自死セミナー

ぬくまろ

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山名千夏の場合

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「全員揃いましたので始めたいと思います。まずは、ご参加いただきまして、ありがとうございます。御礼を申し上げます。ご案内のチラシを配ったのが直前だったので、心配していましたが、四名の参加。うれしく思います。みなさんちょっと硬くなっているようですね。構えないでください。みなさんは揺るぎない思いを抱いてここに来ているのですから、自分をさらけ出すくらいの気持ちを持ったほうがいいでしょう。どうでしょうか。みなさん、自分ひとりでは先に進めないからこそ、ここに来ているのです。リラックスしてくださいというつもりはございません。それは無理だと思います。リラックスできる方はここには来ませんから」
 案内人はそこまで言うと、反応を確かめるかのように一人ひとりの顔をゆっくり見回した。案内人の表情は常に一定だった。黙っている顔もしゃべっている顔もほとんど同じだ。口が動いているのか動いていないのかの違いだけだ。淡々と語る口調は、聞く側に恐怖感を与えるわけでもなく、逆に安心感を与えるわけでもない。人によっては、ショッピングセンターの館内放送を聞いているような錯覚に陥るかもしれない。抑揚の少ない語り口だ。ただ、案内人が最後のフレーズ「リラックスできる方はここには来ませんから」を言い終えた瞬間、四人の参加者の視線が一斉に案内人に注がれた。
「リラックスできる方はここには来ませんから。そうですよね。当たり前ですよね」
 口を開いた外神田だったが、顔が引きつっていた。案内人は薄笑いを浮かべ、すぐに視線を外した。
「それでは、このセミナーの主旨をもう一度確認したいと思います」
 案内人は、配布したチラシに書いてある内容を一字一句間違えることなく口頭で伝えた。まるで暗記しているかのように、句読点も意識した語り口だった。

 舞台は整った。

「自己紹介をさせていただきます。私はこのセミナーを主催している三門(みかど)玲(れい)と申します。みなさんのお手伝いをさせていただきます。最初に言っておきますが、このセミナーは営利を目的にしたものではありませんし、ボランティアでもありません。ましてや、私の利益になるものでもありません。そこのところははっきり申し上げます。私が主催していますが、主体ではありません。主体になるのはみなさん一人ひとりです。さて、これまでに御縁があって送り出し方は八十八名。みなさん晴れ晴れとした気持ちになって、この部屋から旅立っていきました。先ほども申し上げたように、偽りのない気持ちで臨んでください。みなさの心の準備が整いましたら始めます。いいですか」
 三門はまた、反応を確かめるように一人ひとりの顔をゆっくり見回した。不安な表情でからだを小刻みに揺らすもの。逆に胸に手を当て安堵の表情を浮かべるもの。対照的な心象風景を見た三門の目が一瞬鋭くなった。
「それでは始めましょう。山名さんからどうぞ。簡単なプロフィールとここで話したいことなど、何でもいいですよ。決まったルールはありません。ただ、偽りのない気持ちで臨んでください。お願いします」
「はぁい」
 山名の声はか細かった。目は泳いでいたが、自分の気持ちをさらけ出す勇気を振り絞っているという印象だ。
「山名千夏。二十三歳です。東京に本社がある商社に勤めています。仕事は営業担当者をサポートする業務です。電話応対や書類作成、ファイリングなどです。入社一年目でまだ満足にできませんが、一生懸命やっていました。営業の人たちを支えようと……」
 そこまで言うと、涙ぐみ、声を詰まらせた。
 他のメンバーはうつむき、身を硬くして待った。三門も無表情でじっと待っている。
 待つこと二分。
「私は三人の営業スタッフをサポートしていました。入ったばかりで何もわからない私にいろいろ教えてくれたんです。毎日が不安だった私はとても安心して仕事に取り組めました。仕事で悩んでいる私のことをいつも気にかけていただいて、困っていると懇切丁寧に教えていただきました。質問する内容以外のことも多く教えていただきました。特にその中でひとりのスタッフがとても好意的でいろいろな面で助けていただきました。それで……その人と親しくなってしまったんです。男女の関係です。でも一ヵ月くらいしか続きませんでした。身を預けてから急によそよそしくなったんです。仕事のことも以前のように丁寧に教えてくれません。人が変わったみたいで、私は人間不信に陥りました。でも、それからしばらくすると別の営業の方が私にいろいろと親切にしてくださるようになりました。私はうれしくて、これまで以上に仕事を頑張ろうと思ったものです。それで……それで……また親しくなってしまったんです。前の営業の方と同じようになってしまいました」
 山名は再び声を詰まらせた。涙ぐみながらも言葉を紡ごうとしていた。
 待つこと一分。
「ごめんなさい。続けます。その先は同じでした。前の方と同じように人が変わりました。私はさらに人間不信になってしまいました。毎晩泣き続けました。毎朝起きるのが辛く、会社に行くのが苦しく、そして自分自身が不甲斐なく感じ……死にたい……そのとき生まれて初めて思ったんです。それでもまだなんとか会社に行ける状態を保っていました。そんな私のことを見ていたのでしょう。三人目の営業の方がとても心配してくれて、気づかってくれた。今まで以上にやさしい言葉で仕事を教えてくれました。精神的に辛い状態は続いていましたが、その方と話しているときは少し落ち着くようになったんです。そんな日々が続いていましたが、そしてまた私は繰り返してしまったんです。一人目、二人目、そしてまた三人目も。どうしてそうなるのか、今にして思えば、情けないのひと言に尽きます。でもそのときは、辛くて、苦しくて、寂しくて、どうしようもなくて。目の前にやさしい手が差しのべられていれば、自然とそんなふうになってしまうんです。弱いんです私。情けないんです私。みなさんから見たら、私はどうしようもない女です。職場の三人の社員に身を預けるなんて、阿婆擦れと思われても仕方ありません。でも聞いてください。私も必死だったんです。入社一年目で、右も左もわからず、不安だらけの日々を過ごしていたら、こうなってしまった。私は弱い女ですが、一生懸命だった。それだけは自分で認めたい」
 山名は目を閉じ沈黙した。終了を黙認する空気が流れ始めるや否や、山名は口を開いた。
「じつはその先があるんです。聞いてください。罠にかかってしまったんです。罠でした。最初から仕組まれていたんです。実は、三人はグルでした。給湯室で三人が話しているのを聞いてしまったんです。なんと私の品評会をやっていたんです。聞いた内容は言えません。言葉に出すのもはばかられます。動揺した私は、その場で三人に詰め寄りました。内容はこうです。私をもてあそぼうという計画で、怪しまれないように一人ずつ私に近づき、目的を達成しようとしたようです。不信感を与えないように、セクハラと訴えられないように、自然に持って行けるような流れを作ったと白状しました。許せない! 私は叫びました。その場で号泣しました。そうしたら、その中の一人が『泣くのは恥ずかしいことだからやめてよ。合意の上だったから、問題ないじゃない。何を今さら言っているの。自分が損するよ』と言って去って行きました。他の二人も目を合わさず無言のまま去って行きました。私はその場に取り残されましたが、夢であってほしい、事実は違うところにあってほしいと思いながら、動けませんでした。立ち尽くしたままどのくらいその場にいたのかもわかりません。給湯室に出入りする社員が訝しげに見ているのはわかりましたが、それ以外のことはわかりません。ていうか、もうどうでもいいんです。心身を犯された、信じていたものに裏切られた、もう元には戻れない。呼吸が苦しくなり、死にたいという衝動が一気に襲ってきました。その後、どのように寮に帰ったのか覚えていません。気づくと、リビングダイニングにある冷蔵庫を背にして座り込んでいました。時計を見ると午前二時を回っており、再び時計を見ることもなく朝を迎えました」
 ここまで言い終えた山名の表情は、ほんの少し落ち着きを取り戻したかのように見えた。山名は手のひらで胸を押さえながら呼吸を整え、視線を少し上げた。
「人間不信という言葉では表わせない怒り、絶望、孤独。自分を取り巻くすべてのものを消したい。自分も消したい。そうすれば、すべてを忘れることができる。すべてをリセットしてやり直せる。この思いを一ヵ月間持ち続けています。もう限界なんです。そんなとき、偶然チラシを受け取り、内容を見て、誰かと一緒なら楽に死ねる。そう思ってここに来ました。何かの縁です」
 山名は怯えた目つきで参加者一人ひとりをゆっくり見た後、主催者である三門のところで視線を止めた。
「ありがとうございます。山名さんの気持ちをしっかり受け止めました。たいへん辛い思いをしましたね。男性社員は欲望のままに行動しました。後輩であるあなたの立場は弱いものです。社会はやはり年功序列。男性社員は先輩になるわけですから、山名さんは従うしかなかった。仕事の上では絶対的な存在です。しかし今回は、先輩の特権を利用した上に、身近な人を対象に欲求を満たすだけの卑劣な行為。自分の身に火の粉が降りかからないように、巧妙な計画で一人の女性を傷つけたことは許されざる行為です。山名さんの心とからだは瀕死の状態です」
 三門は山名を見据え、独特のテンションを保ったまま語り、さらに続けて
「山名さんの話を聞いて何か言いたいことがあればどうぞ」
 山名の話が終わった後、会場にはそれぞれの呼吸音だけがさまよっていた。
「ゴホン! ちょっといいですか」
 咳なのか、それとも咳払いなのかよくわからなかったが、佐伯が挙手した。
「はいどうぞ」
「後で正式に自己紹介しますが、佐伯と申します。山名さんの話を聞いていて腑に落ちないところがあります。それは、三人の男性社員と関係があったと言って、彼らを責めていましたが、合意の上での行為であり、あなたにも責任はあると思いますが、どうでしょうか」
 佐伯の発言で周りは凍り付いてしまったようだ。山名自身は震えだし、外神田は今にも泣きそうだ。空古田は手のひらをももに乗せ、うつむいたまま動かなくなった。
「佐伯さん。ここは罪を問うところではありません。行為の是非よりも、負ってしまった心の傷の深さを知り、語り合うところです。もう少しお手柔らかにお願いします」
 三門の言葉に佐伯は納得しなかったようだ。
「ただ、思い込みが強すぎると、すべて他人のせいにする。それはよくないと思う。たんなる被害妄想だ」
 佐伯は無愛想で口調は冷たかった。会場は静まり返ったが、弱々しい手が一本挙がった。空古田だった。
「佐伯さん。あなた死にたくないんですか。他人を責めるより、一緒に死のうという気持ちを、なぜ強く持たないんですか。あなたのお考えでは先に進めません。僕はそう思います」
 空古田は意を決して発言したのだろう。からだが小刻みに震えていた。言い終えてうつむく姿は、ライオンににらまれた草食動物のようだ。実際ににらまれていた。佐伯の視線は空古田のからだを貫通するかのごとく鋭かった。
「それでは、次の方に移りたいと思います。よろしいでしょうか」
 反論しようとしている佐伯の気配を感じといったのか、三門はそれを遮断するように仕切り直した。
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