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葉月
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車に撥ねられて十メートルも飛ばされたのに、俺の体は奇跡的に無傷だった。
脳の損傷もなく、意識が戻って三日後に退院した。
意識をなくしていたのが二日間だったので、生死の境を彷徨い三途の川まで見たというのに、五日で元の生活に戻ったというわけだ。
世間は夏休み。
進学校に通う俺の手元には、大量の宿題がある。
そしてもうひとつ、全く解ける気配のない宿題も。
「アンタが生きてたのは明治から昭和初期らへんってとこかな」
男が唯一覚えている洋館の作りや女性のドレスの形状から男の生きていた時代を推測するも、身元探しをするにはヒントが少なすぎる。
「病院からは出られなかったのか?」
いつからかは分からないらしいが、俺のいた病院内をウロウロしていたらしいのだ。
「ええ、出ようとしても見えない壁に遮られるのです」
「病院が建つ前にアンタが最期にいた洋館があったのかもな。郷土史料館でも見に行ってみるか」
「そうですね。ですが、今日の分の宿題を済ますのが先です」
自分の記憶はないくせに、現代の生活に精通している男。
病院内を徘徊しているうちに知識を蓄えていったらしいが、受験生の入院患者の参考書も覗いていたらしく、悔しいかな俺より勉強が出来る。
「そこの数式、間違っていますよ」
「え……あぁ、これ、どっちの数式使うのか、いつも迷うんだよな」
「分かっているのなら、二つの数式の意味合いをちゃんと理解すべきです。意味が分かれば、ここでその数式を使うはずはありませんから。受験で同じ間違いを犯さないように、今日は完璧に理解するまでやりますよ」
「受験までまだ一年半あるからなんとかなるって」
「もう一年半しかないのでしょう?」
どこの鬼家庭教師だよ……。
あからさまに大きな溜め息を吐いて、二つの数式の違いを参考書で確認する。
なるほど。ちゃんと性質を理解すれば、あそこであの数式を使うのはないな、というのが分かる。
一人でやっていたらいつまで経っても二つの数式がごちゃ混ぜになっていただろうから、男の助言には感謝するのだが……。
「アンタに見つめられると集中できないんだけど」
「見られていても集中できる力を身につけないと受験は乗り越えられませんよ」
体に穴が空くんじゃないかという程の視線に文句を垂れても、青い双眸から放たれる鬼家庭教師ビームは弱まらない。
受験生の入院患者は、どんだけ血眼になって勉強してたんだよ。
「……也、拓也」
「んー……って、ビビった」
名前を呼ばれて目を開けると整った顔がドアップであって、心臓が止まるかと思った。
「郷土史料館は五時まででしょう? もうすぐ四時になりますよ」
「え、あぁ悪い、寝すぎた」
時計を見ると男の言う通り、あと数分で四時になろうかというところだった。
午前中はびっしり勉強して、昼飯を食って。そのあと、ベッドに寝転がって微睡んでいたのだが、がっつり昼寝をしてしまったようだ。
「涎が垂れてますよ」
男の大きな掌の割には細い指が、俺の口許を拭ってくる。
当然、半透明の幽霊には拭えないし、触れられている感覚もない。
男の指が触れた場所を、自分の指で拭う。
それを男は、寂しそうな瞳で見つめている。
「アンタの目って青いけど、ハーフなのかな?」
「どうなんでしょう? そうならば、身元を調べるヒントになるかもしれませんね」
この世にいるべきではないのに、あの世にも行けない存在。自分が誰なのかも分からず、いつまでこの中途半端な状態でいるのかも分からない。
あの世に行けないとしても、自分が誰なのかは分からせてやりたい。
根拠のない勘だけど、自分が誰なのか分かったら、きっとあの世に行けると思うんだ。
というか、あの世に行ってもらわないと困る。
俺の心を体に戻す手伝いをした男は、どうやら俺から十メートル以上は離れられないようで四六時中俺の側にいるのだが、お節介で口煩くて敵わないのだ。
今年一番の暑さを記録したらしく、肉を置いたら数分でウェルダンに仕上がるだろう鉄板のようなアスファルトに焼かれ向かった郷土史料館で、病院が建つ前にあった建物について調べてみたが、俺の予想はハズレだった。
江戸時代に武家屋敷が建っていたそこに、明治時代の半ばに病院を建てたのだという。
昭和初期の写真を見たが、病院の周辺に洋館は建っていなかった。
「洋館から探る線は暗礁に乗り上げたか……」
男は何も答えず、窓から病院の方向を眺めている。
「霊能者に頼んで、あの世に送ってもらうのはどうだ?」
「自分が誰だか分からないままですか?」
「あの世に行ったら分かるんじゃないか? そうだ、アカシックレコードを見に行けばいい」
「アカシックレコード?」
「宇宙のどっかに、地球の歴史とか生物の自分史みたいのが一人一人書いてある本がある図書館があるらしいんだ」
「オカルトですか……」
振り返り、興味深そうに俺を見つめていた男の表情が、一気に冷めていく。
「オカルトじゃない、ロマンだ」
「ロマンだと言われると、見に行ってみたくなりますね」
唇を尖らせて主張すると、目を細めた男がふわりと笑った。
この男は何歳なんだろう?
整い過ぎているせいか無表情だと年上に見えるけれど、笑顔は幼くて俺と同い年くらいに見える。
もし同い年だとしても、男の生きた時代の十七歳と今の十七歳では、成熟具合が全く違うのだろう。
男は、そのオオイヌノフグリのような瞳で、どんな世界を見てきたのだろう。
今の十七歳では見ることができないような、衝撃的な世界だったのだろうか。
「拓也?」
青い双眸に生きていた時の映像が残っていないのだろうか、と睨むように見つめていると、怪訝そうな顔をした男が視線の意味を問うように俺の名を呼んできた。
「ま、霊能者にあの世に送ってもらうとなると相当の金が掛かるだろうから無理だろうけど、俺以外にアンタが見られる人を探すのは突破口になるかもしれないな」
俺の心が体に戻ってから、男は俺を名前で呼ぶようになった。
俺の性格や生活リズム等、日増しに俺のデータが増えていっているようだ。
でも俺は、この男のことを何も知らない。
男の性格は元からのものなのか、病院を彷徨っている時に得た知識を寄せ集めて作り出したものなのかも分からない。
分かっているのは、記憶喪失の幽霊であるということだけだ。
知りたいと思うのは、金魚の糞のような男に情が移り始めているからなのだろうか。
ただ単に、自分のことだけ知られて不公平だと感じているからなのだろうか。
「もう自力での解決を諦めて他人に頼るんですか?」
腕組みをして俺を見下ろす男が、呆れたと言わんばかりに溜め息をついた。
あぁそうか。容姿も頭脳も完璧な男の欠点を知って、一泡ふかせたいんだ。
脳の損傷もなく、意識が戻って三日後に退院した。
意識をなくしていたのが二日間だったので、生死の境を彷徨い三途の川まで見たというのに、五日で元の生活に戻ったというわけだ。
世間は夏休み。
進学校に通う俺の手元には、大量の宿題がある。
そしてもうひとつ、全く解ける気配のない宿題も。
「アンタが生きてたのは明治から昭和初期らへんってとこかな」
男が唯一覚えている洋館の作りや女性のドレスの形状から男の生きていた時代を推測するも、身元探しをするにはヒントが少なすぎる。
「病院からは出られなかったのか?」
いつからかは分からないらしいが、俺のいた病院内をウロウロしていたらしいのだ。
「ええ、出ようとしても見えない壁に遮られるのです」
「病院が建つ前にアンタが最期にいた洋館があったのかもな。郷土史料館でも見に行ってみるか」
「そうですね。ですが、今日の分の宿題を済ますのが先です」
自分の記憶はないくせに、現代の生活に精通している男。
病院内を徘徊しているうちに知識を蓄えていったらしいが、受験生の入院患者の参考書も覗いていたらしく、悔しいかな俺より勉強が出来る。
「そこの数式、間違っていますよ」
「え……あぁ、これ、どっちの数式使うのか、いつも迷うんだよな」
「分かっているのなら、二つの数式の意味合いをちゃんと理解すべきです。意味が分かれば、ここでその数式を使うはずはありませんから。受験で同じ間違いを犯さないように、今日は完璧に理解するまでやりますよ」
「受験までまだ一年半あるからなんとかなるって」
「もう一年半しかないのでしょう?」
どこの鬼家庭教師だよ……。
あからさまに大きな溜め息を吐いて、二つの数式の違いを参考書で確認する。
なるほど。ちゃんと性質を理解すれば、あそこであの数式を使うのはないな、というのが分かる。
一人でやっていたらいつまで経っても二つの数式がごちゃ混ぜになっていただろうから、男の助言には感謝するのだが……。
「アンタに見つめられると集中できないんだけど」
「見られていても集中できる力を身につけないと受験は乗り越えられませんよ」
体に穴が空くんじゃないかという程の視線に文句を垂れても、青い双眸から放たれる鬼家庭教師ビームは弱まらない。
受験生の入院患者は、どんだけ血眼になって勉強してたんだよ。
「……也、拓也」
「んー……って、ビビった」
名前を呼ばれて目を開けると整った顔がドアップであって、心臓が止まるかと思った。
「郷土史料館は五時まででしょう? もうすぐ四時になりますよ」
「え、あぁ悪い、寝すぎた」
時計を見ると男の言う通り、あと数分で四時になろうかというところだった。
午前中はびっしり勉強して、昼飯を食って。そのあと、ベッドに寝転がって微睡んでいたのだが、がっつり昼寝をしてしまったようだ。
「涎が垂れてますよ」
男の大きな掌の割には細い指が、俺の口許を拭ってくる。
当然、半透明の幽霊には拭えないし、触れられている感覚もない。
男の指が触れた場所を、自分の指で拭う。
それを男は、寂しそうな瞳で見つめている。
「アンタの目って青いけど、ハーフなのかな?」
「どうなんでしょう? そうならば、身元を調べるヒントになるかもしれませんね」
この世にいるべきではないのに、あの世にも行けない存在。自分が誰なのかも分からず、いつまでこの中途半端な状態でいるのかも分からない。
あの世に行けないとしても、自分が誰なのかは分からせてやりたい。
根拠のない勘だけど、自分が誰なのか分かったら、きっとあの世に行けると思うんだ。
というか、あの世に行ってもらわないと困る。
俺の心を体に戻す手伝いをした男は、どうやら俺から十メートル以上は離れられないようで四六時中俺の側にいるのだが、お節介で口煩くて敵わないのだ。
今年一番の暑さを記録したらしく、肉を置いたら数分でウェルダンに仕上がるだろう鉄板のようなアスファルトに焼かれ向かった郷土史料館で、病院が建つ前にあった建物について調べてみたが、俺の予想はハズレだった。
江戸時代に武家屋敷が建っていたそこに、明治時代の半ばに病院を建てたのだという。
昭和初期の写真を見たが、病院の周辺に洋館は建っていなかった。
「洋館から探る線は暗礁に乗り上げたか……」
男は何も答えず、窓から病院の方向を眺めている。
「霊能者に頼んで、あの世に送ってもらうのはどうだ?」
「自分が誰だか分からないままですか?」
「あの世に行ったら分かるんじゃないか? そうだ、アカシックレコードを見に行けばいい」
「アカシックレコード?」
「宇宙のどっかに、地球の歴史とか生物の自分史みたいのが一人一人書いてある本がある図書館があるらしいんだ」
「オカルトですか……」
振り返り、興味深そうに俺を見つめていた男の表情が、一気に冷めていく。
「オカルトじゃない、ロマンだ」
「ロマンだと言われると、見に行ってみたくなりますね」
唇を尖らせて主張すると、目を細めた男がふわりと笑った。
この男は何歳なんだろう?
整い過ぎているせいか無表情だと年上に見えるけれど、笑顔は幼くて俺と同い年くらいに見える。
もし同い年だとしても、男の生きた時代の十七歳と今の十七歳では、成熟具合が全く違うのだろう。
男は、そのオオイヌノフグリのような瞳で、どんな世界を見てきたのだろう。
今の十七歳では見ることができないような、衝撃的な世界だったのだろうか。
「拓也?」
青い双眸に生きていた時の映像が残っていないのだろうか、と睨むように見つめていると、怪訝そうな顔をした男が視線の意味を問うように俺の名を呼んできた。
「ま、霊能者にあの世に送ってもらうとなると相当の金が掛かるだろうから無理だろうけど、俺以外にアンタが見られる人を探すのは突破口になるかもしれないな」
俺の心が体に戻ってから、男は俺を名前で呼ぶようになった。
俺の性格や生活リズム等、日増しに俺のデータが増えていっているようだ。
でも俺は、この男のことを何も知らない。
男の性格は元からのものなのか、病院を彷徨っている時に得た知識を寄せ集めて作り出したものなのかも分からない。
分かっているのは、記憶喪失の幽霊であるということだけだ。
知りたいと思うのは、金魚の糞のような男に情が移り始めているからなのだろうか。
ただ単に、自分のことだけ知られて不公平だと感じているからなのだろうか。
「もう自力での解決を諦めて他人に頼るんですか?」
腕組みをして俺を見下ろす男が、呆れたと言わんばかりに溜め息をついた。
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