この恋は始まらない

こう

文字の大きさ
上 下
101 / 111

第七十一話・その呪いを祝福にかえて。そのよん。

しおりを挟む
旅行二日目。
俺達は、朝食を食べてゆっくりし、課題である勉強をこなした。
流れとしては昨日とあまり変わらないだろうか。
昼御飯を食べ終わると、みんな動かなくなる。
ぐだぐだした空気感の中で、涼んでいるだけだ。
「せっかく海に来たんだから、海にいこうぜ」
高校生とは、物事を斜めに考えたくなる年頃だ。
昨日海で遊んだんだから、もう充分俺達は楽しんだだろう。
また海に入るのはちょっと違うんじゃないかな。
男子はそう言うのだった。
なんや、こいつら。
俺が優しくなかったら、両頬を平手打ちしていた。
まあ、海での運動量は多いわけだから、昨日の疲れも残っていて、筋肉痛になっている文化部のやつもいる。
クーラーの効いた部屋で、女子と仲良くお昼の情報番組を見ている方が楽しい気持ちも分かるさ。
俺だって、萌花達と何気ないお昼を過ごすのは初めてだもん。
今この時が幸せなのは分かる。
しかし、俺は水着姿が見たいのだ。
ラブコメにおいて、可愛い女の子の水着姿に勝るイベントはないだろう。
格安スーパーの特集を見ていて喜ぶ読者なんていないのだ。
「なんだぁ、てめぇ。そんなに悔しがるなら、昨日褒めろや」
萌ちゃんは口が悪いですわぁ。
「ほら。例えるならば、凄い美味しいレストランで料理を食べても、その時は美味しいなぁくらいにしか思わないけれど、次の日の朝に猛烈に感動してまた今日も食べに行きたいとかあるじゃん。あれだよ、あれ」
「例題としては正しいが、それを本筋に戻すと狂ってんだよ」
昨日のみんなは、可愛いかった。
だが、今日の方がもっと可愛い。
女の子の可愛いには際限はない。
一度見ただけでは足りず。
今までにない気付きや発見出来るやも知れないと俺は思うのだ。
白鷺のお義父さんは、美術館で言っていた。
絵画を観る際は、絵の美しさを見て感動するのが世の常だが、二度目には他の部分を見ることが出来る。
絵画の美しさとは、歴史としての価値を含んでいる。
作者の心情。時代背景。絵のタッチの違いや、絵の具の種類。
それこそ、受け手の年齢や心理状態でも変わる。
一度見たことがある絵画でさえ、ほんの些細な見方が変化すれば、美しさは変わっていく。
人の目で見ている限り、美しさの意味は違ってくるのである。
美しいものに対しては、語れることなど幾つも存在するのだ。
なるほど。
二泊三日で海での旅行を予約したのはこの為だったのか。
もっと彼女の可愛いを語れる機会が与えられているなんて、俺は幸せなんだろうか。
みんなの可愛さを再確認せねばならない。
「……また同じような反応していたら切りがないからやめろ」
萌花、大丈夫だ。
先日は、みんなの視点で色々語っていたから、別の切り口で物語を語れば新鮮さは失われないだろうから、問題あるまい。
まだまだみんなの可愛い部分を、熱く語る必要がある。
作者が頭を抱えている?
知ったことではない。
この世界に神がいるならば、神らしく全部やり切って欲しいものだ。
物語が破綻しないように何とかしろ。
女の子の水着は重要だ。
みんな、海に来たんだから、海に行こうぜ。
高校三年の夏は一度切りなのだ。
アオハルしようぜ。
「あと一時間したら、水族館行くんだろ?」
「……なら、一時間だけ海で遊ぶぜ!」
わいら男子達は、小学生の時に、たった十分だけでも校庭に出てドッジボールしてきたのだ。
一時間あったら、砂浜に大層立派なサグラダ・ファミリアを作れるわ。
「いや、お前は絶対にドッジボール誘われてないやろ」
「萌花が苛める……」
秋月さんに助けを求める。
「え? 私? まあ、一時間じゃ女の子は遊んだ後に着替えるの難しいから、男の子だけで遊んできたら?」
嗚呼、やる気なくなってきた。
海嫌い。
女の子のいない海なんて、無価値過ぎるわ。
「あからさまにテンション下げんなよ」
女の子からしたら、海に入ったら身体を流したり、化粧直したりする手前もあるのだから、気軽に遊べるものではない。
そうなの?
「私は行きたい!」
「私も行けるぞ」
でも、小日向や白鷺は来るって。
「いや、化粧せずともさほど変わらない人間と一緒にするな」
「まあまあ、萌花。東山くんには言っても無駄だから。……私達は、晩御飯の準備でもして待っているわ」
「すまん。サラッとディスられていないか?」
「気のせいだろ」
「気のせいだと思うけど」
くそ、適当に扱われ始めていた。
まるで、中野と同列ではないか。
「ヘイヘイ! 東っち、仲間~!」

ヽ(*´∀`)八(´∀`*)ノ

中野とハイタッチするのであった。
いや、顔文字使ってまで意味分からんことをするな。
中野の野郎は、この世の理を曲げやがる。
その場の勢いでやってしまったが、何の意味があるんだよ。
「ふふん。海だからね!」
こいつ、勢いで生きているな。
物事を深く考えていない。
マジでこいつの進路が心配だわ。
脳みそにマシュマロでも詰まってんのか。
原宿色したマシュマロマンだ。
う~ん。
こいつと海で遊ぶのはなぁ……。
クラスの問題児だから、絶対に面倒になるだろう。
俺としては、小日向の相手だけで精一杯である。
まあ、中野の相手は他の男子を生け贄にすればいいか。

見通しが甘い。
そう思われても仕方ない。
だって、女の子と海に行くとか初めてだもん。


それから、バナナボートと戯れることとなったが、簡単には乗れない。
何度もバナナボートから海に落ちながらも挑戦していた。
俺よりも先に乗り、バナナボートの上でどや顔する小日向であった。
「ハジメちゃん、運動神経悪いよね」
ぷーくすくす。
この女、一発で乗れたからって。
この俺を見下しやがって。
バナナボートに乗れるのがそんなに偉いのかよ。
「東っち、遊んでないでさ。ほら、せっかく男子が引いてくれるんだから、はよ乗ってや」
中野にまで煽られた。
小日向の次に俺が乗るのは謎だが、早く乗らないと。
バナナボートに手をかけて、乗り掛かるが。
顔面から海にダイブする。
不運ハードラックダンスっちまったぜ」
なんでや。
どうやったらこいつに乗れるんだよ。
騎乗スキルA+くらいないと乗れないやろ、これはよ。
ユニコーンみたいに、処女の乙女しか乗せない特殊能力でも持っているのかも知れない。
野郎では乗りこなせないバナナボートだ。
「そう思いたいなら、今から女装してきたら?」
中野は後でしばく。
「ハジメちゃん、早く~!!」
小日向は、バナナボートの上から俺を煽るのであった。
ロデオすんな。
余計に乗れねえんだよ。
いや、バナナボートに乗ることを諦めるのは簡単だが、小日向に負けたくない。
世界で二番目に雑魚でも構わないが、小日向より雑魚にはなりたくない。
俺の方が優秀なのだ。
負けるのは嫌だ。
こいつにだけは、負けたくない。
全部勝ちたい~。
「東っち、まずバナナボートに勝ってよ」
負けるか。
バナナボートに手を掛ける。
何だ、これは。
まるで岩のようだ。
勝てるビジョンが見えない。
「岩が海の上に浮くわけないじゃん」
「さっきからうっせえな!! 静かにしろや!!」
早く乗ってくれないと、他の人が乗れない。
マジレスやめてよ。
やーやー。
それ何なの。
小日向は手を差し出してくる。
負けたくない。
負けたくないんだ。
小日向の手助けを受けたくない気持ちと、小日向の助けに喜んでいる俺がいる。
心が二つある~。

「いいから、はよせい」
中野、海水かけんな。

小日向の手を掴んで、バナナボートに乗り込む。
滅茶苦茶揺れるやんけ。
死ぬ。
もう海に落ちたくない。
自分の視界が揺らぐ。
バナナボートに対して、PTSDを発症していた。
「うおぉぉぉ」
揺れていたのはこいつのせいかよ。
何でこいつ揺らすんだよ。
ゴミカス運動音痴を煽るんじゃねえよ。
駄目だ、落ちたくない。
咄嗟に小日向に抱き付く。

「ハジメェェ!!! 何やってんだお前ェっ!!!」

ルフィしてる暇もねぇんだよ!
中野、助けろや。
こっちは必死なんだよ。
落とされないように、小日向の身体にしがみついているのだ。
「風夏ちゃんの素肌に触るなんて、ファンが見たら発狂ものや!」
「知るか、草でも食わしとけ!!」
俺と小日向は騒ぎ立て、二人して横転する。
顔面から海にダイブ。
やめて。
……そろそろ死ぬ。
足腰の高さくらいでも、赤ちゃんは死ぬんだよ。
何度も横転を繰り返したことで、体力を削られていく。
小日向は海を満喫していて楽しそうだけど、殺意が湧いてきた。

「よし。次は私の番だな!」
白鷺は、颯爽とバナナボートに乗り込む。
ええ……。
揺れ動くバナナボートに一発で騎乗出来るとか、化物……。
どういう体幹しているのだ。
「ほら。東山、もう一回チャレンジして見るんだ」
いや、だから何で、数々ある物語の中で、バナナボートに話の尺を使うんだよ。
俺に嫌がらせをしたいだけの悪意を感じていた。
白鷺の手を掴んでまた乗り込む。
二度目は何とか、揺れていても落ちずに済む。
はあ、気を抜いたら危ない。
「わーわー」
「小日向、てめぇ! 揺らすんじゃねぇよ!!」
バナナボートを難破しようとするローレライ。
この恋の、でかつよ。
予測不能のかたまりである。
何が楽しいんだよ。
流石に、白鷺の身体に掴まることは出来ない。
お前の時とは違うのだ。
頭もおっぱいも尻も小さいやつと、女性の身体をしている白鷺とでは扱いが違うのは仕方あるまいて。
ラッキースケベ。
そんなものをこの作品に求めるのはお門違いである。
ねだるな、勝ち取れ。
幸運は自らの手で掴み取るものだ。

小日向が背後から乗り込んできた。
白鷺、俺、小日向。
挟み撃ち。
身動きが出来ない俺の背後を攻めてくる。
「やめろ、小日向! ママはそんな子に育てた覚えはありません!!」
「え~、抱き付くくらい慌ててるハジメちゃん可愛いよ」
なんや、こいつ。
全然空気が読めない。
小日向は、他人との距離感がガバガバ過ぎて、水着姿でも関係なく近寄ってくる。
裸なのだ。
お前らは上下共に水着だからまだいいが、こちとら乳首見えているんだよ。
男の子の立場を配慮してくれ。
あと、クラスの連中は助けろや。

「尊いから無理」
「抱けぇっ! 抱けー!」

羨ましがるか、悔しがるかどっちかにしろよ。
何で絶妙に歓喜と血が入り雑じってそうな顔をして、バナナボートの手綱を握っているのだ。
うおぉぉぉ。
展開の遅さにキレて、ボートを引っ張るな。
動きを加えても、絶対に白鷺には抱き付かないわ。
「冬華には出来ないの!?」
小日向、がおー。
何でてめぇがキレるんだよ?!
百割お前がふざけるから、俺に被害を被っているんだが??

真打ち、中野が乗り込んでくる。
「最後はアタシだよ!」
中野が一番後ろに乗ると、バナナボートが大きく沈む。
「中野、重い」
「てめぇ、人体における筋肉の比重を舐めんなよ!!」
体重のほとんどは、筋肉で出来ている。
畜生、暴れんなよ。
ロデオ感覚で、後ろ二人がふざける。
四人全員が前倒しになる。
やめてくれ。
死にたくない、死にたくないんだ。
咄嗟に、白鷺に抱き付く。
ラッキースケベ。
いや、まじでそんなことを言っている場合ではないのだ。
後ろからは、小日向に抱き付かれる。
女の子二人に挟まれて、まるでオセロ状態だ。
ハジメちゃんが、女の子になってしまう~。
いや、だからやめてくれ。
意味分からないし、そんな冗談を言っている場合ではないのだ。
助けてくれ。
次に落ちたら死ぬ。

そのあと。
秋月さんと萌花にぶち殺された。


海での出来事を終えて。
水族館に向かう。
お昼過ぎだから、水族館の中は空いているようであり、のびのび出来るのだった。
それでも、俺達学生のせいで、他の人達の邪魔にならないように気を付ける。
水族館は広々としており、薄暗いながらも水中に居るかのような感覚だ。
水の流れが、ひんやりと冷たく感じさせる。
ガラス張りの巨大な水槽には、魚群がイキイキと泳いでいる。
色とりどりの魚達を見ているだけで、いいものだ。
「たったたらたらたったら~」
中野、海物語のBGM流すな。
そのネタは、俺と萌花にしか伝わらないんだよ。
伝わる俺達もどうかと思うけどさ。
「ハジメちゃん、さば! いわし! さめ!!」
寿司のネタくらいしか魚の種類が分からないアホな子もいるけど、まあいいか。
小日向の思考回路からしたら、魚が切り身で泳いでいると思っていないだけマシだ。
小日向は、旅行のしおりを見ながら魚を観て楽しんでいた。
あのしおりは、俺が頑張って作ったものだ。
旅行のしおりには、二日目の水族館の項目は事細かに記入しておいた。
水族館にいる魚の種類だけではなく、魚のイラストも載せてある。
知らない魚がいても、みんなが楽しめるように。
そう思って作ったのだ。
だからこそ、水槽のプレートとしおりを見れば、魚に興味がないやつでも大体のことは分かるようになっている。
小日向なんかの魚を食べるだけの連中でも、水族館が楽しめる。
魚の名前や生態を知っていると知っていないとでは、魚の楽しみ方は全然違うだろうさ。
小日向と白鷺は、博識な黒川さんや西野さんに色々聞きながら楽しんでいるようだった。

楽しそうにしているのを一人で眺めている陰キャ。
萌花は俺に聞く。
「そういえば。なんで、しおりの所々にちいかわ載せてあるん?」
「ちいちゃん可愛いじゃん」
「お前、ちいかわのこと、ちいちゃん言うな」
萌花から怒られる。
ワッ。
何でだよ。
ちいかわはご当地や水族館にも限定イラストのグッズが販売されており、地域に貢献をしているのだ。
だから、水族館のしおり部分にちいかわのイラストが挿し絵されていても何の不思議でもない。
自然のことだ。
「普通は、男子からちいかわの話題は出てこないんだよ」
「いや、少しだけ考えてみてくれ」
ちいかわは可愛いし、健気に頑張る姿は特別な可愛さがある。
そんな、ちいかわが好きな女の子は多いだろうが、野郎の間でその話題が頻繁に飛び交うことはまずない。
違うよ。
野郎だってちいかわが好きだよ。
毎日、ちいかわの話をするもん。
俺達が異端なのである。
いや、ちいかわのツイッターが更新された次の日には、男子連中でちいかわの話をするのが日課であり……。
男の子だって、可愛いキャラクターが好きなのだ。
「もっと漫画やアニメを見るにしても、他にも色々あるっしょ。推しの子とか観てろよ」
「いや、アイドルとか、生々しい世界観はちょっと……」
「ちいかわの方が世界観やばいだろうがッ!!」
「エッ」
「ちいかわ語使うな!」
容赦のない暴力が俺を襲う。
萌ちゃん、水族館で怒らないで。
大声で騒ぎ立てるから、他の人達がこちらを見ていた。
赤の他人からしたら、五月蝿い学生がはしゃいでいて迷惑なだけだろうか。
ばつが悪い。
俺達二人は謝らないといけない。

ハジメちゃんが悪い。
お前の性格を知っているからこそ、お前が悪いことは明確だ。
この世で、女の子が悪かったことなんて一つもない。

クソ暴論を浴びせられる。
……何で田舎の水族館に居るのに、俺のファンばかりなんだよ。

ファッション界隈が狭過ぎなんだよ。
多少ファッションに興味がある女の子イコール、俺の顔が知られているのはおかしいだろうが。
常日頃から誰かの視線を感じているし。
手を叩いたら近寄ってくる。
てめぇら、俺のSPかよ。

あと、俺のファンなのはいいとして。
俺に罵声を浴びせておいて、次の瞬間に何事もなかったかのようにサインをねだるな。
どういう神経をしているのだ。
恥を母親のお腹の中に置いてきたかのような人間ばかりだ。
空気を読んでほしい。
どや顔である。
あいつら、サインを貰ったら、颯爽と帰って行きやがった。
立つ鳥、跡を濁さず。
いや、サラッと帰るんなら、最初からそうしてくれ。

「ファンは推しに似るってことじゃね?」
てめぇに似ている。
というのか、同じTシャツを着ているんだから、同族だろうが。
小日向風夏プロデュースTシャツ。
渋谷限定発売。
あいつら、ただのガチファンだった。
……まあ、そこまでしてファンをしてくれているのであれば、許してやろう。

「そうだ。萌花、水族館は楽しいか?」
萌花は、楽しい時でも詰まない時でも表情があまり変わらないから、不安になってそう問いかける。
二人で観ている水族館の水槽。
見上げる世界は、どこまでも深い色なのに、透き通るような青さである。
魚は、水槽という限られた狭い世界であっても優雅に泳ぐ。
何故、人は自由に魚が泳ぐ姿や、海の青さに恋い焦がれるのだろうか。
それは分からない。
遠い昔の遺伝子の記憶が、海に戻りたいと言いたがっていたのか。
あの魚達のように、人間は寄り添うように生きられないからか。
憧れてしまうのかも知れない。

「ん~。ぼちぼちかな」
「そうか。よかったわ」
萌花的には楽しいってことだな。
それだけは分かる。
とにかくヨシッ!
萌花は呆れていた。
「……はぁ、適当なやつ」
愛想を尽かしている。
それ以上、俺達二人の会話が続くことはなかった。
俺も萌花も多くを語るタイプでもないし、二人の間に特別な会話が必要だとは思わない。
ただ静かに、水槽の魚を眺めているだけでいい。
何を思っているかなんて気にはしないし、不安にだって思わない。
それだけで充分なのだ。
特別なものなど求めてはいない。
ただ流れる時の流れに身を任せて、穏やかな気持ちでいた。

他のクラスメートやファン達は、そんな俺達に気を遣ってか、話し掛けずにいてくれている。
今は、水の流れのような静かな一瞬を味わっておこう。
何もないのだって幸せだ。
これが安息なのだ。
何よりも求めていた。
幼き自分が追い求めていた幸せのかたちである。
「萌花、感謝してる。いつもありがとう」
「……時と場合を選べ」
まあ、そうなんだがな。
東山家の家訓で、感謝している時は、直ぐにありがとうと言いなさいと教えられてきた家庭である。
十数年もやってきたことを今さら変えるなんて、無理な話だ。

「はあ……、私は別に何もしてないっしょ」
「傍に居てくれるだけで、俺は幸せだし、感謝している」
「本当に、やっすい男だな。多少は自分を高く見積もれよ」
「う~ん。俺は別に安くていいしなぁ」
俺は、男として優秀ではないし、高く見積もれるほどの志もない。
両手に桜色の花を持って、愛していると求婚するほどの男気もない。
平凡な人間なのだ。
人間おかしなものであり、今が幸せだと、人はそれ以上を求めないらしい。
守るべきものがあるのに、強くなれないなんて、男としては欠陥品だ。
ゴミカスと呼ばれても仕方ないさ。
萌花は真顔だった。
「はぁ、訳わかんないことをいうなよな。まあ、普通じゃないのは前から知っていたしいいんだけどさ」
続けて言う。
「……幸せな日々なんて、何時かは終わるものだから。……その時は頼むから」
「ああ」
幸せはいつかは終わる。
この世に絶対なんてない。
物語には転機があり、終わりがある。
全員が幸せで。
いつまでも変わらない日々。
楽しいだけの日常。
そうであれば、人は満足するだろう。
しかし、与えられているのが一方的な幸せだけでは、人は堕落してしまうはずだ。
人の世界に幸せがあればあるほど、それと同じくらいの不幸がある。
それは当然、誰にだって降りかかる。
雨が降らなければ、草木が芽吹くことがないように。
免れることが出来ない苦難が絶対に訪れるのだ。
だからこそ、世界には愛がある。
人だけが持つ愛の力は、全ての苦難をはね除け、道を照らしてくれる。
誰もが幸せである為に。
不幸の中にこそ、愛の強さは存在するのだ。
俺達は、乗り越えるしかない。
その為の準備はしてきた。
それでも全然足りないとしても。
……俺達はまだまだ子供だと笑われたとしても、何とかなるさ。

「根拠は?」
そこに愛があるから。
愛のパワーがあれば、全ての物事は乗り越えることが出来るのだ。
愛より優れた価値のあるものは、この世界には存在しない。
全ては愛より生まれ出でた結晶の一つにしか過ぎず。
俺もお前も愛なのだ。
世界には、天も地も存在しない。
「訳わかんねぇ漫画の影響を受け過ぎやろがい」
一度だけの命なのだから、人生楽しめよ。
「お前は逆に、幸せな人生を楽しみ過ぎなんだよ!」
俺の隣には愛する人がいて、学校も趣味も仕事も充実している。
尊敬する先輩方が伐り拓いてくれた道を進み、託された夢を叶えることが出来る。
俺以上の幸せな人間はいないだろう。
「……訳分からん方向性で、ゴリゴリのリア充すんな」
そうでなくとも、萌花くらいに可愛い彼女が居たら、誰だって幸せだと思うんだがなぁ。
萌花からしたら、クソほど共感出来ないらしく、無視してみんなのところに合流する。

小日向がこちらに気付いたようで。
「え~、せっかくいい雰囲気だったんだから、二人で回っていてもよかったのに」
「あいつキモいし。……もえは、ふうとも回りたいしな」
「え、嬉しい」
小日向は、わーきゃーしながら、萌花の手を握って楽しそうにしているのであった。
その光景を見ていた秋月さんは、やれやれと言っていた。
「はぁ……、二人とも楽しそうね」
自分から触れたとはいえ、小日向の勢いの凄さには、あの萌花ですらタジタジである。
大切な人と、手を繋ぐのが好き。
人とのスキンシップは特別。
小さな子を持つ親子がするように。
小日向にとってのソレは、簡単にするように見えるけれど、意味があるものであった。
相変わらず、子供っぽいやつである。
普通の高校生からしたら、女同士でも抵抗があるものだ。

白鷺は手を差し出す。
秋月さんの手を受け取るように。
「何だ、麗奈も手を繋ぎたいのか?」
「そういうわけでは……。ううん、そうね。せっかくだから、お願いしようかしら」
秋月さんは白鷺の差し出した手を握る。
「言い出した手間だが、恥ずかしいものだな」
「私達は、風夏とは違うから……」
二人は、少し頬を赤らめてはにかむ。
恥ずかしい反面、嬉しいのだろう。
手と手を取り合い、手を繋ぐなんて、家族か恋人くらいに自分の人生で大切な人としか出来ない行為だ。
ふれ合うことで、その人との距離感。
それが分かる。
それが嬉しい反面、怖いのだ。
人のぬくもりが分かるから。
今よりも深く、世界の広がりを知ることは、喜びよりも恐怖の方が多いから。
人のぬくもりは、生きている証だ。
命の繋がりを絶やすことがないように。
恋人同士が自然と手を繋ぎたいと思うのは必然だから。
子が親に触れ合って、愛を確認するように。
彼女達がしていることには、それほどの意味がある。

魚は寄り添い泳ぐ。
人間だって、同じだ。
生きることは美しい。

「これ美味しい。これも美味しい。これ一番好き」
なんや、こいつ?!
優雅に泳ぐ美しい魚を見ながら、捕食対象にしか思っていない化物がおる。
こいつのことは、忘れておこう。
小日向は絶対捕食者だ。
生きることと、食べることしか考えていないのである。
「ほーん。帰りに魚を買っていくならもえが捌いてやんよ。他にも美味そうな魚いっぱいあったしな」
萌花、お前もかよ。
さっきまで、魚が可愛いとか綺麗とか言っていたじゃん。
返してよ。
命を返してよ。
お前らは魚さんの命を何だと思ってんだよ。
魚さんだって精一杯、頑張って生きているのだぞ。
大海原を泳いでいるのが幸せなんだ。
美味しいからって、むやみやたらに食べていいわけではない。

すべての食材に感謝を込めて。
貴重な命がまた一つ。
一人の読者モデルの血肉となりて。
今日も綺麗に輝くのだ。




神視点。
水族館を回り切り、全員は有名なカフェに並んで入店する。
観光地のカフェだからか、店内は広く、内装は喫茶店基調のモダンな装いだが、今時の女の子が喜びそうな可愛いデザインのテーブルと椅子がある。
写真を撮り、記念撮影をしたくなるほどの可愛さだ。
そんなカフェの四人テーブルに、よんいち組の女の子と野郎が腰をかける。
百合の間に挟まる野郎だ。
ハジメ。
お前は、可愛い女の子に挟まっているのだ。
可愛いと綺麗の狭間。
圧倒的な存在に挟まれることにより、存在が消失しかけている。
そんな風夏と冬華の間にいるだけあっあってか、ハジメは幸せそうではない。
右の人間が小日向風夏でなければ、ハジメもリラックス出来ただろうか。
コーヒーを飲みながら静かに過ごす。
そんな喫茶店らしいことさえ、同じテーブルに着く人間によっては出来ない。
この席において、初めのナプキンを取るのは風夏ちゃんである。
風夏ちゃんラブトレインだ。
可愛いカフェにテンションが上がり、はしゃぐ風夏ちゃんによって、ハジメちゃんが、もっと間に挟まれていた。
平行世界に飛ばされちゃう。
それほど五月蝿いとはいえ、よんいち組のテーブルはまだ静かな方だ。
隣を見てみろ。

佐藤と三馬鹿。
ひぇ、地獄かよ……。
ハジメは、そう思っていた。
あいつらの席でコーヒーを飲むくらいなら、小日向の方がマシだ。
幼稚園の頃の妹くらいの認識でいれば、イライラもしないものである。
「ハジメちゃん。夏なのにいつもホット飲んでる」
「熱いコーヒーを手に持っている時に、寄っ掛かんな!」
長年の兄妹関係とは違い、力加減が出来ない。
その点では、実の妹よりも性質が悪い。
「え~。カフェにきたら、オススメを頼むものだよ~」
SNSをしている人間からしたら、可愛いカフェの情報は重要である。
こいつらは、可愛いという、情報を食べているのだ。
SNS映えを優先し、可愛いを食べて生きている浅ましき生き物。
現代社会が生み出した悲しき怪物だ。
「いや、俺はあえて黒いコーヒーをSNSにあげるぜ」
ハジメは今日もコーヒーを飲む。
確かにコーヒーは地味だが、味の違いが分かるファンに伝わればいい。
コーヒーは黒いだけだ。
インスタ映えしか興味のない女の子からしたら、黒いだけしか違いがないものに対する情熱を理解するのは難しいだろう。
だが、全然違うのだ。
ハジメは熱く語る。
コーヒーの美味しさ。
それは、コーヒー豆の産地と、味のレビューだけで頑張っていいねを稼ぐ読者モデルだからこそ発信出来るコンテンツだ。
しかもそれなりの需要がある。
コーヒーすこすこレビュアーズだ。

萌花と秋月さんにボロカス言われる。
「頭おかしい写真ばかり上げるのやめろや」
「東山くんの何がおかしいって、マックやコンビニのコーヒーも写真載せて味を評価しているんだものね……」
なんでや。
百円ちょっとで美味しいコーヒーが毎日飲めるのだって、歴とした企業努力の賜物である。
ハジメは、格安コーヒーの素晴らしさを力説する。
「コンビニのコーヒーだって、現地で直接契約した極上のコーヒー豆を、数年以上かけて研究した独自のブレンドで提供してくれているんだぞ」
ハジメは、有名なカフェで飲む美味しいコーヒーが好きなのではない。
コーヒーが好きなのだ。
誰よりも純粋に。
ただただ、コーヒーを毎日飲んでいたい。
本当ならば、豆から育てたいくらいに恋い焦がれているのだ。
豆が嫌いな男の子はいない。
「こいつうるせぇな。ふう、パンケーキを、こいつの口の中に流し込め」
「あいあいさー!!」
カフェのオススメ。
いちごとクリームたっぷり、自家製パンケーキ。
ごだんがさね~。
スイーツ界の五連釘パンチ。
それは、カロリーの暴力だ。
パンケーキは重ねれば重ねるほど、カロリーが高くなる。
なんてこったぁ。
当たり前のことである。

いちごとクリームの織り成すハーモニー。
甘々のスイーツは、女の子ならば喜ぶものだが、普通の男の子は好きじゃない。
観光地価格のスイーツを食べて満足するくらいならば、同じ値段のハンバーガーを食べたいのだ。
ハジメは特に甘いものが嫌いだ。
甘いものは望んで食べないし、お祝いで出てくる誕生日のケーキですら、一口だけで済ましてしまう。
そんなにも甘いものが嫌いなのだ。
そんな人間に、風夏は差し出す。
「ハジメちゃん、ほら。美味しいのに~」
風夏ちゃんは、笑顔でハジメの口にぶち込む。
どんなに嫌いと語ろうが、前振りを全無視で、あ~んをする。
いちごとクリーム。
シロップのかかったパンケーキを食べたら人間はどうなるだろうか。
拒絶反応を起こして死ぬ。
殺人的な甘さだ。
ハジメの魂が抜けかかっていた。
フルコンボだ、ドン。
ハジメは、一日で何度も死にかけていた。
パウンド3000倍だ。
海もパンケーキもだいっ嫌いである。

むせるハジメを見て、冬華は疑問に思っていた。
「東山。前にパンケーキを食べていただろう? あの時のはセーフなのか?」
冬華が不思議そうに言っていたのは、去年に遡り。
風夏達が、東山家に初めてお邪魔した時の話だ。
ハジメママがパンケーキを振る舞ってくれた時に、ハジメはちゃんと完食していたはずだ。
冬華は、そんな些細な記憶でもちゃんと覚えていた。
「ああ、あの時ね。俺の家のやつだと砂糖あまり入っていないし、上にかかっていたのがバターだけだったからな。それなら普通に食べられるし……」
カフェで食べる甘々のパンケーキの方が一般的なのだろうが、東山家のパンケーキは、最初から甘いものが苦手なハジメでも食べられるようにと、砂糖が少なめに調整されていた。
ママの愛故に。
気難しい息子の為にと、面倒な手心を一つ加えられていたおやつなのある。
二児の母は大変だ。
子供の好みに合わせて、二人が食べられる料理を作らなければならない。
こいつ、マザコンやろ。
よんいち組の面々はそう思っていたが、何だかんだ嫌いでも風夏が差し出したら、甘いパンケーキでも一口食べるあたりは、彼の育ちのよさが伺えるのであった。
……バレンタインチョコも、苦手だろうに食べてくれていたからな。
バレンタイン。
寝落ち。
日が落ちた部屋。
「はぁはぁ……」
「隣の馬鹿が、バレンタイン事件を思い出してフラッシュバックしてるぞ」
秋月麗奈にとって、バレンタインは黒歴史であった。
あんなことがなければ、いい彼女として確固たる地位が守れたはずなのに。
ゆるふわ系ヒロインが爆散。
発情系ヒロインが爆誕。
いきなり、ヒップホップの韻を踏むな。
恥の多い人生である。
「嘘つくなや。最初から、れーなには恥しかないじゃん」
今となっては?
最初からだよ。
自分の都合がいいように、自分の記憶を改帳するな。
この恋の発狂系ヒロイン枠だから、そちらに舵を切り、重点的に育成した方がいい。
恥を知るには遅過ぎである。
もう、物語は七十話を過ぎているのだぞ。
物語の末期も末期である。
今から正ヒロインに復権するビジョンを見い出すよりも、色物キャラとしての確固たる地位を築き上げる方がいい。
三馬鹿が仲間が増えて嬉しそうに、手を振っていた。

……まあ、麗奈は頭がおかしいが、イカれた人間の行動によって、アクションは起こりやすい。
ハジメとの距離が詰めやすい場合もある。
バレンタインの一件がなければ、今ほど仲がよくならなかったかも知れない。
だが、あえて褒めることはしない。
麗奈は、イカれているからだ。
下手に感謝をしてしまうと、危険なのだ。
こいつは、人類の思考をしていない畏れがある。
人の世が生み出した怪物に、人並みの自信を持たせるわけにはいかない。


「ハジメちゃん、ずっと前のことでも覚えてるんだね」
「ん? ああ、だって俺のホットケーキ作ってくれたの小日向だっただろう? 忘れるわけがないじゃん……」
不意の一言。
それは、パンケーキよりも甘くて切ない。
「……」
風夏ちゃんが照れていた。
可愛い。
料理が得意ではない風夏からしたら、初めて焼いた美味しくないパンケーキのことなど、絶対に忘れていると思っていた。
だって、風夏以外の女性は、ハジメママや麗奈を筆頭に、みんな料理が得意で、並々ならぬ努力をしているのだった。
小日向風夏は、読者モデルとしては最強の地位に君臨している絶対捕食者であれど、女の子として見たらよわよわ。
海を彷徨う、グッピーである。
炊事洗濯掃除は出来ない。
家庭的という、前時代的な表現からは大分かけ離れていた。
風夏は、その大雑把な性格が災いしてか、玉子焼きやソーセージを焼くだけでも焦がしてしまう。
ファッションでしてきた洋服に合わせた繊細な表現を、料理に反映させることは出来ないのだ。
完璧とは程遠く。
美味しい手料理を出せないとしても、その手の女の子は可愛いし、手作り料理を覚えたての高校生らしい、苦い思い出は彼氏からしたら嬉しいはずだ。
彼女が自分の為に時間を使い、手料理を練習している。
そんな、頑張る姿が好きな人もいる。
ハジメの性格を加味して考えていれば、そう思えるものだが、それに甘えていられないくらいに優秀な人間が周りに多過ぎるのも考えようだ。
風夏以外のよんいち組は、当然のように料理が得意だ。
和食においては、完璧。
和洋中そつなくこなせる。
もえぴ。
三者三様の違いはあれど、料理そのものに苦手意識は全くないだろう。
女の子としての魅力で殴り合ったら、勝てない。
いや、殴り合う必要はないのだが、料理が出来ない女の子が不安に思う時だってある。
風夏は、美味しいカレーを食べて喜ぶ性格だけれど、自分も作る側に回りたい。
しかし、下手に手伝って怪我したらハジメに怒られるから、手伝えないのだ。
読者モデルは身体が資本だ。
包丁で怪我をしても困る。
指先まで大切にしてもらいたいという、ハジメの考えは間違っていないだろう。

麗奈は一つ提案をする。
「じゃあ、風夏はパンケーキでも焼いてみる? それなら全然手伝えるでしょ」
「あーね!」
「へー、たまにはいいこと言うじゃん」
「たまには……??」
喧嘩すんな。
事態を悪化させるな。
右拳と左拳をクロスするな。
逆だったかもしれねえ。
逆でも変わんねえよ。
……もう無茶苦茶である。
ハジメの立場からしたら、この光景に慣れたとはいえど、ことある毎に喧嘩する女の子の相手に疲れていた。
そして、最後のオチとして自分が殴られるからだ。

「ハジメちゃんって、パンケーキ好きなの?」
風夏はハジメにそう聞くのだった。
「んあ? いや、別に好きってわけじゃないけど、子供の頃から、よくおやつに出てきていたしな……」
東山家の古くからの習わしである。
お祝いの時には、ホットケーキを食べる。
失敗してしまった時には、ホットケーキを食べて頑張ったで賞。
大切な日にはホットケーキが出てくる。
そんな特別なおやつともいえる。
ハジメからしたら、妹の陽菜が好きなだけだったが、妹が食べたいと言うと、強制的にハジメもホットケーキを食べることになる。
これは、ママの愛情。
ママのママもそうしていたの。
そういうことらしいので、ママの子には拒否権はない。
「ほぇ~、そうなんだ。そんな大切な思い出があるなら言ってほしかったな。……下手なのに手伝ってごめんね」
ママの仕事を奪わないで。
うおぉぉん。
三十過ぎても、人の本質は変わらないものであり、ハジメママは、ママとしての仕事を奪われたら、そうやって駄々を捏ねる。
なんで息子娘のハジメや陽菜よりも、東山家でママが駄々を捏ねたり、甘やかされているのかは分からないけれど、あれでも嫌なことは嫌というタイプだ。
元々の性格が悪いから、人以上の我慢は出来ないだろう。
そんなハジメママが、風夏ちゃんにホットケーキを手伝ってもらって、文句を言わなかったのならば、ハジメが気にしても仕方がないことだ。
ハジメからしたら、女の腹の内など見たくもない。
なにも知らず、馬鹿のままでいた方がマシである。
「あの気難しい母親が、わざわざ小日向に料理を手伝わせたんなら、いいんじゃないか? あの時から、多少なりとも認めていたみたいだったしな」
ハジメは、平然と語る。
馬鹿なのか?
結構、重要なことを口にしたのに、サラッと流していた。
呑気にコーヒー飲んでんじゃねえよ。
観光地で飲むコーヒーは美味い。
コーヒーこそ至高の存在。
ハジメは、話が終わった感を出していた。
男って馬鹿である。
いや、こいつが馬鹿なだけか。

男の世界とは違い、女同士のいざこざは少なからず存在し、特に息子を取り合うママと彼女となると、殺し合いである。
女が女に容赦などしやしない。
……ガキが調子に乗るんじゃねぇ。
ママこそ、至高の存在。
彼女ごときがママに逆らうなど、あってはならないことだ。
息子たんを取るなんて、万死に値する愚行だ。

女の子の行き着く先は、ママである。
人を好きになり、恋をして。
愛を知り、純愛を経て、いつしかそれは最愛になる。
愛までに至るまでの道の長さや、苦難の多さは誰もが違うとしても。
行き着く先はみんな同じ。
ママなのである。


……娘である彼女達も、自分自身のママに遠く及ばないことは理解している。
どんなに優れた人間とはいえ、十八歳に満たない女の子なのだから、大人の女性と比べるのは間違いである。
スポーツや勉学ですら、歳月の積み重ねには勝てない。
それが愛ならば、それ以上に勝てるものではい。

子供から見た母親とは、それこそ神に等しいように光輝き、山よりも高く見え、海よりも深く思える。
そういう概念なのだ。
よんいち組の面々とて、東山ハジメのママを最初に見た時にそう思ったのだ。
気になる男の子のママに気に入られれば、恋の近道が出来る。
そんな浅ましい考えなど、一瞬で消えるほどの強さ。
人の歩む道には近道、そんなものはない。
好きな人のママとして現れたのは、圧倒的な存在。
全てを破壊する魔王。
それは、愛を知るが故に、最強である。
スキル:ママSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS
何で作中最強キャラが母親なのか。
バグってんのか。
ラブコメとはいえ、最強クラスのママがライバルとして相手をしてくるのは、反則である。
指先一つの魔法で、勇者の頭を消し飛ばすタイプの最強格が、情け容赦なく五指爆炎弾フィンガーフレアボムズを放ってくるのだ。
その全てはメラゾーマだ。
五本指から放たれる地獄の業火は、最強の魔法と呼ぶに相応しい。
並の人間が使うと寿命を縮める。しかし、相手は愛を知るが故に、愛の為なら生死をかえりみない化け物だ。
我が子を守る母親は強い。
ママだから、それが出来る。
彼女は、作中最強格の女性ではない。
ママだから最強なのだ。
東山の名を持つからこそ、真央さんは真央なのだ。

しかし、そこで足踏みしているようでは、女の子としては二流も二流だ。
よんいち組の女の子は、めげずに立ち向かうのだ。
ハジメママは優しい人だが、自分に甘えた人間にまで優しい訳ではない。
美人とは、美人が故にそれ相応の強さを持っている。
その美しさには、紛い物はない。
より純粋に。
より努力を重ねてきた。
幸せになるのには、美醜など関係ない。
ただただ、誰よりも強くあれ。
大切な人の隣にいて、相応しい人間になれるように生きる。
そう胸に決めて、地道に頑張ることでしか、この愛に報いる方法はないのだ。

人を好きになったから分かる。
本当に求めていた幸せは、自分の力で手に入れるしかないのだ。
彼女とて、こちら側の人間だ。
笑顔で笑い合える家庭があり、それがなによりの幸せと呼べるまでに、どれほどの苦難に立ち向かい、家族の為にどれほどの努力をしてきたのかなんて誰にも分かるわけがない。
人は人に、自分の幸せしか語らないものだ。
家族にさえ、自分の闇を語ることはない。
愛とはそういうものだ。
全てが全て、愛している人に伝わるものじゃない。
そんな彼女が、確かに私達の成長を見ていてくれている。
遠く先を進む憧れの女性。
クソガキに等しい我々を、同じ女性として対等な目線で評価をしてくれている。
それに、嬉しさを覚えつつ、ハジメママの母親としての生きざまに感動していた。

息子はアホだけど。
それでも、息子さんは他人に誇れる生き方をしているだろう。
であれば、満足している。
母親は、息子に多くは望まない。
幸せであって欲しい。
元気でいて欲しい。
人を愛せる人でいて欲しい。
愛される人でいて欲しい。
幸いなことに。
そのどれもがちゃんと叶っていたのだ。

ならば、認めるしかない。
子は育ち。
いつかは旅立つ。
巣立ちの時はいつしか訪れる。
悲しくてもそれが自然の摂理なのだ。
赤ちゃんは成長して、一人歩きをして母親を置いていくのだ。
広がる世界への憧れを胸に、旅立っていく。
それでも、本当に子を愛しているならば、心を痛めてでも母親としての責務を全うするしかないのだ。
親から子へ。
子から親へ。
そうして人は生きてきた。
命のバトンを紡いでいた。
めいいっぱいの愛を祝福にかえて。
母親は、いつだって我が子の背中を押してあげる生き物である。
自分が必要じゃなくなるまでは、この愛をあげていたい。


風夏は、嬉しそうに言う。
「じゃあ、今日のパンケーキは私が手作りするね」
「え、いや、さっき一口食べたし。今日はもう絶対に、甘いものはいらないんですけど……」
集団リンチに合う。
どの口がぁ!
どの口がぁ!
お前の家庭を尊重してずっと頑張り、敬意を払っていた彼女達がキレる。
「なんでや!」
ハジメママ曰く、パパの血がたまに心配であった。



おまけ。
同日、八時過ぎ。
男子連中は、晩御飯を終えて。
昨日のように楽しく温泉に入り、男子のコテージに帰ってきたら、キンキンに冷えたコーラを飲みながら、ゆっくりしていた。
流石に二日目だったからか、男子で馬鹿騒ぎすることもなくなり、リビングのソファーでだらだら。
ツイッターやラインで、友達や家族に楽しい写真を送って連絡をする野郎共であった。
なんやこれ。
アオハルは??
青春の無駄遣いである。
いや、無駄だからこそ、今しか出来ない青春なのかも知れない。
しかし、どんなに取り繕うとも、ゴミカスがゴミカスなのは変わらない。
有意義な時間の使い方が出来ない男性は、自ずと恋愛対象から外されるものだ。
そんなザ・モブ男子とは違い、カメラを持った高橋は、ハジメに許可を貰い、海辺の夜景を撮りに行きたいと言う。
何もしないのが悪いわけではない。
だらだらするのだって、男の子のコミュニケーションともいえる。
しかし、高橋のような人間からしたら、暇な時間があるならば、写真を撮りたいというのは普通の考えである。
「まあ構わないが、男とはいえ、流石に一人で歩き回るのは許可出来ないからな……。う~ん……」
最低でも二人以上で行ってくれ。
ハジメが自主的に働いたら萌花に怒られるから、あまりやりたくないが、それでも男子を纏める監督役だ。
高橋に着いていくのは当然として。
他のやつも夜景を見ながら、散策しないかと聞いてみるが、面倒だからパス。
髪が痛むから嫌。
水着イベントのマラソン中。
Vの配信見たい。
他のクラスの気になるあの子と、旅行の写真で盛り上がっているから無理。
十数人の意見を聞く。
……死ね。
こいつらは、生きていちゃいけない連中である。
ハジメは、率直な感想が出てきそうだったが、飲み込んでおく。
「じゃあ、俺と二人だけで外にいくか」
「悪いね」
「……まあ、俺も暇だし、夜風に当たるのは悪くないからな」


ハジメと高橋は、男子のコテージから出て、海岸沿いを宛てもなく歩きながら、写真を撮っていた。
深夜の海に近付くのは危ないため、遠巻きに海岸を眺めていた。
静かな海辺にシャッター音が響く。
高橋は、真剣な眼差しで写真を撮るのだ。
ハジメからしたら、高橋の写真における情熱の出所はよく分からなかったが、付き合いが長いせいか、今さら色々聞けるような間柄でもない。
一年生からの付き合いでも、同性となると踏み込みにくい部分は色々あるものだ。
男同士のノリは基本的に軽くて楽なのだが、どうしてもネガティブな話題を口にしにくい部分があるし、弱味を見せたがらない。
生物としての欠点か。
それなりの悩みがあっても、男が解決するには根性論になってしまう。
女の子の訳分からないところで毎回悩む悩み事に苛立ちを覚えることもあるが、男の子のそもそも悩み事を何も話さないメチャクチャさに比べたら、女の子は多少なりとも口に出す分だけマシなのか。

かくいうハジメもまた、アホだから悩みはないし、あったとしても、口にはしない。
特に、よんいち組に対しては、死んでも口にしないタイプだ。
その点では、一番最悪なパターンなのはこいつである。

ハジメは悩まない性格だから、男の子としては比較的安全に見えるだけで、萌花が度々休めと言っている理由がそれなのだ。
慌ただしい毎日。
その大部分が、こいつの精神力でなんとかなっているだけにすぎず、普通の人間以上なら空中分解するレベルだ。
休めと呼べる休みなどない。
高校生の柔軟さに甘えて、高校生の若さを削っているだけだ。
そんな状態のハジメが、回避不可能な悩み事に直面した場合、自力で成長して解決するか、自分の力量に見合わずぶっ壊れるかの二択が飛んでくる。
精神を追いやられた人間が受ける全ての選択肢とは、凶悪なイベントなのだ。
しかも、ハジメからは、私生活や仕事の愚痴や根を上げるという予備動作が一切ないので、他人が気付いた瞬間に人間一人が壊れている可能性すらありえるのだ。
だから、萌花は休めと怒っている。
普通の高校生らしく、人並みの生活を行え。
普通になれ。
必要以上に頑張るな。
何度もそう言っていた。
ゴミカスみたいなスペックしかないハジメが、風夏のような優秀な人間に合わせようとすれば、いつかは無理が生じるのだ。
だから、頑張らなくていい。
普通でいい。
他の女の子も、彼には特別でいて欲しいとは思っていない。
好きな人を、ただ見ているだけで幸せなのだ。
助けてくれなくていい。
だが、ハジメにはそれを言って理解する頭もない。
アホだからだ。
何かしていないと男の立場がなくなると思っているタイプなのだ。

尚のこと、休める時は休めと言うしかないのだ。
人間、多少の休息があれば、肉体の疲れや精神の疲れは回復する。
美味しいご飯を食べて、温かい風呂に入って、あたたかい布団で寝る。
それが彼女に出来る最大限の優しさなのである。

長々と語ったが、今後ハジメが無理をして、ぶっ壊れるのか。
そこに関しての一切の不安要素は、今後の物語では絶対にないので忘れていい。
ハジメは馬鹿だ。
あと、元々壊れている。


ハジメは、自前のすいとうにコーヒーを淹れてきていた。
夏とはいえ、深夜は寒い。
だからこそ、海風に当たりながら飲むコーヒーは格別に美味しいともいえる。
リラックス効果もマシマシだ。
「はえ~、美味しいわぁ」
海風にあたりながら、癒されていた。
多分、誰もが思っている以上にこいつはアホだから大丈夫。
毎日好きな絵を描いて、コーヒーを飲む。
可愛い彼女もいて、幸せばかりだ。
精神強度が異常である。
ここまでアホなら、これはもう無敵である。
だから、ハジメは人に好かれるのだろう。
気を遣うことなく接していける。
ハジメは、高橋と二人でコーヒーを飲みながら、ゆっくりしていた。
「東山、付き合ってくれるのはありがたいけど、写真を撮らない身からしたら、詰まらなくない?」
「いや、楽しいぞ。何だか昔みたいでさ」
一年生の時の二人は、今ほど絵を描いていなかったし、写真を撮っていなかった。
サボることも多かった。
漫研の先輩には、頑張るのは二の次で構わないから、部活には毎日参加する癖を付けて欲しいと言われたものである。
「……新谷先輩だっけ。東山は同じ同人作家だから、交流ある?」
「いや、ないよ。ツイッターはフォローしているが、同人作家としての畑が違うから、タイムラインでたまに見掛けるくらいだよ。俺よりもいいね付いているから、心配はないけどね」
「じゃあ大丈夫みたいだね」
「新谷先輩なら、俺達とは違って、勝手に頑張って、勝手に有名になるタイプだしな。あの人、クマムシよりしぶといだろうから問題ないわ」
核喰らっても生き残るしぶとさがあれば、同人作家として大樹するだろう。
我々があの人間を心配する方が失礼だ。
二人がボロクソに言っているのは、先輩として信頼しているからである。
そういえば、こんなことがあったっけか。
二人は昔ばなしを幾つか語る。
漫研部での思い出のほとんどは下らないものばかりだったが、それでも語ることは多い。
男だけでコミケに初参加して、失敗したこともあった。
二人は、昔を懐かしむことはあっても、昔に戻りたいとは思わない。
今の方が幸せだからである。
漫研部だって、尊敬する先輩方は全員卒業してしまったが、今の漫研部は歴代最強だと自負しているし、コミケだって好評だった。
後輩達も頑張っているから、経験が増えれば、ちゃんと成長してくれるはずだ。
三年生としての憂いはないだろう。
漫研部としての最後の仕事は、文化祭の看板やポスター作りと、冬コミの新刊で三年生の役目は終わりだが、問題はない。
やり残すことはない。
「三年の自覚なんて全くないけど、瞬きするようなもんと言えばそうなんだよな。……よく分からないけど、寂しいもんだな」
「まだ半年はあるけどね」
半年は長いが、オタクの半年は早い。
それはそうだ。
ロイヤルメイド部として、何度もイベントに参加するだろうし、間に間に入る内容を含めたら濃密な半年である。
語るべき内容だけに絞っているから短く感じるだろうが、色々やることばかりだ。
時間が足りな過ぎる。
高橋とて、写真のコンクールに何度も参加しており、カメラマンとして名前を残す為に頑張っている。
全国のカメラマンがライバルだけあり、実力や努力に伴った結果が出ているわけではないにせよ、いつか実を結ぶことになればいい。
「そうだ。被写体として、白鷺に協力してもらえばいいんじゃないか?」
「白鷺さんか。彼女の手助けを借りれば、結果を残せるだろうけど、それは白鷺さんの持つ良さが凄いだけだからさ。カメラマンとしての実力ではないよ」
「まあ、そうかも知れないけどさ。白鷺の良さを全て理解していて、それを完璧に引き出せるのは、高橋だけだろう? それは、高橋としての実力じゃないのか?」
白鷺は撮影を全部高橋に任せている。
それは、高橋に飛び抜けた才能があるからではなく。
自分の本質を深く理解してくれている人だからこそだ。
プロのカメラマンでさえ表現出来ない表情の細かな差を、高橋ならば自然と引き出してくれる。
レイヤーとカメラマンの信頼関係があってこそ、ふゆお嬢様の素晴らしさを活かせるのだ。
「……東山はそういうの好きだよね」
「え、なに。ごめん」
ハジメの話を聞いていた高橋は、深く考えていたのが、馬鹿らしく思えていた。
白鷺さんは美人であり、被写体としては完璧な存在だ。
その美しさを活かしたなら、カメラマンは誰もが認めるだろう。
コンクールで、安定した結果を残すことが出来る。
白鷺さんを利用することはいいのか。
そんな外的要因に囚われ過ぎていて、写真の本質から離れてしまっていた。
誰のために思い出を残したいのか。
誰のために、この写真があるか。
写真の価値はそれで決まるのだ。
最新のカメラや、プロの技術を似せただけなら、誰でもいい写真は撮れるだろう。
しかし、白鷺さんの良さは、そうではない。
高橋ほどの努力を重ね、何度も何度も彼女を撮影してきた人間だからこそ、移り変わり行く景色のように、彼女の心境を理解出来るのだ。
写真は一瞬の出来事を簡単に保存出来るが、こと人の心にフォーカスを向けるのは難しいらしい。
だから、人を撮るのには、カメラマンの力量が必要となる。
自分だけの結果に、拘りすぎていた。
コンクールのためだけに、点数が高い写真を撮りたかったのか。
本当に自分の撮りたい写真を撮っていたのか、分からなくなってきた。
カメラを握り始めた時は、写真を撮るだけで楽しくて。
別に他人に認めてもらおうなんて、一度も思わなかったのに。
今が楽しくて、幸せに生きていると、人は欲が増えるみたいだ。
高橋は、コーヒーを飲みながら肩の荷を下ろす。
「そうだね。人間、深く考えるものじゃないね。気楽にいくよ」
温かいコーヒーは、気分を落ち着かせるものであった。
高橋はコーヒーのよさは理解出来なかったけれど、苦いのもいいものだ。
ハジメは不思議そうに首を傾げる。
「……? よく分からないが、それでいいと思うぞ」
「ありがとう。東山も悩み事があったら言ってくれていいからね」
自分なりに、いい落とし所を見付け、少しずつ頑張ってみよう。
高橋はそう思っていた。
彼は写真を撮るのが好きだったが、それ以上にクラスのみんなも好きだった。
オタクの自分でもまったく気にせず、優しく接してくれる場所が特別だった。
好きなものをただ好きなように撮影する。
今はそれに集中しよう。
自分の青春は、写真の中に。
みんなの思い出を大切に残すことが、自分の役目だったから。
「せや。俺の悩みといえば、旅行で仲良くなれると思ったら逆に嫌われていると思うんだが、実際問題どう思う……?」
「それは絶対に悩みじゃないよ」
悩んどるやろがい。
高橋と比べ、悩み事の質が圧倒的に低い主人公であった。
他人をあまり気にしない高橋ですら、最近のハジメのことは少し心配になってきた。
しおりを挟む

処理中です...