この恋は始まらない

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第七十五話・初めて手を取った時から。

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家族とは何なのか。
深く考えずに生きていると、たまに疑問に思ってしまう。
何を指し示す言葉なのか。
それは、血の繋がりなのかも知れないし。
過ごしてきた時間なのかも知れない。
それとも、互いを思い合う絆の強さなのか。
愛しているならば、それはもう家族と言われても、私にはよく分からなかった。
何を持ってして、家族と呼ぶのかは定かではない。
それは、時代の流れで移り変わっていくだろう。
私はそう考えていたから、家族の繋がりとは、とても曖昧なものに見えてしまう。
特に私の両親は、私が幼い頃から海外での仕事が多かったから。
普通。
そう、普通の家族とはまた違うのだった。
悲しいこともあるが、それでも私には普通だったのだ。

街中で見かける、手を繋ぎ幸せそうに横切る親子を見ていると、確かにそれは家族のかたちだ。
愛し合っているし、誰が見ても家族にしか見えないから、そう答えるはずだ。
手を繋ぎ。
同じ時間を過ごす。
そんな普通の幸せ。
それを家族と呼ぶのならば、普通の幸せを持たない一部の人間は、家族ではないのだろうか。
お金が無くても、幸せじゃなくても、家族と呼ぶに相応しい家庭は確かに存在する。

では、家族の定義とは。
一体なんなのだろう?

人は、生きている限り、恋をする。
誰かを好きになり、恋をして、他人に慈しみを懐き。認め合い、互いの価値を知るのだろう。
しかし、それだけではただの恋人だ。
家族とは呼べない。
だが、その二人が愛し合い、結婚すればそれは家族だ。
しかし、婚姻という、社会的な契約を家族と呼ぶのであれば、それは曖昧なものに見える。
社会の秩序に従い、紙に書いた名前など、大した意味はない。
この世の幸せには、永遠などない。
社会的な結び付きを家族と呼んでしまうと、離婚をして別れを告げれば、それは家族ではなくなる。
……別れれば家族ではない?
それも違うと思う。
死んでも尚、家族として永遠に愛している人はいるだろうし、離婚をしても相手の幸せに涙を流して、幸せを祝える人はいる。
その間にある関係や想いは、家族と変わらない。
愛の価値は変わらないだろう。
一つの愛を以って全てを注ぎ、一人を愛する。
唯一無二の愛を家族とするのも、この場合の定義には入らない。
それは、私達が知る。
東山ハジメが否定している。
多分、彼には家族の定義が出来ていて、愛を可視化出来るのだろう。
それに従って、他人を愛することが出来る。
先天性のものか。
親から子へと、器に注がれたものか。
それは分からないけれど、観ている景色が違うのだと思う。
今まで彼女が居たことがなく、女の子の機微に気付かないとよく怒られていたが、だからといえ、彼の愛が人より足りないわけではない。
女の子とは、自分のことを誰よりも愛してくれない男を好きにはならないからだ。


……この世界には色々な人が居て、その姿を見ていると疑問に思う。

人は、自分の家庭しか知らない。
家族のかたちや愛のかたちは、自分の家庭を基準にし、元々そういうものだと疑わずに生きている。
だが、自分の世界が広がると自分の生き方が本当に正しいものなのか分からなくなるのだ。
だから、人は他人の恋愛に興味を持ってしまうのだ。

まるで恋愛小説のように。
何の不安もなく、互いに愛し合っていれば、それだけでいい。
それだけで人は幸せになれる。
しかし、この世界には真実の愛のようなおとぎ話は存在しないし、ハッピーエンドは存在しない。
人間とは、複雑で脆く。
海辺の砂粒のように、色とりどりの価値観を持った人々が混在する。
みんな同じ考え方をしていて、同じ幸せを知っている。
そんな陳腐で面白みがない世界では、人間は生きていない。
幸せな思い出もあれば、不幸な思い出もある。
人には理解出来ないトラウマも地雷もあり、好きな人と同じくらいに嫌いな人が存在する。
人間は、知らない他人より、周りの人を幸せにしたいし、戦争でたくさんの人が死ぬよりも、地元の事故で一人が死んだ方が悲しいのが人である。

ガラスのように美しいが、その分脆く。
この世界の神様は、儚いものに価値を魅い出していた。


愛しき我が子。
秋月麗奈は、そんな世界に命を受けた。
彼女が幼稚園児の頃。
砂場で一緒に遊んでいた男の子が、自分のことを好きだと言ってくれた。
純粋に人を好きになる。
そんな真っ直ぐな言葉と共に、綺麗なお花をプレゼントしてくれた。
しかし、自分には人間のソレがよく分からなく、好きだと言ってくれた子と、一緒に遊べばいいものだと思っていた。
小学生の頃も、中学生の頃もそうだった。
人間は、誰かを好きになり、愛することで生きている。
人間の言葉として、その行動は理解出来ていたが、視認することは出来なかった。
何度告白されても分からない。
他人が他人を好きになる。
だが、それは純粋なる愛ではなく利害の一致の上に存在するものを愛と定義しているだけな気もした。
私が言葉として知る愛は、肉眼では確認出来ない。
そういうものだから、私が愛を知らないのも頷ける。

自分だけが蚊帳の外ではない。

みんな、そうなのだろう。
こんな恋愛という下らない感情に振り回されていても、女の子として生きていくには避けて通れない道だ。
一生、付き纏うものなのだろう。
幼き私は、そう思っていた。
自分のことを評価してくれるイケメンの先輩はいっぱい居たし、顔が可愛いと何もしていなくても助けてくれるから、何かに困る人生を歩んできたことはない。
自分の周りには、自分よりも可愛い女の子はあまり居なかったから、中学校までの間は一番モテていた。
他人には当然、かなり嫉妬されたが、それなりに努力をしていたから、傲慢とは呼ばせない。
中学生の恋愛など。
……そんなものだ。
しかし、高校生になるとそうもいかなくなる。
中学校の時と比べると、周りの女の子は美人揃いだった。
顔は可愛く。
性格は良く。
他人を尊重し、幸せな家庭に生まれているのか、愛のかたちを知っている。
そうなると、自分という存在は簡単に凡人に落とされる。
堕ちるという言葉で表現する方が適切か。
それほどまでに今の私は、中学生の頃と比べ、自分の立ち位置は一変していた。
競うべき相手は、小日向風夏や、白鷺冬華などの才能がある人間だ。
そもそもの生きている世界が違う女の子ばかりだ。
あとは、男子からの人気こそは全くないが、子守萌花みたいな自分の生き方に芯がある女の子まで居るのだ。
自分では敵うわけがない。
高校一年ながら、あの子達とまともに殴り合って勝てるわけもなく。
意地を張って、張り合うこともなかった。
秋月麗奈という、クラスの中では顔は可愛いが、才能はあくまで平凡という立ち位置で頑張ってきた。
それなり。
それなりでも、今までのように可愛く見える努力をし、毎日する化粧とヘアメイクを頑張って覚えていた。
女の子らしく、誰かに好かれるようにしてきたつもりだ。
笑顔を絶やさず、周りに合わせて。
そうやって、普通に生きていくのも悪くない。
みんなやっていることだ。

……これのどこに幸せがある?
幼き頃に夢見たのはプリンセスではなかったけれど、人並みの憧れはあった。
白馬の王子様。
そんな人が、私を好きになるとは思っていない。
私は、ただ普通の生き方を望んできただけだ。
いつ瓦解するかわからない。
人の持つ、薄っぺらい関係に嫌気が差す。
愛を知らない私への試練なのか、罪科なのか分からない。
中学の女子が今の私を見たら、いい様であると笑うだろうか。
別に私は、人に好かれて生きていたい訳ではない。
男子に好かれたい訳ではない。
みんな勝手に私に期待し、勝手に失望をしていただけだ。
私には、他人が知る好きも、恋も知りはしないし、愛とは無縁の生き方をしてきた。
人が人に優しくするのは、そういう生き方がベターだからだ。
羊のように弱者で群れ、実のない馬鹿な話題に合わせるのは不本意だったが、それがこの世界で最も合理的な生き方だ。
人間として、正しい選択だ。
人は異常を嫌う。
だから、普通に生きる方が幸せなのだ。
好きな人を見付け、結婚して子を産めば、普通の人はそれなりに幸せなのだろう。
判りかねるが。
私が目指すべきものがそれだった。
普通の女の子の物差しだと、それが一番幸せだから。
それ以上でもそれ以下でもない。

私は、風夏や冬華みたいに愛されてはいない。
萌花みたいに、自分の死に方は選べない。
私は多分、誰かの最愛にはなれない。

幸せとは何なのか。
思春期からか、両親が居ない家に帰ることばかりだったからか。
一人になると、ずっと考えてばかりだった。
風夏は、風夏なりにそんな私を気にかけてくれたし、仕事が休みの日はショッピングに連れてってくれた。
冬華も時間が余す限りは一緒に行動してくれた。
萌花は私にだけは悪態を付くが、私が知る中で一番優しい人間だった。
誰かを見捨てられるほど、非情な人間ではない。

周りの人達がみんな良い人だからこそ、自分よりも彼女達が幸せでいて欲しかった。
多分、同じ人を好きになったとしても、きっと私は祝福するだろう。
その人は、私だけは選ばないだろうから。
みんな、愛を知っている人を選ぶはずだから。


しかし、そんな悩みも二年生の春になると、いらないものになってしまった。
出逢いはそう。
普通の日だった。
何もない日だったから、その日にちも曜日も忘れてしまった。
大切な日になると知っていたら、覚えておけばよかったと思う。
その日は、萌花が指揮を取り、みんなで東山ハジメに詰め寄った時だった。
昼休みに風夏が出掛け、昼寝する為に利用していた教室。
そこに居た男子が、東山ハジメであった。
小日向風夏ほどの可愛い女の子には近付く男子は多く、東山ハジメもその一人だと思っていたのだ。
今となっては勘違いでしかなかったが、あの時の私達の感覚で考えれば、萌花がハジメに警戒し詰め寄るのは当然の行動だった。
萌花は、自身の価値観に基づき、最善策を取っていた。
そこに無礼はあっただろうが、誰も彼女を否定はしなかった。
男性とは、可愛い女の子と付き合ってエッチをしたいだけだし、この世の胸がある女の子がモテるのは異性だからだ。
例外なくそれが普通だった。
……よんいち組での可愛いは多種多様だったが、秋月麗奈にやってくる恋愛とはそういう類いのものなのだ。
私を一番愛している。
そんな言葉の裏には、あくまで女性として利用価値があるかが大きく乗っかっている。
自分が、人よりも可愛くて、おっぱいが大きくなかったら、多分どの男の子も私を見てはくれないだろう。
クラスで一番可愛い女の子を差し置いて、私を可愛いと言ってくれる人は居たが、その人の見ている景色は、私の欲しかった幸せとは程遠いものだ。
私が得る幸せとは、互いを想い合えることは難しかった。

高校一年も終われば気付く。
普通にもなれない。
この世界における物語のヒロインは、風夏や冬華のような女の子であり、それ以外は脇役になってしまうのだと。
あの人に会うまで、そう思っていた。
出逢いの春が過ぎ。
輝かしい夏が過ぎ。
私の秋がやってきて。
美しき冬が終わりを告げる。

高校二年が終われば気付く。
私は、好きも愛も知らず生きていた。
だから、人の知る普通が分からなかったのだ。
人は、誰かを好きになり。
胸が苦しくなるほどの恋をして。
いつしか愛を知るのだと。
胸の高鳴りが落ち着かなければ分からない。
そう。
自分は、誰かに可愛いと思われたいのではない。
羨望を浴びるような物語のヒロインなど望んでいない。
ただ、普通に生きていたい。
普通の幸せがほしい。
好きな人の世界で生きて居たい。
ただ、普通に生きるだけで幸せだった。
幾つもの季節を越えて。
そして二度目の私の秋がやってきた。
私の想いは、より強いものになっていく。
それでも、一番にはなれない。


登校前の朝一。
「お兄ちゃ~ん! 学校遅れちゃうよ!!」
東山陽菜は、家から飛び出て慌ただしくしていた。
大きく飛び跳ねながら、ハジメと麗奈を呼んでいる。
学校に向かう前というわけだから、陽菜ちゃんの親友である絵里ちゃんも一緒である。
二人は幼稚園からの付き合いだ。
ズッ友だ。
遅れて出てきたハジメや麗奈からしても、二人が一緒にいるのは当たり前のことだ。
気にした素振りはない。
絵里ちゃんは、大人しい子なので騒がしく挨拶はせず、軽く会釈をするだけだ。
無口な妹タイプである。
可愛い。
ハジメは馬鹿だから彼女の気持ちには気付いていないが、絵里ちゃんにはかなり慕われている。
それが親友のお兄ちゃんだからか、年上の男の子だからかは不明だが、異性としては認識していない。
そう判断したよんいち組は、彼女と敵対しなかった。
いや、敵対したとして、恋人だろうがハジメは先に知り合った人間を優先するだろう。
分が悪い勝負はしないのだった。
何も知らないハジメちゃん。
死に晒せや。
頭の上に死の宣告のカウントが乗っかっていた。
「絵里ちゃん、おはよう」
ハジメは、まだ眠そうにしていた雰囲気を投げ捨て、爽やかな笑顔を絵里ちゃんに向けていた。
実妹より、義理の妹だ。
自分の妹より可愛いがっている。
馬鹿か、こいつ。
麗奈は、流石に苛ついていた。
だから、そういう表情を彼女以外にするなと萌花に言われているのに、ハジメは忘れていた。
「はわわわ。おはようございます」
だが、依然として絵里ちゃんは、陽菜ちゃんのお兄ちゃんは、とても格好いいと思っている。
優しい~。
いや、こいつ馬鹿だから。
救いようがないタイプの馬鹿だ。
ハジメの目には、新しめのクマが出来ていた。
夜遅くまで仕事を頑張っていたのだろうか。
頑張っているお兄ちゃん素敵と思われているが、メイド喫茶の為に配るチラシのイラストに納得がいかずに、徹夜してずっと描いていただけだ。
こいつは馬鹿だ。
一日で描かなくてもいいのに、納得がいかずに徹夜する馬鹿だ。
幼い女の子の夢を壊さぬよう、何とか話題を変える。
「そういえば、陽菜ちゃん達の出し物はなにをするの?」
「たこ焼きだよ~。文化祭始まるまで、毎日練習するの」
えっへん。
陽菜ちゃんは自慢そうにそう言っているが、陽菜ちゃんにはあの真央さんの娘ながらも、料理スキルは全くない。
まあ、陽菜ちゃんに料理させると危なっかしいので、麗奈からしても手伝って欲しいとは言わなかった。
料理が大好きで何でも出来る麗奈とは正反対だったが、現代っ子だから問題ない。
料理が出来なくても可愛いから許されている。
「お兄ちゃん。今度、陽菜のたこ焼き食べて」
「あ? 嫌だよ。食べるなら、絵里ちゃんの手作りがいいわ」
微笑ましい。
いや、お前ふざけるなよ。
サラッと絵里ちゃんの好感度を上げるな。
とはいえ、長々と玄関で会話しているわけにもいかないので、四人は学校に向かいながら他愛ない話をする。
こんな日々があと何回あるのだろうか。
みんなの姿を見ていると、何だか遠くに感じてしまう。
あくまで私は家族ではない。
麗奈はそう思いながら、みんなで歩くのだった。


ハジメサイド。
教室のドアを開ける。
教室の中央に変なやつが見えると、やっぱりドアを閉めることにした。
はぁ、学校に来るだけで億劫になるとか、やめてくれ。
やあ。
扉を開けたら、メイド服姿の中野ひふみがいた。
だから扉を閉めた。
中野ひふみは、クラスメートだ。
だが、断じて友達ではない。
たまたま同じクラスにいるだけだ。
天真爛漫陸上部である三馬鹿の一人だが、馬鹿の具合で言えば頭一つ抜けている。
橘さんや夢野とは馬鹿のベースが違うのだ。
俺が狼狽えていると、後ろにいた秋月さんが不安そうにしていた。
「どうしたの? クラスのみんなは、またなにかしているの?」
馬鹿な人が多いからか、朝っぱらからどんちきどんちきしているのでしょう。
秋月さんはそう言いたそうな顔をしていた。
世知辛いね。
あいつらは、日頃の行いが悪いから、逆に信頼されているのであった。
突如、叫び声が上がる。
吉田ァ。
貴様。
いや、誰だよ吉田。
中野は、教室のドア越しに、新規キャラの名前呼びながら、叫び声を上げる。
多分、吉田って運動部のあいつだよな。
主人公不在で、なに面白いことしてるんだよ。
俺をのけものにしないでくれ。
ガラッ。
教室に入ると、吉田は居なかった。
何で吉田の名前を叫んだ!!??
意味分かんないことすんなよ。
……まあ、吉田の一件は本筋とは関係ないから深くは追及しないが、教室に入ると中野の相手をしないといけなくなる。
「……何でお前は朝っぱらからメイド服に着替えているんだよ」
中野ひふみ。
我が宿敵。
今日の中野は、奇跡的に俺が大好きなメイド服を着ていたが、メイド服を着ていなかったら血祭りに上げていただろう。
それくらい憎むべき相手ではあるが、俺にも人としての理性はあるので、目が合った瞬間にヤンキー蹴りを喰らわしたりはしない。
萌花ならやるかも知れないが、俺はやらない。
中野を殺すと、メイド服が汚れてしまうからな。
殺すなら脱がしてからだ。
「無法地帯かよぉ」
東京の高校を舐めるな。
そもそも初台の由来は、立地のいい合戦場から取った名前だぞ。
敵の血が染み付いている合戦場跡地だ。
てめぇの血で染め上げてやる。
「東っち、メイド服だよ」
ほれみろ。
性格ゴミカスだから、メイド服の素晴らしさで俺を宥めようとする。
中野のメイド姿に感想を求められても困る。
中野が評価ゼロでも、メイド服の評価が百ならば、それは百なのだ。
うおおお。
止まれ、俺の手。
相手は中野だ。
酔った勢いでも抱きたくないランキング第一位だぞ。
しかし、主人公が故に、メイド服の魅力には勝てなかった。
腕を斬り落とすしかないのか。
「メイド服に欲情する主人公とか、過去に生きているよな??」

嗚呼。
俺の心は、ヴィクトリア朝と共に。

「ド変態やんけぇ……」
想いが馳せ。
時代が逆行し過ぎて、日本でいうところの大塩平八郎の乱まで行ってしまった。
「1837年やんけぇ」
お前、博識だな。
ヴィクトリアンスタイル。
中野の着ているメイド服は、ゲーミングメイド服。
シルフィードの特注品である。
中野の背丈に合わせてあるからか、綺麗に着こなしている。
白と黒のメイド服。
ワイシャツの首元には、淡い色をしたガラス飾りが付いたネクタイをしていた。
高校生が着た時に可愛く見えるように、工夫をしてくれたのだろう。
袖口のボタンはよくみると猫のデザインをしており、店長さんの優しさが垣間見える。
そんな可愛いメイド服を着ていたが。
中野は馬鹿だ。
中身はゴミだし、女性としての教養もない。
言動全てが粗暴そのものであり、山から降りて都心に逃げ出してきた猿の方が落ち着きがある。
猿の方がメイド服が似合うだろう。
だがメイド服というだけで可愛く見えてしまいそうだ。
中野は、頭と顔はゴミカスだが、それ以外は優秀だ。
陸上部だから元々のスタイルはかなりいいし、筋肉は引き締まっている。
そのすらりとした脚は、メイド服が似合う。
うん。そうだな。
首から上を斬り落とせば、百貨店にあるような上品なマネキンになるだろうか。
「くっそサイコパスで草」
うっせぇよ。
褒めてやっているだろ。
普通だったらシルフィードの綺麗なメイド服を着ていたら、男の子からモテそうなものだが、他のクラスメートは中野ひふみを避けていた。
「何でお前、嫌われているの?」
おすだけノーマット・スプレータイプでも使ったの??
部屋から蚊がいなくなったぞ。
俺と中野は二人して考える。
何故、道を見誤った?
中野は二年間、彼ピッピを作る為に積極的にクラスの男子に声掛けしたり、運動部主催のカラオケに行ったり、ボーリング大会に行ったりして頑張っていた。
しかし、現実は非情である。
何もしていない田中さんの方がモテていた。
男子は、田中さんにアニメの話をしながら、積極的に話し掛けていた。
しかも二人もいる。
両手に花である。
「本屋ちゃんめぇ……」
意味もなく悔しがる中野が、なんとも滑稽であった。
……まあ、妥当だな。
俺だって、中野より田中さんの方が好きだし、彼女のメイド姿が見たかった。
漫画やアニメの話をするために話し掛けるのであれば、田中さんにするであろう。
あの夢野でさえ、死んだ顔をしていても男子は気に掛けていた。
少しでも夢野の元気が出るように、ジャンプのまとめスレで上がっている情報を教えていた。
夢野、直哉くんの声優決まったよ。
……それスナックバス江だから。

「二人とも、ふざけてないで。そろそろホームルーム始まるよ?」
秋月さんがそういうと、ホームルームまでかなり時間がなかった。
「中野、メイド服もいいが、制服に着替えなくていいのか?」
「お? そうやな」
ここで脱ぐな。
メイド服好きの前でメイド服を脱ぐとか、神への冒涜だぞ。
「主人公なんだから、布切れに延々と語って、欲情するのやめてや」
女の子の身体に欲情しろや。
お前、メイド服を布切れ言うなや。
神の作りし羽衣やぞ。
「文化祭編から頭おかし過ぎない??」
いや、そんなことはない。
ちゃんと理性はある。
相手が中野じゃなかったら反応してしまうが、中野だからな。
中野を異性として認識しはしないし、メイド服を着ていない中野など、虚無である。
「何だてめぇ……。東っちが喜ぶかも知れないからってせっかく着替えてやったのに」
まあ、それはありがとう。
でもヒロイン差し置いてお前がメイド服に着替えるのは違くないか?

結局、中野は制服に着替える時間がなく、メイド服のままホームルームを受けていた。
それを見た先生は、呆れていた。
「東山、ちゃんとしろよ」
俺が怒られた。
理不尽極まりない。
俺が何をしたというのだ。
「メイド服絡みはお前しかいないだろ……」

そんな下らない話をしながら、文化祭を楽しみにしていたのだ。


同日。
放課後になると、他のみんなもメイド服に着替えていた。
教室で着替えているのを廊下で待たされていたが、数時間だって待つ。
「おかえりなさいませ。御主人様」
クラスの女子全員のおかえりなさいませ。
腰が砕けた。
女神じゃ、女神がおる。
神々しい。
後光が出ているではないか。
みんなには、中野のメイド服では摂取出来ないお淑やかさがある。
人間、性格だな。
うん。
可愛い女の子が着るから、メイド服が可愛いのだ。
あの小日向ですらいつもより可愛く見えてくるのだから、メイド服の素晴らしさよ。

「やばい。東山の変なスイッチが入った!?」
「高濃度のメイド要素を過剰摂取したら死ぬぞ!!」
「東山に電流を流せ!!」
そんな理由で俺に電流を流すな!?
バリバリバリ。
防犯用グッズを容赦なく使ってくる。
家庭の事情ですわ~。
そんな光景を見てか、女子達は呆れていた。
秋月さんは嬉しそうに呟く。
「みんな、仲良しよね」
「……お前。頭おかしいんか」
どこにそんな要素があったのか。
嬉しそうにする麗奈を尻目に、萌花は引いていた。


俺が電流を受けて倒れていると、橘さんが話し掛けてくる。
「東山くん、大丈夫?」
女神降臨。
メイド服を着た橘さんは可愛い。
陸上部だから、少し焼けた肌に純白のメイド服は至極である。
佐藤とは友達だし、他人の彼女に可愛いとは直接言えないのが悔やまれるが、感謝をする。
「生まれてきてくれてありがとう」
「……何でいきなり出生を感謝されているの??」
人はこの世に生まれて生きているだけで、尊いのである。
尊さという重力に押し潰されそうだ。
橘さんのメイド姿は、よんいち組以上の破壊力があるのだった。
メイド服を着慣れている人の姿は、自然である。
「……結構、イベントに連れ回されているしね」
橘さんは人が良い。
メイドさんや、アマネさん達に助けを求められたら断れない。
人手が足りない。
明日香ちゃん助けて。
そんな理由で泣き付かれているらしいが、泣いているのは汚い大人だ。
橘さんの可愛いメイド姿を求められているだけだぞ。
メイドリストは、汚いのだ。
純粋無垢なJKを掴まえて、メイド沼に沈めようとしていた。
可愛い女の子にメイド服を着せるなんて、最低……最高だろう。
「東山くんが一番性質が悪い気がするけど……」
「俺は、可愛い女の子にメイド服を着て欲しいだけだ。邪な気持ちはない」
まっすぐなひとみ。
橘さんにはメイド服が似合う。
だから、着て欲しいだけだ。
「アタシより可愛い彼女が、こちらを睨んでいるけど?」
「ひいぃぃ」
四つの殺意。
よんいち組は、人殺しの形相をしていた。
あ、怖い顔しているメイド姿も可愛い。
後で説教された。

「東っち、なにしているの?」
夢野、生きてたんか。
さっきまで死んでいたが、少しだけ元気そうな顔をしていた。
「よくよく確認したら、来週の呪術廻戦は休載だったからね。一週間は耐えられる」
それ、耐えられてないだろ。
激的な展開での休載とは、読者にとって緩やかな死だ。
一週間だけ、受け入れ難い事実から目を逸らしているだけだ。
銀だこでも奢ってやるか。
まあでも、夢野が元気になってくれてよかった。
文化祭を成功させる為には、夢野の力が必要だ。
夢野は、クラスではあまり目立たない一般女子枠だが、こいつが元気だと男子の士気が上がる。
必要なのは、可愛さだけではない。
クラスの全員には、代わりが出来ない大切な役割があるのだ。
現に、夢野が元気になってくれたから、安心して仕事が出来る男子もいた。
恋愛感情はないのだろうが、男の子とは弱っている女の子が居たら放っておけない。
ムードメーカーだしな。
「せっかくメイド服を着ているわけだしね。元気な方がいいでしょ」
夢野は、ヴィクトリアンスタイルのメイド服のロングスカートを捲し上げ、スカートを揺らしていた。
これ好き。
可愛い。
「……アタシにも宣言しないでよ」
橘さんや夢野を褒めたらあかんらしい。
すまんな。
よんいち組に可愛いって言ったら、蹴り飛んでくるから。
「それは、女の子じゃなくてメイド服を褒めるからでしょ。流石、疲れている時にメイド服の写真を見て精気を養う人ね」
メイド服セラピーだ。
メイド服の写真を見ていると気力が回復する。
「せめて、誰かが着た写真にしてよ。メイド服着たマネキンだと、主人公として洒落にならないからさ」
「だって、知り合いの写真を見ていたら勘違いされるだろ?」
知り合いで、常日頃からメイド服を着ている人となると、シルフィードの人達か、メイドリストになる。
しかし、知り合いの誰かの写真を見ていると、俺の浮気だと勘違いされて、俺が殺される。
索敵必殺だ。
夢野は提案する。
「普通にメイド服なら、白鷺さんでいいじゃん」
その意見に対して、橘さんは否定をする。
「……駄目よ。白鷺さんの写真を眺めていたら、他の子に角が立つでしょ」
「そっか、じゃあ浮気の心配がない、彼氏がいるような女の子でいいじゃん」
彼氏が居たら、浮気の心配がない。
俺に興味がなく、俺が写真を持っていても文句を言われないくらいに世間体がいい人。

橘さんかッ……!?

「頭湧いてんの?」
あの橘さんに、マジで怒られた。
あんな、四人に目を付けられたくない。
あんなって??
四貴族か何か??
普通の人間は、必要以外の女同士の争いは避けて通りたいし、平穏な生活をしたいのだ。
橘明日香は、普通の幸せを求めていた。
何故なら彼女は、東山ハジメのせいにより、平穏な人生から転落され、巻き込まれた筆頭であるからだ。
巻き込まれたって。
貴方に出会わなければ、メイド服着ていないわ。
文化祭ならメイド服くらい着るだろ。
おかしいの俺なんか。
「夢野、他に良案はないか?」
「う~ん。他に彼氏がいる姫ちゃんとかは?」
「……すまん。黒川さんは尊過ぎて、俺が無理だ」
黒川さんは尊い。
あんな純粋な子のメイド姿を眺めて、メイド搾取はしたくない。
一条には悪いが、お前には静かに死んで欲しい。
お前以上に、俺は黒川さんのことを大切に思っている。
「キモいなぁ。後は、そもそも異性に興味がない西野さんとか?」
西野さんは、黒髪を美人の優等生だが、思春期の感情を殺した少女の翼。
クラスの中ではよんいち組に次いで美人な人だし、メイド服が似合う人だ。
無口な人で他人には興味がないから、浮気の心配はないし、文句は言われないだろう。
「……西野さん、小学校の頃に迷子の陽菜ちゃん助けたらしくて、妙に懐かれているし、一番やばくない?」
「みんなと出逢って居なかったら、お姉ちゃんになっていたのは西野さんだったってコト!?」
この恋は始まらない。
五人目の花嫁枠は、西野月子であった。
訳分かんねぇ妹経由のバックボーンが発生していたせいか、西野さんも駄目そうだ。
よんいち組に目を付けられていた。
困ったものだ。
「一番困っているのは、ヒロインレースの流れ弾が跳弾してきた西野さんだけどね」
ヘッドショット受け取るやんけ。
世界の意思が働いているのか、キャラが薄い人には他人が濃くしてくる。
西野さんのやる気がないほど、物語への干渉が強くなる。
「東っち殺した方がいい? 主人公殺したら世界の法則が変わるかも知れないよ?」
いや、夢野。
別の作品の殺意を持ってくるな。
夢野は悲しみを乗り越えたかのようにみえたが、そんなことはなく精神が引っ張られているのだった。
主人公殺した方が面白くない?
夢野の精神状態は心配ではあるが、長々とお話をしているわけにもいかない。

橘さん達との雑談を挟んでしまったが、可愛い可愛い彼女のメイド服の感想がまだ始まっていないのだ。
うんうん。
彼氏の義務として、彼女の可愛いところを百個くらい言わないといけない。
「100カノってこと?」
「……いや、俺はおかしくないだろ」
四股しているが純愛だよ。
奇行にも走らないし。
「メイド服が物語の中枢にある作品の主人公の方がイカれているわ」
「メイド服キメてるなう」
夢野さん?
ツイッターで俺の心情報告しないでくれるかな?
しかも、誰もそれにさほど気にした素振りがないのが酷い。
まるで俺が、メイド服のことが大大大大大好きみたいじゃないか。
それは文化祭の出し物はメイド喫茶だし、メイド服も去年よりもいいものを揃えておいたけどさ。
メイド服に顔を埋めて匂いを嗅ぐほどの趣味はしていない。
橘さんと夢野はディスってくる。
「……普通の人は、顔を埋めてメイド服の匂いを嗅ぐという発想に至らないわ」
「東っち、このメイド服って高いのだ?」
「ん? ああ、今回のメイド服は、ゲーミングメイド服だからそれなりの値段だな」
「やばい単語出さないでよ」
「ゲーミングメイド服なう」
去年の文化祭は、三万円くらいのメイド服だ。
今年は去年のノウハウを活かしてか、シルフィードの店長さんが十数万円のメイド服を用意してくれた。
値段は高いが、俺達が着てくれたら宣伝にもなるらしい。
まあ、お金を払ってレンタルしているだけだから汚せないし、扱いには細心の注意が必要である。
夢野は叫ぶ。
「これ、十数万円もするの!?」
「というのか、去年の時点でおかしいからね!? 初対面の人間に、いきなり三万円のメイド服を着させないでよ!!」
二人の金銭感覚がまとも過ぎて、高額メイド服の恐怖に震えていた。
そうだろう。
お小遣いを貰って生活している高校生からしたら、数万円は大金だ。
自分のお金では絶対に買えないほどの高価なものだから、震えてしまうだろう。
「普通は、彼女にだって十数万円の洋服は着せないのよ!!」
「あびゃびゃびゃ」
夢野に至っては、裕福な家庭ではないからか、とてつもない拒絶反応を示していた。
哀れだな。
金は人を変えるのだろう。
二人が震えている理由は、俺の狂気度に対してだったらしい。
いや、そう言われても困るんだが。
今回のメイド喫茶では、十数万円のゲーミングメイド服をクラスの人数分揃えている。
ざっと計算して、二百万円くらいか。
「……どう考えても、おかしいでしょうが」
「どうやったら二百万円も捻出が出来るのか知りたいわ」
「うちの事務所と、シルフィードの方から、広告費の代わりとして折半しているからな」
シルフィードからしたら、お店やレンタルの宣伝になるし、事務所からしたら衣装を購入せずに済む。
俺達からしたら、レンタル費用を二つの会社に擦り付けた分、安く済むのだ。
一人では出来ないことも、みんなでやれば実現出来る。
去年のメイド喫茶も何だかんだありつつも、ファンからの反響が大きかった為に、ジュリねえは乗り気だった。
よく考えて欲しい。
メイド服に十数万円も掛けていたら、馬鹿みたいに思えるが、スマホの寿命は二年間。
メイド服の寿命は十年以上である。
どっちがお得かは比べるまでもない。
しかも、親から子に引き継げば、大切な思い出も共有することが出来るだろう。
まるで浴衣のように、人が生きてきた証を残せる。
ママが若い頃、文化祭でパパとメイド喫茶をしたのよ。
パパはね、私の可愛いところを百個言ってくれたわ。
そう言って母娘で仲良く思い出を語れる。
「……自分の娘がメイド服着ていていいの?」
「自分の親が狂っていて、メイド界隈の第一人者と知らされるとか一番きつくない?」
そもそも、自分の趣味を彼女に押し付けてメイド服を愛でている姿を知ってしまったら、私が娘だったら離縁する。
俺への返しが辛辣だな。
口を聞かなくなるじゃなく、縁を切ると表現したあたり、本気具合が伺える。
しかし、そんなことで心が折れたり、滅気る俺ではないのだ。
そんな生半可な気持ちでメイド好きを名乗っていない。
「なんで今日はこんなに元気なの?」
「え、メイド服キメてるからじゃない? 脳内麻薬って人工物より強力らしいよ」
橘さんと夢野は、最後まで優しくなかった。


よんいち組に合流すると、小日向は髪型を変え、黒髪を後ろで纏めていた。
「じゃじゃ~ん」
小日向は可愛い自分を見せびらかしてくる。
まあ、うん。
それはいいんだけどさ。
みんな、ヘアアレンジをしていた。
メイドさんが幾つか貸してくれた髪留めは、クラスのみんなに人気だった。
小日向だけでなく、白鷺や秋月さん。
もえちゃん。それ以外の女の子も嬉しそうにしていた。
「何でもえだけ、あだ名なんだよ」
「萌花の可愛さを表現するには、まず呼び方から使い分けているんです!」
萌花。もえちゃん。もえぴ。
ぴ。
萌花への呼び方がたくさんある分、それだけ彼女との距離感を楽しめる。
最近のライトノベルでは、仲良くなったらすぐに名前呼びで距離感を詰めてくるがあれは駄目だ。
分かってない。
いや、分かっているって?
分かってませ~ん。
恋愛の醍醐味とは、さん付けから始まり、仲良くなって名字を呼び捨てし。
名前にさん付けしてから、呼び捨てするかちゃん付けするのがいいのだ。
そして、いつしか呼び方は、貴方になり、ママになる。
全てはママに通ずる。
円環の理だ。
少しずつ親密度を深めていき、初めて名前で呼ぶことに意味があるように、一歩ずつ進めていく恋愛観は日本の恋愛小説の醍醐味なのだ。
だから俺は、好きな人だからこそ簡単には名前では呼ばないし、名字でみんなを呼んでいる。

神サイド。
橘さんは萌花に聞く。
「でも、東山くんって、付き合い長いのに、小日向さんとか白鷺さんは名字で呼んでいるよね?」
「……ふうとふゆが呼ばれる時は、下の名前か、さん付けでしょ。だから、誰にも呼ばれてない呼び方をアイツはしたいんやろ、馬鹿だから」
「ああ、独占欲ね」
橘さんは何となく納得し、夢野は面倒くさい人間だなと思っていた。
もっと普通の感性を持つ夢野からしたら、不思議でしかない。
「……恋人だったら、普通に名前で呼んでもらいたいと思うけどな~」
「馬鹿には馬鹿の、世間体もあるから仕方ないっしょ。立場があるから、名字で呼んでいなかったら、納得しない人間もいるからね」
ハジメは馬鹿だから無意識だったが、あれでも敵は多い。
イカれた努力をしている今だから、流石に納得して貰っていたが、今だって尚、小日向風夏や、白鷺冬華と釣り合いが取れているわけではない。
現に、橘さんや夢野も、初期からハジメがみんなを呼び捨てにしていたら感性を疑っていたはずだ。
最初の印象は大事だ。
特に呼び方は重要だ。
世間からしたら、他者に対して敬意を払えない人間など、総じてゴミなのだ。
コンビニの店員さんや、ファミレスで横柄な態度をする男性など、女の子は好きにはならないし、同じ人間と思わなくなるものだ。
ハジメの良さの大部分は、他人に敬意を払えるところだ。
今日のメイド服もそうだが、みんながみんな可愛いと言ってくれていた。
それは、彼女とか関係なく、クラスのみんなに敬意を払ってくれるからこそだ。
だから、ハジメは信頼されていたし、他人の目を気にせず着替えることが出来た。
顔の可愛さだけを見ている人間だったら、みんなハジメと打ち解けていなかったはずだ。

男子はポツリと呟く。
「……それでもやっぱり、よんいち組が一番可愛いよな」
「みんな可愛いだろうがッ!!」
文化祭編は、特殊OPでみんなの可愛い姿を個別に映したいんだよ!?
そんなことで殴り合いすんな。
一番を決めるのは悪いことだ。
こんなに可愛い女の子ばかりの作品なら、みんな同率一位だ。
お前は一番を決めていないが、メイド服キメてんだよ。
今日のハジメは、世界一危ない。
女の子には優しいハジメだったが、男子には異常に厳しいのであった。

ハジメが男子にガチギレしているのを眺めながら、話を続ける。
「秋月さんは?」
彼女は東山くんの家にお邪魔しているから、名前を呼び捨てでも構わないのではないか。
元々仲がいいから、名前で変な距離感を取る必要はないだろう。
「あいつが、れーなを名前呼びしたらどうなると思う?」
萌花の質問に、二人は絶句した。
「秋月さんの、理性のタガが外れる」
「雌カマキリや!」
秋月麗奈は、人間としての理性が低い。
正しく雌カマキリくらいだ。
恋をすると自分の世界に入る性格が故に、歯止めが利かない。
勿論、恋人が出来たら、キス以上のことを求めてくる。
好きな人とずっと一緒に居たいし、彼氏の家に居着くくらいの図々しさを持っているのは、みんな知っていた。
三百六十五日も彼氏と一緒に居たいからと東山家に居るとか、常人の感性をしていたら、恥を感じて切腹するであろう。
しかし、麗奈は恥を知らない。
好きや愛を知る前に、恥を知って欲しい。
萌花はそう思っていた。
「まあ、秋月さんだものね。名前で呼ばない方がいいかも」
三人は思い出した。
いや、思い出したくはないが。
思い出したからには、語らねばなるまい。

それは、女子だけで集まり、保健体育の授業をやった時のことだ。
みんなで性教育の授業を受けて知る。
どんなに彼氏が好きだとしても、学生恋愛でセックスはしてはいけないものだと教えられていた。
セックスをするとなると、勿論それが恋人同士であり、互いの合意があってこその行為だが、赤ちゃんが出来れば当事者だけでなく親の問題になってくる。
お金や環境。
それ以外にも、多くの人達の人生の軌道を変えなければならない。
学生ならば、最悪の場合、学校を辞めて働くことも考えるだろう。
セックスという名の快楽は、人間が生きる上で必要な行為であり生物の根源ではあるが、社会的な生物としてはデメリットになるのだ。
しかし、この恋のサイコパス。
神すら手をこまねく存在。
秋月麗奈にそれが理解出来るわけがない。
えっ、別に。
互いの両親は顔見知りだから、赤ちゃんが出来ても問題ない。
妊娠したら、逆に喜ばれるだろう。
子は授かりものである。
大切に育てる。
彼女には、人間として大切なものが欠如していた。
モラルである。
母のお腹に捨ててきた。
おぎゃる時から、そんなものは持ち合わせていなかった。
それを知らぬクラスメートではないからこそ、授業の最後に女教師から貰ったコンドームを、みんな麗奈に渡していた。
完全未開封だ。
シュリンク付きである。
ダース単位が必要だ。
彼女は、同人誌でもやらないような、ド変態行為をする人間だ。
もし、そういう状況になった場合、コンドームは足りぬことはあれど、余ることはないはずだ。
彼氏がいない女の子だけならまだしも、よんいち組や黒川さん達も彼女に渡していたのが末期である。

尚、男子側も、みんなハジメに渡していた。
理由は言うまでもない。
生物の生殖行為とは、基本的に死と隣り合わせなのである。
その場合、死ぬのはハジメだ。
この恋の雌は強いのだ。

「あいつ殺しとくか。あの手のサイコパスはいつか絶対に犯罪を犯すからな」
身内から犯罪者を出すくらいなら、殺しておきたい。
萌花なりの慈悲である。
「あまり否定出来ないのが悲しいけど……やめておきましょ。アタシ達が手を汚すのは間違いだと思うわ」
「誰も麗奈ちゃんをフォローしてなくて草」
そんな三人を見て、楽しそうに会話をしているな。
何も分かってないハジメ。
ちゃんと話を聞いていても理解出来ないし、理解しない方がいい。
きたねぇヒロインだ。
頭の中がお花畑で、巨乳しか取り柄がない女が、居ていい世界ではない。
そもそも、ハジメが拾っていなかったらホストに狂っていたか、DV男子と付き合っていたかの二択である。
全裸で土下座してでも付き合ってくださいと懇願するのは、秋月麗奈側だ。
駄目だ。
それすら喜ぶぞ。
そして何も知らない麗奈は、乙女らしくハジメにメイド姿が可愛いと言って貰えるから頑張っていた。
メイド名が、ギャルの分際で人生舐めていやがる。


「はあはあ……」
君のことが大大大大大好きな4人の彼女。
略して4カノ。
運命の人は四人いた。
四股クソ野郎がほざいていた。
頑張って、よんいち組のことを褒めていた。
ハジメは、やり切った顔をしていたが、普通に考えて百個も可愛いところを上げていたのだ。
キモ。
常識的に考えて、百個が限界だ。
如何に可愛い彼女だとはいえ、彼女の可愛いところを一兆個も言えるわけがない。
細胞全部が可愛いけどさ。
人間の細胞の数は37兆個。
ハジメからしたら、37兆個、可愛いわけだ。
言えたわ。
「いや、だから百個でもキモいんだよ」
誰だよ。
野次を飛ばしたやつは。
ハジメが疲れて屈んでいた時に言いやがったのだ。
もっかい百個言うぞ。
風夏ちゃん大好きbot。
途中から、話す内容がなくなり、ファンが上げる風夏ちゃんの大好きなところを述べていたが、雑誌の記事を丸暗記している方がキモかった。
風夏ちゃんの可愛いところを百個も言うのが嫌だったからと、ファンの言葉を借りていたのだろうか。
そう語るが、普通に考えてキモい。
メイド服を着た彼女はやっぱり可愛いのだ。
いつもより素直に褒めていた。
ハジメちゃんが、嫌な顔をせずに褒めていただけで、彼女である風夏ちゃんは満足していた。
どやや。
どや顔も世界一可愛い。
麗奈は、スラスラと言葉が出てくることに憤慨していた。
「私の時は、詰まっていたのに!」
「お前がやば過ぎて、日常的に話せない内容が多過ぎるからだろ」
萌花は、辛辣である。
お前一人だけのせいで、年齢制限が底上げされている。
麗奈が暴走すると、ラブコメという物語が破綻する。
このままでは、
ラブコメ、コメ抜きだ。
汚ねえよんいち組の花嫁だ。
物語の展開が官能小説にならぬように、ハジメと作者が必死に抑え付けていたが、その楔を断ち切ろうとしていた。
人は愛し合って、子を成す。
それのどこが悪いのか。
この恋は、愛を語る物語のはずである。
えっちして何が悪い!
お前、未成年やろ。
みんなしてる。
世界がイカれているだけだよ。
日本だから許されているように思えるが、未成年の子供が性におおらかなのは異常だからな?
そもそもタイトルが、この恋は始まらないなのに、おっ始めるのはおかしいやろがい。

この恋は、始まらない。その後。
~よんいち組とのぜったい厳守☆ラブラブ同棲生活~

最低なテロップ付けんな。
ラノベ作品が商業展開した時に付けるサブタイトルかよ。
麗奈は、浸り顔をしている。
「……同棲もクソも私達に利益ないだろ、それ」
どう転んでも、麗奈だけが得をする作りである。
資本主義社会のシステムかよ。
商業作家が、自分の作品で二次創作をするようなものだ。
エロが好きではないファンからしたら、たまったものではない。
「大丈夫よ。私が率先してカウントを稼ぐから」
ハジメ死ぬだろそれ。
作中最強の性欲巨乳デブの性欲発散に付き合わされたら、雄は生きていられない。
お前が主導権を握ったら、お前の肉厚でハジメが圧死するぞ。
一番考えられる最悪の展開は、騎乗位での圧死だ。
麗奈は自慢気にしていた。
「ほら、東山くんメイド服キメているから、提案するなら今がチャンスよ」
「ちったぁ、情緒とか気にしろよ」
性に目覚めた高校生かよ。
性に目覚めた高校生だったわ。

萌花からしたら、少しは人間の感情である好きとか、愛に関して勉強して欲しかったが、相手は生粋の化物だ。
人の皮を被り、人の言葉を話すが、人の思考を理解出来るわけではない。
学校でも所構わず、好き好きオーラを発する。
はあ、恋人がハジメだからいいものを。
……いや、あいつのせいか。
萌花は、ハジメのことを見る。

メイド服キメていた。
あんなやばい代物、国が率先して規制すべきだろう。


麗奈と萌花が話していた時とは別に、風夏と冬華はメイド服が入っていた袋の中を見ていた。
「あれ? まだ一着残っているけど?」
「ふむ。予備ではないのか?」
「あーね!」
しかし、女の子の予備にしてはサイズが大きく、冬華が着るくらいの大きさであった。
百七十センチとなれば、そもそも冬華くらいしか着られないサイズだ。
女の子の平均身長は、百五十五センチくらいだろう。
そう考えた場合、誰かの予備と考えるのは不思議だった。
「じゃあ、ハジメちゃんのだね」
「なるほど。合点がいった」
メイド服を準備したのはシルフィードだ。
そして、シルフィードならばハジメの分を用意するだろう。

「やめてくれよ、あえて触れなかったんだけど!?」
メイドには男の娘が必要だ。
流石、主人公の鏡である。
クラスの女の子にメイド服を着せて楽しんでいた。
その代価をちゃんと支払わされていた。
みんな、ハジメちゃんが一番メイド服が似合うのを知っていた。
一番いいメイド服を頼む。
大丈夫だ、問題ない。
「問題あるわぁー!!」
女装せぬように念入りに根回ししたのに、どうしてこうなったのだ。
この一件に、メイドさんとジュリねえが絡んでいた以上、こうなるのは必然だった。
ハジメは、殺意を覚えていた。
ハジメの思考の中では、二十代後半と三十代前半が手を取り合ってダンスをしていたのだ。
他人に女装させ、幸せそうにしていやがる。
しかし、今現在、どうやって復讐するか考える余裕はない。
「ほら、せっかく用意した十数万円のゲーミングメイド服が勿体ないでしょ」
ハジメの周りには、敵しかいない。
クラスメート相手にメイド服キメながら、好き勝手していたせいだ。
叫び声を上げる。
「メイドー!!」
こんなにも愛していたメイド服が、自分の愛に背いてきた。
ハジメは、この時初めてメイド服を嫌いになったのだ。
「……嫌いになんて。なれるわけがないだろうがぁ!?」
ハジメにとってメイド服は性癖ではあるが、それだけではない。
メイド服とは、みんなとの出逢いのきっかけであり、大切な繋がりなのであった。
文化祭にメイド喫茶をしていなかったら、俺達はこんなに仲良くなっていないはずだ。

三馬鹿は呟く。
「だから、何でシナリオの中枢にメイド服があるのよ」
「邪な気持ちだけで生きている人も珍しいわよね」
「メイド要素抜いたら、東っち個性ゼロだもんね~」
メイドがない東山ハジメとか、個性がなく真面目なだけな主人公だ。
令和最新版ラブコメには相応しくない。
「結構、空気読めないもんね」
「クズ発言多い」
「こいつ、あたし殴る」
中野に関しては、何度も注意しているにも関わらず、勉強せずに遊び呆けているから悪いのだ。
ハジメには正当な理由がある。
しかし、クズである。
殺人以外は何でもやっている。
右も左も知らない高校生に、ハンター✕ハンターとトリコと呪術廻戦を教え、ファンに高度な洗脳教育をしているような人間だ。
こいつのせいで、お嬢様学校で、ジャンプの回し読みが流行っているのだ。
真面目なわけがない。
嫌われる要素しかない。
というのか、普通に考えたら女の子にモテるような性格ではなかった。
だから、誰もハジメを助けなかった。
嫌がるハジメをメイド服に着替えさせて、女装させてネットにばら撒く。
そうすると、ハジメはファンから弄られまくる。
それで少し、我々女子の溜飲が下がるというものだ。

「女子も全員、性格悪くて草」
男子の反応は尤もであった。


ハジメがメイド服に着替える。
黒髪ロングのウィッグに、風夏ちゃん仕込みの完璧な化粧。
高身長に赤い口紅が似合う最高にクールなメイドだ。
首元には喉仏を隠すように黒いチョーカー。
大きくてごつい手を隠す為に、白い手袋をしていた。
それでも、男性故の高身長だ。
髪型や化粧、洋服で如何に女の子っぽくしていても、存在感は隠せない。
こちらを睨み付ける目線は、病んだ目をしていた。

やべ、ハジメちゃん。最近可愛くなってきやがる。
睨み付けられていた男子は、みんな照れていた。
男の子娘だが、可愛い。
メイド服といえば、ハジメちゃん。
ハジメちゃんといえば、メイド服だ。
一番メイド服を愛している人間が、似合わない道理はないだろう。
贋作が本物に劣ると誰が決めた。
女の子より可愛いじゃないか。
ハジメは、誰よりもメイド服を愛し、誰よりも着こなしていた。
ちゅっちゅ、ちゅっちゅ。
可愛いですねぇ~。
誰の感想だよ。
熱烈な感想を、意識だけで飛ばしてきていた。
「はあ、もういいだろ……」
ハジメの女装させられた苛立ちから見せるのは、男性的なモデル立ちだったが、それが妙に性別のギャップを生む。
男の娘属性に、クーデレ属性まで乗っかっていた。
しかも高圧的な態度に、わからせ属性まで付いている。
性癖のねるねるねるねだ。
ハジメという存在は、ねればねるほど美味くなる。
黒く美しいヴィクトリアンスタイルの長いスカートの下には、男の子のお○ん○んがある。
それさえなければ完璧なメイドだっただろう。
いや、しかし考えてくれ。
実物を見なければ、それはもう女の子と変わりない。
シュレディンガーの猫だ。
この場にメイドリスト、アマネが居たのであれば、スカートの中に入り込んでいただろう。
お○ん○んらんどですわ。
小さな子が、子供キャンプに乗り込む感覚で、スカートの中を覗いて犯罪を犯していたはずだ。
または、行き付けの居酒屋の暖簾をくぐるようなものだっただろう。
クラスメートは思っていた。
ガチの変態と比べたら、自分達はまだ、まともなのだと。
ハジメちゃんが可愛いと思うくらいは問題なかった。
変態度数、パーメットスコア6のオタクを比較対象にするのは間違いだが、文化祭はこの物語の集大成だ。
知り合いには、文化祭のチケットを配っている。
数々の変態が文化祭に訪れ、相見えるのは決まっている。
その全ての変態からの視線を一身に受け、自分の彼女を助けるハジメの勇姿に、涙を禁じえない。
う、嬉しい過ぎる……。

……そもそもハジメがいなかったら、こんなことになっていなかったが。
化物連れてきているのはハジメである。
それでも、彼女の代わりに過激なスケベ受けているのを見ていると、ハジメが悪いとは言えなかった。
男子は思う。
ハジメがアホなほど、相対的にクラスの俺達はまともに見えて、女の子からの評価が上がる。
寝かせるだけで上がる資産ほど嬉しいものはない。
それに、クラスの女の子と会話する機会も、ハジメが居たから増えたのだ。
感謝している。
旅行のサウナで殺され掛けたり、体育祭の騎馬戦で捨て身特攻させられたり、カブトムシを採りにいって遭難し掛けたのは、全てハジメのせいだったが、我々はすべてを許そう。
可愛い女の子の前では、最悪な過去は忘れてしまうし、嫌な気持ちにはならなかった。
喜びしかない。
普通の高校生には、メイド服の属性はないけども、何度も触れていたら好きになってしまうものだ。

それを聞いていたハジメ。
渾身の一手を打つ。
「お前ら、アマネさん達のイベントよく行っているらしいもんな」
きぃ~、クズメイド。
何でクラスの女の子にバラすんだよ。
今この場で言ったら、年上のお姉さん方に浮気していたようなものだ。
男子達は、クラスの女子にバレないように隠していたせいか、もっと引いていた。
年上のお姉さん達が、可愛い格好をして美味しい紅茶を淹れてくれる。
年下の俺達に、優しい笑みを浮かべてくれる。
彼等とて、思春期の男の子だ。
その優しさはとても耐えられない。
クラスの女子とも上手く話せないのに、優しくして会話のリードをしてくれるのだ。
何度も通ってしまうものだ。
お小遣いやバイト代。
お年玉も使うやつもいた。
「お前ら、キャバクラって言葉を知っているか? 普通、金貰っていたら優しくするだろう? ガッツリ、ハマんなよ」
ぶん殴る勢いで正論をする。
やめろよ。
今、そんな言葉は聞きたくない。
現実を見せないでくれ。
他のやつも他のやつで、隠れてシルフィードに通っているらしく、もっとちゃんとしろと、ハジメは言葉責めしてくる。
尊厳破壊系メイド。
クラスの女子の前でわからせ属性を発揮してくる。
女装したハジメが言うと、そういう属性にしか見えないのだ。
他の女の子に夢中になったり、知り合いに迷惑掛けるなと注意する。
あ、これツンデレだ。
多分、俺達のことが好きなんだ。
「お前らは俺の何なんだよ……」
そもそも、女装して説教しているお前が何なんだよ。
主人公面すんな。
しかし、ハジメちゃんの見た目が女の子のせいか、下手に暴言を吐いたり、手を出せない野郎共である。
所詮は、一人でエロ本も買えないようなヘタレだ。
男達は、顔を赤らめる。
「まあ、親友だしな……」
きっしょ。
なんで照れるんだよ。
女の子の時より、元気がいい反応であった。
クラスの可愛い女の子は、ハジメに負けたという事実。
それにブチ切れていた。
……私達はハジメ以下かよ。
しかし、男子からしたら、いつも世話になっているハジメの方が大切だ。
男とは、社会性を重視する生き物だ。
何度も世話になっている以上、ハジメに借りを返さねばならない。
理由は何であれ、みんなのメイド姿を見て、文化祭を頑張ろうと思うのだった。


ハジメは逆に冷静であった。
誰かが騒がしいと、逆に達観するものだ。
近くに居た中野ひふみは、ハジメに話し掛けてくる。
「東っち、自分のメイド姿には発情しないの?」
「いや、自分で自分を可愛いと思っていたら、頭おかしいだろうが」
「いや、東っち異常者じゃん」
女装した自分が理想の女の子という人間もいるが、ハジメはメイド服が好きなだけだ。
自分が好きなわけではない。
だから、自分がメイド服を着ても興奮はしないし、特に冷静さを損なうことはなかった。
他の者からしたら、それがより異常地味ていた。
女装した私って可愛いと言ってくれた方が異常だが、正常なのだ。
女装したハジメは、ハジメママみを帯びている。
姿かたちが似ていた。
半分はママの血が流れているのだ。
イケメンではないが、整った顔立ちは母親の遺伝子が強い。
幸か不幸か。ハジメが女装したら、自然と似るのは当たり前である。
ハジメからしたら、母親に似た自分の姿を好きになるわけがない。

「ほーん。東っちって、ロリ系好きだもんね」
「お前、頭かち割られるぞ」
誰のことを言っているのかは分からないが、中野ひふみは不穏なことを言っていた。
別にロリ系が好きではないのだが、教室のみんなが聞いているからか下手な発言は出来ない。

遠巻きに聞いていた麗奈は納得する。
「だから、私には手を出さないのね」
「お前とは違ってモラルがあるからだよ」
モラルがあるせいか、萌花の負担がかかる。
現実はエロ同人ではない。
そんな簡単にえっちな展開にはならないし、手を繋いだりキスをするわけではないのだ。
全ての元凶は、作者がこれぞラブコメという気の利いた展開を用意出来ないせいだ。
文化祭編で、メイド服キメている場合ではない。
この作品で、一番気合いの入ったメイド姿をしているのはハジメであったり、主人公のメイド服の描写を増やしている暇があったら、可愛い女の子を映せ。
まあ、理屈は分かる。
だが、文化祭編でメイド服が一番似合うキャラに焦点を当てた場合、ハジメちゃんになるのは必然だ。
作者だってちゃんと考えているのだ。

「中野、この展開はちゃんと伏線回収する為に必要らしいぞ」
「この作品にプロットとかねぇから!! メモ帳見ろ、メモ帳!!」
最近、物語の整合性が取れていないから、今後の展開を全て書き写して管理しろよ。
無駄に話数を稼いだり、おまけを追加する暇があったら、メインキャラを映して欲しい。
あと、毎回ジャンプの話をするな。
ジャンプの展開を見てからネタ増やしてんのバレているからな。
流石に、これ以上ふざけているとアルファポリスされるぞ。

「それは同意だ」
ハジメは、うんうんと頷いていた。
「オメーが勝手に喋っているんだろうが!!」
張り手すんな。
女装した男の娘でも殴るのは不味い。
ハジメの唇が切れて、血が出ていた。
「ごめん……」
流石の中野も謝る。

「東山くん、私が拭いてあげるわ」
それを見ていたクレイジーサイコレズ。
この作品の悪性変異種。
秋月麗奈だ。
変態が出てきた。
ハンカチで彼氏の血を拭いているだけだが、不穏な空気が流れていた。
何も知らない人からしたら、彼氏思いの献身的な態度ではあるが、クラスのみんなは知っている。
やばいやつの数倍やばいやつだ。
麗奈は、血の付いたハンカチを綺麗に畳んで締まっているあたり疑わしい。
大切に保管すんな。
「血液は感染症のリスクがあるから、やめとけ」
「え、何の話??」
私が舐めて上げるわ~。
ちゅっちゅちゅっちゅ。
彼氏の傷口を舐める、恋する化物。
暴走して、そんなことをやりかねないのが秋月麗奈だ。
「いや、そんなことしないわよ。別に血液には興味ないし」
人が血を流すのは好きだが、流石に彼氏が唇を切ったなら心配する。
麗奈にも普通な部分もあるのだ。
どこがだよ。
しかし、傷付けた中野は死ぬ。
大好きなハジメちゃんを傷付ける女は死ね。
殺気立って、中野ひふみに詰め寄る。
「でもアタシが怪我させたから、可愛い彼女が優しく介抱して上げるシチュが出来たじゃん」
「確かに」
確かに??
納得すんな。
彼氏が怪我するのは嫌だが、しかしながら、ハジメちゃんの介抱するのは好き。
基本的にドSだが、潜在的にドMである秋月麗奈からしたら、中野の失態は有り難い展開になっていた。
尽したい系女子からしたら、怪我したハジメちゃんを介抱していると幸せに満たされる。
ドーパミンが出てくる。
萌花は、語る。
「……ただの依存症じゃねえかよ」
怪我させることで、自分よりハジメの立場を低くして、献身的に介抱する私はこんなにも彼氏を愛していると、優越感に浸っているようなものだ。
化物じゃん……。
ゴリゴリの怪物である。
令和最新版サイコパスやんけ。
実際に、麗奈にはそんな気持ちはないが、そう思えてくる。
月日の積み重ねって残酷だね。
発言一つで全てを失う。
クラスのみんなに、真面目に生きることの大切さを教えてくれるのだった。

とはいえ、麗奈だけではなく、他の女の子だって、好きな人ならば介抱したいと思うものだ。
東山ハジメは、あまり怪我をしない。
ハジメママに、丈夫に産んで貰っているため、はがねタイプみたいな肉体強度を持つ。
風邪は全然引かないし、彼女に殴り飛ばされてもピンピンしている。
馬鹿だから。
そもそも風邪は引かねえよ。
そう思う気持ちは分かる。
だがまあ、理由はなんであれ、ハジメが風邪を引いて看病する機会はあまりない。
趣味と仕事に追われていても、弱味を吐いたりぶっ倒れないあたり、男としてはかなり優秀である。
女の子は男が守るもの。
ハジメなりに頑張っていて、よんいち組には弱味を見せないようにしているのかも知れない。
男はタンスの角に小指をぶつけた時以外は泣かない。
あれでも育ちがいいから、そういう部分があるのは認めよう。
だが、彼女を頼りにしてこないのは気に食わないものだ。
よんいち組だって、ハジメが頼ってくれたら絶対にサポートをするつもりだし、三日間熱を出して倒れた際には代わりを務めるだろう。
好きな人の為に働きたい。
恋愛とは無償の愛だ。
しかし、最愛だって突き詰めると、ギブアンドテイクでもある。
好きな人を大切に思っているから、大切に思い。
好きな人が頑張っているから、好きな人に追い付きたいと思う。

だが、ハジメの馬鹿は、そんなよんいち組の気持ちを察することは出来ないのだった。 
「いや、風邪引いている時に構われるのは嫌なんだが」
母親みたいで邪魔。
……すみません。
よんいち組に、バチクソ睨まれていた。
良い女は目で男を落とす。
好きな人だからこそ、言葉を交わさずとも、言いたいことが分かるのだった。
ハジメは、思う。
誠心誠意、土下座をして念入りに練ったデートをすれば許してくれるだろう。

「今からデート回で、四回話数を消費すんのやめてや。文化祭に集中してや」
ひふみには、文化祭の準備を血反吐を吐いてでも死ぬ気でやれと言っておいてこのザマだ。
ハジメは真顔であった。
「死ぬんだよ」
「は?」
「お前、あいつら怒らせたらどんだけ怖いか知っているだろ?? デートは必須なんだよ」
「死にたくないからってデートする主人公の姿なんて誰も見たくないやろ」
普通に楽しく可愛い女の子とデートするストーリーを見せろよ。
「普通のデートなんて、スカイリムみたいに全てのテナント回って何も買わずに帰って来るようなものだぞ」
ショッピングモールなんて、三階建てだし、数十のお店を全て見ているだけで体力なくなって死ぬ。
「どのみち死ぬんかい」
ショッピングで疲れるとか、体力ないオタクである。
その割には、色々出掛けているみたいだし、この前は姫ちん達と遊んでいたらしい。
ひふみとは遊ばないから、不満があるのだ。
「いや、中野は学校だけでいい」
「アタシは学校限定キャラかい!?」
「お前のコープは学校限定なんだ」
中野ひふみの会話イベントは学校だけでいい。
五月蠅いから、夏休みにだって見たくない顔だ。
「何でだよ。夏休みに、暇だから遊びに行こうって誘ったやん!」
「当日の午後二時に言うなよ。普通に仕事入れたわ!」
「風夏ちゃんなら、やれやれ仕方ないなぁ……みたいな顔してるじゃん」
世界一可愛い読者モデルなら、優しくするんか。
女の子は顔なのか。
美人以外には人権はないのか。
風夏ちゃんが生まれて、世界の均衡が崩れた。
私達は自由だった。
「いや、小日向とお前は同い年だろ。あと、女の子は性格だぞ……。それでもまあ、中野では太刀打ち出来ないがな」
ハジメは、笑っていた。
フッ。
「ちいかわやめろや!」
条件反射でハジメを殴り飛ばすもえぴであった。
キャラ切り替え攻撃みたいな乱入してきた。

「やったぜ、萌ちゃん。もえぴは最高だぜ!」
うおおお。
ヒャッハー。
ひふみは、大きく飛び上がって歓喜する。
女装したハジメを殴り飛ばす萌花に、同じ女の子として痺れるし憧れる。
さすもえ。
暴力系ヒロインが衰退した時代で、容赦なく彼氏に暴力を振るうあたり、女の子としてかなりの勇気がいるのに、萌花は気にしない。
ヒロイン人気投票で人気がなくてもいいのだろうか。
いや、もえぴはそんな些細なことは気にしないだろう。
ハジメを殴るのに躊躇いはない。
女装していても主人公なら、暴力しても問題ないしね。
うんうん。
暢気に構えている中野の眼の前に立つもえぴ。
「てめぇもだよ!?」
「トランプル?!」
二人して萌花に殴られるのだった。


同日。
メイド服から制服に着替えてからの帰り道。
ハジメと麗奈は二人して仲良く会話を楽しんでいた。
時間も経ち、太陽が落ちてきた。
夜遅くなる前に他のクラスメートと別れる。
「……」
こうして、二人して肩を並べて帰るのは久しぶりな気がする。
十数分の道のりでさえ、秋月麗奈にとっては貴重な時間である。
図々しく、東山家にお邪魔していても、ハジメと二人っきりで話す機会は珍しいのだ。
好きな人の周りには、人がいっぱい居て、騒がしい日々は楽しかったが、大切な人と静かな場所で一緒に居たい時がある。
そう思う普通の女の子なのだ。
いつもはイカれていても、たまには気落ちすることだってある。
何故、彼は私を好きになってくれたのか。
それは不確かだが、それでもいい。
地平線の彼方に太陽が落ちていき、薄く明るい色を見ながら帰る。
マジックアワー。
薄明だったか。
そう名付けた人の気持ちが少しだけわかる気がした。
今この時が幸せなら、人は満足するらしい。
麗奈は、自分の髪をなびかせ、太陽の先を観る。
綺麗な景色。
知らない景色。
好きな人が隣りに居なかったら、今頃携帯を見ていて気付かなかったはずだ。
「秋月さん、どうしたんですか?」
「ううん。何でもないの」
麗奈は気付いていた。
多分、これが儚いから、いつもより綺麗に思えてくるのだ。
携帯の音が鳴り。
自分の母親から電話が来る。
内容はこうだ。
アメリカに来なさい。
それだけだ。
家族が米国に居れば、いつかは私も行かなければならない。
分かり切っていたけれど、言葉として聞くと頭の中が真っ白になる。
だって、私の居場所はここであって、あっちではない。
家族だからと一緒に居る理由はないし、ずっと一緒に居なかったのならば、別に今まで通りでいいではないか。
いくら父親の仕事が軌道に乗り、海外で本腰を構えるにせよ、娘である私には関係ない。
日本に一生戻れないとか、知ったことではないのだ。
だとしても、今の私には、自分の母親に罵声を浴びせる余裕もなく、その事実に私になんの関係あるのか知りたかった。
両親には愛されていたし、生活は裕福だったし、地元の高校に進学させてくれたことには感謝していたが、こればかりは同意出来なかった。
だって、今が一番幸せなのに。
何で私の両親がそれを奪うのか。
私のことを誰よりも愛しているって言ったのに。
ハジメは、塞ぎ込む麗奈の肩を叩き、正気に戻させる。
「とりあえず、家……。いや、ファミレスにでもいきましょう。話はその時にゆっくりしてもらえるように言って下さい」
優しく語る口調は、事を荒立てないように気遣ってからのものだったが。
内心は、かなりキレていただろう。
その姿を見て、少しだけ。
麗奈の中でまとまらなかった不安が、和らぐような気がしたのだ。



愛している。
それは、みんな同じだ。
そのかたちが違うだけで、人は自分のすべきことをしようとする。
家族が一緒に居られる方がいい。
普通の親ならば、そう考えるだろう。
ファミレスのテーブルで、麗奈とハジメは隣同士になり、テレビ通話をする。
皮肉にも、麗奈には自分の両親とファミレスに行った記憶はあまりなかった。
その時に両親の顔もあまり覚えていない。
テレビ通話で顔合わせし、見る両親の顔は、少しだけ老けたような気がした。
店内は少々騒がしく、それでもその煩しさが自分の心を現実に留めてくれる。
『ハジメちゃん、久しぶりね』
「ええ、元気そうで何よりです」
麗奈ママは、自分の娘よりも先にハジメに話し掛けた。
娘が狼狽えていたからか、ハジメから落とす方が早いと判断したからかは定かではないが、正しい判断だろう。
いや、それでも麗奈に話し掛けた方が話が早かったが、麗奈ママなりにも娘に対しての後ろめたさがあった。

せめて最後にまで地元の学校に通わせてあげたい。
その思いから、娘をずっと一人暮らしさせていたが、そうも行かなくなった。
高校卒業後に両親と一緒に住むのは前々から決まっていた。
一年の時に決めていた。
だが、ハジメと出逢ってから、その計画はややこしくなってしまった。
普通の学生恋愛で、普通の恋人同士ならば、環境が変わったからと彼氏と別れておしまいの話ではあるが、そうもいくまい。
本気と本気がぶつかり合う。
命の奪い合いだ。
麗奈パパは、どうしても自分の愛娘と暮らしたいと語り、苦労はさせないと言ってくれたが、論点はそこではない。
あくまで秋月麗奈がどうしたいかを決める話し合いだ。
今この場で決めると高校を途中で辞めることになる。
無論、転校するのは文化祭が終わった後になるが、それだけで解決する話ではない。
麗奈パパは、何とかして娘と一緒に居たいらしいが、麗奈ママはその言葉に苛立ったのか鋭く睨み付ける。
自分の妻は怖いのか、黙り込む。
パパとママ、二人の思惑は違うようだ。
『私の言いたいことは、先ほど語った通りよ。私達が今後日本に移り住むことはないし、一緒に暮らすにはアメリカに来るしかないの。私個人の意見としては、麗奈にはアメリカに来てほしい。だって、家族が一緒に住むのは当たり前でしょう?』
その当たり前が出来て居なかったから、今のこの瞬間がややこしくなっていたのだ。
ハジメがこの場に居るのは、それが理由である。
今の自分が、東山家。家族の代わりだ。
東山家として立ち会いをしている。
いや、そこまでおこがましくはないが、それだけの責任を負っている。
ハジメもまた、苛立ちを隠せずにいた。
しかし、この場は話し合いの席であり、殴り合いをする場ではない。
流石に、彼女の両親は大切な存在であり、画面越しの人間は物理的には殴れないので、静かにしていた。
そうするにしても、パスポート申請して飛行機に乗るレベルでキレたらでいい。
「でしたら、一旦家に持ち帰り、家族で話し合いをしてからでいいですか?」
『あら。麗奈の家族は私達でしょう?』
「話し合いだからこちらは席に着いているだけで、話し合いをするつもりがないようでしたら、平行線を辿りますがいいんですか?」
『彼女の眼の前だからって恰好を付けたいのは分かるけれど、子供なら子供なりに大人に対して口にする言葉は選んだ方がいいと思うわよ』
「先人としての品位がない人間の方が、些か子供かと思いますが?」
『最近の子は、年上を敬う心はないのかしら』
「俺の人生には、尊敬する人も目指すべき人もいますが、それが貴方ではないだけです」
『クソガキが……』
ファミレスの空気を二人だけで悪化させていた。
画面越しだと言うのに殺意を飛ばし合う。
ブチ切れる二人を見ている外野は、静かにしているしかない。
初めてみるママのブチ切れた姿に萎縮しているパパである。
それを見ると、麗奈ママは余計に苛立つのだった。
目を細め、眉間に皺を寄せていた。
『てめぇは使えねぇな。そもそもこうなった原因はお前の不甲斐なさだろうに、何今になって娘と一緒に暮らしたいだよ。カスがッ』
『えっ、ママは俺に付いてきたじゃないか』
『てめぇみたいなカスと麗奈を比べた場合、麗奈に一人暮らしさせていた方が安心だからに決まってんだろうが。なにてめぇは妻に愛されているから着いてきたと勘違いしてんだよ。お前みたいな男は、他人より金を稼いでなきゃ、大した価値もねぇだろうが』
流れ変わった?

「……元ヤン?」
ハジメは、その時に自分の母親のような既視感を覚えていた。
「えっ、なにこの話。私の人生の佳境だよね?」
「ごめん」
とりあえず、謝るハジメであった。
『はあ、だりぃからもういいわ。どうせ、長期戦になったらこちら側の勝ち目が薄いのは分かり切っていたし。おい、クソガキ』
「押忍……」
『私の麗奈が好きか?』
「あ、はい」
『煮え切らねぇ態度を取んなよ。男だろうが。短歌切った分、ちったぁ浮ついた言葉くらい使えや』
「この世の誰よりも愛しています。それだけは嘘偽りはございません」
『嘘だったら殺すからな。もし期待を裏切ったら、てめぇの小せえ脳天と心臓に銃弾三発ずつ撃ち込んでやるから覚悟しろや』
コロラド撃ち。
いや、頭部や心臓に一発ブチ込めば大概の人間は死ぬ。
それでも三発撃ち込むと発言した覚悟は、それほどまでに自分の娘のことを愛しているからだ。
『あと、麗奈』
「押忍……」
『こっちに来ないなら、今のマンションは売り払うし、生活費は必要最低限しか渡せないが、それでもいいのか? 今の生活水準よりもかなり下回るし、バイトしないといけなくなるが構わないよな??』
麗奈は考える。
今でさえ、家族とは何なのか分からない。
しかし、少しだけ分かることは増えた気がした。
「大丈夫」
麗奈は、自分の中の躊躇いを捨てた。
これは自分の人生なのだ。
好きな人に助けを求め、悲しんでいても何も始まらない。

「だって、家族が一緒に住むのは当たり前だから」

自分の家族と一緒に暮らす幸せよりも、失うものの方が多くなっていた。
全てを愛している。
この世界の中心は、この場所なのだ。
実の娘のように愛してくれる人。
私の為に怒ってくれる親友もいる。
この場所には、たくさんの美しい景色がある。
それがどれほどの奇跡かは、何十年後にだって分からないくらいにいっぱいあるのだろう。
私は、飽きるまでこの場所に居たい。
死ぬまで居たいし
『そうね……。まあ、生きてれば何とかなるでしょ。私達は助けには行けないけど、もし困ったならば、貴方が頼れる人を頼りなさい』
「ママ……」
二人して笑い合う姿。
麗奈は、確かに家族が大好きだった。
普通の家庭とは少し違い、距離は遠くとも、どの家庭よりも愛されていたことには変わりはない。
麗奈は母から教えてもらっていた。
家族として会える機会はなくなっても、心は通じている。
それだけは真実だ。
母娘の愛に、感動するハジメであった。
「なんて、ええ話や」
ファミレスの人達も感動していた。
色々と紆余曲折はあったが、しんみりした空気は物語の終わりを感じさせる。
麗奈のことを庇い止めたわけでもなく、ハジメの功績は全くなかったが、この場に居てよかったと思う。

『あと、てめぇらは、第二ラウンドだからな』

ファミリーレスリングやんけぇ。
娘は許す。
しかし、お前らは許さない。
全然キレていらっしゃる。
何なら、しんみりからの沸点ギリギリのラインであった。
彼女の母親に目を付けられたハジメの今後にこうご期待である。
『つか、てめぇもてめぇだ。娘と一緒に暮らしたいとか何とか散々抜かしておきながら、毎日のように職場のパツキン美女と生ハメ……』
麗奈は、通話を即座に切る。
ああ、家族とは一生会うことはないだろう。
麗奈は、静かに泣いていた。
何で最後の言葉があれなのか。
本気で泣いていた。

この日の夜はとても寒く、麗奈はハジメママに寄り添って寝る。
誰だって一人でいるのは寂しいから。
母の愛に抱き締められて、疲れて眠るまで涙を枯らすのだった。


おまけ。
「ワッ、化物だ!」
クラスメートは、秋月麗奈の姿を見て逃げ惑う。
なんかちいさくてかわいいやつ。
一日あれば十分だ。
恋する乙女から、恋する怪物に成り果てていた。
愛は人を変えるが、それが歪である場合もある。
今までの秋月麗奈は、好きな人と絶対に結婚したいくらい好き。
そんな可愛げのある表情だったが。
それからジョブチェンジしていた。
好きな人の赤ちゃんを絶対に産みたい。
孕みたい。
着床したい。
そう本能が告げた瞬間、持っていたコンドームを全て燃やした。
赤ちゃんを産む機械だ。
キラーハジメマシーンだ。
ハジメちゃんのことが、サッカーチームが作れるくらいに好き。
毎年赤ちゃん産みたい。
永遠にイチャイチャしていたい。
赤ちゃん~。
ヒロインとして、完成していた。
真実の愛を知る秋月麗奈に敵はいない。
萌花は、語る。
「いや、こんな化物、文字だけの作品でも日の目に出せるかよ」

この恋は始まらない。
秋月麗奈ルート完。

「ちょっと待ってよ。まだ終わってないわ!」
「いや、もう終わりだろ。人生が」
人生が??
人生が。
これからでしょ。
私の幸せな結婚。
「そのタイトル使うな」
「だって、好きな人に助けてもらって、離れないで欲しい。ずっと一緒に居てくれって言われたら、とっても好きになるでしょ!?」
言ってないけど。
まあ、ニュアンスはそんなもんだが。
だからって、遺伝子ほしほしヒロインにはならないんだよ。
赤ちゃん欲しいからと、主人公の遺伝子を追跡する。
B.O.Wかよ。
女の子なら、誰よりも幸せになりたい。
幼い頃に夢に見た。
綺麗なシンデレラになりたい。
世界一の愛を知りたい~。
秋月麗奈の愛は、暴走していた。
恋の病とは悲しいもので、クラスではかなりの優等生である麗奈の脳みそにデバフが掛かっていた。
「元々頭わりぃだろこいつ」

もえぴ、正論やめてや。
萌花以外は誰も口にはしないが、セックスを愛とは呼ばねえんだよ。
カスみたいな恋愛要素が乗っかった少女漫画ばかりを見ているからそうなるのだ。
セックスは愛じゃない。
ハメて愛が芽生えるのは結婚指輪だけだわ。
そんな物理的な繋がりなど、この世界ではなんの意味も成さない。
我々が思っている以上に、人間とは、もっと複雑なのだ。
好きだから、一緒に居たいわけではない。
恋をしているから、特別になるわけではない。
恋人だから、将来を誓い合い。
結婚したから、永遠の愛を誓うわけではない。
人は、出逢った時から、大切な人になる。
そう運命付けられているのだ。

ずっと昔。
ハジメと麗奈が初めて出逢った頃。
麗奈が、家族がいない一人の家に帰る際に、悲しそうな顔していた。
ハジメはその手を取り、一人にしないと一緒に進み出した時から、二人の運命は決まっていたと言える。
普通の人ならば、そんなことで運命を感じる音は聞こえてこないだろう。
しかし、彼の両親がそうだったように。
ハジメパパとハジメママとの出逢いは二人と同じ帰り道だった。
選択肢すら出てこない何気ない出逢いが、私達の運命であった。
ハジメママはそう語る。
些細なきっかけであろうと、いつしか大切な存在になり、家族になって、最愛となる。
夫婦になるには、激的な展開をし、苦難を乗り越え、そして好きになる必要はない。
この世界で、私達が出逢えただけで、かけがえのない奇跡なのだ。
東山ハジメにとっての秋月麗奈は、そんな存在だった。
そして、秋月麗奈にとっての東山ハジメも、そんな存在だった。
親から子へ。
出逢いのかたちは、まるで母娘の写し鏡のようである。
人は、生きている限り同じ道を歩むのだろう。
両親の出逢いを知り、自分の人生にそれを重ねて愛を知る。
未来の私は、また貴方に恋をする。
家族のかたちを見て、愛を感じている限り。
永遠に、この恋は繰り返される。
家族とは。
人の生きる系譜だ。


この恋は始まらない。




秋麗、あきうらら私の物語はこうして終わりを告げ。
一つ歳を重ね、大人になっていく。
新しい家族のかたち。
私が初めて知る愛。
血よりも濃い愛を感じて、精一杯この場所で生きていく。
涙を流すほど、悲しい日もあれど。
大切な思い出を抱き締め。
心には美しい変化を。
そんな私が観る景色は、とても美しく。
黄色い葉は、次第に赤く色付いていくのだった。

私の季節が終わるまで。
ずっとこの景色を眺めていたい。


次の季節。
冬の華が降るまでは。

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