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第三話 遊びの誘い
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その夜。
職人たちが帰ったあとの工房は、驚くほど静かだった。
灯りを最低限に絞り、神崎とアイリは作業台の隅に腰を下ろして、じっと様子をうかがっていた。
高い天井。冷えた空気。わずかに油と土の匂いが漂っている。
「……静かですね」
神崎がぽつりと呟いた。
「……ああ、静かすぎる」
アイリも小さく応じた。
ふたりの声さえ、打ち寄せた波のように工房に吸い込まれていく。
外では風が吹き、どこかで犬の遠吠えのような音がかすかに響いた。
神崎は、そっと息を吸い込んだ。
夜の空気は、昼間とは違う匂いがする。
土と釉薬の微かな香り、冷えた石の匂い、そして、どこか湿った夏の夜を思わせる風。
静かだ。
でも、その静けさの下に、何か小さなものが潜んでいる気がした。
(……この感じ、久しぶりだ)
思いがけず、そんな感覚が胸の奥に滲む。
境界がほどけかける、ぎりぎりの夜。
現実と、違う世界と。
どちらに足を踏み入れてもおかしくないような、そんな夜だった。
神崎は目を細め、工房の闇に意識を溶かす。
(さて、どんなやつが出てくるかな)
胸の奥に、ほんの少しだけ高鳴るものを感じながら。
「……こうしてると、なんか、不思議な感じですね。普段は人が出入りして、賑やかな場所なのに。誰もいないと、急に“別の顔”を見せるというか……」
神崎が、ふと遠くを眺めながら言う。
「場所には、記憶が染みつく。……人がいなくなると、なおさら、それが際立つ」
アイリは静かに応えた。
「こういう現場、よくあるんですか?」
ふとした興味から、神崎が尋ねる。
アイリは一拍置き、短く答えた。
「ああ。……初めてではない」
その声に、やや硬さが滲んでいた。
神崎は、ふと隣を見た。
アイリは変わらぬ無表情で周囲を見渡していたが、その立ち姿には微かに緊張の糸が張りつめていた。
(……アイリさんは、こういうとき絶対に気を緩めないんだよな)
神崎は、苦笑ともため息ともつかない息を漏らす。
それが彼女の強さであり、誰よりも頼れる理由でもあった。
対照的に、自分はどこか浮ついた気分を抑えきれない。
(まあ、俺の役目は、“楽しくやること”だ)
神崎は心の中で小さく笑った。
無駄に不安を煽るよりも、肩の力を抜いて、今できることをやる。
それが、自分なりのやり方だった。
「こうやって並んで座ってると、ちょっとだけ……学校の放課後っぽい感じがします」
神崎が、わざと軽い口調で言った。
アイリは横目で彼を一瞥したが、特に否定もしなかった。
「……放課後にこんな薄暗い工房で待機する学校があるか」
「いや、それはそうですけど。でも、雰囲気っていうか……」
言いかけて、神崎は肩をすくめる。
「……ま、いいですよね。たまには、こういう夜も」
「……そうだな」
アイリはわずかに目を細めた。
そうしてふたりは、また静かな夜の中へ耳を澄ませる。
そのとき——
カラカラ……と、乾いた音が床を転がった。
小さな粘土のかけら。
音はあまりに小さく、やけに遠慮がちに響いた。
神崎が視線を向けると、釉薬の瓶が、いつの間にか積み木のように三段に積まれていた。
「……さっきは、あんな積み方じゃなかったですよね?」
「誰かが、遊んでる」
アイリの静かな声が、暗がりに溶ける。
そして次の瞬間——
棚の上から、小さな狸の焼き物が、コトリと落ちた。
「……!」
神崎が反射的に振り向いた、その刹那。
すっ……と、袖口を引っ張られるような感触があった。
「……え?」
誰もいないはずの空間。
だが、隣に立つアイリだけが——
「……?」
左の袖口を、そっと押さえていた。
「……どうしました?」
神崎が尋ねる。
アイリは目を伏せ、わずかに眉をひそめた。
「……今、袖を……引かれた気がした」
「それ、俺じゃないですよ?」
「わかってる」
短く言い切りながらも、アイリの声には、わずかな戸惑いが滲んでいた。
神崎は、それを見逃さなかった。
「……珍しいですね。アイリさんが、ちょっとだけ反応に困ってる」
「戸惑ってない」
「いやいや。今の、“どう対応するか迷ってる”って顔でしたよね?」
「……うるさい」
そっぽを向いたアイリの様子に、神崎は小さく笑った。
そのやりとりを、どこかで見ていたかのように——
くすくすと、子どもの笑い声が、空気の底から湧き上がった。
職人たちが帰ったあとの工房は、驚くほど静かだった。
灯りを最低限に絞り、神崎とアイリは作業台の隅に腰を下ろして、じっと様子をうかがっていた。
高い天井。冷えた空気。わずかに油と土の匂いが漂っている。
「……静かですね」
神崎がぽつりと呟いた。
「……ああ、静かすぎる」
アイリも小さく応じた。
ふたりの声さえ、打ち寄せた波のように工房に吸い込まれていく。
外では風が吹き、どこかで犬の遠吠えのような音がかすかに響いた。
神崎は、そっと息を吸い込んだ。
夜の空気は、昼間とは違う匂いがする。
土と釉薬の微かな香り、冷えた石の匂い、そして、どこか湿った夏の夜を思わせる風。
静かだ。
でも、その静けさの下に、何か小さなものが潜んでいる気がした。
(……この感じ、久しぶりだ)
思いがけず、そんな感覚が胸の奥に滲む。
境界がほどけかける、ぎりぎりの夜。
現実と、違う世界と。
どちらに足を踏み入れてもおかしくないような、そんな夜だった。
神崎は目を細め、工房の闇に意識を溶かす。
(さて、どんなやつが出てくるかな)
胸の奥に、ほんの少しだけ高鳴るものを感じながら。
「……こうしてると、なんか、不思議な感じですね。普段は人が出入りして、賑やかな場所なのに。誰もいないと、急に“別の顔”を見せるというか……」
神崎が、ふと遠くを眺めながら言う。
「場所には、記憶が染みつく。……人がいなくなると、なおさら、それが際立つ」
アイリは静かに応えた。
「こういう現場、よくあるんですか?」
ふとした興味から、神崎が尋ねる。
アイリは一拍置き、短く答えた。
「ああ。……初めてではない」
その声に、やや硬さが滲んでいた。
神崎は、ふと隣を見た。
アイリは変わらぬ無表情で周囲を見渡していたが、その立ち姿には微かに緊張の糸が張りつめていた。
(……アイリさんは、こういうとき絶対に気を緩めないんだよな)
神崎は、苦笑ともため息ともつかない息を漏らす。
それが彼女の強さであり、誰よりも頼れる理由でもあった。
対照的に、自分はどこか浮ついた気分を抑えきれない。
(まあ、俺の役目は、“楽しくやること”だ)
神崎は心の中で小さく笑った。
無駄に不安を煽るよりも、肩の力を抜いて、今できることをやる。
それが、自分なりのやり方だった。
「こうやって並んで座ってると、ちょっとだけ……学校の放課後っぽい感じがします」
神崎が、わざと軽い口調で言った。
アイリは横目で彼を一瞥したが、特に否定もしなかった。
「……放課後にこんな薄暗い工房で待機する学校があるか」
「いや、それはそうですけど。でも、雰囲気っていうか……」
言いかけて、神崎は肩をすくめる。
「……ま、いいですよね。たまには、こういう夜も」
「……そうだな」
アイリはわずかに目を細めた。
そうしてふたりは、また静かな夜の中へ耳を澄ませる。
そのとき——
カラカラ……と、乾いた音が床を転がった。
小さな粘土のかけら。
音はあまりに小さく、やけに遠慮がちに響いた。
神崎が視線を向けると、釉薬の瓶が、いつの間にか積み木のように三段に積まれていた。
「……さっきは、あんな積み方じゃなかったですよね?」
「誰かが、遊んでる」
アイリの静かな声が、暗がりに溶ける。
そして次の瞬間——
棚の上から、小さな狸の焼き物が、コトリと落ちた。
「……!」
神崎が反射的に振り向いた、その刹那。
すっ……と、袖口を引っ張られるような感触があった。
「……え?」
誰もいないはずの空間。
だが、隣に立つアイリだけが——
「……?」
左の袖口を、そっと押さえていた。
「……どうしました?」
神崎が尋ねる。
アイリは目を伏せ、わずかに眉をひそめた。
「……今、袖を……引かれた気がした」
「それ、俺じゃないですよ?」
「わかってる」
短く言い切りながらも、アイリの声には、わずかな戸惑いが滲んでいた。
神崎は、それを見逃さなかった。
「……珍しいですね。アイリさんが、ちょっとだけ反応に困ってる」
「戸惑ってない」
「いやいや。今の、“どう対応するか迷ってる”って顔でしたよね?」
「……うるさい」
そっぽを向いたアイリの様子に、神崎は小さく笑った。
そのやりとりを、どこかで見ていたかのように——
くすくすと、子どもの笑い声が、空気の底から湧き上がった。
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