Shine

水原渉

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 それから数日が過ぎた。パパが思うほど二人の仲は良くならなかったが、菜沙はもう積極的に翠を追い出そうとはしていなかった。パパはそれで満足していた。
 しかし、菜沙は決して翠に心を許したわけでも、滞在を認めたわけでもなかった。ただ、口を開くと逆に飲み込まれるので、口も心も閉ざすことにしたのだ。二人きりで家にいるときも部屋に閉じこもり、翠とはほとんど口をきかなかった。
 菜沙はそれで翠が悲しむと思っていた。それは自分が好かれているという自惚れだったが、そんな期待を裏切るように、翠は気にする素振りを見せなかった。時々残念そうにはしたが、いつも笑顔だった。
 翠は強がっているだけだ。今にまた、わんわん泣き出すに違いない。
 菜沙はそう信じていたが、だんだん強がっているのは自分だということに気付き始めた。思い通りにならない翠への苛立ちは落ち葉のように積もっていった。
 いよいよ翠が登校する初日、一人でさっさと出て行こうとした菜沙を、パパが呼び止めた。
「菜沙、翠を連れて行ってあげなさい」
「えー……」
 菜沙は乗り気がしなかったが、懇願するようなパパの眼差しに耐えられず、渋々承諾した。
 出発が遅れたので加藤君には捕まらなかった。一歩後ろを歩く小さなママに、菜沙はそっけなく、けれども絶対に反論を許さない口調で言った。
「ミドリちゃん、みんなの前で『ママ』だとか言わないでね」
「うん、言わない」
 即答され、驚いて振り向くと、翠はどこか憂鬱そうに斜め下を向いて歩いていた。そして菜沙の視線に気が付いて顔を上げる。笑おうとして、すぐにまた目を伏せた。
「なじめるかなぁ、学校」
 菜沙は複雑な顔をした。笑顔の翠は嫌いだ。いつも泣き顔を見たいと思いながらも、いざこうして弱気な顔をされると、胸がちくりと痛む。
 これは良心だ。別に翠個人が好きなわけではない。なんて難しいこと、小学3年生が考えるのだろうか。この小説、どう考えても無理がある。主人公は中学生くらいにしたかったが、先に『ママは小学4年生、パパは32歳』というアホな設定があったからしょうがない。
「さぁ……。いじめられてたの? 前の学校で」
「そうじゃないけど……」
 今度も即答だった。嘘ではないようだが、何かあったのは間違いない。問いただしたかったが、集合場所に着いてしまった。
 みんなが不思議そうな顔で二人を見た。知っている子供たちは興味津々の眼差しを向ける。ママの一人が言った。
「翠ちゃんね? うちの香苗のこと、よろしくね。ほら香苗、ご挨拶は!」
 2年生の香苗ちゃんが、少し怯えながら「おはよー」と挨拶をする。翠は笑顔で挨拶を返し、ママたちにも丁寧にお辞儀した。
「礼儀正しい子ね」
「目元が菜沙ちゃんに似てるわね。本当の姉妹なの?」
 翠が否定するより先に、菜沙が刺々しく言い放った。
「違うわ。あたしはミドリちゃんみたいなお姉ちゃん、要らない!」
「そ、そう……」
 気まずい空気が流れた。ママたちはもう、二人の方を見ようとしない。菜沙はそっぽを向いて、翠を置いて保奈ちゃんに駆け寄った。一度だけちらっと振り返ると、翠は明るく笑っていた。
 ああ、大丈夫なんだと、菜沙は残念に思った。
 やがて班長が名前を呼び始めた。菜沙はフルネームになり、翠は「島内翠」と呼ばれた。翠が「はい」と言うより早く、菜沙が声を上げた。
「違うわ! ミドリちゃんは前の苗字を使ってよ」
 班長が驚いた顔をした後、気を悪くしたように口をへの字にする。上級生の子は苛立った顔をし、小さな子は怯えた。菜沙は気にしなかった。ただ一人、翠は笑っていた。
「じゃあ、お前が『本田』にしろよ。同じ苗字が嫌なら」
 怒ったような加藤君の声。数人が賛同し、菜沙が大声で反論した。
「イヤよ。あたしはパパの子なんだから! パパの子供じゃないミドリちゃんが自分の苗字を使えばいいんだよ!」
 このガキ、張り倒していい?
 いよいよ壮絶な殺し合いに発展しようとしたその時、とうとう翠が口を開いた。
「ごめんね、みんな。ちょっと喧嘩してるの。いつもはこうじゃないんだけど。仲直りするまで、わたしのことは『沢村』でいいから」
 その一言で、険悪なムードはたちまちなくなった。さしもの菜沙も、完全に言葉を失った。

 学校での翠は知らない。
 学校に着くとすぐ、翠は職員室に行った。職員室へは同じ4年生の加藤君が連れて行った。
 1時間目、2時間目と過ぎると、3年生の教室にも翠の噂が流れてきて、菜沙の席に子供たちが集まった。
「ねえ菜沙ちゃん、お姉ちゃんができたって?」
「ううん、お姉ちゃんじゃないよ。ただ一緒に住んでるだけ」
「どうして? 菜沙ちゃんのパパの子供になったんでしょ?」
「パパもミドリちゃんも、そんなこと言ってなかったよ」
 嘘ではない。けれど、ママだとかお嫁さんだとか、そんな恥ずかしいことは説明したくない。追求されると困る。
「ミドリちゃんは家政婦さんなの。ご飯を作ったり、お掃除をしたりするの」
「えー、やだー」
「お手伝いさん? お金に困ってるの?」
「翠ちゃんのパパやママは?」
「知らない。聞いても答えてくれないから。捨てられたんじゃない?」
 そう言って、みんなで笑った。
 菜沙に悪気がなかったと言えば嘘になる。しかし、まさか適当に言ったそれらの言葉が、4年生の教室、ひいては学校中にまで広まるとは思ってなかった。
 その日一日、翠がどんな思いをしたか、想像に難くない。あまりにも悲惨なので描写は避けよう。菜沙に視点が固定した小説で助かった。
 授業が終わってからしばらく、菜沙は教室で友達とお喋りをしていた。それから何気なく窓から見下ろすと、ウサギの飼育小屋の前に、翠がぽつんと一人で座っていた。
(早く帰って夜ご飯を作らないといけないのに、何やってるんだろ)
 菜沙は翠が自分の仕事をさぼっているように思って、苛立った。1階まで下りてウサギ小屋に行くと、翠は目を閉じて何かぶつぶつ呟いていた。
 きっとテレパシーでウサギと交信してるんだ! 人間じゃなかったんだ!
 なんてことは菜沙は思わなかったが、どんな独り言を言っているのか気になったので、足音を立てないように近付いた。
 翠はまるで念じるように、ずっと同じ言葉を繰り返していた。
「あなたは、この地球に一人しかいない、とっても大切な人です。そんなあなたには、大きな夢や希望を持ってほしいと思っています。そして、幸せになってほしいのです」
 菜沙は首を傾げた。翠は続けた。
「だから、あなたが、つらいとき、苦しいとき、悲しいとき、なやんでいるとき、どんなときでも、あなたのそばで、心配したり、おうえんしたりします。そして、うれしいときは、一緒によろこびたいと思っています」
「あなたって、誰?」
 思わず聞くと、翠はまるで雷に打たれたようにビクッと身体を震わせて、勢いよく顔を上げた。開いた両目から涙がこぼれて、頬を濡らした。
「な、菜沙ちゃん!」
「今の、何?」
「なんでもない。ごめんなさい! なんでもないの!」
 みっともないほど取り乱して、翠は涙を拭って立ち上がった。そしてにっこり微笑むと、かすれる声で言った。
「帰って、お買い物に行かなくちゃ。菜沙ちゃんも……こ、来ないよね? ごめんね、ごめんなさい。そうだ! 今日の夕ご飯は何がいい?」
「…………」
「な、なんでもいいよね! 菜沙ちゃん、わたしの作るご飯、嫌いだもんね。何食べても一緒だもんね。あっ、ごめんね! 嫌味じゃないの! ごめんね、ごめんね! わたしもう帰るから。ごめんね!」
 なんか書いてて涙出てきた。でも菜沙は別になんとも思わなかった。気が変になってしまったのかと心配になった。それは翠を心配したのではない。あんな子と一緒に暮らしていて、自分たちが大丈夫か心配になったのだ。
「今のこと、パパに言った方がいいかな?」
 校門の方に走っていく翠の背中を見ながら呟く。パパに言えば、あんなおかしな子は追い出してくれるかもしれない。でも逆に、ものすごく怒られるかもしれない。
 パパはいつだって翠の味方だ。だからきっと怒られる。昔はいつだって菜沙の味方だったのに。
 腹が立ってきた。
(やっぱり出てってほしいな)
 家事を手伝わなくてもいいのは楽だ。ご飯もまずいと思ったことは一度もない。けれど、その代償がパパの愛情では、天秤にかけるまでもない。
(このままでいい。そしたらきっと、ミドリちゃんの方から出てってくれる)
 菜沙は大きく頷いた。晴れやかな顔を上げて、西日の眩しさに目を細めた。
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