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水の国《ライプツィヒ》編 狂楽の祀り
2-6 黒い蝶
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◆
「何度来ても同じだ。君の言う男はここにはいない」
「それなら、祀りの剣士にだけでも会わせてよ!」
「剣士は祀り当日まで発表しない。規則に例外は無い」
クリストフ家の邸宅前で門番に追い返され、ユリアは渋々その場を去った。不機嫌を隠しもせず、大股で石畳を歩く。
門番に追い返されたのは今日が初めてではない。過去に数度同じようなやり取りが行われており、門番の彼女のあしらい方も慣れたものだ。それがまた腹立たしい。
《ライプツィヒ》の王都ヴェルス。
貴族達の邸宅が立ち並び、網目のように水路が走る水の都にユリアとリアンは来ていた。
貴族達が後援者となって芸術家達を庇護していることもあり、この街には銅像や壁画といった美術品が多い。
屋敷や家々をつなぐ水路に小舟を浮かべ、街中に散りばめられた芸術作品を遊覧するといった遊びも盛んだ。
街路を行くユリアの左手には大きな闘技場が見える。
《ライプツィヒ》を訪れる前、最も楽しみにしていたものだ。強き者が互いの勇を競う場。今でも憧れ、興味を引かれる。
しかし、今はそれ以上に心を占めるものがあった。ゼフィールの安否である。
ミーミルの町で行方をくらませたゼフィールの消息は未だ掴めていない。目撃情報も庭師の証言だけだ。
彼の証言を頼りにヴェルスへ急行し、クリストフ家の邸宅の場所を調べ、ゼフィールのことを尋ねたけれど、知らぬと追い返された。
もちろん"奥様"なる人物にも会えていない。
ゼフィールに関する情報はどこにも無かった。
「いらっしゃいませ~」
一軒の食堂に入ると少女が愛想良く出迎えてくれた。好きな席に座っていいということだったので、カウンターに座る。
内装の洒落た店だ。天井からいくつも吊り下げられた水色のガラス玉が水泡をイメージさせる。ガラス玉が光を屈折させることで光源がぼやけ、客席に穏やかな光を届ける効果もあるようだ。
「ユリア不機嫌だね。さては、今日もあそこに行って、追い返されてきたんでしょ」
給仕の格好をしたリアンがユリアに話しかけてきた。
リアンはユリアと違って頭の回る男だ。クリストフ家で門前払いを食らった後、彼はすぐに情報収集を提案した。その情報収集の場として、この食堂の給仕として潜り込んだのである。
ヴェルスの中でも中級グレードのこの店には多くの人が足を運ぶ。そこで交わされる話は実に様々だ。
リアンは、そうした会話の中から大切そうな情報を汲み取り、気になる話題があればさり気なく加わる。話題を誘導し、欲しい情報を引き出していく。
口下手で、空気を読むということが出来ないユリアには無理な芸当だ。
「何度も顔を会わせれば、ちょっとくらい情も沸くかもしれないじゃない?」
「相手はプロだからねー。厳しいんじゃないかな。あ、何食べる?」
「今日のオススメのパニーニ」
「了解。ちょっと待ってて」
厨房に注文を通しに行ったリアンを視界の端に収めながら、ユリアは周囲に目を向けた。
昼を少し過ぎたくらいの時間だけあって、まだまだ客足は多い。雑貨屋で働く娘や、小舟の船頭、有閑な奥様方といった面々が、優雅に昼の一時を楽しんでいる。
「今度の祀り、クリストフ侯爵夫人はどのような方を出されるのかしら?」
「白髪の殿方でしょう?」
「私は今年もカイン様のお姿が拝見できればそれでいいわ」
「あなたも好きね」
「あなた方が節操が無さすぎるのよ」
奥様方の方から呑気な会話が流れてくる。
祀りが開催されるまで残り一月弱。剣士が人々の話題に上ることが明らかに増えた。
アフロディテ礼讃祀。通称祀り。
リアンの情報によると、《ライプツィヒ》の守護神アフロディテを祀るこの日は、国を挙げてのお祭りになる。
この日ばかりは人々も仕事の手を休め、アフロディテに日々の感謝を捧げ、休日を楽しむという。
中でも、剣舞を奉納する剣士のお披露目は、民に非常に人気がある。
剣舞を奉納する闘技場には貴族以上でなければ入れない。故に、庶民は、会場へ向かう剣士の姿を見、彼らが舞う姿を互いに想像して語り明かす、らしい。
祀りの剣士は云わば花形スターだ。女子はその凛々しい姿に憧れ、男子は自分がそこに立てるよう目標とし、努力する。
〈金の侯爵家〉ことヨルク家の剣士、カインの名はチラホラ聞くが、〈銀の侯爵家〉こと、クリストフ家の剣士についての情報は一切出てこない。
白髪の男性で、最近は毎年違う人物が選ばれている。そんな情報ともいえない情報が精々だ。
「お待ちどうさま。まぁ、これでも食べて落ちつきなよ。そんな顔してると、眉間の皺が消えなくなるよ? ゼフィールに"老けたな"とか言われるんじゃない?」
パニーニを持ったリアンが戻ってきた。皿を置くと、ユリアの眉間を人差し指でツンと突く。
何するのよ。と、ユリアが眉間に手を当てると、確かに皺が寄っていた。無意識に眉間を寄せていたようだ。
指の腹で眉間を撫で、皺を解そうとするが、中々うまくいかない。途中で諦め、出されたばかりのパニーニを手に取った。
「皺ってどうやったら無くなるの?」
「小難しいこと考えなきゃいいんじゃない? 忙しいから僕もう行くけど、一人で突っ走っちゃ駄目だからね」
「わかってるわよ」
焼きたてのパニーニにかぶりつく。中からトロけてくるチーズやハムの塩加減が美味しいが、心がモヤモヤして今一味を堪能できない。
(ゼフィールちゃんと食べてるのかしら)
最近多い一人の食事は実に味気ない。
◆
夜のヴェルスの街をユリアとリアンは歩いていた。目的地はクリストフ侯爵家。
「今からでも引き返した方がいいと思うんだよね。入れてもらえないなら忍び込むって、絶対やらない方がいいって」
「うるさいわね。ちょろっと中に入って、調べて帰ってくるだけじゃない」
「それが危ないから止めてるんでしょ。貴族の屋敷なんて、警備が厳重に決まってるじゃん」
「心配だと思うなら誰も来ないように見張っててよ。その間に私が調べてくるから」
「そういう問題じゃないから! そもそも、どこから屋敷に入り込むつもりなのさ?」
「……?」
ユリアには、リアンに返す言葉が思いつかない。よくよく考えてみたら、入口のことなんて考えていなかった。
腕を組み、頭を捻るが、適当な場所は出てこない。塀を乗り越えるという案も考えてみたが、さすがにリアンに笑われるだろう。
「ユリアに聞いた僕が馬鹿だったよ。とりあえず、屋敷の周囲を調べて入れそうな場所を探そう」
リアンが深くため息をつく。だが、それ以上の制止はもう言ってこない。
「なんやかんや言って、あんたも手伝ってくれるんじゃない」
「そりゃまぁ、僕だって彼の事は心配だし? それに、止めてもどうせ聞かないでしょ?」
「分かってるじゃない」
「一七年も弟してれば、そりゃね」
とりとめもない話をしながらクリストフ家の正門前を通り過ぎる。昼間と人は違えど、やはり門番がいた。
それを確認すると、街並みの陰に入り屋敷の周囲を探る。いつ見ても広い屋敷だ。庭の先に建物が見えるが、部屋の数もきっと多いのだろう。あの中から、ゼフィールがいる場所を探し当てるのは骨が折れそうだ。
「ユリア、こっちこっち」
古い通用門を調べながら、リアンがユリアを呼んだ。彼はぺたぺたと扉を触り、音をたてぬようあちこち叩いている。
「そこがどうかしたの?」
「いやね、噂なんだけど、蝶番《ちょうつがい》が壊れてる通用門があるらしくてさ。コレだと思うんだけど……」
そう言いながらリアンが扉を叩くと、そこだけ変な音がした。再度叩くと、わずかに扉がずれる。
「お、当たりだね。本当に行くのかい? ユリア」
「くどいわよ」
「はいはい。じゃぁ、僕はここで誰か来ないか見てるから。絶対戻ってくるんだよ」
「行ってくる」
少しだけ通用門を開くと、その隙間にユリアは身体を滑り込ませた。周囲を見回し素早く木陰に身を隠す。館の方向を確認すると、そちらに向けて歩き出した。
庭の中は静かだった。警戒していた番犬も今のところ出会っていない。
闇の中に身を潜めながら進んでいると、目の前に一羽の蝶が飛んできた。輪郭が淡く光る黒い蝶だ。
別段気にも留めなかったが、しばらく進んでも蝶はずっとユリアの前にいる。蝶が舞う方向とユリアの進行方向が同じなのか、それとも、どこかへ導いてくれているのか。
判別は付かなかったが、いつの間にか彼女は蝶の後を追っていた。夜に舞う不思議な蝶の行く先に、何かがありそうな予感がしたのだ。
館の近くまで来た時、風が吹いた。優しい風がユリアの髪をなびかせる。
(ゼフィール?)
風の吹いてきた方にユリアは振り向いた。風に乗り、微かに竪琴の音色が聞こえた気がしたのだ。聞こえるか聞こえないか、ほんの微かな音が。
竪琴を弾ける楽師など、貴族の屋敷なら大勢いるかもしれない。しかし、微かに聞こえた懐かしい旋律は、探している青年の奏でているものではないのだろうか。
音の流れてきた方へ足を踏み出した時、何かを踏んだ。木の枝だろうか。小さいが、乾いた音が出た。
「誰かいるのか!?」
警戒した声が発せられた。同時に、灯りがユリアの方へ近付いて来る。
(見つかった!)
灯りの場所は遠くない。むしろ近い。けれど、相手はまだこちらを完全に補足していないようだ。逃げるなら今しかない。
ユリアは素早く身を翻すと闇の中に身を潜めた。そのまま音をたてぬよう、入ってきた通用門まで戻る。
(見つけた! ようやく見つけた!)
ゼフィールへとつながる小さな手掛かり。ようやくソレを手に入れたユリアは静かに夜の闇の中へと消える。
彼女の抜け出した屋敷の庭では、黒い蝶が音の方へと舞っていった。
「何度来ても同じだ。君の言う男はここにはいない」
「それなら、祀りの剣士にだけでも会わせてよ!」
「剣士は祀り当日まで発表しない。規則に例外は無い」
クリストフ家の邸宅前で門番に追い返され、ユリアは渋々その場を去った。不機嫌を隠しもせず、大股で石畳を歩く。
門番に追い返されたのは今日が初めてではない。過去に数度同じようなやり取りが行われており、門番の彼女のあしらい方も慣れたものだ。それがまた腹立たしい。
《ライプツィヒ》の王都ヴェルス。
貴族達の邸宅が立ち並び、網目のように水路が走る水の都にユリアとリアンは来ていた。
貴族達が後援者となって芸術家達を庇護していることもあり、この街には銅像や壁画といった美術品が多い。
屋敷や家々をつなぐ水路に小舟を浮かべ、街中に散りばめられた芸術作品を遊覧するといった遊びも盛んだ。
街路を行くユリアの左手には大きな闘技場が見える。
《ライプツィヒ》を訪れる前、最も楽しみにしていたものだ。強き者が互いの勇を競う場。今でも憧れ、興味を引かれる。
しかし、今はそれ以上に心を占めるものがあった。ゼフィールの安否である。
ミーミルの町で行方をくらませたゼフィールの消息は未だ掴めていない。目撃情報も庭師の証言だけだ。
彼の証言を頼りにヴェルスへ急行し、クリストフ家の邸宅の場所を調べ、ゼフィールのことを尋ねたけれど、知らぬと追い返された。
もちろん"奥様"なる人物にも会えていない。
ゼフィールに関する情報はどこにも無かった。
「いらっしゃいませ~」
一軒の食堂に入ると少女が愛想良く出迎えてくれた。好きな席に座っていいということだったので、カウンターに座る。
内装の洒落た店だ。天井からいくつも吊り下げられた水色のガラス玉が水泡をイメージさせる。ガラス玉が光を屈折させることで光源がぼやけ、客席に穏やかな光を届ける効果もあるようだ。
「ユリア不機嫌だね。さては、今日もあそこに行って、追い返されてきたんでしょ」
給仕の格好をしたリアンがユリアに話しかけてきた。
リアンはユリアと違って頭の回る男だ。クリストフ家で門前払いを食らった後、彼はすぐに情報収集を提案した。その情報収集の場として、この食堂の給仕として潜り込んだのである。
ヴェルスの中でも中級グレードのこの店には多くの人が足を運ぶ。そこで交わされる話は実に様々だ。
リアンは、そうした会話の中から大切そうな情報を汲み取り、気になる話題があればさり気なく加わる。話題を誘導し、欲しい情報を引き出していく。
口下手で、空気を読むということが出来ないユリアには無理な芸当だ。
「何度も顔を会わせれば、ちょっとくらい情も沸くかもしれないじゃない?」
「相手はプロだからねー。厳しいんじゃないかな。あ、何食べる?」
「今日のオススメのパニーニ」
「了解。ちょっと待ってて」
厨房に注文を通しに行ったリアンを視界の端に収めながら、ユリアは周囲に目を向けた。
昼を少し過ぎたくらいの時間だけあって、まだまだ客足は多い。雑貨屋で働く娘や、小舟の船頭、有閑な奥様方といった面々が、優雅に昼の一時を楽しんでいる。
「今度の祀り、クリストフ侯爵夫人はどのような方を出されるのかしら?」
「白髪の殿方でしょう?」
「私は今年もカイン様のお姿が拝見できればそれでいいわ」
「あなたも好きね」
「あなた方が節操が無さすぎるのよ」
奥様方の方から呑気な会話が流れてくる。
祀りが開催されるまで残り一月弱。剣士が人々の話題に上ることが明らかに増えた。
アフロディテ礼讃祀。通称祀り。
リアンの情報によると、《ライプツィヒ》の守護神アフロディテを祀るこの日は、国を挙げてのお祭りになる。
この日ばかりは人々も仕事の手を休め、アフロディテに日々の感謝を捧げ、休日を楽しむという。
中でも、剣舞を奉納する剣士のお披露目は、民に非常に人気がある。
剣舞を奉納する闘技場には貴族以上でなければ入れない。故に、庶民は、会場へ向かう剣士の姿を見、彼らが舞う姿を互いに想像して語り明かす、らしい。
祀りの剣士は云わば花形スターだ。女子はその凛々しい姿に憧れ、男子は自分がそこに立てるよう目標とし、努力する。
〈金の侯爵家〉ことヨルク家の剣士、カインの名はチラホラ聞くが、〈銀の侯爵家〉こと、クリストフ家の剣士についての情報は一切出てこない。
白髪の男性で、最近は毎年違う人物が選ばれている。そんな情報ともいえない情報が精々だ。
「お待ちどうさま。まぁ、これでも食べて落ちつきなよ。そんな顔してると、眉間の皺が消えなくなるよ? ゼフィールに"老けたな"とか言われるんじゃない?」
パニーニを持ったリアンが戻ってきた。皿を置くと、ユリアの眉間を人差し指でツンと突く。
何するのよ。と、ユリアが眉間に手を当てると、確かに皺が寄っていた。無意識に眉間を寄せていたようだ。
指の腹で眉間を撫で、皺を解そうとするが、中々うまくいかない。途中で諦め、出されたばかりのパニーニを手に取った。
「皺ってどうやったら無くなるの?」
「小難しいこと考えなきゃいいんじゃない? 忙しいから僕もう行くけど、一人で突っ走っちゃ駄目だからね」
「わかってるわよ」
焼きたてのパニーニにかぶりつく。中からトロけてくるチーズやハムの塩加減が美味しいが、心がモヤモヤして今一味を堪能できない。
(ゼフィールちゃんと食べてるのかしら)
最近多い一人の食事は実に味気ない。
◆
夜のヴェルスの街をユリアとリアンは歩いていた。目的地はクリストフ侯爵家。
「今からでも引き返した方がいいと思うんだよね。入れてもらえないなら忍び込むって、絶対やらない方がいいって」
「うるさいわね。ちょろっと中に入って、調べて帰ってくるだけじゃない」
「それが危ないから止めてるんでしょ。貴族の屋敷なんて、警備が厳重に決まってるじゃん」
「心配だと思うなら誰も来ないように見張っててよ。その間に私が調べてくるから」
「そういう問題じゃないから! そもそも、どこから屋敷に入り込むつもりなのさ?」
「……?」
ユリアには、リアンに返す言葉が思いつかない。よくよく考えてみたら、入口のことなんて考えていなかった。
腕を組み、頭を捻るが、適当な場所は出てこない。塀を乗り越えるという案も考えてみたが、さすがにリアンに笑われるだろう。
「ユリアに聞いた僕が馬鹿だったよ。とりあえず、屋敷の周囲を調べて入れそうな場所を探そう」
リアンが深くため息をつく。だが、それ以上の制止はもう言ってこない。
「なんやかんや言って、あんたも手伝ってくれるんじゃない」
「そりゃまぁ、僕だって彼の事は心配だし? それに、止めてもどうせ聞かないでしょ?」
「分かってるじゃない」
「一七年も弟してれば、そりゃね」
とりとめもない話をしながらクリストフ家の正門前を通り過ぎる。昼間と人は違えど、やはり門番がいた。
それを確認すると、街並みの陰に入り屋敷の周囲を探る。いつ見ても広い屋敷だ。庭の先に建物が見えるが、部屋の数もきっと多いのだろう。あの中から、ゼフィールがいる場所を探し当てるのは骨が折れそうだ。
「ユリア、こっちこっち」
古い通用門を調べながら、リアンがユリアを呼んだ。彼はぺたぺたと扉を触り、音をたてぬようあちこち叩いている。
「そこがどうかしたの?」
「いやね、噂なんだけど、蝶番《ちょうつがい》が壊れてる通用門があるらしくてさ。コレだと思うんだけど……」
そう言いながらリアンが扉を叩くと、そこだけ変な音がした。再度叩くと、わずかに扉がずれる。
「お、当たりだね。本当に行くのかい? ユリア」
「くどいわよ」
「はいはい。じゃぁ、僕はここで誰か来ないか見てるから。絶対戻ってくるんだよ」
「行ってくる」
少しだけ通用門を開くと、その隙間にユリアは身体を滑り込ませた。周囲を見回し素早く木陰に身を隠す。館の方向を確認すると、そちらに向けて歩き出した。
庭の中は静かだった。警戒していた番犬も今のところ出会っていない。
闇の中に身を潜めながら進んでいると、目の前に一羽の蝶が飛んできた。輪郭が淡く光る黒い蝶だ。
別段気にも留めなかったが、しばらく進んでも蝶はずっとユリアの前にいる。蝶が舞う方向とユリアの進行方向が同じなのか、それとも、どこかへ導いてくれているのか。
判別は付かなかったが、いつの間にか彼女は蝶の後を追っていた。夜に舞う不思議な蝶の行く先に、何かがありそうな予感がしたのだ。
館の近くまで来た時、風が吹いた。優しい風がユリアの髪をなびかせる。
(ゼフィール?)
風の吹いてきた方にユリアは振り向いた。風に乗り、微かに竪琴の音色が聞こえた気がしたのだ。聞こえるか聞こえないか、ほんの微かな音が。
竪琴を弾ける楽師など、貴族の屋敷なら大勢いるかもしれない。しかし、微かに聞こえた懐かしい旋律は、探している青年の奏でているものではないのだろうか。
音の流れてきた方へ足を踏み出した時、何かを踏んだ。木の枝だろうか。小さいが、乾いた音が出た。
「誰かいるのか!?」
警戒した声が発せられた。同時に、灯りがユリアの方へ近付いて来る。
(見つかった!)
灯りの場所は遠くない。むしろ近い。けれど、相手はまだこちらを完全に補足していないようだ。逃げるなら今しかない。
ユリアは素早く身を翻すと闇の中に身を潜めた。そのまま音をたてぬよう、入ってきた通用門まで戻る。
(見つけた! ようやく見つけた!)
ゼフィールへとつながる小さな手掛かり。ようやくソレを手に入れたユリアは静かに夜の闇の中へと消える。
彼女の抜け出した屋敷の庭では、黒い蝶が音の方へと舞っていった。
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