アクトレスの残痕

ぬくまろ

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「珠美。SSBC(捜査支援分析センター)の情報支援係から照合結果がきた」
 捜査本部の隅の方のテーブルでパソコンを操作していた中野に近づき、吉野が声をかけた。
「どうでした」
 中野は反射的に顔を上げた。
「三次元顏形状データベース自動照合システムで、DB(データベース)ヒット!」
「ほんとうですか」
 中野は目を見開いた。対照的に、吉野は表情を引き締めた。
「珠美。同一人物であると判明しただけでしょ。それだけよ。関連性があるのかどうかもわからない」
「そうですかね」
 中野は思案顔になった。
 吉野がSSBCに照合依頼したのは、中野連が珠美に送信した画像と、別に取得していたある人物の顔画像である。連が送信したのは唐松家で撮影したデジタルカメラの画像である。唐松家の室内を何枚か撮影したが、撮影の目的は内装やインテリアではなかった。真の目的は、サイドボードの天板に載っているフォトスタンド、フレームに収まっていた家族の写真、その中に写っていた加害者の隣にいた人物、年齢差から推測して弟と思われる画像の入手であった。最初に加害者を見たときに、どこかで見たことがあるような、似ているような、でも頭の中で一致するような人物が浮かばないと、連は感じていた。次に何気なく弟を見たとき、頭の中がスパークした。完全な一致ではない。が、その曖昧さの濃度が瞬時に高くなり、限界を超え弾けた。そして、画像照合を頼もうと珠美に連絡したのだ。
 ぱっと見ただけではわからないが、凝視すると所々のポイントが集結し、不完全ながらも全体像を浮かび上がらせる。一重瞼、低い鼻、丸みを帯びた顎のライン。これらの顏の部位を造形するだけで別人の印象を与えているが、別人の顔を頭に描きながら、想像力を働かせると浮かび上がってくるものがある。まさに今回はそれであった。連の直感である。
 中野はスマホを取り出した。
「ああ、わたし。画像ヒットしたよ」
「よし。そうか」
「でも。それだけよ。現時点で関連性があるかどうかはわからない」
「それはこれからだ。なぜそのように行動したのか、それは大きな疑問だ。それを解かなければならない。理由があるはずだ」
「どうするの」
 珠美が問いかけるが、連の返事がない。返答の気配があったが、飲み込んだようだ。代わりに問い返す。
「警察はどう動く」
「もちろん、ヒットしたからにはそれなりの理由があると思う。事件との関連性の有無もはっきりさせなければならない」
「わかった」
 スマホを置いた中野は真剣な眼差しで吉野を見た。吉野はうなずき、離れたところで立ち話をしている管理官に視線を移した。
 夜の捜査会議で情報は共有された。
 なぜ交通事故の加害者の家族と、交通事故の遺族が同じ劇団に所属しているのか。事故のとき同乗していたその家族と、今回の害者である遺族は面識がなかったのか。なぜ顔を変えたのか。
 入団時期はすぐに判明した。害者が既に所属しているときに来たようだ。偶然なのか意図的なのか。顔を変えたということはどういう理由があるのか。俳優になるためのたんなる布石か。捜査員たちは、参考人ではなくあくまでも関係者として見ていくようだ。なぜなら、凶器を持っていたのは当人ではないからだ。
「藤堂剛を解放する」
 管理官が告げた言葉が耳に響いていた。上層部はそう判断したということだ。犯行に使われた証拠品を所持していた人物の解放は異例のことだ。重要参考人なのか参考人なのかの境目も不鮮明なまま、世に戻すことになる。新たに被害が発生する。最悪の場合、関係性を特定されないまま、自殺に至る。といった副作用の発生の可能性も低くはないという不安がよぎる。わたしだけではないだろう。
 中野はうつむいたまま、吉野と歩いていた。
「デカ長。上の人たちは、思い切った策に出ましたね」
「緊急性や重要性のある事案の場合、一八の決断になってしまう。もちろん、熟慮を重ねた上での判断だと思うけど。それに、解放することによって、新たな動きが生じる。それを見越しての決断でしょう」
 吉野はビルを見上げ、階段を上って行く。中野も後に続いた。
「こんにちは」
 何人かが振り向いた。稽古の最中であったのだろう。表情は様々だ。二人は星成塾の稽古場を訪ねた。串間も気づいたようだ。二人のほうに歩いてきた。
「こんにちは」
 二メートルほどまで近づくと、会釈した。
「進展はありましたか」
「現時点では特にありません」
 串間の表情が硬くなった。
 藤堂剛が事情聴取されていることは、串間を通して劇団員たちに告げられているはずである。重要参考人として、取り調べを受けているという認識を持っているはずである。
「稽古は順調ですか」
 中野は無難な表情で無難に問いかけた。
「稽古は怒涛の勢いで進んでいます。キャスト変更と台本変更がありましたから。でも、劇団員みんな、気合が入っていますのでタイトなスケジュールではありますが、一致団結で舞台の完成度を高めています」
 舞台を語る串間の表情は力強く、かつ明るい。
「藤堂剛さん。解放されました」
 吉野はささやくような小声で言った。
「えっ! そうなんですか」
 串間の表情が一瞬硬くなったが、すぐに緩和した。吉野と二言三言言葉を交わした後、踵を返し劇団員のほうへ向かった。
 串間が声をかけ、劇団員たちが串間の元に集まってきた。
 串間が話しかける。劇団員たちの表情が変わった。驚く者。強張るもの。目を見開く者。息を呑む者。吉野と中野は出入口からそれらの様子を窺う。串間の話は続いていたが、二人は串間の背中に会釈してその場から離れた。

 木村と細井が行確対象者を尾行して二日。特にこれといった変化はない。コンビニや飲食店に寄るときもあるが、稽古場と自宅の往復が基本行動だ。しかし、変化があったのは三日目だった。JR埼京線に乗り換えた。『板橋駅』で下車。十分ほど歩いた。やはり、藤堂剛の自宅である。
〈ピンポーン〉
 玄関ドアがゆっくり開き、藤堂が現われた。訪れた人物の顔を見たが、疲れているのか表情が無かった。ドアがさらに開き、その人物は中へと消えた。
「木村部長。どうしますか」
 木村は思案顔になっている。
「危害を加える恐れはないでしょうか」
「それはないだろう」
「そうですかね」
 細井は不安げな表情で、明かりが漏れるキッチンの窓を見ている。
〈ガチャ〉
 三十分ほど経った頃、ドアが開いた。訪れていた人物が出てきた。笑顔であったが、ドアが閉まり、歩き始めた瞬間、むっとした表情を見せた。前を向いているが焦点が定まっていない。眼球が不規則に揺れている。
「木村部長。追いますか」
「いや」
 木村は歩き出した。
〈ピンポーン〉
 玄関ドアが開いた。
「忘れ物でも……」
 藤堂剛の顔が瞬時に強張った。何かを言いたそうであったが、言葉が出ないようだ。くちびるがぴくぴく痙攣している。
 木村がドアの枠に手をかけ、さらに開き、三和土に足を踏み入れた。
「藤堂さん。お邪魔します。お手間は取らせません。今の話の内容をお聞かせいただけますか」
「えっ。なんで」
 藤堂剛の目におびえの色が滲んでいる。
「どういったことを聞かれましたか」
 木村は細井に三和土に入るよう手招きした。細井も足を踏み入れ、ドアを閉めた。
「僕は、僕は、どうなっているのかわからない。大変だったねと言われた。凶器が見つかったのに解放されたんだ。真犯人はどこかにいるっていうことなのかな。でも、なぜ凶器がここにあったのかな。でも、よかった。よかった。と言われた」
 木村は藤堂剛の目を見据えた。
「それと、警察は誰が真犯人だと考えているのかな。そうも言っていた」
「そうですか」
 木村が細井に手のひらで合図した。
「藤堂さん」
「はい」
 藤堂剛は視線を合わせない。
「この方をご存知ですか」
 木村は細井が所持していたカバンからファイルを取り出し、ファイルから一枚の写真を抜き取り藤堂剛に見せた。
 藤堂剛はおびえの色が滲んだままの目で、写真をなぞる。顔が小刻みに左右に揺れる。記憶をたどっているが、その引出しの中には心当たりのある人物が入っていないようだ。
「凝視したままだと、かえってわかりにくいかもしれません。一度視線を外して、再度見てください。それでもピンとこなければ、また視線を外して同じことを繰り返してください」
 繰り返し試みるが、表情は変わらない。
 それでは、次はこの方に見覚えはありませんか。木村は別の写真を見せた。
 藤堂剛は写真を見た瞬間、両手のひらで頭を抑え、うっと唸った。数秒後、視線を戻し、目を見開いた。
「はっ、えっ、どこかで見た。えーと、あっ、姉と一緒のときに見た。父と母の事故のときの人。車を運転していた人だ。記憶が飛んでいたけど、思い出した。葬式のときに見た。伯父さんから教えてもらったんだ」
「ありがとう」
 木村と細井は藤堂宅を辞去した。

 翌日、特捜本部で細井は[住民基本台帳の一部の写しの閲覧の請求について]の書類に必要事項を記入していた。請求を必要とする事務の内容:犯罪捜査のため。根拠法令:刑事訴訟法。請求事由を明らかなすることが困難な理由:一般に犯罪捜査には高度の密行性が要求される上、犯罪捜査という性質上、請求に係る住民の名誉・プライバシーに対する配慮が必要であるため。
 書類を書き終えた細井は、手続きのため市役所に向かった。
 市役所を出た細井はスマホを取り出し、発信した。ほどなくしてつながった。
「木村部長。つながりました」
「そうか。今晩、当たるぞ」
 東武東上線『上福岡駅』東口に出た。午後九時を少し回っている。そこから二十分ほど歩いた。あまり明るくない街灯に一部を照らされた集合住宅が現れた。細井は事前にストリートビューで建物の外観を確認していた。木造二階建て。今は薄暗いが、パソコンの画像の外壁の色合いから、築三十年以上経っているように見えた。玄関ドアの横にある小さな窓から明かりが漏れている。二人は顔を見合わせ、大きくうなずく。
〈トン、トン〉
〈ガタッ〉
 木村は玄関ドアをノックした直後、室内で何か物音がした。人がいる気配はするが、応答はない。
〈トン、トン〉
 先ほどよりも若干強めにノックした。誰かがドアスコープを覗く気配があったので、木村は会釈した。すると、ドアを解錠する音がして、ドアがゆっくり開かれた。家の主は笑顔だった。開ける前に木村を確認したので、瞬時に作り笑いを浮かべたのかもしれない。その表情からは微妙なニュアンスは読み取れなかった。
「こんばんは。お疲れのところすみません」
 木村は頭を下げた。
「はぁい、な、んでしょうか」
 目に警戒の色が浮かんでいる。声の震えを抑えている発声だ。
「舞台の稽古でお忙しいでしょうが、急ぎ確認したいことがあります。対応していただけますか」
「どのようなことですか」
 警戒色が増した。腰も引けている。木村がドアの枠にさりげなく手を掛けた。
「唐松半蔵(はんぞう)さんはいらっしゃいますか」
「えっ!」
 絶句して固まった。なぜバレた? 虚空を見つめる目が語る。瞬時に目が揺らぐ。どう切り返すかを逡巡しているのだろう。木村は口角を上げ、相手を見据える。
「唐松? 半蔵? その方、が、どうか、したのですか」
 声の震えを抑えるのが精一杯だ。
「こちらに住んでいるはずですが」
「あのぅ、住んでいるのは、あのぅ、僕ですが」
 絞り出すような声。紅潮していく顏。
「住民票の記載は、唐松半蔵さんになっています。郵便物を見せていただけますか」
「郵便物? そんなのない。一人暮らしだし、それに宅配物を受け取れないから、通販も利用してないんだ」
 異様な早口で捲し立てる。もちろん、視線を合わせない。
「ダイレクトメールくらい届くでしょう」
「うっ」
 視線が足元にロックされた。
「まあいいでしょう。郵便局で確認します。これで失礼します」
 木村の言葉を受けて、その人物の顔が強張る。
 木村と細井が外に出た。木村がゆっくりドアを閉めた。
「唐松さん」
「はい。あっ!」
 ドアを閉めかけた木村が、ドアをパッと開け、呼びかけた。その瞬間、返事をした人物の口元が大きく歪んだ。
「唐松半蔵で間違いないですね」
 細井が木村の横顔に問いかけるが、木村は浮かない顔だ。
「どうしたのですか」
「細井」
 木村は前を向いたままだ。一拍置き
「藤堂夫妻が事故死したときのドライバーの弟と思われる人物が整形して、藤堂さくらが所属する劇団に在籍しているのではないかと中野巡査の兄が取材を通して偶然突き止めた。藤堂さくらが既に在籍していたということだ。後から入ってきたというのは偶然か。それと、事故が起こった後、病院や葬儀、その後の交渉といった何らかの場面で、お互い、顔を合わせている可能性はゼロではない。ただ、唐松は顔を変えて劇団に入ってきた。藤堂さくらに悟られたくないということか。なぜだ」
「藤堂さくらが目的であったからでしょう。今回の事件に関係していますよね」
「いや、それだけではだめだ。凶器が発見されたのは別の人物の家だ。唐松が関わっている証拠がない。藤堂さくらが目的であったとしても、ストーカー行為の情報も聞かれない。事件の芽も出ていない」
 木村は渋面を作った。
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