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第3話
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後日また彼を家に招いて、ほとんど亡くなった時のままにしてある兄のアトリエを漁ることにした。とはいえ天使の絵のほとんどは画廊の保管庫に置いてもらっている。ここには画材と、兄の私物がある。
「ここで亡くなったんですよね……」
「ホラー無理な人? 心霊現象とかは起きてないよ」
無理ではないですけど無遠慮に漁るのは抵抗ありますって、とムニャムニャ言い返される。それもそうか。俺も当時はここが嫌だった。でも、兄は望んで死んだんだから化けて出ることはしないだろう。
「志鷹さん、この箱は開けても平気ですか」
兄が死んでいた場所をぼんやり眺めていたら、彼から声をかけられた。そちらを見ると、いくつかの箱を示される。
「うん、兄のものしか置いてないから俺に聞かなくていいよ。死んでるから文句言えないし」
「不謹慎ですよ、逆に開けづらくなるじゃないですか」
真面目だねえと揶揄うように言うと、嫌なとこ出てますよと反論された。先日食事をしてから彼の中でも距離が縮まったのか、こうやって言い返してくるようになった。
「綾人さんってあまり物を持たないタイプでしたか? 趣味のものとか……ないですね。自室に置いてあったりしますか?」
「ううん、自室には寝に帰るだけでベッドしかない。時間がここであれば絵を描く、みたいな人だったな。音楽も聴かないし本も読まないし映画も見ないし。スマホも持つだけ持ってそのへんに転がしてるだけだった」
一度だけ兄から俺に電話がかかってきたのを思い出す。いつもかけるのは父か俺からで、あの時は緊急事なのかと慌てた。大したことのない用事だったが。
あらためて部屋を見渡すと、絵の具で汚れた床と壁、木製の机、イーゼルに椅子、キャンバスの土台、資料の本、それらが散らばっている。
資料の本の山は彼が漁っているので、俺は机の引き出しを見ることにした。乱雑に詰め込まれた紙の束や冊子がある。一番上にあったクロッキー帳をパラパラと開いてみる。
「ねえ、これ面白いよ。天使の絵の下描き……あとは鳥とか静物とか。手あたり次第いろいろ描いてる」
彼に声をかけると、パッと振り返ってこちらへにじり寄ってきた。クロッキー帳を一緒に覗き込む。
「おお……これ貴重なんじゃないですか? 個展に展示されててもおかしくないですよ」
嬉しそうに彼は言う。夢中になってページをめくり始めたので、そのままクロッキー帳を任せて、俺は引き出し漁りを再開した。他にも同じようなものがないか探してみたが、他は展覧会のパンフレットやフライヤーが詰め込まれていただけだった。
「志鷹さん、あの、あのですね……」
クロッキー帳に夢中だった彼がぼんやりと俺を呼ぶ。ふと敬語が鼻についた。俺たちは友達ではないし、俺はただの取材対象だけど、こちらが先日使うのをやめた敬語で話されるのはどうにも気持ち悪い。
「蓮さ、そっちも敬語いらないし、俺のことも呼び捨てでいい」
「志鷹さん年上だし、一応仕事中なんですけど俺……さすがにそれは」
「こっちばっかりタメ口なのは嫌だ」
そう返すと、うーんと腕を組んで困った仕草をしてから、彼は条件を出してきた。
「それなら、俺と友達になってください。仕事相手にとなると俺が怒られるんで、今から友達ってことにしましょう。それならタメ口で話します」
「友達……」
「え、嫌なんですか?」
嫌なわけではない。ないが、ここ数年は友達というものを作ってこなかった。学生時代の友人はいるにはいるが、たまにの連絡ぐらいでなかなか会ったりもできていない。友達ってどんなもんだっけ。それにこんなこときっかけで友達ができるってどうなんだ。
「俺の経歴も調べた? 最近あんま人と関わってないんだよ、それこそ外に出たの個展ぐらいで。友達って言われてもなんというかさ……」
「本人に言うの申し訳ないですけど、志鷹さんのことも調べました。でも弟だってことぐらいしか出てこなかったんですよね」
「へえ、そうなんだ。意外と俺のことは出回ってないんだ。義理の弟だとか」
自分のことや両親の再婚のことも出回っているだろうと思っていたが、そういえばネットを見た限りそれらの情報はなかった。あくまで兄と天使の絵にだけ興味が向いているのか。
「三崎綾人の弟といえど一般人ですからね。それはそれとしてここまでの会話、俺と友達にならない理由にはまったく関係なくないですか」
「……あるんだよ俺にとってはさあ。まあいいよ、嫌なわけじゃないし、めんどくなったらやめればいいし」
「やめるなんて選択肢あるんだ……。じゃあそういうことで。志鷹……さん」
「呼び捨てしろよそこは」
「いやそうじゃなくて」
切り替えるように言うと、蓮はクロッキー帳をこちらに開いて見せてくる。
「これ、天使の絵のラフではありそうだけど……人っぽいというか。どこかで見たことあるような気がするんだよな。心当たりある?」
一目見てわかった。こんな絵描いてたのかよ。自分が思わず顔をしかめたのがわかった。蓮に何もないとは言えなくなってしまった。ああ、いや、ごまかす手が一つあった。
「だいぶ前にドラマに出てた俳優に似てる。名前は覚えてない」
「ふーん? じゃあこれは何」
蓮が続けて差し出してきたものに息が詰まる。一枚の写真だ。この家の居間のソファで、父と一人の女性が、兄を真ん中に挟んで笑顔で写っている。
「お前さあ、それ見つけてたんなら先に出せよ」
「ごまかしたってことは、やっぱ志鷹は天使のモデルに心当たりあったんだろ」
つい乱暴な言い方になるも、蓮は気にすることもなく強く返してくる。どう答えよう。動揺している。口を開くもうまく言葉が出てこない。
「この女性、そのクロッキー帳の天使と似てるよな。一緒に写ってる綾人さんが着てるのは高校の制服か? 年齢からしても父親の再婚が決まったあたりの写真か」
そうだ。これは。ここに写っている女性を俺はよく知っている。
「この人、志鷹のお母さんだろ」
その通り、母が初めて兄と会ったときに撮ったものだろう。言い当てられて諦めがつく。一つ息を吐いてから、口を開いた。
「そう、俺の母親。名前は慶子。一応芸能人で……若い頃はそこそこドラマとか出てたみたいだけど、再婚したときはほぼ無職だったな」
「ドラマに出てた俳優に似てるって、嘘じゃなかったんだ」
「似てるってか本人だけど。そもそもお前が知ってるような時代のドラマじゃないし、ごまかしに使っただけ」
俺が物心ついたころには、もうほとんど俳優としての仕事はしていなかった。結婚を機に引退したような状態になっていると本人が言っていた。私はまだやりたいんだけど、お父さんが気に入らないみたい。母は決まってそう締めくくっていた。自分がやりたいならやればいいのに、テレビに出てくれたら自慢できるのに、なんて子どもの俺は軽く考えていたが、あの人たちが離婚した時に思い知った。
母は綺麗な人だった。当時はまだ出演したドラマを見ていた人も多く、顔が知られていたんだろう。ファンだという男性が買い物に出た母に声をかけ、それをきっかけにストーカーになった。ある日、家の窓ガラスが粉々に割られて、母はストーカーにその上に押し倒され、背中に大怪我を負った。俺たちはすぐにその家から引っ越した。父は助けられなかったことに傷ついて、だんだんおかしくなっていった。
父はそのあと、母を外に出さなくなった。母が何を言っても取り合わなかった。家の鍵は改造され、母には開けられないようになった。家族だから、大事だから、愛しているからって、他人の自由を奪うのはおかしい。母のその言葉で、父は母を殴るようになった。
離婚が成立するまでも大変だった。母は父の隙を見て俺を連れて逃げ出し、実家に頼ったんだったか。俺はそのあたりのことはよく覚えていない。
俺は母親について誰にも話したくなかった。あの人のことが苦手だ。嫌いじゃないし大事な母親なのに、思考の外側にいてほしい。考えたくないのだ。
「綾人さんは……志鷹のお母さんを好きになった?」
「わからない。直接聞いてないから」
「でもこのクロッキーは、志鷹のお母さんを描いた絵だ」
「だろうな」
「父親の再婚相手を好きになってしまって、絵に描くしかできなかった……そう考えれば辻褄は合う。お母さんはどんな人なの?」
「なあ、無神経じゃない? それは。義理の兄が実の母親を好きになってたなんて考えたくない」
駄々をこねるように吐き出すと、蓮は困った顔をしていた。それでも、よみがえる記憶はどれもおぞましくて、口に出すことをしたくない。
「ごめん、そうだよな。考えなしだった」
「……悪い、頭冷やさせて。飲み物持ってくる。コーヒーでいいだろ」
手にあった写真を蓮に押し付けるようにして返すと、立ち上がって部屋を出た。
「ここで亡くなったんですよね……」
「ホラー無理な人? 心霊現象とかは起きてないよ」
無理ではないですけど無遠慮に漁るのは抵抗ありますって、とムニャムニャ言い返される。それもそうか。俺も当時はここが嫌だった。でも、兄は望んで死んだんだから化けて出ることはしないだろう。
「志鷹さん、この箱は開けても平気ですか」
兄が死んでいた場所をぼんやり眺めていたら、彼から声をかけられた。そちらを見ると、いくつかの箱を示される。
「うん、兄のものしか置いてないから俺に聞かなくていいよ。死んでるから文句言えないし」
「不謹慎ですよ、逆に開けづらくなるじゃないですか」
真面目だねえと揶揄うように言うと、嫌なとこ出てますよと反論された。先日食事をしてから彼の中でも距離が縮まったのか、こうやって言い返してくるようになった。
「綾人さんってあまり物を持たないタイプでしたか? 趣味のものとか……ないですね。自室に置いてあったりしますか?」
「ううん、自室には寝に帰るだけでベッドしかない。時間がここであれば絵を描く、みたいな人だったな。音楽も聴かないし本も読まないし映画も見ないし。スマホも持つだけ持ってそのへんに転がしてるだけだった」
一度だけ兄から俺に電話がかかってきたのを思い出す。いつもかけるのは父か俺からで、あの時は緊急事なのかと慌てた。大したことのない用事だったが。
あらためて部屋を見渡すと、絵の具で汚れた床と壁、木製の机、イーゼルに椅子、キャンバスの土台、資料の本、それらが散らばっている。
資料の本の山は彼が漁っているので、俺は机の引き出しを見ることにした。乱雑に詰め込まれた紙の束や冊子がある。一番上にあったクロッキー帳をパラパラと開いてみる。
「ねえ、これ面白いよ。天使の絵の下描き……あとは鳥とか静物とか。手あたり次第いろいろ描いてる」
彼に声をかけると、パッと振り返ってこちらへにじり寄ってきた。クロッキー帳を一緒に覗き込む。
「おお……これ貴重なんじゃないですか? 個展に展示されててもおかしくないですよ」
嬉しそうに彼は言う。夢中になってページをめくり始めたので、そのままクロッキー帳を任せて、俺は引き出し漁りを再開した。他にも同じようなものがないか探してみたが、他は展覧会のパンフレットやフライヤーが詰め込まれていただけだった。
「志鷹さん、あの、あのですね……」
クロッキー帳に夢中だった彼がぼんやりと俺を呼ぶ。ふと敬語が鼻についた。俺たちは友達ではないし、俺はただの取材対象だけど、こちらが先日使うのをやめた敬語で話されるのはどうにも気持ち悪い。
「蓮さ、そっちも敬語いらないし、俺のことも呼び捨てでいい」
「志鷹さん年上だし、一応仕事中なんですけど俺……さすがにそれは」
「こっちばっかりタメ口なのは嫌だ」
そう返すと、うーんと腕を組んで困った仕草をしてから、彼は条件を出してきた。
「それなら、俺と友達になってください。仕事相手にとなると俺が怒られるんで、今から友達ってことにしましょう。それならタメ口で話します」
「友達……」
「え、嫌なんですか?」
嫌なわけではない。ないが、ここ数年は友達というものを作ってこなかった。学生時代の友人はいるにはいるが、たまにの連絡ぐらいでなかなか会ったりもできていない。友達ってどんなもんだっけ。それにこんなこときっかけで友達ができるってどうなんだ。
「俺の経歴も調べた? 最近あんま人と関わってないんだよ、それこそ外に出たの個展ぐらいで。友達って言われてもなんというかさ……」
「本人に言うの申し訳ないですけど、志鷹さんのことも調べました。でも弟だってことぐらいしか出てこなかったんですよね」
「へえ、そうなんだ。意外と俺のことは出回ってないんだ。義理の弟だとか」
自分のことや両親の再婚のことも出回っているだろうと思っていたが、そういえばネットを見た限りそれらの情報はなかった。あくまで兄と天使の絵にだけ興味が向いているのか。
「三崎綾人の弟といえど一般人ですからね。それはそれとしてここまでの会話、俺と友達にならない理由にはまったく関係なくないですか」
「……あるんだよ俺にとってはさあ。まあいいよ、嫌なわけじゃないし、めんどくなったらやめればいいし」
「やめるなんて選択肢あるんだ……。じゃあそういうことで。志鷹……さん」
「呼び捨てしろよそこは」
「いやそうじゃなくて」
切り替えるように言うと、蓮はクロッキー帳をこちらに開いて見せてくる。
「これ、天使の絵のラフではありそうだけど……人っぽいというか。どこかで見たことあるような気がするんだよな。心当たりある?」
一目見てわかった。こんな絵描いてたのかよ。自分が思わず顔をしかめたのがわかった。蓮に何もないとは言えなくなってしまった。ああ、いや、ごまかす手が一つあった。
「だいぶ前にドラマに出てた俳優に似てる。名前は覚えてない」
「ふーん? じゃあこれは何」
蓮が続けて差し出してきたものに息が詰まる。一枚の写真だ。この家の居間のソファで、父と一人の女性が、兄を真ん中に挟んで笑顔で写っている。
「お前さあ、それ見つけてたんなら先に出せよ」
「ごまかしたってことは、やっぱ志鷹は天使のモデルに心当たりあったんだろ」
つい乱暴な言い方になるも、蓮は気にすることもなく強く返してくる。どう答えよう。動揺している。口を開くもうまく言葉が出てこない。
「この女性、そのクロッキー帳の天使と似てるよな。一緒に写ってる綾人さんが着てるのは高校の制服か? 年齢からしても父親の再婚が決まったあたりの写真か」
そうだ。これは。ここに写っている女性を俺はよく知っている。
「この人、志鷹のお母さんだろ」
その通り、母が初めて兄と会ったときに撮ったものだろう。言い当てられて諦めがつく。一つ息を吐いてから、口を開いた。
「そう、俺の母親。名前は慶子。一応芸能人で……若い頃はそこそこドラマとか出てたみたいだけど、再婚したときはほぼ無職だったな」
「ドラマに出てた俳優に似てるって、嘘じゃなかったんだ」
「似てるってか本人だけど。そもそもお前が知ってるような時代のドラマじゃないし、ごまかしに使っただけ」
俺が物心ついたころには、もうほとんど俳優としての仕事はしていなかった。結婚を機に引退したような状態になっていると本人が言っていた。私はまだやりたいんだけど、お父さんが気に入らないみたい。母は決まってそう締めくくっていた。自分がやりたいならやればいいのに、テレビに出てくれたら自慢できるのに、なんて子どもの俺は軽く考えていたが、あの人たちが離婚した時に思い知った。
母は綺麗な人だった。当時はまだ出演したドラマを見ていた人も多く、顔が知られていたんだろう。ファンだという男性が買い物に出た母に声をかけ、それをきっかけにストーカーになった。ある日、家の窓ガラスが粉々に割られて、母はストーカーにその上に押し倒され、背中に大怪我を負った。俺たちはすぐにその家から引っ越した。父は助けられなかったことに傷ついて、だんだんおかしくなっていった。
父はそのあと、母を外に出さなくなった。母が何を言っても取り合わなかった。家の鍵は改造され、母には開けられないようになった。家族だから、大事だから、愛しているからって、他人の自由を奪うのはおかしい。母のその言葉で、父は母を殴るようになった。
離婚が成立するまでも大変だった。母は父の隙を見て俺を連れて逃げ出し、実家に頼ったんだったか。俺はそのあたりのことはよく覚えていない。
俺は母親について誰にも話したくなかった。あの人のことが苦手だ。嫌いじゃないし大事な母親なのに、思考の外側にいてほしい。考えたくないのだ。
「綾人さんは……志鷹のお母さんを好きになった?」
「わからない。直接聞いてないから」
「でもこのクロッキーは、志鷹のお母さんを描いた絵だ」
「だろうな」
「父親の再婚相手を好きになってしまって、絵に描くしかできなかった……そう考えれば辻褄は合う。お母さんはどんな人なの?」
「なあ、無神経じゃない? それは。義理の兄が実の母親を好きになってたなんて考えたくない」
駄々をこねるように吐き出すと、蓮は困った顔をしていた。それでも、よみがえる記憶はどれもおぞましくて、口に出すことをしたくない。
「ごめん、そうだよな。考えなしだった」
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