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「えっ! そうなのか。でも、なりすましだろ。真っ黒ではないにしろ、かなりのグレーじゃないか」
連は珠美から唐松半蔵に関する情報をスマホで聞いていた。
「事件と結びつける何かがあればね。家宅捜査できれば何か出てくるかもしれないけど、理由がないからだめ」
「なりすましじゃだめなのか。ああ、そうだ。住民票はどうなんだ。名乗っている名前と住民票の氏名が一致しないじゃねえか」
「芸名、ペンネームですと言われれば、それまで。検察官は起訴できないし、万が一起訴できたとしても、公判は維持できないし、弁護でも跳ね返される」
「あーなんでだ。ここまできたのに、行き止まりか」
三時間後、連は劇団の稽古場になっているレンタルスタジオが入るビルの前にいた。稽古が終わったようだ。待つこと一時間。劇団員たちが出てきた。舞台開幕までもうすぐ。疲労感を漂わせている者はいない。やる気が顔にみなぎっている。ビルのエントランスの前で一同立ち止まり、二言三言話した後、それぞれが帰路に就く。
連はターゲットに気づかれないようにゆっくり近づく。他の劇団員たちが視界から消えると、足早になった。
背中まで二メートルほど近づき
「唐松さん」
ぎくりと背中が強張った。首をゆっくり回す、つられて背中も回る。引きつった横顔を見せ、凍りついた正面が向けられた。口元が微かに震える。
「お前は……」
名前が思い出せないようだ。視線が泳いでいる。
「週刊誌のライターだ」
さらに近づき
「あなたは唐松半蔵さんですよね。なぜ、このような手段を取るのですか。藤堂さくらさんに気づかれにように、かつ意図的に近づく理由はなんですか。藤堂さくらさんが殺されたと聞いて、何を感じましたか。さくらさんの弟、藤堂剛さんの家から凶器が発見されたことについて何を感じましたか。他の劇団員たちは、あなたの本当の名前を知りません。わたしから伝えましょうか。藤堂さくらさんとのつながりも説明してもよろしいでしょうか」
連は感情を抑え、端的に歯切れよく伝えた。
完全に振り返った人物の口元が不規則に震えている。おびえと怒りの混じった表情で、射るように連を見る。
「返す言葉が見つからないようですね。唐松半蔵ではないということをどう説明しようかと考えているのですか。瞬時に導き出すのはとても難しいことですよ。真実でないならば、どこかで辻褄が合わなくなるから。嘘の方程式は必ず破綻します。あなたが何を企んでいるのかは現時点でわかりません。ただ、顔を変えてまであなたがやりたかったこと、僕は必ず追及します。辻褄を合わせます」
一拍間を置き
「否定しないのですね。なぜですか。理由があるはずです。きっと言えないのでしょう」
連はさらに近づき、その人物の横をゆっくり通り過ぎた。
「おいっ」
二メートルほど通り過ぎたとき、連の背中に威圧を込めた声が発せられた。
「はい。なんでしょうか」
連はゆっくり振り返った。
「俺はなぁ、真面目に舞台俳優をめざしているんだ。ライターだってペンネームがあるだろうに。俳優だって芸名があるんだよ。何が悪いんだ。あほっ!」
凄味のある形相で仁王立ちしている。
「真実を明かすことが怖いんですね。行った行為を正当化しないとつらいんですよね。それを解消するには、完璧な嘘を突き通さなくてはならない。でもね、それは一生かかっても無理でしょうね。だって、嘘を突き通せない事実があるからできないんですよ。それがある限り、平常心では生きていけない。苦しみから逃れられない。人間は弱いものだ。これから続くあなたの人生、どこかで破綻するでしょう」
連は口角を上げた。
「あなたのお母様に会ってきました」
その瞬間、目の前の人物の目が大きく見開かれた。拳を握った両手が震え出した。
「なんだと? この野郎っ! ふざけるなっ! 関係ないだろう。テメエは人のプライバシーを侵害して悦に入るストーカーか。おいっ!」
「お母様にお会いした理由、そしてあなたの正体が明らかになったきっかけについては話しません。信頼できない人には教えません。ただ一つ、お伝えします。あなたのお母様はとても立派な方でした」
その瞬間、目の前の人物は突進してきた。間合いが縮まったとき、右の拳を振り上げた。突発的な行動をとられたときの対処の仕方を心得ている連は、半身になり後ろ足に重心を置いた。相手の拳が届く距離になったとき、相手の左側に素早く回った。右の拳が空を切る。さらに左に回ろうとしたとき、誰かが歩いてくるのが視界に入った。ぶつかる。そう思ったとき、反射的に動きを停止した。そのときだ。相手の右の拳が連の顎を捉えた。
「キャーッ!」
女性が立ち止まり、叫んだ。
連は衝撃で腰を落とし、片膝をついていた。顎をさすりながら相手のいるであろう場所に視線を移したが、捉えられたのは小さくなっていく後ろ姿であった。半身の姿勢を保っていたので、幸い拳がかすった程度でダメージはなさそうだった。
「すみません」
「大丈夫ですか。警察を呼びますか」
「いえ、いえ。大丈夫です。仲間内の喧嘩です。ちょっと加熱しちゃったんです」
右手のひらを女性に向け、かぶりを振った。
「はあ」
女性は立ち去った。
連はゆっくり立ち上がり、後ろ姿の残像を追うように視線を飛ばした。やはり身内のことを出されると冷静さを失うようだ。包囲網が徐々に狭まっているが、決め手がない。珠美が言っていたように事件とのつながりがないのだ。連は視線を落とした。なりすましでは家宅捜査は無理だろう。いや、そもそも住民票記載の人物本人が住んでいるのである。なりすましではない。それこそ、ヤツが芸名であると主張すれば、それはそれで完結だ。罪を犯したわけでない。少し視線を上げ、暗闇を見つめた。暗闇はどこまで行っても暗闇だ。都合よく一筋の光が差し込んでくることはない。
「うん。ん?」
街灯がアスファルトで反射していた。アスファルトの質感ではない? 連はゆっくり近づいた。
「おっ」
連はしゃがんで確かめた。スマホだ。拾い上げた。
「あっ。そうか」
あの人物がスタジオで操作しているのを見た。これは、きっとそうだ。
「とんでもないものが入っていたのよ」
「なんだ」
翌日、連は拾ったスマホの分析を珠美に依頼していた。
「藤堂さくらさんの画像。それも事件当時のものに間違いないらしい。自宅の床に仰向けになっている姿で写っている。現場にいないと撮影できないアングルなの。SSBCの分析だから間違いない」
「もちろん、スマホからは指紋が検出されたんだろ。俺以外の」
「出た」
警察は即座に動いた。田中敦こと唐松半蔵を通常逮捕。追い詰められた唐松は完全黙秘である。担当弁護士は父親が経営する病院の顧問弁護士で、刑事事件にも強い法律事務所に所属しているとのことである。
「害者の事件当時の鮮明な姿が写っている。揺るぎない証拠だ。四十八時間以内にスムーズに検察官送致できるだろう」
捜査員たち安堵した。
検察官送致後、検察官から連絡があった。
「なんだってぇ! どういうこと、だぁ」
連絡を受けた捜査員が絶句した。
こういうことだった。
担当弁護士から連絡があり、眠っている人の画像を所持しているだけでは、死体遺棄罪はもちろん、殺人罪の構成要件とならない。むしろ、中野連に対する窃盗罪や恐喝罪の成立を目指すとのことであった。窃盗罪の構成要件について……窃盗した物が他人の占有する財物であること。不法領得の意思のもとで行われたこと。窃取の事実があること。恐喝罪について……罪の実行行為があるか。罪の結果が生じたか。実行行為と結果との間に因果関係が認められるか。そして、故意が認められるか。唐松半蔵の所有物であるスマホをなぜ中野連が所持することになったのか。追及するつもりであるとのことだ。
では、唐松半蔵がなぜ藤堂さくらの眠っている姿の画像を所持していたのか。それは、唐松はもともと藤堂さくらに好意を寄せていたが、引っ込み思案な性格のためそれを本人に告白する勇気がなかった。
思いが募るばかりのつらい日々を送っていたある日、他の劇団員たちがいない二人きりの時間をつくりたいと強く思った。電話では相手にされず、すぐに切られてしまうと思っていたので、本人の自宅に行こうと逸る気持ちを抑えられなくなってしまった。
それで、本人の自宅を訪問すると、玄関ドアが少し開いていた。室内からの明かりが漏れていたので、在宅であることを確信した。一応ドアをノックした。返事がない。不用心だ。ドアを開けて、声をかけようと中に入ったところ、本人が仰向けで寝ていた。日々の稽古の疲れが重なったため、帰宅するなり横になり、そのまま眠ってしまった。わざわざ訪問したが、稽古で疲れて寝ている本人を起こすに忍びない。そこで、今日は帰ろうと思ったが、寝姿を見て愛しく思え、携帯電話にその姿を収めた。そして、ゆっくりドアを閉めて帰宅した。という説明であった。
唐松曰く、そもそも死んでいるとは思わなかった。着衣の乱れがなかったので、顔色が悪かったが、眠っているだけだと思った。ただ、動転してしまって、怖くなり、救護するという考えが頭から抜け落ちてしまった。後になってニュースで亡くなったことを知って、自責の念に駆られたがどうしようもなくなってしまった。見たままの、ほんとうのことを告白する勇気を持たず、申し訳ない気持ちでずるずる時を重ねてしまった。ごめんなさい。……ということである。
〈ドン〉
それらを聞いた管理官は拳を握り、机を思いっきり叩いた。
近くにいた木村は渋面を作り、つぶやく。
「死体遺棄罪は、葬祭義務者については死体を放置するという不作為によって成立するが、それ以外の者の場合には死体の場所的移転という作為が要求される。したがって、唐松には死体の場所的移転という作為がなかったということになる。そういうことか」
担当弁護士が所属する法律事務所のホームページを吉野が閲覧している。
「勾留回避件数、勾留却下件数、勾留取消件数、準抗告勝訴件数、不起訴件数、執行猶予件数、無罪件数、控訴審原判決破棄件数、裁判員裁判取扱い件数……刑事弁護における近年の実績ですね」
細井がパソコンの画面を覗き込む
「こんなにもグレーやブラックをホワイトにしてしまうのか。宣伝文句が、元検事率いる実力派弁護士チームがご依頼者様を強力に弁護士します。かっ! くやしいですっ!」
唐松は逮捕された翌日に警察署から検察庁に連行された。検察官により取り調べ、すなわち弁解録取が行われた後、検察官が被疑者の勾留を裁判所に請求した。この請求が出された翌日に被疑者は裁判所に連行される。そして、裁判官による勾留質問が行われた後、裁判官が被疑者を勾留するか否かの判断を下す……そういう流れになるはずだった。
「この局面において、担当弁護士は、唐松が検察庁に連行された後、裁判所に連行される前に接見し、唐松から話を聞いた後、裁判所に対し、勾留請求の却下を求める意見書を提出し、即時釈放すべきであると主張したようだ。唐松の身勝手な話を瞬時に分析し、都合のいいシナリオを描いたのだろう。ヤメ検弁護士は、被疑者を起訴する側の検察官の経験から、起訴を回避するためにはどうすべきかといった刑事弁護のノウハウも熟知している。この種の無罪請負人においては、真実がどうかなんて関係ない、いかにして無罪へ導くか。法律の解釈を想像力によって適用する術を知り尽くしている厄介なサムライ(士)だ」
木村が苦虫を噛み潰した。
「たとえ勾留されたとしても、それを許可した裁判所に対して『この勾留は不当だ』と準抗告申立書を提出して、裁判所の決定自体の正当性を問うてくるだろう」
管理官はパソコンの画面の準抗告勝訴件数を指差した。
連は珠美から唐松半蔵に関する情報をスマホで聞いていた。
「事件と結びつける何かがあればね。家宅捜査できれば何か出てくるかもしれないけど、理由がないからだめ」
「なりすましじゃだめなのか。ああ、そうだ。住民票はどうなんだ。名乗っている名前と住民票の氏名が一致しないじゃねえか」
「芸名、ペンネームですと言われれば、それまで。検察官は起訴できないし、万が一起訴できたとしても、公判は維持できないし、弁護でも跳ね返される」
「あーなんでだ。ここまできたのに、行き止まりか」
三時間後、連は劇団の稽古場になっているレンタルスタジオが入るビルの前にいた。稽古が終わったようだ。待つこと一時間。劇団員たちが出てきた。舞台開幕までもうすぐ。疲労感を漂わせている者はいない。やる気が顔にみなぎっている。ビルのエントランスの前で一同立ち止まり、二言三言話した後、それぞれが帰路に就く。
連はターゲットに気づかれないようにゆっくり近づく。他の劇団員たちが視界から消えると、足早になった。
背中まで二メートルほど近づき
「唐松さん」
ぎくりと背中が強張った。首をゆっくり回す、つられて背中も回る。引きつった横顔を見せ、凍りついた正面が向けられた。口元が微かに震える。
「お前は……」
名前が思い出せないようだ。視線が泳いでいる。
「週刊誌のライターだ」
さらに近づき
「あなたは唐松半蔵さんですよね。なぜ、このような手段を取るのですか。藤堂さくらさんに気づかれにように、かつ意図的に近づく理由はなんですか。藤堂さくらさんが殺されたと聞いて、何を感じましたか。さくらさんの弟、藤堂剛さんの家から凶器が発見されたことについて何を感じましたか。他の劇団員たちは、あなたの本当の名前を知りません。わたしから伝えましょうか。藤堂さくらさんとのつながりも説明してもよろしいでしょうか」
連は感情を抑え、端的に歯切れよく伝えた。
完全に振り返った人物の口元が不規則に震えている。おびえと怒りの混じった表情で、射るように連を見る。
「返す言葉が見つからないようですね。唐松半蔵ではないということをどう説明しようかと考えているのですか。瞬時に導き出すのはとても難しいことですよ。真実でないならば、どこかで辻褄が合わなくなるから。嘘の方程式は必ず破綻します。あなたが何を企んでいるのかは現時点でわかりません。ただ、顔を変えてまであなたがやりたかったこと、僕は必ず追及します。辻褄を合わせます」
一拍間を置き
「否定しないのですね。なぜですか。理由があるはずです。きっと言えないのでしょう」
連はさらに近づき、その人物の横をゆっくり通り過ぎた。
「おいっ」
二メートルほど通り過ぎたとき、連の背中に威圧を込めた声が発せられた。
「はい。なんでしょうか」
連はゆっくり振り返った。
「俺はなぁ、真面目に舞台俳優をめざしているんだ。ライターだってペンネームがあるだろうに。俳優だって芸名があるんだよ。何が悪いんだ。あほっ!」
凄味のある形相で仁王立ちしている。
「真実を明かすことが怖いんですね。行った行為を正当化しないとつらいんですよね。それを解消するには、完璧な嘘を突き通さなくてはならない。でもね、それは一生かかっても無理でしょうね。だって、嘘を突き通せない事実があるからできないんですよ。それがある限り、平常心では生きていけない。苦しみから逃れられない。人間は弱いものだ。これから続くあなたの人生、どこかで破綻するでしょう」
連は口角を上げた。
「あなたのお母様に会ってきました」
その瞬間、目の前の人物の目が大きく見開かれた。拳を握った両手が震え出した。
「なんだと? この野郎っ! ふざけるなっ! 関係ないだろう。テメエは人のプライバシーを侵害して悦に入るストーカーか。おいっ!」
「お母様にお会いした理由、そしてあなたの正体が明らかになったきっかけについては話しません。信頼できない人には教えません。ただ一つ、お伝えします。あなたのお母様はとても立派な方でした」
その瞬間、目の前の人物は突進してきた。間合いが縮まったとき、右の拳を振り上げた。突発的な行動をとられたときの対処の仕方を心得ている連は、半身になり後ろ足に重心を置いた。相手の拳が届く距離になったとき、相手の左側に素早く回った。右の拳が空を切る。さらに左に回ろうとしたとき、誰かが歩いてくるのが視界に入った。ぶつかる。そう思ったとき、反射的に動きを停止した。そのときだ。相手の右の拳が連の顎を捉えた。
「キャーッ!」
女性が立ち止まり、叫んだ。
連は衝撃で腰を落とし、片膝をついていた。顎をさすりながら相手のいるであろう場所に視線を移したが、捉えられたのは小さくなっていく後ろ姿であった。半身の姿勢を保っていたので、幸い拳がかすった程度でダメージはなさそうだった。
「すみません」
「大丈夫ですか。警察を呼びますか」
「いえ、いえ。大丈夫です。仲間内の喧嘩です。ちょっと加熱しちゃったんです」
右手のひらを女性に向け、かぶりを振った。
「はあ」
女性は立ち去った。
連はゆっくり立ち上がり、後ろ姿の残像を追うように視線を飛ばした。やはり身内のことを出されると冷静さを失うようだ。包囲網が徐々に狭まっているが、決め手がない。珠美が言っていたように事件とのつながりがないのだ。連は視線を落とした。なりすましでは家宅捜査は無理だろう。いや、そもそも住民票記載の人物本人が住んでいるのである。なりすましではない。それこそ、ヤツが芸名であると主張すれば、それはそれで完結だ。罪を犯したわけでない。少し視線を上げ、暗闇を見つめた。暗闇はどこまで行っても暗闇だ。都合よく一筋の光が差し込んでくることはない。
「うん。ん?」
街灯がアスファルトで反射していた。アスファルトの質感ではない? 連はゆっくり近づいた。
「おっ」
連はしゃがんで確かめた。スマホだ。拾い上げた。
「あっ。そうか」
あの人物がスタジオで操作しているのを見た。これは、きっとそうだ。
「とんでもないものが入っていたのよ」
「なんだ」
翌日、連は拾ったスマホの分析を珠美に依頼していた。
「藤堂さくらさんの画像。それも事件当時のものに間違いないらしい。自宅の床に仰向けになっている姿で写っている。現場にいないと撮影できないアングルなの。SSBCの分析だから間違いない」
「もちろん、スマホからは指紋が検出されたんだろ。俺以外の」
「出た」
警察は即座に動いた。田中敦こと唐松半蔵を通常逮捕。追い詰められた唐松は完全黙秘である。担当弁護士は父親が経営する病院の顧問弁護士で、刑事事件にも強い法律事務所に所属しているとのことである。
「害者の事件当時の鮮明な姿が写っている。揺るぎない証拠だ。四十八時間以内にスムーズに検察官送致できるだろう」
捜査員たち安堵した。
検察官送致後、検察官から連絡があった。
「なんだってぇ! どういうこと、だぁ」
連絡を受けた捜査員が絶句した。
こういうことだった。
担当弁護士から連絡があり、眠っている人の画像を所持しているだけでは、死体遺棄罪はもちろん、殺人罪の構成要件とならない。むしろ、中野連に対する窃盗罪や恐喝罪の成立を目指すとのことであった。窃盗罪の構成要件について……窃盗した物が他人の占有する財物であること。不法領得の意思のもとで行われたこと。窃取の事実があること。恐喝罪について……罪の実行行為があるか。罪の結果が生じたか。実行行為と結果との間に因果関係が認められるか。そして、故意が認められるか。唐松半蔵の所有物であるスマホをなぜ中野連が所持することになったのか。追及するつもりであるとのことだ。
では、唐松半蔵がなぜ藤堂さくらの眠っている姿の画像を所持していたのか。それは、唐松はもともと藤堂さくらに好意を寄せていたが、引っ込み思案な性格のためそれを本人に告白する勇気がなかった。
思いが募るばかりのつらい日々を送っていたある日、他の劇団員たちがいない二人きりの時間をつくりたいと強く思った。電話では相手にされず、すぐに切られてしまうと思っていたので、本人の自宅に行こうと逸る気持ちを抑えられなくなってしまった。
それで、本人の自宅を訪問すると、玄関ドアが少し開いていた。室内からの明かりが漏れていたので、在宅であることを確信した。一応ドアをノックした。返事がない。不用心だ。ドアを開けて、声をかけようと中に入ったところ、本人が仰向けで寝ていた。日々の稽古の疲れが重なったため、帰宅するなり横になり、そのまま眠ってしまった。わざわざ訪問したが、稽古で疲れて寝ている本人を起こすに忍びない。そこで、今日は帰ろうと思ったが、寝姿を見て愛しく思え、携帯電話にその姿を収めた。そして、ゆっくりドアを閉めて帰宅した。という説明であった。
唐松曰く、そもそも死んでいるとは思わなかった。着衣の乱れがなかったので、顔色が悪かったが、眠っているだけだと思った。ただ、動転してしまって、怖くなり、救護するという考えが頭から抜け落ちてしまった。後になってニュースで亡くなったことを知って、自責の念に駆られたがどうしようもなくなってしまった。見たままの、ほんとうのことを告白する勇気を持たず、申し訳ない気持ちでずるずる時を重ねてしまった。ごめんなさい。……ということである。
〈ドン〉
それらを聞いた管理官は拳を握り、机を思いっきり叩いた。
近くにいた木村は渋面を作り、つぶやく。
「死体遺棄罪は、葬祭義務者については死体を放置するという不作為によって成立するが、それ以外の者の場合には死体の場所的移転という作為が要求される。したがって、唐松には死体の場所的移転という作為がなかったということになる。そういうことか」
担当弁護士が所属する法律事務所のホームページを吉野が閲覧している。
「勾留回避件数、勾留却下件数、勾留取消件数、準抗告勝訴件数、不起訴件数、執行猶予件数、無罪件数、控訴審原判決破棄件数、裁判員裁判取扱い件数……刑事弁護における近年の実績ですね」
細井がパソコンの画面を覗き込む
「こんなにもグレーやブラックをホワイトにしてしまうのか。宣伝文句が、元検事率いる実力派弁護士チームがご依頼者様を強力に弁護士します。かっ! くやしいですっ!」
唐松は逮捕された翌日に警察署から検察庁に連行された。検察官により取り調べ、すなわち弁解録取が行われた後、検察官が被疑者の勾留を裁判所に請求した。この請求が出された翌日に被疑者は裁判所に連行される。そして、裁判官による勾留質問が行われた後、裁判官が被疑者を勾留するか否かの判断を下す……そういう流れになるはずだった。
「この局面において、担当弁護士は、唐松が検察庁に連行された後、裁判所に連行される前に接見し、唐松から話を聞いた後、裁判所に対し、勾留請求の却下を求める意見書を提出し、即時釈放すべきであると主張したようだ。唐松の身勝手な話を瞬時に分析し、都合のいいシナリオを描いたのだろう。ヤメ検弁護士は、被疑者を起訴する側の検察官の経験から、起訴を回避するためにはどうすべきかといった刑事弁護のノウハウも熟知している。この種の無罪請負人においては、真実がどうかなんて関係ない、いかにして無罪へ導くか。法律の解釈を想像力によって適用する術を知り尽くしている厄介なサムライ(士)だ」
木村が苦虫を噛み潰した。
「たとえ勾留されたとしても、それを許可した裁判所に対して『この勾留は不当だ』と準抗告申立書を提出して、裁判所の決定自体の正当性を問うてくるだろう」
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