた事実だ。

「きみがこの子のことを気にかけているのは分かるけれど、その言い方だと、彼女の胸がちょっと痛くなってしまうかもしれないな」
「……!」
「お嬢さん、見るだけでも勿論歓迎するよ。もし良かったら、また皆でおいで。お茶も売ってるんだ。この店で飲む時だけ、砂糖もミルクも入れてないのに、自分好みの味になる特別なティーカップを使ってね」
「わあ、素敵! きっと来るわ、いつから開いてるの?」

 きゃあ、と女の子たちの声が重なる。男の子たちも、特別なティーカップという言葉には少々心惹かれるものがあるのだろう、顔を寄せ合ってこそこそと何かを話していた。

「来週の、水曜日から。ウィンターホリデー期間中だけの、特別出張なんだ。きみたちが来てくれるのを楽しみにしていても良いかな」
「勿論!」

 そう声を揃えて言った子供たちは、またきゃあきゃあと楽しそうな声を上げながら走り去って行く。その背に手を振ってから、伊織はまたのんびりとした時間を堪能するのだった。
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