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お待ちしておりました。
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そして、時が流れた。
本日は、平成二十八年十二月四日(日)
銀座九丁目・ゴクラックビル。そのビルは並木通りに沿って建っていた。陽が当たる時間の並木通りは、人も車の往来も少なく、有名百貨店が並ぶ華やかな銀座中央通りと比べるとあっけらかんとしたもので、街の陰影を正直かつ真っ直ぐに映していた。
ダークブラウンのタイル張りで外観を飾ったゴクラックビルは、地味な佇まいだ。並木通りには、ファッションや化粧品関連のブランドビルがいくつか建っているが、街全体のイメージはライトグレーだ。そのライトグレーの中にあっても、ゴクラックビルはさらにグレー、いや暗いといったほうがピッタリかもしれない。ダークブラウンのタイルは、竣工当時は、ブラウンかライトブラウンだったのかもしれない。月日を重ねるほどに、現在の風合いを見せるようになったのかもしれない。オリジナルの色を想起するにはあまりにも汚れ過ぎているのだ。
間口はビルにしては狭い。三間ほどしかなさそうだ。商業用に供されているというよりも二、三世帯用として設計された住居としての存在さえ感じさせる。一階はショーウインドウではない。向かって左側が階段スペースで、右側が事務所のような造りになっている。お店ではないだろう。よく見ると、住宅用をひと回り大きくしたような木製のドアが一枚。ドアは重厚な木味を持った無垢材のよう。その右横に小さな窓がある。窓は一メートル四方の田の字型窓。装飾窓というよりも、機能性を優先させた佇まいだ。窓には内側からベージュのカーテンが引かれており、中の様子はうかがい知れない。ドアスコープの下には金属製の小さなプレートが張り付けてある。ヤスリをかけたような銅板の表面には、黒で『トリックバー』の文字が。他にはアイデンティティを具体的に表現するものは見当たらなかった。素っ気ないというよりも不気味なフロントマスク。お店であれ事務所であれ、人を寄せ付けない、入りにくい雰囲気を醸し出している。
ひとりの人物が、プレートの文字を一瞥して、左側の階段スペースに向けて歩を進めた。足取りは弱々しく、恐る恐るといった感じで足跡を残さないように、少し身を屈めながらの動きだった。
階段スペースを過ぎると突き当たりにエレベーターがあった。その人物はそこまで来ると、エレベーターの前で立ち止まり、ドア全体を下から上へゆっくり眺め、階数表示板のところで視線を一旦ロックした後、再び視線を下ろし、エレベーターボタンを押した。
エレベーターの筐体が一階に降りていたようで、ドアはすぐに開いた。その人物はゆっくり足を踏み入れ、正面に向き直って、[閉]ボタンを押した。建物同様、エレベーターも年季が入っていた。ガタガタと音をたててドアが閉まり、ガタガタと揺れながら筐体が動き出した。地震感知器が備わっている近年のエレベーターであったら、即座に作動したことだろう。エレベーターが動いている間ずっと揺れていたのだ。昇っているのに落ちていくような奇妙な動き……その人物は顔を引きつらせ、思わずしゃがみ込んだ。三階、四階、五階……上昇速度は揺れの大きさに反比例するかのように遅い。もしかしたら誰かが人為的に操作しているのかもしれない。そのくらい不自然な動きをしているのだ。
動き出してから約四十秒後にエレベーターは止まった。そこは九階なので、一階上昇するのに約五秒かかったことになる。四十秒間の大揺れを体験した人物はどんな心境なのだろうか。九階に着いてドアが開き、よろよろとした足取りでひとり降りてきた。真っ青な顔をした女性であった。エレベーターホールは薄暗く、空気の動きはなく止まったまま、生の気配も感じさせない。生物の侵入を拒むかのように、外の空気の比重よりも重い。手と足を意識的に動かさないと前に進めない。エレベーターホールに一歩足を踏み出したままだ。驚愕と困惑の表情を見せ、そのまま動かなくなった。
〈ガタッガタッ〉
振り向くと、エレベーターのドアが閉まろうとしているところだった。
「お待ちしておりました」
「へっ!」
再び振り向いた女性の前に現れたのは、ひとりの人物だった。誰もいないはずのエレベーターホール。空気が止まり、人の気配を感じなかったはずなのに。声の恐怖で反射的に振り向くと、目の前約六十センチメートルのところに現れた。いや、言葉の表現から逆算すると、先に存在していたのだ。
その女性は言葉が出ないまま硬直していると、さらに
「ようこそおいでくださいました。ご案内いたします。こちらへどうぞ」
その人物は手招きで、女性を誘導した。五、六歩進むと立ち止まり、ドアノブらしきものに手をかけた。片開きのドアがあった。エレベーターホールが薄暗かったので当初はわからなかったが、目が慣れてきて、ディテールが浮かび上がった。女性も後に続き、室内に入った。そこは十二畳ほどの空間でほぼ正方形。天井の高さは約三メートル。壁と天井は薄いベージュ系の壁紙を施されており、床はライトグレーのビニールクロスがピシッと張られていた。内装は明るい色でまとめられているはずなのに雰囲気は暗いのだ。理由は天井にあった。シーリングライトだ。一般住宅のリビングルームに使われるようなシーリングライトが天井の中心に一個だけ。部屋の広さに比べて小さいので、明るさが十分に確保できない。ダウンライトやスポットライトもない。だから部屋の四隅は特に暗かった。
「どうぞこちらへ」
その女性が案内されたのは、部屋に置かれた一脚の椅子。業務用の簡素なものではなく、クッションの効いたOAチェアだ。椅子は全部で五脚。コミュニケーションが取りやすいように円形に置かれていた。
「お名前は?」
「はい。山名(やまな)千夏(ちなつ)と申します」
「よろしく」
お互いにテンションは低かった。特に山名千夏の場合、このセミナーに参加するということは、自殺願望を持っているということだから、テンションが低くて当たり前だ。そして山名を案内した人物は、先日、新橋のSL広場でチラシを配っていたボブヘアだ。近くで見てもやはり男なのか女なのかハッキリしない。相変わらずのユニセックス。年齢は、肌の艶から察すると二十代後半から三十代前半か。声についてもハッキリしない。声の低い女性とも、中音域の男性ともとれる。濃紺のブレザーに濃紺のスラックス。体のラインを隠すためか、やや大きめのサイズを着用している。
ただ、目力はある。揺るぎない自信にあふれるという極太の力ではなく、意志の強さ、芯の強さ、太くないけれども自分の人生に対してしっかりしたポリシーを持っている、そんな目だ。捉えたら離さない、だけど去る者は追わない、もちろん来る者も拒まない。体全体から感じる物静かな雰囲気とは違和感のある印象の目だ。
「もう少しお待ちください。あと三名のお友だちがいらっしゃったら始めますから。どうかなさいました?」
とても静かで、優しい物言いだ。
「いいえ」
不思議そうにこの人物を見ていた山名だったが、視線が捉えられ、少し気圧されたようだ。性別不明、年齢不詳、職業は占い師か。物静かで優しそうな人物だが、人の気持ちを不安定にさせる雰囲気を醸し出している。
山名は落ち着かなかった。黙っているとますます不安になるからだろうか。無理やり声を絞り出すように
「あとぉ、三人、いらっしゃるん、ですか」
「はい、そうです」
「どのような人たちですか」
「あなたと同じですよ」
「はいっ?」
「あなたと同じ自殺願望を抱いている人たち。お友だちですよ」
山名はハッとした表情を見せた。性別や年齢のことを聞いたつもりだったのだろう。しかし、予期せぬ言葉が返ってきた。そんな表情だ。自分と同じ自殺願望者? 死にたい気持ちを共有できる友だち? 今は不安だが、すぐに楽になるのだろうか。この人に心身を委ねれば、すべては解決するのだろうか。誰かを迎え入れるため、エレベーターホールへ消えたその人物の背中の残像を脳裏に焼き付けながら、自らの不安を確認している、そんな困惑が浮かび上がっていた。
ドアを開けて入ってきたのは、案内人とひとりの男性だった。ひと言でいうとひ弱。猫背で、いかにも自信がなさそうな目は視線が定まらない。頬がこけており、顔の筋肉をすべて削ぎ落とし、皮だけで成り立っているかのごとく頬骨が突き出ている。表情は暗く、恐怖感さえ漂わせる。入室して山名千夏と視線が合ったが、瞬時に逸らした。この世の生を拒絶するかのような怯えの塊だ。
「どうぞこちらへ」
その男性は、山名の右隣の席に案内された。着席すると山名に目を向けることなく、斜め下四十五度の角度で視線を床にロックした。角度を保ってはいたが、眼球は小刻みに揺れ続けていた。いや、揺れるというか、トラップにかかり逃げ惑うマウスのような動きだ。
「お名前は?」
「えっ! あっ! 空(から)! 空(から)古田(こだ)修(おさむ)」
最後の言葉、空古田修は消え入るような声だった。
「よろしく」
案内人は再びエレベーターホールへ消えた。
ドアが開き、案内人に続いて入ってきたのは、ひとりの女性だった。見た目は二十代半ばから後半。明るくもなく暗くもない。どちらかといえば、プラスマイナスゼロを基準にして、明るさプラスワン。人懐っこい女性のイメージだ。ただ、入室し、山名と空古田の顔を一瞥すると急に顔が強張り、明るさマイナスツー。飼育放棄された子犬のように不安げな眼差しを誰もいない空間に投げた。
「どうぞこちらへ」
その女性は、空古田の右隣の席に案内された。着席すると目のやり場に困っているというそぶりで、頭を左右に振りながらソワソワしだした。気が弱いのか、自分の居場所がないと思っているのか。知り合いのいない空間に放り出された孤独な子犬は、どうすることもできなかった。
「お名前は?」
「ひゃっ! あー、はい! 外(そと)神田(かんだ)聡(さと)美(み)、です」
不意打ちを食らったかのように、動揺しながら言葉を返した。感情の度合いが強まりすぎて口角筋が十分に働く前に声を出してしまった感じだ。性格的なものなのか、それともこの空間の中で緊張と緩和のバランスをうまくコントロールできないだけなのか、時折見せる柔和な表情が不気味だ。
シーンと静まり返った空間。誰もしゃべろうとはしない。呼吸することさえも許されないような雰囲気の中で、口を硬く閉じたまま、お互いに目を合わせない。普通の緊張感とは違う、軌道から外れる行為をすれば罰せられることを知っているかのように、頑なな表情を崩さない。
〈ガタッガタッ〉
最後のひとりが到着したようだ。案内人はエレベーターホールへ消えた。
入ってきたのは、三十歳前後の男性。ピンクのワイシャツに薄いグレーのスラックス。商社に勤めるビジネスマンにも見えるし、メーカー勤務のエンジニアにも見える。共通因子は、出世街道を順調に走っており、社内調整の術を知り尽くしているといった感じだ。
銀縁眼鏡の奥で光る鋭い目が印象的だ。顔は細長く、顔の面積の割りには目は小さく細いが、眼光が鋭いので、面と向かえば突き刺されるような不気味さがある。妥協を許さない、チャンスと見たら容赦なく蹴落としながら、頂点を目指す。相手を利用しながら昇っていこうとするタイプだ。ワイドカラーのワイシャツでノーネクタイ、上から二つのボタンを外し、胸をはだけたその姿は、参加者の中において異彩を放っていた。
「どうぞこちらへ」
その男性は、外神田の右隣の席に案内された。着席すると、顔を真下に向けたが、すぐに顔を上げ、チラチラと他の参加者たちを盗み見た。神経質そうな仕草。普段、他人の言動をいつも気にしながら様子を伺っているのだろう。
男性の警戒心は周りに伝播し始めた。さっきまで身を硬くしていた他の参加者達も急にソワソワし始め、視線を宙に漂わせた。
「お名前は?」
「ん? 名前? 名前か。佐伯(さえき)俊(しゅん)太(た)というものです」
案内人を上目遣いで見た後、ちょっと間を置き、神経質そうに答えた。そして、周辺を遮断するかのごとく、腕を組みながらゆっくり目を閉じた。ほんとうは気が弱いのかもしれない。無理に装うとする自分に常にストレスを感じながらも根拠もなく虚勢を張り続ける。そうしないと生きる価値を見出せない。自分を解放できない、そういうタイプの人間かもしれない。
参加者全員が揃った。
案内人が佐伯の右隣に着席すると、固唾を呑む音が一つ二つ三つと聞こえてきた。ここに集まった人たちはみんな同じ目的を持っているはずだ。チラシを見て自主的に集まってきた人たちだ。四名の参加者は、その目的に向かって突き進んでいく。参加を決めた人たちの思いは同じベクトルに向かう。どのように始まるのか。緊迫した空気は、その度合いをさらに増していく。
本日は、平成二十八年十二月四日(日)
銀座九丁目・ゴクラックビル。そのビルは並木通りに沿って建っていた。陽が当たる時間の並木通りは、人も車の往来も少なく、有名百貨店が並ぶ華やかな銀座中央通りと比べるとあっけらかんとしたもので、街の陰影を正直かつ真っ直ぐに映していた。
ダークブラウンのタイル張りで外観を飾ったゴクラックビルは、地味な佇まいだ。並木通りには、ファッションや化粧品関連のブランドビルがいくつか建っているが、街全体のイメージはライトグレーだ。そのライトグレーの中にあっても、ゴクラックビルはさらにグレー、いや暗いといったほうがピッタリかもしれない。ダークブラウンのタイルは、竣工当時は、ブラウンかライトブラウンだったのかもしれない。月日を重ねるほどに、現在の風合いを見せるようになったのかもしれない。オリジナルの色を想起するにはあまりにも汚れ過ぎているのだ。
間口はビルにしては狭い。三間ほどしかなさそうだ。商業用に供されているというよりも二、三世帯用として設計された住居としての存在さえ感じさせる。一階はショーウインドウではない。向かって左側が階段スペースで、右側が事務所のような造りになっている。お店ではないだろう。よく見ると、住宅用をひと回り大きくしたような木製のドアが一枚。ドアは重厚な木味を持った無垢材のよう。その右横に小さな窓がある。窓は一メートル四方の田の字型窓。装飾窓というよりも、機能性を優先させた佇まいだ。窓には内側からベージュのカーテンが引かれており、中の様子はうかがい知れない。ドアスコープの下には金属製の小さなプレートが張り付けてある。ヤスリをかけたような銅板の表面には、黒で『トリックバー』の文字が。他にはアイデンティティを具体的に表現するものは見当たらなかった。素っ気ないというよりも不気味なフロントマスク。お店であれ事務所であれ、人を寄せ付けない、入りにくい雰囲気を醸し出している。
ひとりの人物が、プレートの文字を一瞥して、左側の階段スペースに向けて歩を進めた。足取りは弱々しく、恐る恐るといった感じで足跡を残さないように、少し身を屈めながらの動きだった。
階段スペースを過ぎると突き当たりにエレベーターがあった。その人物はそこまで来ると、エレベーターの前で立ち止まり、ドア全体を下から上へゆっくり眺め、階数表示板のところで視線を一旦ロックした後、再び視線を下ろし、エレベーターボタンを押した。
エレベーターの筐体が一階に降りていたようで、ドアはすぐに開いた。その人物はゆっくり足を踏み入れ、正面に向き直って、[閉]ボタンを押した。建物同様、エレベーターも年季が入っていた。ガタガタと音をたててドアが閉まり、ガタガタと揺れながら筐体が動き出した。地震感知器が備わっている近年のエレベーターであったら、即座に作動したことだろう。エレベーターが動いている間ずっと揺れていたのだ。昇っているのに落ちていくような奇妙な動き……その人物は顔を引きつらせ、思わずしゃがみ込んだ。三階、四階、五階……上昇速度は揺れの大きさに反比例するかのように遅い。もしかしたら誰かが人為的に操作しているのかもしれない。そのくらい不自然な動きをしているのだ。
動き出してから約四十秒後にエレベーターは止まった。そこは九階なので、一階上昇するのに約五秒かかったことになる。四十秒間の大揺れを体験した人物はどんな心境なのだろうか。九階に着いてドアが開き、よろよろとした足取りでひとり降りてきた。真っ青な顔をした女性であった。エレベーターホールは薄暗く、空気の動きはなく止まったまま、生の気配も感じさせない。生物の侵入を拒むかのように、外の空気の比重よりも重い。手と足を意識的に動かさないと前に進めない。エレベーターホールに一歩足を踏み出したままだ。驚愕と困惑の表情を見せ、そのまま動かなくなった。
〈ガタッガタッ〉
振り向くと、エレベーターのドアが閉まろうとしているところだった。
「お待ちしておりました」
「へっ!」
再び振り向いた女性の前に現れたのは、ひとりの人物だった。誰もいないはずのエレベーターホール。空気が止まり、人の気配を感じなかったはずなのに。声の恐怖で反射的に振り向くと、目の前約六十センチメートルのところに現れた。いや、言葉の表現から逆算すると、先に存在していたのだ。
その女性は言葉が出ないまま硬直していると、さらに
「ようこそおいでくださいました。ご案内いたします。こちらへどうぞ」
その人物は手招きで、女性を誘導した。五、六歩進むと立ち止まり、ドアノブらしきものに手をかけた。片開きのドアがあった。エレベーターホールが薄暗かったので当初はわからなかったが、目が慣れてきて、ディテールが浮かび上がった。女性も後に続き、室内に入った。そこは十二畳ほどの空間でほぼ正方形。天井の高さは約三メートル。壁と天井は薄いベージュ系の壁紙を施されており、床はライトグレーのビニールクロスがピシッと張られていた。内装は明るい色でまとめられているはずなのに雰囲気は暗いのだ。理由は天井にあった。シーリングライトだ。一般住宅のリビングルームに使われるようなシーリングライトが天井の中心に一個だけ。部屋の広さに比べて小さいので、明るさが十分に確保できない。ダウンライトやスポットライトもない。だから部屋の四隅は特に暗かった。
「どうぞこちらへ」
その女性が案内されたのは、部屋に置かれた一脚の椅子。業務用の簡素なものではなく、クッションの効いたOAチェアだ。椅子は全部で五脚。コミュニケーションが取りやすいように円形に置かれていた。
「お名前は?」
「はい。山名(やまな)千夏(ちなつ)と申します」
「よろしく」
お互いにテンションは低かった。特に山名千夏の場合、このセミナーに参加するということは、自殺願望を持っているということだから、テンションが低くて当たり前だ。そして山名を案内した人物は、先日、新橋のSL広場でチラシを配っていたボブヘアだ。近くで見てもやはり男なのか女なのかハッキリしない。相変わらずのユニセックス。年齢は、肌の艶から察すると二十代後半から三十代前半か。声についてもハッキリしない。声の低い女性とも、中音域の男性ともとれる。濃紺のブレザーに濃紺のスラックス。体のラインを隠すためか、やや大きめのサイズを着用している。
ただ、目力はある。揺るぎない自信にあふれるという極太の力ではなく、意志の強さ、芯の強さ、太くないけれども自分の人生に対してしっかりしたポリシーを持っている、そんな目だ。捉えたら離さない、だけど去る者は追わない、もちろん来る者も拒まない。体全体から感じる物静かな雰囲気とは違和感のある印象の目だ。
「もう少しお待ちください。あと三名のお友だちがいらっしゃったら始めますから。どうかなさいました?」
とても静かで、優しい物言いだ。
「いいえ」
不思議そうにこの人物を見ていた山名だったが、視線が捉えられ、少し気圧されたようだ。性別不明、年齢不詳、職業は占い師か。物静かで優しそうな人物だが、人の気持ちを不安定にさせる雰囲気を醸し出している。
山名は落ち着かなかった。黙っているとますます不安になるからだろうか。無理やり声を絞り出すように
「あとぉ、三人、いらっしゃるん、ですか」
「はい、そうです」
「どのような人たちですか」
「あなたと同じですよ」
「はいっ?」
「あなたと同じ自殺願望を抱いている人たち。お友だちですよ」
山名はハッとした表情を見せた。性別や年齢のことを聞いたつもりだったのだろう。しかし、予期せぬ言葉が返ってきた。そんな表情だ。自分と同じ自殺願望者? 死にたい気持ちを共有できる友だち? 今は不安だが、すぐに楽になるのだろうか。この人に心身を委ねれば、すべては解決するのだろうか。誰かを迎え入れるため、エレベーターホールへ消えたその人物の背中の残像を脳裏に焼き付けながら、自らの不安を確認している、そんな困惑が浮かび上がっていた。
ドアを開けて入ってきたのは、案内人とひとりの男性だった。ひと言でいうとひ弱。猫背で、いかにも自信がなさそうな目は視線が定まらない。頬がこけており、顔の筋肉をすべて削ぎ落とし、皮だけで成り立っているかのごとく頬骨が突き出ている。表情は暗く、恐怖感さえ漂わせる。入室して山名千夏と視線が合ったが、瞬時に逸らした。この世の生を拒絶するかのような怯えの塊だ。
「どうぞこちらへ」
その男性は、山名の右隣の席に案内された。着席すると山名に目を向けることなく、斜め下四十五度の角度で視線を床にロックした。角度を保ってはいたが、眼球は小刻みに揺れ続けていた。いや、揺れるというか、トラップにかかり逃げ惑うマウスのような動きだ。
「お名前は?」
「えっ! あっ! 空(から)! 空(から)古田(こだ)修(おさむ)」
最後の言葉、空古田修は消え入るような声だった。
「よろしく」
案内人は再びエレベーターホールへ消えた。
ドアが開き、案内人に続いて入ってきたのは、ひとりの女性だった。見た目は二十代半ばから後半。明るくもなく暗くもない。どちらかといえば、プラスマイナスゼロを基準にして、明るさプラスワン。人懐っこい女性のイメージだ。ただ、入室し、山名と空古田の顔を一瞥すると急に顔が強張り、明るさマイナスツー。飼育放棄された子犬のように不安げな眼差しを誰もいない空間に投げた。
「どうぞこちらへ」
その女性は、空古田の右隣の席に案内された。着席すると目のやり場に困っているというそぶりで、頭を左右に振りながらソワソワしだした。気が弱いのか、自分の居場所がないと思っているのか。知り合いのいない空間に放り出された孤独な子犬は、どうすることもできなかった。
「お名前は?」
「ひゃっ! あー、はい! 外(そと)神田(かんだ)聡(さと)美(み)、です」
不意打ちを食らったかのように、動揺しながら言葉を返した。感情の度合いが強まりすぎて口角筋が十分に働く前に声を出してしまった感じだ。性格的なものなのか、それともこの空間の中で緊張と緩和のバランスをうまくコントロールできないだけなのか、時折見せる柔和な表情が不気味だ。
シーンと静まり返った空間。誰もしゃべろうとはしない。呼吸することさえも許されないような雰囲気の中で、口を硬く閉じたまま、お互いに目を合わせない。普通の緊張感とは違う、軌道から外れる行為をすれば罰せられることを知っているかのように、頑なな表情を崩さない。
〈ガタッガタッ〉
最後のひとりが到着したようだ。案内人はエレベーターホールへ消えた。
入ってきたのは、三十歳前後の男性。ピンクのワイシャツに薄いグレーのスラックス。商社に勤めるビジネスマンにも見えるし、メーカー勤務のエンジニアにも見える。共通因子は、出世街道を順調に走っており、社内調整の術を知り尽くしているといった感じだ。
銀縁眼鏡の奥で光る鋭い目が印象的だ。顔は細長く、顔の面積の割りには目は小さく細いが、眼光が鋭いので、面と向かえば突き刺されるような不気味さがある。妥協を許さない、チャンスと見たら容赦なく蹴落としながら、頂点を目指す。相手を利用しながら昇っていこうとするタイプだ。ワイドカラーのワイシャツでノーネクタイ、上から二つのボタンを外し、胸をはだけたその姿は、参加者の中において異彩を放っていた。
「どうぞこちらへ」
その男性は、外神田の右隣の席に案内された。着席すると、顔を真下に向けたが、すぐに顔を上げ、チラチラと他の参加者たちを盗み見た。神経質そうな仕草。普段、他人の言動をいつも気にしながら様子を伺っているのだろう。
男性の警戒心は周りに伝播し始めた。さっきまで身を硬くしていた他の参加者達も急にソワソワし始め、視線を宙に漂わせた。
「お名前は?」
「ん? 名前? 名前か。佐伯(さえき)俊(しゅん)太(た)というものです」
案内人を上目遣いで見た後、ちょっと間を置き、神経質そうに答えた。そして、周辺を遮断するかのごとく、腕を組みながらゆっくり目を閉じた。ほんとうは気が弱いのかもしれない。無理に装うとする自分に常にストレスを感じながらも根拠もなく虚勢を張り続ける。そうしないと生きる価値を見出せない。自分を解放できない、そういうタイプの人間かもしれない。
参加者全員が揃った。
案内人が佐伯の右隣に着席すると、固唾を呑む音が一つ二つ三つと聞こえてきた。ここに集まった人たちはみんな同じ目的を持っているはずだ。チラシを見て自主的に集まってきた人たちだ。四名の参加者は、その目的に向かって突き進んでいく。参加を決めた人たちの思いは同じベクトルに向かう。どのように始まるのか。緊迫した空気は、その度合いをさらに増していく。
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