この恋は始まらない

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第六十四話・小さな頃に夢見た願い

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「最近、出番が少ないヒロインが居ると思うのですが……」
帰れ。
メイド喫茶シルフィード。
俺達はシルフィードに来ていた。
そして、休日の忙しそうな雰囲気の中でそう言われたことであることに気付く。
なるほど、帰るのは俺達の方であったか。
相手が帰らないなら、俺達が帰るしかあるまい。
いつも自由人の我らがメイドさんはさておき、久しぶりにダージリンさんやアールグレイさんにも会えたし、当初の目的は果たした。
喫茶店とはいえ、あまり長居してはいけないだろう。
俺も白鷺も紅茶を飲み終わったので、お暇しようか。
「白鷺、帰ろうぜ」
席を立ち上がって、鞄に手を掛ける。
「えぇ、サラッと帰ろうとしないでください」
「いや、土日の昼間は混み合う時間帯だし、席を空けないと……」
シルフィードはメイド服が可愛いメイド喫茶だが、コンセプトそのものは純喫茶であり、ご主人様に寛いでもらう空間だ。
ご主人様に最高の一時を。
そんな気持ちで通う人も多い。
最近は、シルフィードの良さが知れ渡ったのか、かなり人気みたいだからな。
シルフィードの常連としては、他のご主人様に席を譲らなければならない。
「そう言えば何でシルフィード人気なんですか?」
「先日の動画内で、ご主人様がシルフィードのことをお話していたではありませんか。ユーチューブの効果は凄いですね。そのお陰様で我がシルフィードはウハウハです」
メイドスマイルで、メイドさんが言わないことを爽やかに言うんじゃねえよ。
表面はメイドさんの美貌に隠れていてお上品に見えるが、中身を知っているからこそ、この人の品のなさが分かる。
同じ女性として看過出来ないのか、白鷺は指摘する。
「リゼさん。お忙しいのであれば、我々よりも優先すべき相手がいるでしょう? 貴方は、シルフィードを束ねる立場であるメイド長なのですから、ご自分の重要さを考え、真面目に仕事をしてください」
お嬢様、吼える。
理詰めで説教するから、メイドさんはズタボロである。
まったく反論出来ない。
白鷺の意見が正し過ぎて、逆にメイドさんが可哀想であった。
丁寧口調の白鷺はあまり見ることがない分、圧力が凄まじい。
ひぇ、怒らせんとこ。
「まあ、何だ。……また来ます」
メイドさんを変にフォローしたら、逆に俺が白鷺から攻撃されるから止めておこう。
別に俺はメイドさんを甘やかしているわけではないのだが、年上には甘いと思われているみたいだった。
まあ、多少甘い部分はあるだろうが、それは仕方ないことだ。
クラスメートにボロカスに言えても、年上にはきつく言えないものだ。
俺の方が子供だからな。
変人ばかりとはいえ、メイドさんやアマネさん達は、大人のお姉さんだから知識も経験も多く、ガキの俺達を丁寧な対応でリードしてくれる人達だ。
文化祭やサークル活動。
佐藤達のことも手伝ってもらっている。
大人の休日は少なく、趣味に使う時間も少ないという。
オタクとしての貴重な時間を使ってまで、俺達に色々教えてくれるし、人手が足りなければ手伝ってくれる。
そんな人に甘くなるのは仕方がないことだ。
必然的である。
俺達の前をいつも歩いていて、見守っていてくれる。
大人の本来の姿とは、そういうものだ。
……自分の成功も失敗も活かして、次の世代にバトンを渡していく。
人間は、一人だけでやれることも、覚えられることも限られている。
どれだけ優秀な人間であっても、人は人なのだ。
一人で出来ることに限りがある。
だから、どうしても誰かに頼るしかない。
人は一人では生きられない。
それは、人間に生まれた者が持つ定めだ。
その考えが正しいと言うように、完璧な人間であるメイドさんもアマネさんもジュリねえも、自分一人では仕事をやらずに誰かに頼るし、誰かを助ける場合は自分から率先して行っている。
メイドさんは、みんなで仕事をするのが好きなタイプで、喫茶店含めて人との繋がりが好き。
アマネさんもコスプレ活動を大切にしているし、同じだろう。
人の為に生きるのが好きなのだ。
しかし、あのアホマネージャーは違う。自分一人で仕事をしたくないから、事務所の人間を巻き込んでいるだけだわ。
夜遅くに、独りだけの家に帰りたくないぃぃ。
うおぉぉぉん。
女身独りで辛い夜には、ストロングゼロ。
辛いことを全て吹き飛ばしてくれる。
はー、クソ。
ただのアル中だったわ。
見た目が怖くて口は悪いけれど、メンタルよわよわ三十路女子だから、孤独感に苛まれると二日酔いで出社してくるし、俺が介抱する展開が幾度となく存在した。
誰だよ、あんな異常者を俺のマネージャーにしたやつ。
部下だからって、一蓮托生にすんな。
あの人に媚売っても、俺に利益ねえんだよ。
というのか、それはいいんだけどさ。
ジュリねえはスカウトがメインの人間だ。
そんなやつに、俺の動画撮影の仕事させんなよ。
俺がやる動画の企画だけあの人が関与してくるから、あからさまに収録する内容がおかしいんだよ。
延々とハンター✕ハンターの感想を語るだけの回とか、どこに需要があるのか分からないし、何故そんなイカれた企画を動画登場二回目でやったのか。
読者モデルのドの字も関係ない。
ジュリねえが自由過ぎる結果、あの人が絡むとドタバタなのである。
ファンの為の動画という名目なのに、完全に趣味全開の感想しか言っていなかったし。
でもまあ、人前でハンター✕ハンターのことを存分に語れたのは嬉しかった。
あと、漫画の話をするなら、隣に小日向置く必要なかっただろう。
あいつ作品を知らないから、表情が虚無であった。
宝が入っているのか抜かれているのか分からない木造蔵みたいな顔していたわ。
箱を開けなければ分からない。
シュレディンガーの小日向である。
あと、ハンター試験編だけで話に付いて行けなかったら、この後続くシリーズの撮影で、灰になって消滅しそうである。
動画の司会進行役が出来て、可愛い女の子がいると画面が纏まるからと、そんな理由で参加させられている小日向が可哀想だった。
……ヨークシン編の収録は断りそうだな。

脱線しているから、話を本題に戻す。
俺達はメイドさんにお別れの挨拶をして、シルフィードの一階のメイド服屋さんに入る。
買い物するわけではないが、暇があれば店長さんに顔出しをしている。
シルフィードの店長で、メイド服の殆どを自作しているプロのファッションデザイナーである。
メイド服をご照覧あれい。
店長さんの作り出すメイド服の数々は、どれも一流の綺麗さであり、圧倒的な存在感を放つ芸術品だ。
天使様である。
シルフィードのメイド服に駄目人間にされていた件。
嗚呼、この世にこれほど美しいものは存在しないでしょう。
気を抜いたら、感動のあまり涙を流してしまうくらいだ。
店内に入ると、数百着のメイド服が横並びに埋め尽くされている。
メイド服はその性質から、黒と白の二色で構成されているが、シルフィードのメイド服は二色のコントラストを巧みに変えて、同じ色合いでも違った印象を与えてくれる。
デザインの調和。
シンプルなものだからこそ、才能がなければ成せない技だ。
同じヴィクトリアンスタイルのメイド服であっても、着こなした際の可愛さから綺麗さまで違って見える。
ワンオーダー。
この子達は、唯一無二の存在なのだ。
愛されて生まれた我が子達。
シルフィードの店内のどこからどこを見ても、可愛い衣裳しかない。
メイド好きからしたら、最高の楽園である。
夢のテーマパークだ。
一生居られるくらいにワクワクする。
俺達は、店内奥のカウンターに向かう。
「やあ、いらっしゃい」
「店長さんお久しぶりです。いつもお世話になっています」
「お邪魔致します」
「二人とも、畏まらなくていいよ。君たちはシルフィードの常連さんだし、僕達のお客様なんだからね。堂々としていて欲しいな」
店長はそう言って笑い掛けてくれるが、シルフィードのメイド服に助けられている身からしたら、偉そうにお客様の立場を名乗れない。
シルフィードには、どれだけ世話になっているか分からない。

俺と白鷺が出逢ったのも。
白鷺がサークルに参加してくれたのも。
文化祭でメイド喫茶が成功したのも。
アマネさん達と縁が出来たのも。
全部、シルフィードがあったからじゃないか……!
シルフィードのおかげである。
シルフィードがなければ、俺達は勝てなかったはずだ。

いやギャグっぽく語ったが、それは事実だからな。
どれだけシルフィードの人達に助けられているか分からないのだ。
そう考えると、この物語のMVPは店長さんなのであった。
文化祭では数万円もするメイド服を惜しみ無く貸してくれたし、紅茶の淹れ方を教えてくれる為にメイドさん貸してくれたり、俺達の為に最高品質の茶葉を格安で卸してくれた。
楽しんでおいで。
たったそれだけの言葉で、どれだけ無謀なことでも支援してくれた。
……イケメン過ぎる。
店長さんは、顔も頭も良く、それでいて自分のことは自慢しなくて、いつも優しい。
こんな大人になりたいと思わせてくれる理想の男性像である。
メイド服に狂っていなければ、女性にモテまくりの引く手あまたであっただろうか。
いや、あの人はメイド服が好き過ぎだから、女性などには興味ないのかもな。
最近の店長さんは、ゲーミングメイド服にハマっていた。
そのメイド服を製作する課程を見ていたであろう、身内のメイド達にドン引きされていた。
ゲーミングメイド服とは、十数万するメイド服のことだ。
ゲーミングPCが買えるくらいのハイスペックのメイド服は、布地からボタン一つの細部まで、一切の妥協なく作られた完全オーダーメイド。
メイド服の王道。
金の暴力だ。
その資金力でものを言わせているくせに、メイド服はクラシックスタイルだ。
完成された美しさ。
十数万ですら安く思えるほどに。
圧倒的な存在感である。

ゲーミングメイド服には、その金額を払うだけの価値があるのだった。
一般的なウェディングドレスが数十万するのだから、シルフィードのメイド服が十数万で買えるのは安いとも言える。
結婚式にはメイド服を着てもいいくらいだ。
メイド界隈の人が見たら、その品質の良さは一目で分かるレベルであり、シルフィードのメイド服はメイドリストの憧れなのだ。
ブランド品が使用するレベルの最高級の生地。
真鍮の装飾品。
職人の手作りで自分用に合わせて新調されたメイド服は、それだけ支払う価値があるのだった。

「ふゆお嬢様のメイド服もあとは手直しで終わるから、来週までには渡せるよ」
「有り難うございます」
白鷺は買っていた。
金持ちのお嬢様は、十数万円するゲーミングメイド服の良さが分かるのだ。

白鷺は別に趣味以外にお金を使わないし、メイド服は撮影に活かせるから十数万払っても痛くはない。
というのか、純粋に白鷺はシルフィードのメイド服が大好きだから、可愛い衣裳は購入したくなってしまうのであった。
シルフィードが誇る最高級のメイド服。
それに袖を通して着てみたい。
そんな好奇心があったのだろうか。
白鷺も最初は少し悩んでいたけど。
結局買うことになった。
……。
いや、俺は購入を止めなかったよ。
だって白鷺のメイド服見たいもん。
白鷺のメイド服見たいもん。
重要だから二度言った。
何なら、白鷺がお金が足りないと言ったら半分くらい出していたはずだ。
生粋のメイド好きを舐めるな。
彼女の可愛いメイド姿を見る為なら、悪魔に魂だって売るだろう。


それからしばらく店長さんと雑談しながら、お店が繁盛していることや、ふゆお嬢様に感化されてメイド服に興味を持って来店されたファンが多かったことを話してくれた。
店長さんは嬉しそうにしていたけれど、ファンが迷惑を掛けてなければいいが。
いやまあ、白鷺のファンだから大丈夫か。
教養がある人間じゃないと、白鷺の良さは分からないからな。
俺のファンなら教養なさそうだけど。
「そうだ。ハジメくん、次の文化祭もメイド喫茶をするんだよね? もう、準備を始めといてもいいかな?」
「あ、はい。……手伝って頂けるのは有難いのですが、何も返せないのにここまでして頂いていいのでしょうか?」
「ハジメくん。物事の価値は、目に見えるものだけではないよ。君からしたら何も返せていないと思っているかも知れないけど、僕達は楽しく過ごさせてもらっているから気にしなくていいんだよ。それが恩返しなんだ」
大人になると刺激がなくなっていく。
歳を取ることで生きる為の経験は溜まるが、一度経験したことは刺激が減っていく。
脳への刺激がない。
それは同じことの繰り返しとなり、いつしか平凡な日常と化す。
だから、大人は馬鹿みたいなことをして楽しく過ごさなければならない。
新しいことに取り組み、凝り固まった脳を柔らかくして、想像力を鍛えていきたい。
その点で、若い学生からパワーを貰うのが一番いいと言う。
学生の想像力が豊かなのは、経験がないからだ。
自分の可能性を信じて。
型に嵌まらない。
無謀な選択。
それは、大人には出来ない素晴らしさだ。
「そういう意味では、君たちは、青春だね」
店長さんは若い人からの刺激を受けて、創作意欲が湧いていた。
……その結果がゲーミングメイド服ですよ。
この衣裳の謳い文句。
最高級の性能をその手に。
店長さんノリノリじゃねぇか。
いやまあ、そう断言出来るほどの情熱を持って、衣装を作られているんだろうけどさ。
今思うと、一万円、三万円のメイド服ですら、めっちゃ高いと言っていた時代すら懐かしいです。
最初は、俺と白鷺でお金を半分ずつ出し合ってメイド服を買ったっけなぁ。
しみじみしていた。
まるで、一杯のかけそばみたいだな。
「ハジメくんもメイド服を着るんだろう?」
「はい……?」
「一番良いメイド服を新調しておくから、楽しみに待っていてね」
は、嵌められた。
いや、店長さんは無自覚なんだろうが、俺に女装させたい者達の意思を感じる。
俺は男だ。
女の子扱いされたくないし、可愛いと言われても困るのだ。
自分の顔には興味がないから鏡はあまり見ないのだが、女装した姿は母親や陽菜の面影があるから、何とも言えない気分になる。
正直やめてほしい。

でも、お世話になっている手前、断れないのであった。
「あ、そうだ。この前、ハジメくんの高校の知り合いくんが来ていたよ」
話を聞くと、一条と黒川さんが来ていたらしい。
一条は秋葉原まで遊びに来るタイプではないけど、理由はどうあれ、シルフィードで新作のケーキを食べて、仲良さそうに帰って行ったとのことだ。
楽しくデートをしていた。
……まあ、この前の一件の仲直りをしてくれたみたいで良かったわ。
教室の雰囲気が地獄だったしな。
黒川さんも、彼氏が合コン行って許してくれるとか、優しい人である。
普通なら、口を開いて言い訳する暇なく、容赦なくぶち殺されているぞ。
一条は、シルフィードのアクセサリーを黒川さんにプレゼントしていたと言う。
仲良しだな。
いや、そうでもなかったのか。
貢ぎ物をして、何とか許してもらっていたパターンだな。
デートでエスコートしつつ、可愛いアクセサリーをプレゼントして、機嫌がよくなった。
その時の光景が容易に想像出来るものだ。
彼女にまったく頭が上がらないのは、どの男性も一緒だな。
「いや違うぞ。不定行為など、本来ならば許す必要はない。男ならば、腹を切って詫びるべきことだからな」
白鷺はさも当然の如く、言い切るのであった。
名家のお嬢様。
ちゃんとしているが故に、家名に泥を塗るような人間など死すべきである。
誉れを失った日本男児は、日本男児にあらず。
男は、家の名を背負い、一族の頭として生き様を見せてこそ、初めて女性に男性として扱ってもらえる。
誉れなくして男ではない。
完全なるチェスト民やんけ。
白鷺の血が猛っておられる。
男として扱ってもらいたいなら、男として死ねという。
男における最大のタブーは浮気。
いや、それは正しいんだけど。
浮気をした代償が死は重くないか?
いや、俺が同じ立場で浮気をしたら、確実に殺されているから、それが普通なのだろうが。
……恋愛経験がまったくない俺には、女遊びとか分からないから難しい話である。

白鷺の性格を深く知っている俺からしたら、彼女は冗談など言わない。
浮気をしたら、よんいち組の四人は許してくれないし、確実に俺を殺すだろう。
でも白鷺だけは優しいから、優しく微笑みを浮かべて、切腹用の短刀を渡してくれそう。
介錯をしてくれるだろう。
腹を切った痛みを感じぬうちに、首を斬り落としてくれる。
うん、誰も助けてくれないな。
知っていたけどさ。
そんな中で殺されると知っていて浮気をするなんて、俺には出来ないわ。
四股しても、浮気はしない。
本当の愛はここにある。
そう心に決めるのであった。
俺は、幼少期に母親が言っていたことを思い出す。

ハジメちゃん。
男なら幸せになろうと思ってはいけない。
幸せになるのは女子供だけでいい。
男なら死ねい。

ぐっ、何でこんな時に……。
母親は何故、俺に男塾の名言を言ったんだよ。
思い出せねえ。
それを今この場で思い出したことに、深い意味があるのだろうか。
俺には分からなかった。
……多分というか絶対、物語に関係ねえけど。
訳分かんねえところで、自分の出番を稼ぐのやめろ。


それから、俺と白鷺は普通に買い物を楽しみ、秋葉原を散策していた。
電気街の見慣れた景色。
秋葉原では何度も一緒に遊んでいるから、新鮮さはないけれど、白鷺と秋葉原を歩き回るのは好きだ。
冷静沈着な白鷺が、年相応の女の子のようにはしゃぐ姿が見られるからだ。
ご自慢の長い髪を靡かせ、早足でお店に入っていきたがる。
そんな姿は子供のようであって微笑ましい。
彼女が好きな場所を巡り、ラジオ会館などのガチャガチャコーナーを見ながら、他愛ない話をして買い物を楽しむ。
高校生がする普通のデートっぽくはないけれど、それが俺達の楽しみ方なのである。
白鷺だから出来る遊び。
他のやつとは絶対に行けない場所を行けるのは、それはそれで特別なのかも知れない。
「東山、新作のフィギュアが出ているぞ!」
白鷺さん、ウキウキやん。
ラジオ会館のショーケースを楽しそうに回る白鷺を追いかける。
彼女の後ろ姿を見つつ、思うのだ。
特にお金を使わずに楽しむ慎ましいデート。
俺は、それで満足してくれる白鷺の性格に甘えているのではないか。
白鷺の為に、もっとしてあげられることがあるような気がするのだが、自分の頭では思い浮かばない。
頭が悪過ぎるのも困ったものだ。
俺の頭には、漫画のアイディアしか詰まってないらしい。
女の子に気を遣えるわけでもないから、考えるだけ無駄である。
多分俺には一生出来ないことだ。
悲しいことにな。

「白鷺、何か良いものでもあったのか?」
「いや、私は見ているだけで満足だな。それに私の部屋には飾れる場所もないからな」
白鷺の部屋は和室で、畳に障子の昔ながらの古風なものである。
女の子の部屋としては質素なもので、書生が作家活動に勤しむような部屋だ。
勉強して、寝るための部屋。
テレビもパソコンもないくらいだから、勿論アニメのグッズを置くスペースはない。
箪笥の一つのスペースに、ガチャガチャを大切に仕舞っているらしいが、フィギュアを飾る場所はない。
白鷺の部屋には日本人形があるんだから、隣に置いてもいいような気もするんだが。
まあ、フィギュアにまで手を出さない本当の理由は、両親に気を遣っているというのが本音であろう。
白鷺家の一人娘。
そのせいで、オタクであることに負い目に感じている節がある。
淑女として、あるべき姿。
優等生が勉学だけに集中するように、白鷺にとって最も優先すべきは、自分の趣味よりもお家の為に尽くすことだ。
自分のせいで家の顔を潰したくないのだろう。
白鷺の生まれの人間が、家の繁栄よりも私利私欲を優先して遊んでいるのが許せないのか。
一般家庭出身の俺には理解出来ないことである。
俺もまた、東山家の為に尽くすことはあれど、その為に自己犠牲の精神でオタクや好きなことを止めようとは思わない。
家族だってそんなことは望まないだろう。
いや、それこそ一般家庭の考え方なだけで、上流階級となると別の話になるのかも知れない。
人は思っている以上に、自分の家と血に縛られているということか。
楔が多ければ多いほど、自分の意思とは関係なく。
やらなければならないことと、してはいけないことがある。
たった数千円のフィギュアを買うことですら出来ない人もいる。
そう考えると、白鷺が秋葉原で遊びたがり、ウィンドウショッピングに固執する理由がそれなのか。
正直、白鷺の両親は娘が幸せならばそれでいいタイプの人間だから、気にする必要はないと思う。
そう言ったところで、何の意味がある。
全ては自分の世界の問題だ。
俺は口を紡ぐ。
励ましてあげたいけれど、言葉を飲み込んだ。
どこまでいっても俺達は他人なのだ。
家庭のことでとやかく言う資格はない。
白鷺家の為に生きるのだって、白鷺の良さなのだから。
それを否定するのは違う。
それこそ、絶対にやってはいけない。

自分の無力感に打ちひしがれている場合じゃない。
取り敢えず、白鷺本人に言っても家の問題は変わらないし変えられない。
……そうだな。
そうなってくると、白鷺のお義父さんと直接会って話すしかない。
直ぐにでも対応しないといけない案件である。
うん。白鷺と秋葉原まで遊びに来ていて、白鷺のこと以外を考えるべきではないが、白鷺家の一件の方は直ぐにでも解決しないといけない。
今日中に白鷺のお義父さんと話をするか。
そんなことも露知らず。
白鷺は俺の名を呼ぶのだった。
「東山、早く来るのだ」
「はいはい」
白鷺は、俺が隣に居て欲しいようだ。
俺は欲しいものはないし、一人でゆっくり見ていても構わないのに。
誰かと一緒に回った方が楽しい。
そう言われたらそれまでだが。
「……白鷺、欲しいものでもあったのか?」
「欲しいと言うほどではないが、プリキュアのフィギュアがあるぞ!」
ガチャガチャの格安フィギュア。
一回数百円ながらも、そのクオリティは高い。
多少なりとも興味惹かれているわけだから、それ欲しいって意味だぞ。
白鷺は相変わらず、プリキュアが好きだよな。
大和撫子なのに、美人系女児ヒロインである。
女の子はいつだって変身願望があるってことだ。
プリキュアがんばれー!そう言ってないと社会の荒波に呑まれてしまうストレス社会系事務職員女子もいるけど、それは別のお話として。
プリキュアやジェムプリみたく、可愛い女の子が頑張って戦う姿が好きな人は多い。
プリキュア達は、子供ながらの決意を抱き、戦いの中で芽吹く友情と信頼があり、少女達は大人へと成長していくのだ。
物語のキャラに小学生や中学生が多いのは、小さなお友達に自己投影しやすい年齢を選んでいるのだろうが、それだけが理由ではない。
何度も視聴するようなコアなファンは、白鷺みたいな高校生や、大きなお友達ばかりだ。
可愛い女の子が頑張っているアニメは、疲れている人間の心に効くお薬である。
無限にリピート出来る。
大人達は、何度も見ていると理解するのだ。
子供の頃に夢見ていたような輝ける世界は、此処にはない。
現実は暗く陰る灰色の世界なのである。
生きていると、不幸なことばかりで、辛いことの方が多い。
大人になって、諦めてきたものだっていっぱいあるだろう。
それでも尚、人は光を求めてしまう。
プリキュアのピンク色の子のように、仲間の中で唯一得意なことがなくてもいい。
人の想いは、この世の何よりも尊い存在であり、人の本質は光なのだと知る。
子供の頃に追い求めていたものを、子供だからこそ、プリキュア達は持っていたのである。
光のように輝く純粋な気持ち。
可愛くて強い。
小さな女の子が憧れる。
それは、心の在り方なのだ。
世界はこんなにも暗くても、自分に得意なことがなくても、自分を信じて何度も立ち上がり、友達と共に正しく生きることは何よりも美しい。
それを思い出させてくれる。
だから、周りにプリキュアがんばれー!と言っている大きなお友達がいたら、少しだけ優しくしてあげてほしい。
みんな、精一杯。
生きる為に頑張っているのだ。
大の大人が、なりふり構わず本気でプリキュアを応援している姿は美しいものである。
幼女顔負けで応援する。

その人、アマネさんって名前なんだけど……。
大人って大変なんだな。


それから俺達二人は、一通りガチャガチャやフィギュアを見て、ラジオ会館から出てヨドバシに向かう。
別に買いたいものがあるわけではないが、ヨドバシにはプリキュア含め女児向けグッズが多数置いてあるから、秋葉原に来たら行くようにしていた。
俺達は上の階に上がって、おもちゃコーナーを物色する。
高校生二人がピンク色のおもちゃの棚を、端から端までガン見している姿はシュール過ぎる。
流石に一年以上同じ事をしているから、男の俺でも恥ずかしくなくなってきたけど。
日曜朝は、絶対にプリキュア見ているからな。
今となってはプリキュアが生活に染み込んでいる。

「じー」
やばい。
幼稚園児らしき女児にガン見されている。
大人がプリキュアを見ていたらそうなるのは自然である。
俺達は、子供向けアニメに本気になって買い物をしているからな。
通りすがりの小さな女の子だって、気になってしまうだろう。
「おねえちゃん、ぷりきゅあ?」
白鷺のことを指差す。
プリキュアのように圧倒的な美人だが、プリキュアじゃないよ。
一般女性だ。
なんなら、君と同じただのプリキュア好きのファンである。
白鷺は多少困っていたが、顔には出さずにいた。
淑女故に、慌てずに冷静な行動が出来るのだ。
女の子と目線が合うように屈み込み、地面に片膝を付く。
「バレてしまったな。私はプリキュアなのだ」
え、何で???
プリキュアじゃないよ?!
「わあ」
女の子は、目をキラキラと輝かせていた。
小さな女の子相手だから、はぐらかすことも出来ただろうが、あえて白鷺はそうしなかった。
プリキュアが好きな女の子は、本当にプリキュアがいると思っているし、純粋な気持ちで応援しているのだ。
その気持ちを汲んで、白鷺は話を合わせていた。
……白鷺は死んでも嘘を付くタイプではないから、かなり無理をしている。
嘘を付いたストレスで心臓が止まってもおかしくない。
そんな気さえしてくる。
白鷺は普通に打ち解けて、二人でプリキュアのおもちゃ見ながら、プリキュアのことで語り合う。
楽しそうにしている。
えっと、それは構わないんだけど。
……パパとママは?
「ままは、まいごなの」
仕方がないわねぇ。
そう言いたげにしている。
この子、小日向タイプやんけ。
お前が迷子なんだよ。
子供だからしょうがないが、自分が迷子になっている自覚がないのだろう。
いやまあ、妹の陽菜もこんな感じだし、この子が悪いわけじゃないんだけどさ。
迷子なら親も探しているだろうし、早めに呼び出ししてもらわないといけない。
白鷺とアイコンタクトをして、迷子センターに誘導してもらう。
「お姉さん疲れてしまったから、一緒に座ってお話しないか?」
流石、白鷺だ。
自然の流れで誘うのであった。
俺には出来ないことを平然とやってのける。
移動中にゆきちゃんの名前を聞き出してくれたから、二人で話している間に、店員さんに呼び出してもらう。
店員さんは、こちらで預かって全部やってくれると言ってくれたが、忙しい休日に対応してくれるだけで有難いし、ゆきちゃんは白鷺ともっと話したいだろうから遠慮した。
別に俺達は買い物しているだけで、忙しいわけではないからな。
いや、クソほど忙しかったとしても、小さな女の子を放っておくほど、人間性は失っていない。
テーブルと鉛筆を借りて、互いに絵を描いてプリキュアクイズをしていた。
本当の親子みたいに仲睦まじい光景である。

「そうだ。このお兄ちゃんは、絵が上手いんだぞ」
白鷺さん!?
突如、プリキュアイラストバトルに巻き込まれたメイド服しか描けない同人作家。
プリキュアとか描いたことないんだが?!
「はやくはやく」
ゆきちゃんもふゆちゃんも急かしてくる。
白鷺さん、地味に幼児退行すんなよ。
「まあ、描いてみるけどさ……」
二人にはプリキュア愛では敵わないので、ハンデとして写真を見る許可を頂いた。
女児のゆきちゃんに大人の情けをもらった、悲しき同人作家である。
「ぷりきゅあは、いっぱんじょうしきだよ」
ごめんね。
おにいちゃんは一般常識ないんだ。
それでよく怒られているんだ。
プリキュアを描けなくてすまない。
スマホ片手にペンを握って、色紙にイラストを描く。
鞄に色紙を持ち歩いていることにツッコミを入れるメンバーがいないので説明しておくが、街を歩いているとサインを要求される機会が多いので持ち歩いているのだ。
……自意識過剰だが、人気があると何かと大変なのである。
「へー。おにいちゃん、おえかきじょうずだねぇ」
「ありがとう。はい。ゆきちゃんにあげる」
ゆきちゃんが好きなプリキュアを描いて、渡してあげる。
「わーい。ありがとう!」
はあ、喜んでくれてよかった。
……子供は正直だから、俺の絵が下手なら下手って容赦なく言っちゃうだろうし、そんな素直な感想が飛んできたら心が折られていただろう。
本当に、よかったわ。
一生のうちで今日一番に疲れたかも知れない。
迷子の女の子から、プリキュアの歴史の長さと、作品としての重みを味わうことになろうとは思わなかった。
可愛くて強い女の子って表現するのが難しいな。
そりゃ、みんなプリキュアに惚れるわけだ。


それから暫くの間、ゆきちゃんと遊びながら、ママを待つのだった。
パパは一緒に来ていないらしい。
ママ一人で娘と買い物に来ていて、急に居なくなったら血の気が引くわ。
それを体現するような形相で、ママが突撃してきた。
母は強し。
全てを破壊してでも突き進んでくる様は、うちの母親と同じであった。
「あ、ままだ」
「ゆきちゃん! 離れちゃダメでしょ!!」
「えー? まいごになったのはままだよ」
違います。
貴方が迷子になったんです。
娘の方が落ち着いているのがまた、ことの重大さを理解出来ない小さい子供っぽい反応であった。
都心で人の目が多い家電量販店とはいえ、危ないのは変わらない。
ゆきちゃんのママが、コメツキバッタみたいに土下座して謝ってくるので必死に抑えつつ、落ち着いてもらう。
「娘の為に、絵まで描いて頂けるなんて……」
やめろ。
娘の前で延々と土下座するな。
娘のトラウマになるやんけ。
それに俺達は、そこまでしてもらうほどのことはしていない。
人として当然のことしかしていない。
「いえ、何かお礼をさせてください」
「いや、お礼で何故、財布を出すんですか!?」
話が通じない。
諭吉を出すのをやめろ。
これ以上、キャラが濃い人間をこの作品に増やさないでくれ。
俺は、財布の動きを止めるのに必死であった。
大人の醜い争いを見せないように、白鷺がゆきちゃんを別の場所に移し、気を逸らしてくれていた。
言われる前に対応してくれるとか、神過ぎる。
白鷺好き。
その間にママを宥めて、落ち着いた状態で話を進める。
どうしてもお礼をしたいと言ってくるが、別に一時間足らず一緒に居て遊んでいただけだ。
俺も白鷺もお礼はいらない。
そう言っても納得してくれないから、取り敢えず名刺を渡しておく。
「え、読者モデルなのですか……?」
「あ、イケメンじゃないですが一応読者モデルです。すみません」
最近は俺のこと知っている前提で話し掛けてくる人ばかりだったから、新しい反応をされた。
そりゃ、一般人からしたら普通の顔した男の子が読者モデルをしていたら、理解出来なくておかしな顔をするだろう。
「私の名刺もお渡し致します」
白鷺も名刺を渡す。
「あ、読者モデルなのですね。納得です」
何故、白鷺の場合は自然の流れで納得するんだ?
顔で差別されたわ。
悲しい。
とはいえ、白鷺は俺が知る中でも最上位クラスの綺麗な女性なのだから、他の人からしたら名刺を渡すまでもなく読者モデルだと思うはずだ。
ゆきちゃんに、プリキュアと思われるくらいだ。
白鷺の端正な顔立ちと、立ち振舞いは見ているだけで映えるものだ。
生まれの違いを感じる。
ゆきちゃんのママですら、白鷺と話していると、生粋のお嬢様の雰囲気に当てられて、自然と丁寧語になってしまう。
それから、まだまだ元気なゆきちゃんの買い物の相手をして、別れることになる。
流石、小さい子である。
最後の最後まで元気である。
また会って遊ぶ約束を取り付けるあたり、ゆきちゃんの行動力は陰キャの俺よりも高い。
幼稚園児に負ける俺であった。
三タテで完全敗北である。
「ばいば~い」
最後まで元気に手を大きく振っていた。
ヨドバシの出口で見送る。
可愛いものだ。
こちらも手を振ってゆきちゃんを見送る。
互いに見えなくなるまで、ずっと手を振るのであった。
上げた手を降ろして一段落すると、白鷺が聞いてくる。
「私は、考えなしにプリキュアだと嘘を付いてしまった。その結果、小さい子の夢を壊したのではないかと思うのだ」
え、この子ずっと悩んでいたのだろうか。
可愛い。
いや、真面目に聞いてくれているんだからちゃんと返さないと。
「……そんなことはないだろ。ゆきちゃんも喜んでいたし、あの時はあれが最善だったと思うぞ」
最後はプリキュア関係なく白鷺を好きになっていたし、きっかけがそうだっただけだ。
嘘が悪いわけではない。
誰かの為に付く嘘は、正しいこともある。
まあ、相手が白鷺だから、それで納得するような人間ではないんだがなあ。
本来なら悩むほどのことではないが、ゆきちゃんとまた会うとなると、プリキュアではないと嘘がバレた時のことが心配だったのだろう。
「じゃあさ。白鷺、提案していいか?」
「なんだ?」
「白鷺の言い分は分かる。だけどさ、白鷺が自分はプリキュアだと言ってしまったことに後悔しているなら、コスプレしてでもプリキュアになればいいんじゃないか?」
その為のコスプレだ。
なりたい自分になれる。
「そういうものなのか?」
「いや、知らんけど」
俺もそれが正しいかは分からない。
だが、小さな女の子相手に、今更違いますと言うわけにはいかない。
それこそ、ゆきちゃんの期待と夢を裏切ることになるだろう。
だったら、嘘を付いたら付いたで、その嘘を貫き通す覚悟を示した方がいい。
白鷺は、俺同様に何をすれば正しいのかは分からなかったが、自分がすべきことを決めたのか、決意する。
「そうだな! 我々の成すべきことをしよう!!」
「ああ!」
俺達は決心した。
小さなお友達の為に、今以上に頑張らなければならない。
……それがプリキュアなのは如何に?
という疑問点はこの際無視しよう。
別にそれは、一つのきっかけに過ぎないのだ。


神視点。
決意を抱く白鷺冬華は、彼女も彼女なりに成長しているのであった。
冬華は初めて出逢った時よりも、もっと自由に、自分のしたいことを口に出していた。
自分に素直になる。
人との繋がりが増えたことにより、白鷺の人間としてではない自分を表現する機会が多くなっていた。
より多く笑い、好きなものを語る。
それはいいことだが、甘えるのが苦手な人間からしたら、いきなり自分をさらけ出すのは難しい。
思春期の高校生が今更親に甘えられないように、幼少期の一時期を越えてしまうと人は甘えることが出来なくなっていく。
母親の手を握り、幸せそうに仲良く歩くことが出来るのは幼少期だけだ。
それを過ぎると一生手に入らない。
ゆきちゃんが、ママやハジメ。冬華と手を繋いで歩きたがるのは、彼女なりの愛情表現だった。
甘えたがりの普通の女の子。
白鷺冬華からしたら、そんな普通の家庭が羨ましかった。
憧れとは、未来よりも過去に。
人は変えられない過去を求めてしまう。
……永遠に叶わぬ夢だからこそ。
誰もが過去に縛られてしまうのだ。
未来は人の手で変えられても、過去は神でなければ変えられない。
それ故に、人は過去への憧れを叶えたいと切に願うけれど、どれほど望んでも叶わぬのだ。
小さな願いであろうとも例外はない。
白鷺冬華は誰もが憧れるほどの美貌を持ち、文武共に優れた才能を持つ人間だったが、人よりも幸せというわけではない。
平凡な願い。
母親と幸せそうに手を繋いで、買い物をして帰るという経験がなかった。
白鷺家の御令嬢故に、いつも礼儀正しく生きていた。
幼少期に抑圧してきた普通への憧れ。
彼女は何よりもそれを願っていて、幸せを羨んでいた。
とはいえ、自分は十二分に幸せだ。
両親を尊敬しており、誰よりも両親に愛されている。
手を繋いだ記憶がないだけであり、別に愛されていないと思ったことはない。
しかし、そう幾つもの正論を並べたところで、羨ましいものは羨ましい。
幼稚園児にさえ嫉妬してしまう。
いつも両親が隣にいて、幸せである。
人のぬくもりは、この世の全てと比べても尊い。
冬華が握った、小さな女の子の手のひらからは、確かに命の重さを感じたのだ。
三十六度の人の温かみは、生きることの素晴らしさ。
手を繋ぐことは、生きていく上でとても重要であり、それが人を繋ぐ幸せのかたちなのだと知る。
冬華は、焦燥感に近しい何かを覚えていた。
自分はきっと、知らなかったのだ。
人の価値を。
人の重みを。
小さな女の子が、精一杯に生きている尊さを。
それを感じ取ってか、ハジメは断言する。
「白鷺、この世の全てに遅いことなんてない。自分のやりたいことは言葉にしてちゃんと言わないと駄目だ。俺は馬鹿だから、白鷺がちゃんと言ってくれないと分からないんだ」
「……すまない。少しでいいから、私の手を繋いでいて欲しい」
「ああ、構わないさ」
ハジメはそれ以上は何も言わずに、冬華に手を差し出す。
白鷺冬華は、ハジメの手をそっと握り、指と指が触れ合うことで、その手が自分よりも大きいことを知る。
ハジメの手のひらは硬く、小さな女の子とは違う温かさがあった。
冬華は、手を繋ぐまで分からなかった。
それがハジメの命の重さなのだ。
「ありがとう。もう大丈夫だ」
少しだけ、心が落ち着いた。
傍に彼が居ることで、どれだけ救いになっているのだろうか。
世間知らずの自分に、普通を教えてくれる。
普通に笑い、普通に怒り、普通の日常を過ごしていく。
教室の皆に囲まれ、楽しく過ごせ、人の幸せを切に願うことが出来るのは、ハジメが傍に居たからであろう。
世界は広くて、知らないことばかりだ。
そう、行き交う人混みにも、一人一人の日常があって、幸せがある。
誰にだって家族がいて、大切な人があるのだ。
そんな当たり前のことですら、昔の自分は見てこなかったはずだから。
世界がこんなにも美しく輝き、人の営みがこれほどまでに色鮮やかに見え、愛おしいと感じるようになったのは彼の影響だろうか。

どんなに幸せであったとしても、繋いでいた手はいつか放さなければならない。
しかしそれは、ハジメによって繋ぎ止められる。
「……白鷺。駅前まではこのままでいよう。俺はそうしていたい」
たった数分だとしても、大切な人と手を繋いでいたい。
そう。
人はいつまでも子供なのだ。
人のぬくもりを感じていたい。
大切な人に、愛して欲しい。
大切な人を愛していたい。
詩のように幾重も言葉を交えるよりも深く、人の温かさを。
生きる鼓動を感じていたい。
たった数分の道のりであったとしても、二人にとっては特別な時間なのだ。
両親と手を繋ぐことと同じように、今はもう、彼も家族と変わらない大切な人。
ずっと手を繋いでいたい。
そう思ってしまっていた。
幼い頃に戻って、両親に手を繋いで欲しいと甘えることは出来ない。
だが、過去に求めていたものは、未来で精算出来るのだ。
その為に運命の人はこの世界に存在し、未来で出逢うのである。
まるで自分の家族のことのように、私の幸せを切に願ってくれる。
見返りを求めない愛。
夜空に光輝く一番星のように、私の行き先を照らし、示してくれる。
彼はいつも手を繋いで、私を引っ張ってくれる。
何故、子供が両親と手を繋いで歩きたがるのか分かったのだ。
お父様やお母様の後ろ姿を見ながら、そんな大人になりたい。
近くで大切な人を見ていたい。

憧れていた。
純粋な気持ちで。
お父様やお母様のように、互いに互いを愛し合える運命の人が私にもいるのだろうか。
その為に私は、お母様のような淑女になりたかったのだ。
白鷺冬華は、小さな頃に抱いていた夢を思い出しながら、優しく微笑むのであった。
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