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第一部 巨神の目覚め
二十二章 雷神の槍
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〝九つ頭〟は、もう一方の拳もうけ止めた。
黒鎧の肘関節スリットから煤煙が噴き、一帯を黒くそめ上げる。しかしその腕は、〝九つ頭〟の手と同化したまま動かない。
カルティナは背中の排煙管をけって高度を増した。
仲間たちとともに全力で北を目指し、黒鎧を束縛するヨトゥミリスを蹴散らしたまではよかった。
だが、遅すぎたのだ。
エヴァンが鋼鉄の壁を登っていったと知りとび出した時、彼はすでに、カルティナと反対の軌道をえがき、落下を始めていた。
地上に残った魔法使いたちが落下衝撃を殺し、すぐさま治癒を施したとしても、もう手遅れだと彼女には解っていた。
口許にはりついた鮮やかな血の色がそれを物語っていた。
エヴァンは肺をやられたのだ。今ごろ肺の中は血液に満たされ、息を吸うのもままならないはずだった。
「くそ、くそッ……」
魔法の出力をあげ、排煙管をけり渡るカルティナは、恐るべき速度で上昇していった。目端ににじんだ涙が風にさらわれて散った。
黒鎧のうなりの如く大気をわる軋みの間に、鋼鉄をふむ靴音がなり響く。
そして一際たかい跫音が、天を衝いた。
踊り子はおり立ったのだ。黒鎧の肩へと。
カルティナはタップを踏むように鋼鉄をカツカツと鳴らしながら、伸ばされた腕の上を駆け出した。
その時、黒鎧の拳をつつみ込んだ指の数本が、小型ヨトゥミリスとして独立した。
それらが〝赫の踊り子〟を迎えうつ。その背後から〝九つ頭〟の発する冷気がカルティナを捕らえようとする。
彼女は怯まず、むしろ加速した。全身を覆った碧のドレスが波打ち、彼女の腕を絡めとった刹那、一方の袖は槍、もう一方は大太刀と化した。
肌を切るような冷気と斬り合いを挑むように、旋回しするどい太刀筋が描かれる!
斜めに閃いた槍が小型の肩から胸を、真横にふり抜かれた太刀が次の小型の腰を斬りひらいた。振りあげられた槍が股を裂き、そのいきおいで跳躍すると、横薙ぎの一閃が頸をはね飛ばす。
着地と同時に踏みこむ。心臓をつらぬく。挟みこむように襲いかかる腕を大太刀が根元から斬りとばす。
まだ止まらない!
冷気で睫毛が凍り、指先が石のような無機質な感覚を返すばかりとなっても、止まるわけにはいかなかった。
命を賭して人類の希望をまもろうとした師の意志を無駄に終わらせてたまるか。
黒鎧の手の甲を蹴り、宙を舞う。
震える唇が詠唱する!
「汝は風にして雷。広漠なる大地の底をも貫く、神々の怒りの化身也!」
カルティナは得物をまとった両手を打ち合わせた。槍と太刀が霧散し、無数の碧の糸となって手の下へこぼれてゆく。
そして再び編みあわされる。
彼女の身の丈の三倍――いや、四倍にもなろうかという大槍が!
「てえええええぇッ!」
咆哮とともに降り下ろされる!
碧に色づく稲妻の如く!
「オオ……」
拳を包みこんだ〝九つ頭〟の指が凍てつく血をふいた。肉がすべり落ち、パノラマの中へ吸いこまれ消えた。
「オオオオオォォォ……ッ!」
〝九つ頭〟が痛みに喘いだ。
そして引き戻される黒鎧の拳。
着地したカルティナは槍を霧散させると、腕のうえを逆走し始めた。冷気にかじかみ、魔法の負荷で疲弊した身体をいさめ、なお魔法の出力を高め跳んだ。
それと同時。
黒鎧の拳が風をやぶり円弧を描いた。
もう一方の拳をつかんだ〝九つ頭〟の手首に、その拳が抉りこまれる!
「オオオアアアァァァッ!」
手首があらぬ方向に曲がり、悶える〝九つ頭〟!
カルティナは黒鎧の肩に着地し、魔法の出力を調整しながら深く息を吐いた。
黒鎧が踏みこむ。
左腕が軋む。ショートフック!
〝九つ頭〟の肩がえぐれた。肩から生じた頭の二つが、風船のように弾け、汚らしい血の柱を上げた!
次の悲鳴とどろく間もなく、もう一方の拳が腹部を捉える。
肘関節から真新しい黒煙が吐き出され、目にも留まらぬ一瞬のブーストナックルが腹をたたき割った!
〝九つ頭〟の身体が僅かに浮き上がった。残った頭から銀の息が塊となって吐き出された。痛みに耐えかね腹を押さえた。
黒鎧はこの好機を逃さぬ!
両腕をもち上げ、手を組み合わせた。
前のめりになったヨトゥミリスの頭部は今、黒鎧の胸よりも低い位置にある。
複数の後頭部へ、山の頂上が崩れおちるが如く、巨大な鉄槌がふり下ろされる!
風を潰し、鋼鉄が唸る!
関節が軋み、大気を燃え上がらせる!
――直後、天変地異のごとく、耳を聾する破砕音が世界をおおった。
六つの頭がたたき割られ、氷山のごとき巨躯が――
「オガアアアアアァァァ!」
ついに大地へと沈んだ!
たちまち冷気を孕んだ衝撃波がふき抜けた。周囲一マイル半ばかりが凍てつき、終末世界の様相を呈した。
黒鎧の表面すらも薄らと氷の膜に覆われた。足許に無数の氷の柱がそそり立ち束縛した。
カルティナは黒鎧の後頭部に張りつき、風魔法を解除すると同時、拙い炎魔法で寒波を凌いだ。
ゆっくりと胸を撫で下ろし、へなへなと尻をつく。
「勝ったのか……?」
およそ四分の一マイル上空で、その声に応えてくれる者は誰一人としていなかった。
◆◆◆◆◆
「アあ、ああアアああぁぁァッ!」
コックピットの中は絶叫に満たされていた。
それは勝利を確信した者の雄叫びであり、激痛に耐えかねた者の悲鳴でもあった。
爆破魔法によって内部機構をブーストさせたことで、またもヴァニの意識はオルディバルとの同調を解かれていた。
リンチの記憶が羽虫の群れの如くまなかいを侵し、胸中では魔法使いの道を断たれた挫折感が、祖父を喪った悲哀があふれ出す。
目からは血涙が流れた。
だがここで痛みに敗北を許せば、すべてが水泡に帰してしまう。
ヴァニは虚ろな意識の中から、スフィアの感覚をさぐり出し手を当てた。脳へ稲妻を送るイメージを育て、オルディバルとの同調を再開した。
初めてオルディバルと同調し、内部構造を把握した時から、〝九つ頭〟を滅ぼす必殺のイメージは完成していた。
しかしそのためには、大きな隙を作る必要があった。胸の外殻を砕いたときよりもさらに大きな隙が。
その時が今、ようやく訪れた。
そしてこれを最後に、自分の命もつき果てるだろう。
ヴァニは愛する祖父のすがたを脳裏に描きながら、オルディバルの胸部へ向けて第一の魔法を唱えた。
「リイキットゥル」
魔法の発動とともに、オルディバルの胸が慟哭めいた異音を発し始めた。それは新たな搭乗者との別れに胸を痛ませるオルディバル自身の悲嘆めいて響いた。
胸部に二重の円の切れこみが生じ、隙間から白い蒸気がはき出された。切れこみの部位は内円、外円の順にゆっくりと内部へ沈み、重い軋みを轟かせた。
〝九つ頭〟は痙攣しながらも、地面に両腕をついて立ち上がろうとしていた。肩から蒸気が噴きあがり、それが冷気によって氷の柱をなし、刃の鎧が形成されていった。
もう二度と立たせるわけにはいかねぇ……ッ!
今やヴァニは、オルディバルとの同調の中でも痛みを無視できずいた。肌の下から無数の針につき破られるような痛みが、断続的に襲いかかってくるのだ。
現に、過剰消耗による身体負荷は、すでに限界を超えていた。
毛穴という毛穴から血の粒がふくれ上がり、いつ破裂してもおかしくない状態だった。
だからこの身体がはじけとぶ前に、最後の魔法を唱えなくてはならない。死に直面しようと、迷っている時間などない。文言を紡ぎ終えることができなければ、必殺のシークエンスは完了されず、〝九つ頭〟による世界蹂躙が再開されてしまうのだから。
口中にたまった血液を吐きだし、ヴァニはひりつく喉を震わせる。口端にわく血の泡が発音を不明瞭にさせるが、重要なのは使い手が魔法の形態を認識できるかどうかだ。
「解放の、時は来た。天を統べ、地を裂き、世に唄え。悠久の時を経て、汝は今、神の御手に依りてっ……森羅万象を貫く、剛槍と、ならん……ッ」
かすれた声を紡ぎおえた時、オルディバルの胸の空洞に一つの命がともった。その誕生を祝福するかのように、肩に埋まった金色のオーブが明滅し、甲高い摩擦音を上げた。
雄叫びめいた軋みとともに、空洞から現れるものがあった。それは厚い金色の鋼によって形成された筒状の物体だった。
いや、その金色は鋼自体が発する色ではない。
鋼鉄の周囲に茨めいた稲妻が絶えず廻っているのだ。
さらにその内部では、雷が螺旋をえがき、万の笛の音にも劣らぬ音声を奏でていた。
ようやく膝をつき頭をもち上げた〝九つ頭〟が、その眩い光を前に「オオオ……」と短い声を発した。それは感嘆のようにも、絶望の諦念がもたらした吐息のようにも思われた。
いずれにせよ、〝九つ頭〟に待っていた運命は死であった。
それを認めた瞬間、稲妻の螺旋は、すでに解き放たれた。
天を横一文字にきり裂く、雷の槍となって。
滅びの一閃は、狙い過たず〝九つ頭〟をつらぬいた。半身が木端のごとく弾けとび、瞬く間もなく炭化した。凍てついた大地すらも、熱によって融かされ、黒ずんだ道へと姿を変えた。
緩やかな風が吹いた。残った下肢が、ぐずぐずと崩れ虚空に散った。
雷の槍は、はるか遠方にまで猛威を振るった。
東の果て。コトゥルマス山脈。
その山岳の一部まで抉りぬき、風穴を穿ったのである。
それもやがて海上に行き場を失くし、陽光に融けてきえた。
その頃、コックピット内では、ヴァニが赤黒い血の塊をはき出したところだった。
もはやオルディバルとの同調を保つことはできなかった。
肉体は痛みすら模糊としていた。しかし遺物堀の少年は、朧な感覚のなかに濃厚な死の気配をかんじ取っていた。
ニヴァルタルヘダの案内人がいるならば、どうやって現れるのか。生きる望みはとうに擦り切れ、他人事のような興味さえ抱き始めていた。
間もなく、彼の赤くそまった視野が歩みよる影を捉えた。
本当に死神なんてもんがいるのか。面白いじゃねぇか……。
ところが期待に反し、現れたシルエットには見覚えがあった。
片目がつぶれ、耳は尖り、長い髭をたらした彼は、オルディバルの以前の搭乗者を自称したあの老爺だった。
そうか。
得心が入った。
あんたが死神なんだな、と。
老爺がオルディバルの一部となったように、ヴァニにもその時が訪れたのだ。老爺はそれを告げにやって来たに違いない。
老爺の口がもごもごと動いた。
けれど鼓膜の破裂したヴァニに声は届かなかった。血塗れの相貌で微笑みを返すのが、彼にできる精一杯だった。
老爺のかれ木のような手が、ヴァニのそれに重ねられた。
そしてまた老爺がなにか言った。
聞こえねぇよ、爺さん……。
心中でそう呟くと、老爺が初めて微笑みをみせた。安堵と悲哀をない交ぜにしたような微笑が、刹那、おぼろげな映像のなかで燃えあがるように輪郭を濃くえがき出した。
「儂の最後の力だ、うけ取ってくれ」
不意に、老爺のこえが頭の中に響き渡った。
ヴァニは愕然とし、目を見開こうとしたができなかった。
かすかに残された意識の中、老爺の葉擦れのような声がつづいたのを聞いただけだ。
「ああ、ようやく皆の許へ行ける」
と。
ヴァニは声をしぼり出そうとする。
決別を惜しむ言葉でも、感謝をしめす言葉でも、とにかく伝えなければならないと思った。
しかし彼の意識は、深い微睡にさらわれて消え、二度と老爺の声を聞くことはできなかった。
◆◆◆◆◆
〝九つ頭〟が消しとんだ後、カルティナは咄嗟に身構えた。
黒鎧の巨人は、果たして敵なのか味方なのか。
判断を迫られる時がやって来たからだ。
胸から現れた筒状の物体が暗闇の中へ戻り、元の姿をとり戻すと同時、頭部から白い蒸気がふき出された。
カルティナはこれが攻撃なのではないかと警戒した。
ところが奇妙なことに、蒸気は赤子のように丸まった人影をはらみ、それを運んで地上へと下っていった。
カルティナは追うべきか逡巡したが、地上のことは、地上の魔法使いに任せることにした。自分はこの巨神が敵意をみせた時、早急に殲滅するための準備を整えておくべきだと判断したのだ。
しかし黒鎧がうごき出すことはなかった。隻眼の瞬きも、肩の球体の輝きも失われ、眠っているように見えた。
確証はなかったが、カルティナは警戒を解いた。全身から力がぬけ、その場にへなへなと座り込んだ。
そして彼女は、巨人の首根っこから眼下の世界を見下ろした。
エブンジュナの森の広大な緑やふたつの山がえがく見事な曲線、その間隙からひっそりと覗く悠久の自然を生きた森の傘。地平線を縁どるのは、モントゥル山脈の薄らと色づいた稜線。
そのすべてが天上から射す光に照らされ、雨をまとってキラキラと輝いていた。
一部は、黒鎧の足跡をしめすように無残な荒れ地と化していたが、その情景は復讐の魔法使いの胸に、沁みるような感銘を呼び起こした。
あなたの守った世界は美しいですわね、エヴァン中尉。
本来ならば、今すぐ地上におりて、師の最期を看取るべきだったかもしれない。
けれどカルティナはそうしなかった。エヴァンはもう地上のどこにもいないような気がしたし、彼の信仰した神に最も近いこの場所こそが、彼を弔う最良の場だと考えたからだ。
今や光の神をさえぎる雲はない。視界の端に、よどんだ綿のようなものがぽつぽつと浮かんでいるばかりだ。
世界が人族の勝利を祝福しているかのようだった。
カルティナは、神のもたらす柔らかな光の許で、そっと瞼を閉じた。
まなじりから涙がこぼれた。失われた命のことを想うと、この十数年決してこみ上げることのなかった嗚咽まで漏れだしてきた。
頬を緩やかな風が撫で、涙を払う。
けれど、いつまでも涙の線だけは消えてくれなかった。
黒鎧の肘関節スリットから煤煙が噴き、一帯を黒くそめ上げる。しかしその腕は、〝九つ頭〟の手と同化したまま動かない。
カルティナは背中の排煙管をけって高度を増した。
仲間たちとともに全力で北を目指し、黒鎧を束縛するヨトゥミリスを蹴散らしたまではよかった。
だが、遅すぎたのだ。
エヴァンが鋼鉄の壁を登っていったと知りとび出した時、彼はすでに、カルティナと反対の軌道をえがき、落下を始めていた。
地上に残った魔法使いたちが落下衝撃を殺し、すぐさま治癒を施したとしても、もう手遅れだと彼女には解っていた。
口許にはりついた鮮やかな血の色がそれを物語っていた。
エヴァンは肺をやられたのだ。今ごろ肺の中は血液に満たされ、息を吸うのもままならないはずだった。
「くそ、くそッ……」
魔法の出力をあげ、排煙管をけり渡るカルティナは、恐るべき速度で上昇していった。目端ににじんだ涙が風にさらわれて散った。
黒鎧のうなりの如く大気をわる軋みの間に、鋼鉄をふむ靴音がなり響く。
そして一際たかい跫音が、天を衝いた。
踊り子はおり立ったのだ。黒鎧の肩へと。
カルティナはタップを踏むように鋼鉄をカツカツと鳴らしながら、伸ばされた腕の上を駆け出した。
その時、黒鎧の拳をつつみ込んだ指の数本が、小型ヨトゥミリスとして独立した。
それらが〝赫の踊り子〟を迎えうつ。その背後から〝九つ頭〟の発する冷気がカルティナを捕らえようとする。
彼女は怯まず、むしろ加速した。全身を覆った碧のドレスが波打ち、彼女の腕を絡めとった刹那、一方の袖は槍、もう一方は大太刀と化した。
肌を切るような冷気と斬り合いを挑むように、旋回しするどい太刀筋が描かれる!
斜めに閃いた槍が小型の肩から胸を、真横にふり抜かれた太刀が次の小型の腰を斬りひらいた。振りあげられた槍が股を裂き、そのいきおいで跳躍すると、横薙ぎの一閃が頸をはね飛ばす。
着地と同時に踏みこむ。心臓をつらぬく。挟みこむように襲いかかる腕を大太刀が根元から斬りとばす。
まだ止まらない!
冷気で睫毛が凍り、指先が石のような無機質な感覚を返すばかりとなっても、止まるわけにはいかなかった。
命を賭して人類の希望をまもろうとした師の意志を無駄に終わらせてたまるか。
黒鎧の手の甲を蹴り、宙を舞う。
震える唇が詠唱する!
「汝は風にして雷。広漠なる大地の底をも貫く、神々の怒りの化身也!」
カルティナは得物をまとった両手を打ち合わせた。槍と太刀が霧散し、無数の碧の糸となって手の下へこぼれてゆく。
そして再び編みあわされる。
彼女の身の丈の三倍――いや、四倍にもなろうかという大槍が!
「てえええええぇッ!」
咆哮とともに降り下ろされる!
碧に色づく稲妻の如く!
「オオ……」
拳を包みこんだ〝九つ頭〟の指が凍てつく血をふいた。肉がすべり落ち、パノラマの中へ吸いこまれ消えた。
「オオオオオォォォ……ッ!」
〝九つ頭〟が痛みに喘いだ。
そして引き戻される黒鎧の拳。
着地したカルティナは槍を霧散させると、腕のうえを逆走し始めた。冷気にかじかみ、魔法の負荷で疲弊した身体をいさめ、なお魔法の出力を高め跳んだ。
それと同時。
黒鎧の拳が風をやぶり円弧を描いた。
もう一方の拳をつかんだ〝九つ頭〟の手首に、その拳が抉りこまれる!
「オオオアアアァァァッ!」
手首があらぬ方向に曲がり、悶える〝九つ頭〟!
カルティナは黒鎧の肩に着地し、魔法の出力を調整しながら深く息を吐いた。
黒鎧が踏みこむ。
左腕が軋む。ショートフック!
〝九つ頭〟の肩がえぐれた。肩から生じた頭の二つが、風船のように弾け、汚らしい血の柱を上げた!
次の悲鳴とどろく間もなく、もう一方の拳が腹部を捉える。
肘関節から真新しい黒煙が吐き出され、目にも留まらぬ一瞬のブーストナックルが腹をたたき割った!
〝九つ頭〟の身体が僅かに浮き上がった。残った頭から銀の息が塊となって吐き出された。痛みに耐えかね腹を押さえた。
黒鎧はこの好機を逃さぬ!
両腕をもち上げ、手を組み合わせた。
前のめりになったヨトゥミリスの頭部は今、黒鎧の胸よりも低い位置にある。
複数の後頭部へ、山の頂上が崩れおちるが如く、巨大な鉄槌がふり下ろされる!
風を潰し、鋼鉄が唸る!
関節が軋み、大気を燃え上がらせる!
――直後、天変地異のごとく、耳を聾する破砕音が世界をおおった。
六つの頭がたたき割られ、氷山のごとき巨躯が――
「オガアアアアアァァァ!」
ついに大地へと沈んだ!
たちまち冷気を孕んだ衝撃波がふき抜けた。周囲一マイル半ばかりが凍てつき、終末世界の様相を呈した。
黒鎧の表面すらも薄らと氷の膜に覆われた。足許に無数の氷の柱がそそり立ち束縛した。
カルティナは黒鎧の後頭部に張りつき、風魔法を解除すると同時、拙い炎魔法で寒波を凌いだ。
ゆっくりと胸を撫で下ろし、へなへなと尻をつく。
「勝ったのか……?」
およそ四分の一マイル上空で、その声に応えてくれる者は誰一人としていなかった。
◆◆◆◆◆
「アあ、ああアアああぁぁァッ!」
コックピットの中は絶叫に満たされていた。
それは勝利を確信した者の雄叫びであり、激痛に耐えかねた者の悲鳴でもあった。
爆破魔法によって内部機構をブーストさせたことで、またもヴァニの意識はオルディバルとの同調を解かれていた。
リンチの記憶が羽虫の群れの如くまなかいを侵し、胸中では魔法使いの道を断たれた挫折感が、祖父を喪った悲哀があふれ出す。
目からは血涙が流れた。
だがここで痛みに敗北を許せば、すべてが水泡に帰してしまう。
ヴァニは虚ろな意識の中から、スフィアの感覚をさぐり出し手を当てた。脳へ稲妻を送るイメージを育て、オルディバルとの同調を再開した。
初めてオルディバルと同調し、内部構造を把握した時から、〝九つ頭〟を滅ぼす必殺のイメージは完成していた。
しかしそのためには、大きな隙を作る必要があった。胸の外殻を砕いたときよりもさらに大きな隙が。
その時が今、ようやく訪れた。
そしてこれを最後に、自分の命もつき果てるだろう。
ヴァニは愛する祖父のすがたを脳裏に描きながら、オルディバルの胸部へ向けて第一の魔法を唱えた。
「リイキットゥル」
魔法の発動とともに、オルディバルの胸が慟哭めいた異音を発し始めた。それは新たな搭乗者との別れに胸を痛ませるオルディバル自身の悲嘆めいて響いた。
胸部に二重の円の切れこみが生じ、隙間から白い蒸気がはき出された。切れこみの部位は内円、外円の順にゆっくりと内部へ沈み、重い軋みを轟かせた。
〝九つ頭〟は痙攣しながらも、地面に両腕をついて立ち上がろうとしていた。肩から蒸気が噴きあがり、それが冷気によって氷の柱をなし、刃の鎧が形成されていった。
もう二度と立たせるわけにはいかねぇ……ッ!
今やヴァニは、オルディバルとの同調の中でも痛みを無視できずいた。肌の下から無数の針につき破られるような痛みが、断続的に襲いかかってくるのだ。
現に、過剰消耗による身体負荷は、すでに限界を超えていた。
毛穴という毛穴から血の粒がふくれ上がり、いつ破裂してもおかしくない状態だった。
だからこの身体がはじけとぶ前に、最後の魔法を唱えなくてはならない。死に直面しようと、迷っている時間などない。文言を紡ぎ終えることができなければ、必殺のシークエンスは完了されず、〝九つ頭〟による世界蹂躙が再開されてしまうのだから。
口中にたまった血液を吐きだし、ヴァニはひりつく喉を震わせる。口端にわく血の泡が発音を不明瞭にさせるが、重要なのは使い手が魔法の形態を認識できるかどうかだ。
「解放の、時は来た。天を統べ、地を裂き、世に唄え。悠久の時を経て、汝は今、神の御手に依りてっ……森羅万象を貫く、剛槍と、ならん……ッ」
かすれた声を紡ぎおえた時、オルディバルの胸の空洞に一つの命がともった。その誕生を祝福するかのように、肩に埋まった金色のオーブが明滅し、甲高い摩擦音を上げた。
雄叫びめいた軋みとともに、空洞から現れるものがあった。それは厚い金色の鋼によって形成された筒状の物体だった。
いや、その金色は鋼自体が発する色ではない。
鋼鉄の周囲に茨めいた稲妻が絶えず廻っているのだ。
さらにその内部では、雷が螺旋をえがき、万の笛の音にも劣らぬ音声を奏でていた。
ようやく膝をつき頭をもち上げた〝九つ頭〟が、その眩い光を前に「オオオ……」と短い声を発した。それは感嘆のようにも、絶望の諦念がもたらした吐息のようにも思われた。
いずれにせよ、〝九つ頭〟に待っていた運命は死であった。
それを認めた瞬間、稲妻の螺旋は、すでに解き放たれた。
天を横一文字にきり裂く、雷の槍となって。
滅びの一閃は、狙い過たず〝九つ頭〟をつらぬいた。半身が木端のごとく弾けとび、瞬く間もなく炭化した。凍てついた大地すらも、熱によって融かされ、黒ずんだ道へと姿を変えた。
緩やかな風が吹いた。残った下肢が、ぐずぐずと崩れ虚空に散った。
雷の槍は、はるか遠方にまで猛威を振るった。
東の果て。コトゥルマス山脈。
その山岳の一部まで抉りぬき、風穴を穿ったのである。
それもやがて海上に行き場を失くし、陽光に融けてきえた。
その頃、コックピット内では、ヴァニが赤黒い血の塊をはき出したところだった。
もはやオルディバルとの同調を保つことはできなかった。
肉体は痛みすら模糊としていた。しかし遺物堀の少年は、朧な感覚のなかに濃厚な死の気配をかんじ取っていた。
ニヴァルタルヘダの案内人がいるならば、どうやって現れるのか。生きる望みはとうに擦り切れ、他人事のような興味さえ抱き始めていた。
間もなく、彼の赤くそまった視野が歩みよる影を捉えた。
本当に死神なんてもんがいるのか。面白いじゃねぇか……。
ところが期待に反し、現れたシルエットには見覚えがあった。
片目がつぶれ、耳は尖り、長い髭をたらした彼は、オルディバルの以前の搭乗者を自称したあの老爺だった。
そうか。
得心が入った。
あんたが死神なんだな、と。
老爺がオルディバルの一部となったように、ヴァニにもその時が訪れたのだ。老爺はそれを告げにやって来たに違いない。
老爺の口がもごもごと動いた。
けれど鼓膜の破裂したヴァニに声は届かなかった。血塗れの相貌で微笑みを返すのが、彼にできる精一杯だった。
老爺のかれ木のような手が、ヴァニのそれに重ねられた。
そしてまた老爺がなにか言った。
聞こえねぇよ、爺さん……。
心中でそう呟くと、老爺が初めて微笑みをみせた。安堵と悲哀をない交ぜにしたような微笑が、刹那、おぼろげな映像のなかで燃えあがるように輪郭を濃くえがき出した。
「儂の最後の力だ、うけ取ってくれ」
不意に、老爺のこえが頭の中に響き渡った。
ヴァニは愕然とし、目を見開こうとしたができなかった。
かすかに残された意識の中、老爺の葉擦れのような声がつづいたのを聞いただけだ。
「ああ、ようやく皆の許へ行ける」
と。
ヴァニは声をしぼり出そうとする。
決別を惜しむ言葉でも、感謝をしめす言葉でも、とにかく伝えなければならないと思った。
しかし彼の意識は、深い微睡にさらわれて消え、二度と老爺の声を聞くことはできなかった。
◆◆◆◆◆
〝九つ頭〟が消しとんだ後、カルティナは咄嗟に身構えた。
黒鎧の巨人は、果たして敵なのか味方なのか。
判断を迫られる時がやって来たからだ。
胸から現れた筒状の物体が暗闇の中へ戻り、元の姿をとり戻すと同時、頭部から白い蒸気がふき出された。
カルティナはこれが攻撃なのではないかと警戒した。
ところが奇妙なことに、蒸気は赤子のように丸まった人影をはらみ、それを運んで地上へと下っていった。
カルティナは追うべきか逡巡したが、地上のことは、地上の魔法使いに任せることにした。自分はこの巨神が敵意をみせた時、早急に殲滅するための準備を整えておくべきだと判断したのだ。
しかし黒鎧がうごき出すことはなかった。隻眼の瞬きも、肩の球体の輝きも失われ、眠っているように見えた。
確証はなかったが、カルティナは警戒を解いた。全身から力がぬけ、その場にへなへなと座り込んだ。
そして彼女は、巨人の首根っこから眼下の世界を見下ろした。
エブンジュナの森の広大な緑やふたつの山がえがく見事な曲線、その間隙からひっそりと覗く悠久の自然を生きた森の傘。地平線を縁どるのは、モントゥル山脈の薄らと色づいた稜線。
そのすべてが天上から射す光に照らされ、雨をまとってキラキラと輝いていた。
一部は、黒鎧の足跡をしめすように無残な荒れ地と化していたが、その情景は復讐の魔法使いの胸に、沁みるような感銘を呼び起こした。
あなたの守った世界は美しいですわね、エヴァン中尉。
本来ならば、今すぐ地上におりて、師の最期を看取るべきだったかもしれない。
けれどカルティナはそうしなかった。エヴァンはもう地上のどこにもいないような気がしたし、彼の信仰した神に最も近いこの場所こそが、彼を弔う最良の場だと考えたからだ。
今や光の神をさえぎる雲はない。視界の端に、よどんだ綿のようなものがぽつぽつと浮かんでいるばかりだ。
世界が人族の勝利を祝福しているかのようだった。
カルティナは、神のもたらす柔らかな光の許で、そっと瞼を閉じた。
まなじりから涙がこぼれた。失われた命のことを想うと、この十数年決してこみ上げることのなかった嗚咽まで漏れだしてきた。
頬を緩やかな風が撫で、涙を払う。
けれど、いつまでも涙の線だけは消えてくれなかった。
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