この恋は始まらない

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第四十八話・もえぴの手料理と、ファンの子とグッズと

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海のヌシ釣り編。

子守家。
始発と同時に電車に乗ってやってきた東山ハジメこと彼ピッピは、クソ親父とクソ兄貴に連れられて、海釣りに行く。
連れ去られながら玄関を出ていった東っちは、無になっていた。
両腕をがっちり掴まれていた。
オタクのクソもやしが、トラックの運ちゃん二人に体格で勝てるわけがねぇんだよな。
まあ、あの暑苦しくてウザい野郎三人と、朝五時から釣りなんて死んでも嫌なので、自分は行かなかった。
どうせ、昼過ぎまで口開けてアホ面したまま釣りをして、海辺の海鮮料理を食べて帰ってくるコースである。
春休みは短いのに、半日が潰れるコースとか、死ぬわ。
これでも女の子である。
直射日光が当たる海辺には居たくない。
肌が焼けるし。
紫外線は乙女の大敵である。

しかし、あれである。
あのアホは学習しないものだ。
誰かに一人に優しくしたり、誰かの両親と仲良くすれば、他の三人にも自ずと話が行き、必然的に誘われると、いい加減に気付けばいいものを。
母親達の間だって、よんいち組が出来ているのだ。
母親組は、年齢こそかなり離れているけれど、聞く限りでは、たまにランチをするくらいに仲良くしていた。
何歳になっても女は群れたがるものらしい。
ふう達曰く、ママ友のコミュニティが出来て、ママは楽しそうにしているらしいが。
高校生の多感な時期では、親子でも悩むし、子供への付き合い方が難しいらしい。
みんなで話し合うことでストレス解消をしているみたいだ。
それはそうと。
隣にいる母親に問う。
「……ウチん家の親睦会が海釣りっておかしくね?」
「あいつらの脳内には、酒とパチンコと釣りしかないんだから、その中から選んだら釣りでしょ」
クソかよ。
親睦とは……。
東っちに、底辺家庭の現状を見せ付けていないか?
ふゆの白鷺家と比べたら、もえの子守家は見劣りしかしていないのだった。
まあ、築三十年以上のこんなオンボロな持ち家に住んでいる家庭では、演劇もホテルも行けないけどさ。
必然的に金の掛からない趣味を誘うにしても、初見の人間には海釣りは敷居が高いと思う。
男三人で車で長時間移動して、数時間無言で釣りをするのだ。
しかも彼女の父親と兄が一緒だ。
こんなん常人なら余裕で発狂するレベルだ。

「ん~? ま、大丈夫でしょ」
相変わらず、この母親は雑であった。
朝一から釣りの準備で騒がしい男共を見送り、眠そうに欠伸をしていた。
母親の言い分からしたら、結婚して三十年以上経つ。
それだけ同じ人生を生きているわけだ。
正直、男の雑さ加減に一々反応していたら身体が保たない。
赤ちゃんと会話出来るか?
ストレスで脳内の血管がぶち切れるだけだ。
「いや、家族が雑なのはいいけどさ、世間体とかあるじゃん」
「え? あの萌花が?? 世間体を気にするようになったの?? くっそ、ウケるわ」
腹抱えて、大爆笑をしていた。
殺すぞ。
前々からこんな母親なのは知っていたが、最近の煽りがウザい。
私を煽るのはまあ分かるが、他人の彼氏に絡むな。
ババアが高校生にちょっかいを掛けたら、普通に犯罪だし、迷惑である。
東山ハジメならまあ、ウザ絡みしても問題ないんだろうが、ウチの家族は容赦なく絡んでいくのだった。
娘の彼氏は家族みたいなもんって認識なんだろうが、はた迷惑だ。
この母親の雑な頭では考えに至らないだろうが、恋人同士の生まれ育った価値観の違いで、カップルが別れることは全然ある。
時代が違えば、恋愛観は変わっていく。
カップルの大半は、互いに利益がなければ付き合わないような打算的なものでしかないのだ。
目の前の両親のように豪快に、好き合っているから大丈夫やろ。
あとは、なんとかなれぇ~で済ませてきた昭和の価値観とは違う。
ちいかわかよ。
「言いたいことは色々あるけれど、雑なのやめろや」
「萌花、彼氏の前で女の子らしくしたいのは分からんでもないけど、身の丈に合わないことをすると絶対にボロが出るからやめときなさい」
「……真面目な話をするのはいいけどさ、麦茶飲みながら言うなよ!」
さっきまでの彼氏に優しい良い母親のイメージを脱ぎ捨て、腰に手を当ててぐびぐび麦茶をのむババア。
「何なのよ! こちとら朝五時から、クソ野郎共に朝ごはんを作って疲れてるし、水分補給して昼過ぎまで二度寝したいのよ!」
「知るかァ!」
ウチの野郎共には、草でも食わしとけ。


それから夕方になる前に、野郎三人が帰ってくる。
クーラーボックス担ぎながら、楽しそうに爆笑していた。
今日の釣りの結果は大漁らしく、意気揚々である。
四股クソ野郎は、実の親子みたいにはしゃいでいた。
ああ、そうだよな。
こういうやつだった。
こいつに、人並みの配慮をするだけ無駄なのだ。
ぶっ○してやりたい。
勝手に彼女の家族と仲良くなるレベルじゃないと、女の子に好かれる四股クソ野郎にはなれないし、認めてもらえないものだ。
神経が図太過ぎる。
この前はブチ切れそうだったことを悔いていたのに、秒で仲良くなるなよ。
こいつの好感度ガバガバかよ。
まあ、うん。
アホだが真面目なやつだから、大人ウケがいいのが救いである。
東っちは、よんいち組の母親と初めて出会った五月の授業参観で、最速でママとの顔合わせRTAをしていたからか、親からの評価が高いんだよな。
付き合ってすぐに、頭を下げに来ているし。
そこら辺の立ち回りは上手い。
天性の女たらしだ。
野郎三人で釣った魚を母親に見せてはしゃいでいるのはうぜぇけど、両親からしたら娘が大切なのは当たり前だから、ちゃんと筋は通しているのだった。
両親の許可を得てでないと、娘さんを任せてもらう価値はないという、スタンスは崩していない。
東山家の育て方の賜物なのだろう。

母親はクーラーボックスの魚を見ながら嬉しそうにしていた。
「へぇ、珍しく大量じゃない。魚の種類的に、刺身はだるいからフライでいい?」
「……だるいって、ハジメには美味い刺身を食べさせてあげたいんだよ」
父親とハジメは、仲良しそうに肩を組んでいた。
兄貴まで混じっていた。
仲良し過ぎる。
こいつら、人の彼氏を呼び捨てにするくらいに秒で仲良くなるな。
「あ? そんなに刺身を食べさせたいなら、自分で捌いたら? そもそも昼飯で海鮮食べてきてるんだろ? ウチで作るフライはこの世で一番美味いのに、二度も刺身にする必要はあるのか??」
こいつもこいつで。
だから、喧嘩するなよ。
ブレねえな、この母親は。
他人の彼氏を招いておいて、言葉の殴り合いをするクソ親である。
「あ、俺はトイレ行ってくるわ」
兄貴は兄貴で、二十代後半なのに空気を読まずに、しれっとトイレに行きやがる。
逃げやがった。
いや、あいつは存在しない方がいい。
この場にいても、ろくなことを言わないからだ。
ハジメは間に入る。
「えっと、喧嘩しないでください。自分はフライでいいですので。毎日料理するのが如何に大変なのかは知っていますから、御馳走になるだけでも有難いので……」
「あら、流石東山くんのお家はちゃんとしているわねぇ。ウチの連中はママの苦労を労ったり、料理を褒めてくれないから嬉しいわ」
「そうね。せっかくだもの、ママ頑張っちゃう。東山くんには新鮮な刺身を出さないとね。……他の奴らはフライでいいわよね?」
親父は、元ヤンである母親のメンチにビビる。
おめえも元ヤンなんだから、それくらいでビビるなよ。
尻に敷かれるとは、このことである。


それからハジメは、腹一杯まで魚料理を食べて家に帰っていった。
母親は、容赦なく魚料理を死ぬほど作って食わせていた。
家に帰ったら晩御飯を食べるので、主食であるごはんは食べていなかったけれど、おかずだけでお腹はパンパンになっていたし、あの量の刺身とフライは確実に胃もたれするレベルだった。
育ち盛りの高校生は大食いだろうって考えだけれど、限界を越えていた。
運動部じゃないからな。
胃袋もオタクなのだ。
食べ切れないなら、断ればいいものを。
帰り際に、玄関でよろけていた。
アホである。
グロッキー状態のハジメを家族で見送った後に、母親と一緒に皿洗いをしていた。
「晩御飯を食べるって言っていたんだから、あれは料理を食べさせ過ぎだろ」
「それは、萌花がいっぱい魚を捌くからでしょ。あんただって内心、彼氏がいっぱい食べてくれて喜んでいたんじゃないの?」
「だからって、私が捌いたって言ったら、あの状況だと全部食わないといけなくなるだろ」
「喜びなさいよ。それは、愛されている証じゃないの。彼女の手料理をあんなに美味しそうに食べてくれる男の子はいないぞ?」
……話が通じねえ。
英和翻訳して訳分かんなくなったベセスダ語じゃねえんだから、日本人の会話をしてくれ。
娘をおちょくるのが趣味なのか。
いや、若い男の子の相手をしていて、楽しかっただけだ。
「ママ、麦茶」
タイミングが悪い。
親父がキッチンまで来て、会話の邪魔をしてくる。
「あ? 麦茶をくださいだろ? 冷蔵庫に入っているんだからよ。飲み物くらい、自分で取れや」
邪魔するから機嫌が最悪である。
一蹴されていた。
相変わらず、肩身が狭い。
麦茶ごときでブチ切れする古女房だった。
子守家の大黒柱は、しゅんとした表情で、麦茶をもらっていく。
母親は、何事もなかったかのように、話を続ける。
「萌花は、これからはもっと料理の手伝いをしなさい? 料理が下手な女に、女の価値はないんだからね?」
「……いや、それは分かるけどさ。ウチの料理って、男飯じゃん」
焼いて揚げて、丼に盛り付ける。
料理文化が、原始人みたいなもんだ。
「野郎が食べるんだからそれでいいのよ。インスタクソ女の料理とか、食ってもあいつらに違いがわかんねぇから。ウチじゃ、凝ったものを作っても、食費と時間の無駄よ」
……雑だなぁ。
母親から料理を学んで、実際に役に立つのか分からない。
そもそも、料理のさしすせそが目分量だから、基本的に味が濃いのだ。
作る料理のレパートリーにも偏りがあり、安くて美味い定食屋みたいなイメージである。
まあでも、海釣りで取ってきた魚を捌きまくっているだけあってか、魚料理の腕には定評があるので、今日の料理は普通に美味かった。
ハジメも、新鮮な魚料理が珍しかったのか、これまた美味しそう食べていたから、母親は上機嫌である。
「最近の男の子はナヨナヨしていて、よく分からなかったけど、胃袋を攻めるのが正解だったのね」
母親は、うんうんと頷いていた。

男の子を落とすのには幾つか方法があれど、今も昔も男の子は胃袋を攻撃するのが基本戦術だ。
色仕掛けで男を惚れさせるのもありだが、身体で繋ぎ止めるのは難しいし、アバズレになりかねない。
それに、色仕掛けをよんいち組でやり合うと強烈な殴り合いになるので、禁止になっている。
そのせいか、みんなは持ち前の可愛い面を利用した戦いが出来ない。
過度なアプローチをして、抜け駆けはしない。
そこはルール決めて、みんなで共同戦線を張っているので仕方あるまい。
だから、それ以外の戦い方を模索していた。
女の子の武器はいっぱいある。
色仕掛けが駄目なら、可愛い顔か、聡明な頭か、一途な性格を好きになってもらうのが恋愛だけれど、四股クソ野郎にそれが通用するわけもなく。
頭の中はお花畑なのだ。
恋愛においては、よだれかけが必要な、赤ちゃんなのだ。
ハジメは、他人を善意で助けるタイプ故に、女の子が優しくしてきても、普段からそういう性格の善人だと思っている。
好きな人だから、優しくしている。
毎日声を聞きたいから、学校で話し掛けている。
毎日ラインをしたい。
そんな普通な、恋愛観がないのだ。
三馬鹿にかまけて勉強を見てやるほどのお人好しなのだ。
惚れた側の恋愛はかくも難しい。
助けを求められたら、手を差し出さないと気が済まない。
本来ならば欠点とも呼ぶべきだが、そういう性格でなければ好きになっていなかっただろう。
だから、アホな部分を正すのは間違っている。
とはいえ、真面目なのと鈍感なのは別物だ。
キスもした彼女であり、面と向かって好きだと言っていて、この塩対応。
頬を赤くするくらいの緊張感もないのだ。
らちが明かない。
よんいち組の面々は容赦なく、ハジメが隙を見せたら、パリィを決めて内臓攻撃をしていた。
両親をフル活用してでも、ハジメの囲い込みに入っているのだ。

「萌花、魚を捌けるだけじゃ、インパクトに欠けるんだから、もっと料理を覚えなさいよ」
「……必要?」
「本気で愛してるんでしょ? あんた、ハジメちゃんと結婚したくないの?」
「……ん。まあ、そうだけど」
「ぎゃはは、マジウケるわ! 乙女かよ!!」
子供が真面目に返したのに、舐めた態度で返してくるな。
これだから、この親が嫌いなんだよ。


そのあと。
東山家。
俺は、やっとこさ帰ってきた。
ご飯を頂いたから、家に帰る頃には夜遅くなってしまった。
歩き疲れて帰ってきたわけだ。
「ただいま」
ドアの開く音と、俺の声に気付いてか、リビングから母親がやってくる。
小走りで駆け寄ってきて。
「あらあらまあまあ、ハジメちゃんお帰りなさい。ごはんにする? お風呂にする? それともママ?」
「……意味わかんねぇよ。ほら、萌花のご家族から魚をもらってきたから。明日のおかずにでもしてってさ」
「あら、有難いわ。ちゃんと下処理してあるのね、助かるわ。萌花ちゃんのお母さんにお礼を言わなきゃね」
「ああ、それは萌花が捌いてくれたやつ」
「あら~」
あら~、じゃねぇよ。
萌花も親の扱いに大変そうだったが、俺の親も中々ウザいわ。
「あらあら。だから、ご飯食べて帰ってきたんでしょ。可愛い女の子の手料理だもんね~。急に晩御飯いらないとか言い出したから、ビックリしたわ」
「……いや、招待されたら断れないだろ。それに、自分で頑張って釣った魚は食べたいしな」
結果として大漁ではあったが、最初は全然釣れなくて、辛かった。
それでも諦めず数時間掛けて挑んだから、粘り勝ちしたのだ。
苦労して釣り上げた魚は食べたい。
それもあるけど、やっぱり。
揚げるだけのフライであっても、萌花が捌いて揚げてくれたから美味かったし、いっぱい食べてしまったのは事実だが。
萌花の場合、ああいう性格だから、顔には出していなかったけど喜んでくれていたと思う。
ツンデレのデレは貴重なのである。
「それはそうと、」
「え? それはそうと??」
「……今日の晩御飯だって、ママと麗奈ちゃんが頑張って作ったんだけど? お昼過ぎから準備していたから、ハジメちゃんの分もあるし、愛情いっぱいだから、食べるわよね??」
無言の圧力である。
目が笑ってないやん。
愛情ってところが否定出来ないから、本気で言っていた。

母親の料理は、インスタクソ女の料理だから、下準備に時間が掛かる。
お昼から時間をかけて、下味を漬けた肉料理や、味が染み込んだポトフを作るのが好きだった。
今日は、手の込んだ料理を用意していたのだろう。
連絡したのは昼過ぎだったし、全面的に俺が悪い。
そりゃ、俺が朝一始発から出かけていたのだから、夜には帰るだろうと晩御飯の準備をするのは母親として当然である。
有難い限りだ。
東山家の家訓として、晩御飯は祝い事の時以外は家族全員で、自宅で一緒に食べるって決まっているし。
母親にとって料理は趣味であり、家族としての立派な仕事なのだ。
子供の俺が、反論出来るものではない。
「悪いけど、正直腹一杯だし、おかずだけでいい?」
「しくしく。ご飯だって、ママが冷たい冷たい言いながらお米を磨いだのに……」
イラッ。
何でもありじゃねぇかよ。
そこは折れろよ。




あれから数日。
強制的に開かれた交流イベント。
彼女の両親からの、おもてなしを全員分終えて数日が経った。
最後は小日向のところだったが。
小日向家はまあ、みんなの想像通りなので割愛させてもらう。
お義父さんが小日向タイプだから、娘大好きなんだが、夫婦間で色々あるらしく。
うん、まあお義父さんの尊厳の為に、あえて語るのはやめておこう。
俺も小日向遺伝子が三人集まった家庭で、会話の展開の早さに付いていけずに、精神と時の世界になっていたし。
宇宙を感じていた。
この世界の広大さを、身体全体で味わっていた。
そんな冗談はさておき。
俺ん家が言うのも何だが、小日向家は両親の血が濃いんだよな。
まあ、元気なご両親がいる幸せな家庭なのはいいことだ。
幸せなのが、小日向らしい。


さて、今日は仕事の日だ。
俺と小日向は渋谷まで出向いて、読者モデルの仕事をしていた。
白鷺はヴァイオリンのコンクールがあるらしく、そちらの練習に専念していた。

俺は、事務所での仕事の打ち合わせを終えて、暇になる。
小日向待ちをしている間に、昼過ぎまで事務作業の手伝いをしていた。
絵描きであることを活かして、ホームページやSNSのバナー作りとか色々やっていた。
読者モデルっていうか、ただの雑務しかしていないけど、女装させられて撮影されるよりはマシである。
洋服を着て作り笑いをするより、無表情でパソコンを弄っている方が性に合っている。

俺の用事は、数時間で終わるのですぐだったが、トップモデルである小日向はずっと仕事続きだ。
今も尚、事務所奥のカーテンを挟んだ向こう側で、数十種類の洋服を着替えて撮影をしている。
春服の撮影が始まったと思えば、夏服の撮影を始める。
ファッションは季節の移り変わりに合わせて変わっていくため、数ヶ月前の準備が多い。
契約しているブランドの撮影に出向いたり、SNSのちょっとした写真ですら、読者モデルは予定を合わせて早急に撮影をしないといけない。
春休みのイベントがあれば、土日には地方にも出向くことになる。
学生が休みでイベントがしやすい時ともなれば、休むわけにはいかない。
読者モデルという輝かしい肩書きと見た目とは裏腹に、暇とは無縁な職業である。
睡眠時間は容赦なく削られ、昼休みに三十分寝ないと身体が持たないの仕事だ。
そう考えたら、小日向ぐらい仕事が大好きで、神経が図太くないとやってられないのだろう。
小日向ママは、大変過ぎて毎日が騒がしいと言っていた。
……騒がしいのは、それ、小日向だからじゃね?
とは思ったが、皆まで言うまい。
母親が一番、我が子が頑張っていて、大変なのは知っている。
小日向はいつも能天気だけど、いつだって辛いところは見せない。
世界一可愛い読者モデル。
小日向だからそんな冗談も言えるが、ずっとこいつを見ていたら、そんな言葉も真面目に受け止めてしまう。
お前はいつだって、世界一可愛い読者モデルである。
俺からしたら、小日向はいつも迷惑かけてくる五月蝿い存在で、わがままですぐ泣く。
ファンが思い描いているような、世界一でも可愛いでもないが、期待に報いるように読者モデルとして真摯に取り組んでいるのは知っている。
どんなに大変な状況でも、ファンには忙しそうな様子を見せない。
その姿勢が、トップモデルの矜持なのだろう。
週一レベルの撮影だけでも慌ててしまい、大変な俺には無理である。

「やーやー、ハジメちゃん」
普通に話せ。
小日向が撮影を終えたらしく、お茶を飲みながら戻ってきた。
流石に疲れたようだったが、どこか表情は清々しい。
「もう終わりか?」
「うん。残りの洋服は明日に回すってさ。外撮影するし」
「明日もあるんか。お疲れ様だな」
俺は当分暇だが、小日向に春休みはないようだ。
こいつに休みの日がないので、よんいち組のみんなで遊ぶのも難しいな。
その分、白鳥さんが上手くスケジュールを組んでくれていて、今日みたいに早く上がれるわけだが。
小日向が帰る準備をしている間に、こちらも仕事内容を保存して終わらせる。
スタッフや他のモデルさんに挨拶をして帰ることにする。
最初は緊張していたが、色々な人と会話できるようになったものだ。
小日向がみんなに紹介してくれて、顔を立ててくれたからだな。
「ハジメちゃん、帰るよ~」
「いや、大声で呼ぶなよ」
俺の名前を連呼するから、みんなに笑われている。
仲が良いアピールはいいんだが、恥ずかしいやつだ。


事務所から出て少し歩く。
まだ昼過ぎなので、俺達二人は昼ごはんだけ食べて帰ることにする。
春休みだからか、渋谷は激混み。
行き交う人は若い子が多くて、街中であろうと小日向は嫌が応うにも注目を浴びてしまう。
小日向さん。
撮影は終わったんで、オーラをオフにしてくれませんかね。
ぴかぴか光っているから、そりゃ目立つわ。
小日向に気付いたファンの女の子達が、話し掛けてくる。
何か普通に俺も巻き込まれる。
陰キャの俺の、認知度が上がり過ぎてつらい。
今となっては同じ事務所だし、ファンの人からしたら読者モデル扱いなんだろうけど。
サインばかり描く日々である。
まさしく、小日向風夏サインbotである。
中学生の女の子が、色紙を手に持ち俺に近寄ってくる。
初々しく緊張した様子で話し掛けてきた。
初めて見る人だから、最近雑誌を見て小日向のファンになった人かな?
「あの、すみません。わたし、ずっとハジメさんのファンなんです! メイちゃんのイラスト描いてもらえますか?」
ガチガチの古参ファンじゃねぇかよ。
俺がずっと描いているメイドシリーズの看板娘であるメイちゃん。
初手でメイドシリーズの話をされるとは思っていなかった。
俺の漫画を好きなのは有難いが、メイドシリーズを熟読している中学生とか、性癖が歪むぞ。
SNSで活動している同人作家の全年齢漫画とか、一番やばいんだよ。
作者の性癖が直に反映されているから、啓蒙が高過ぎる。
中学生なんだから、あのえっちなシーンが好きですとか面白いですとかは、言ってはいけない。
熱烈なファンである未成年の中学生に、延々とエロ話をされる高校生の気持ちを察してくれ。
勘違いしないでほしい。
メイちゃんは、メイドさんが家事をする本に登場するキャラとしてメイドシリーズを執筆しているが、基本的にはお金持ち小学生の主人公であるシュン君と、雇われ完璧美女メイドの二十六歳独身のメイちゃんで行われるエロなしのドタバタ日常メイド本である。
よくある完璧メイドの粗を探すが、毎回返り討ちに合う小学生の主人公に萌える漫画だ。
二人が織り成す下らない日常漫画。
健全だが、健全かは知らん。


女の子のファンが好きなのは大多数が小日向のイラストだが、一定層はメイドシリーズのメイちゃんが好きと言ってくれている。
読者の大半が中学生だから、凛とした雰囲気の大人の女性が好きなんだろう。
人間誰しも、メイド服を着た綺麗な使用人の居る生活に憧れるものだ。
もちろん、俺の漫画に出てくるキャラだけあってか、着ているメイド服はスカート丈が長いヴィクトリアンスタイルだ。
それしか勝たん。
黒いメイド服は至極だ。
内心は荒ぶっていたが、冷静な表情で対応する。
「メイちゃんを描けばいいんだね」
「はい! お願いします!」
ファンの人の推しトークは止めどなく繰り広げられて、このまま聞いていてもラチが明かないので、所望されているメイちゃんのイラストを描いてあげる。
メイちゃんはシリーズが長いし、描き慣れたものだから、直ぐに書き終わる。
 「はぇ~、メイちゃんの綺麗な黒髪に凛とした顔立ちがよきです」 
サインなので簡易的なラフ画だけれども、凄く喜んでくれていた。
だが、複雑な心境である。
いたいけな女の子を、未来のメイドリストに育ててしまった気がする。
メイド界隈の繁栄の為だ。
多少の犠牲も仕方ないのだろうか。
「喜んでもらえて良かったよ」
「はい! 額縁に入れて飾って置きます!」
「それは止めて……」
色紙にサインはしたが、そういうもんじゃないから。
後生大事にされたら俺が困る。
何でもかんでも家宝にしないでくれ。
「そういえば、ハジメさんに見てもらいたいものがありまして……」
おもむろにスマホの画面をいじり出す。
「え?」
この既視感は、他のファンの時もそうだった。
ファンが自作したグッズが出てくる予兆である。
やめてくれ、その攻撃は俺に効く。
才能を見せないで。
PTSDになりそう……。
確実にストレスゲージが溜まっていく。
同人作家に、精神攻撃をしないでくれ。
「じゃじゃ~ん。わたし、この前にメイちゃんの人形を作ったんですよっ!」
スマホの写真を出してくる。
ぬいぐるみとか、そんな茶々なものじゃない。
人形は人形でも、人形と書いてドールと読むものだ。
ガチガチのガチである。
二十センチくらいのアニメ顔の人形が、綺麗なメイド服を着込んでいる。
秋葉原のショップで見掛けたことがある可愛いフィギュアである。
黒髪を後ろで束ねていて、目元の輪郭はメイちゃんっぽい可愛い垂れ目であり、作中の再現度が高い。
メイド服もヴィクトリアンスタイルである。
素人目線の俺でも、人形の凄さがわかるものだった。

俺のファンの人はアホなの?
何でその情熱を俺の作品と、俺に向けてくるんですかね。
いや、でも有難いことには変わりがない。
自分のキャラは娘のように時間をかけて描いているからこそ、可愛いと言ってくれるのは何よりの喜びなのだ。

「羨ましい……」
素直に作品を褒めるべきだったが、言葉が出てこない。
このクオリティのドールを自作出来る才能が羨ましかった。
女性は手先が器用な人が多いから、自作グッズやフィギュアなどを上手く作ることが出来るのだろうか。
手芸の才能を活かして、オタクとして色々活動が出来るのは、羨ましい限りである。
俺は不器用だから、そういった手作業は出来ないし、自作グッズは印刷会社に頼んでイラストを印刷するだけで終わりである。

メイドシリーズは部数も増えつつあり好評だけれど、缶バッジなどのグッズを作るつもりはなかった。
学生として、使えるお金に限りがある以上、グッズを作るのは小日向のものだけに集中していたのだ。
だから、自分のキャラであるメイちゃんがこうして、ファンの手によって可愛いフィギュアとして存在している。
これは、奇跡なのだ。
「メイちゃんの次は、シュン君も作りたいので、完成した時はSNSでお知らせしますね」
「ありがとうございます。というのか、色々なアニメとか漫画とかあるのに、メイちゃんで良かったんですか?」
「え? 他のアニメとか漫画……? ヴィクトリアンスタイルのメイド服が似合う可愛い女の子キャラは、メイちゃんしかいないですよ? 年上の女性の凛とした顔立ちながら、ご主人様にはどこか甘いメイちゃんだからこそ、雇われメイドという主従関係を超越した信頼関係を表現している稀有な作品であり、最推しするに値する可愛さを有しており……」
くっそ早口。
ヤサイニンニクマシマシアブラカラメオオメ見たいな速度だ。
オタク特有のマシンガントーク。
好きなものを語るそれは、完全なるメイドリスト予備軍である。
メイド服の素晴らしさを延々と語り出すくらいに毒されているやん。
目が笑っていない。
メイドは人を狂わせる。
一見地味に見えるメイド服の白と黒のコントラストが、無限の可能性を示し出すのである。
その美しさは黄金比だ。
メイド服は、その洗礼された美しさの中に女性が働く凛々しさを内包しているからこそ、数十年以上愛されているジャンルなのだ。
俺のファンは、美術館にある絵画を語るような口調で強く主張する。
……俺は一体、何を聞かされているんだろうか。
俺のファンだけ、ベクトルが狂っていた。
発する言葉の重みが、四百文字詰めの原稿用紙を冊束で投げ付けてくるようなものだ。
メイド好きで、作品を褒めてもらえる嬉しいけど、愛が重過ぎて過剰摂取気味である。
うん。
小日向さん、助けて。


後日談。
あとでツイッターにメイちゃんの人形の写真を上げてもらった。
人形だから出来るシチュエーション撮影された複数の写真を見ながら、常々思う。
どの写真を切り抜いても、我が子は可愛い。
うんうん、メイちゃんはやっぱり、ヴィクトリアンスタイルのメイド服がよく似合っている。
我ながら、親バカである。
こんなに可愛い人形が作れるのならば、自分も作ってみたいものである。
ファンの子に感化されて、その日の間にメイちゃんの新規イラストを描きつつ、ちゃんとお礼をしておく。
ファンのお礼を兼ねているので、メイちゃんの可愛い人形を手に持ち、嬉しそうに愛でるメイちゃんだ。
相手さんのツイッター名も入れておく。
この選択のせいで、ファンのグッズ作成が過激化することを、今の俺は知るよしもなかった。

だから、何の話なんだよ。
この回は……。

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