ひとつとせ、舟唄は夜を越えて

秋初夏生

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第七章

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 夜風が、網戸をふっと押した。
 編み目越しに揺れたカーテンが、さわさわと静かに空気をなでていく。

 昼間の熱がまだ壁にほんのり残っていて、その奥に混じるちょっと湿った空気が、もうすぐ始まる夏祭りを連れてきた気がした。
 遠くで、ポン、と小さな音。夜空に音だけの花が、ぽんと弾けた。

 航は、ソファに深く身を預けていた。
 湯呑みに残った麦茶はすっかりぬるくなっていたが、そのぬるさすらも、今の自分にちょうどよく思えた。
 手の中の温度が、自分の熱を少しだけ冷ましてくれる気がする。

 台所からは、母がスイカを切る音が微かに届いていた。
 包丁がまな板に当たる、湿ったような音と、果肉を割るやわらかな感触。
 その繰り返しが、夜の静けさに小さな拍を刻んでいた。

 ふと、その音が止まる。
 航が顔を向けると、母がスイカを切る手を止めてこちらを見ていた。
 その視線に、航は小さく息を吸った。

 扇風機の首が部屋の角に行き切り、カタンと音を立てる。
 その瞬間、もう一発。少し重い音で、花火が空に咲いた。
 腹の奥に響くその振動に背中を押されるように、航は言葉を吐き出した。

「……明日、来てほしいんだ」

 母はしばらく黙ったまま、まな板の上のスイカを見つめていた。
 やがて小皿に数切れを移すと、それを手にして、何も言わずソファの隣に腰を下ろした。

 スイカの皿を膝に置いたまま、母はこちらを見た。
 その顔には、すぐに反応するでもなく、ただ静かに受け止めようとする構えがあった。

「明日って、夏祭りのこと?」

 航は小さくうなずいた。

「軽音部で演奏する。“舟歌”もやる。……和太鼓と合わせて、バンドで」

「……おじいちゃんの、あの歌ね」

「うん。じいちゃんが、どういう気持ちであれを歌ってたのか、たぶん、今なら少しわかる気がする」

 母の目が、一度だけ窓の外へ流れた。
 網戸越しに吹き込んだ夜風が、カーテンをふわりと揺らす。

「……聴かせたいの?」
「うん。じいちゃんにもだけど……母さんにも、ちゃんと」

 言い終えた後、航は短く息をついた。
 胸の奥が、じんわり熱くなった。ずっと心の奥にしまっていた言葉が、やっと少しずつ形になってきた気がした。

「……俺さ、今まで母さんに、自分の歌をちゃんと聴かせたことって、なかったよな」

 何度も歌ってきた。文化祭のステージや、放課後の音楽室、友達の家のリビングでも。でも、母の前では、なぜかいつも照れくささが勝って歌うことを避けていた。

「……だから、歌で伝えたいと思った。……言葉じゃなくて、音なら届く気がした」

 母は、膝の上のスイカをじっと見つめたまま、小さく息を吐いた。
 やがて、そのまま低くつぶやいた。

「……確かに。あなたの歌、ちゃんと聴いたこと、なかったわね」

 スイカの角を指先でなぞりながら、言葉を続ける。

「口うるさく言うくせに、自分で見ようともしなかった。“音楽は趣味でいい”って、勝手に決めてた。安心できる道が一番だって、思い込んでたのよ。親として、それが“正しい”って」

 その声には、棘はなかった。ただ、少しだけ、揺れていた。

「でも――歌を聴かずに、“やめときなさい”って言うのは、ちょっと卑怯だったかもしれないわね」

 扇風機の風がまたこちらを向いた。
 首を振るたび、その音が小さな拍子のように響いている。

「……俺も、東京に行きたいって理由、ちゃんと話してこなかった。音楽をやりたいとは言ってたけど、“どうして”ってところ、ずっと避けてた気がする」

 母は、小皿の縁に伝った水滴をそっと指で拭った。
 その指先が、少しだけ震えているようにも見えた。

「……そうね。どうして、東京じゃなきゃダメなの?」

 真っ直ぐに聞き返され、航はわずかに返事に詰まった。それでも、今伝えなきゃという思いで必死に言葉を紡ぐ。

「……俺がやりたいのは、地元の大学に行きながら“趣味で音楽を続けること”じゃない。プロを目指すなら、“いつか”じゃ遅いんだ。今のこのタイミングを逃したら、一生夢に届かないかもしれないって思ってる」

 航の声はかすかに震えていた。でも、それは迷いじゃなかった。むしろ、その震えの奥に、自分でも知らなかった確信があった。

「……高校を卒業したら、東京に行きたい。今から準備を始めないと間に合わないし、“今の自分”にしか飛び込めない場所がある気がしてる。……あとになったら、もう手を伸ばせなくなるかもしれないから」

 母は、視線を少しだけ逸らした。
 ふと、押し殺すような小さなため息が、ひとつ落ちた。
 その沈黙の中で、航は、ゆっくりと言葉を置いた。

「東京には、鳴らす場所も、人も、空気も違うものがある。……ここから出なきゃってずっと思ってた。守られてるこの場所から、自分の足で出ていかないとって」

 母の横顔に、窓の影が落ちる。
 冷蔵庫のモーターが低く唸る音が、静けさを押し広げていた。

「……母さんに言われて、地元の大学も少しは考えたよ。でも、それは正直、逃げ道としてだったと思う。本気になる覚悟が、なかっただけなんだ」

 航は、息を吸い、湯呑みの麦茶をひと口飲んだ。

「……勢いって思われてもいい。でも、それだけじゃないんだ。本気で、歌で生きていきたいって思ってる」

 母は、俯いたままだった。
 けれどその沈黙の奥に、ほんのわずかだが、緩む気配があった。

 やがて、静かに口を開いた。

「……東京で一人で暮らすって、本当に大変よ。何もかも全部が初めてだと、心配になるのよ。親としては……ね」
「うん、わかってる。迷惑かけたくないし、甘えるつもりもない。バイトもする……大変なのは覚悟してる。でも、行きたい」

 一語ずつ、石を置くように言った。
 その石の上に、自分の未来を置くようなつもりで。

 母は立ち上がると、何も言わずにキッチンへ向かった。
 冷蔵庫からポットを取り出し、湯呑みに麦茶を注ぐ。

 その音が、夜の空気にふわりと広がった。

「……親って、子どもよりも未来が見えると思ってるの」
 注ぎ終えた麦茶を見つめたまま、続ける。

「でも、見えてるのは“転ばない道”ばっかりで……どこに向かってるかなんて、本当は、子ども自身しか知らないのかもしれないわね」

 航は俯いたまま、しばらく母の言葉を反芻していた。顔を上げると母と視線がぶつかった。その目が、僅かにふっと和らぐ。

「……おじいちゃんの車椅子、明日の朝に点検しておくわね」

 それは、遠回しで、けれど確かな答えだった。
 航は、言葉にせず、深くうなずいた。
 
 冷えた麦茶が、喉をすうっと通り抜ける。
 その味は、胸の奥で、ほんのりと甘かった。

 ──明日、すべてを鳴らす。
 この町に、そして母に、自分の音で届ける。
 今しかない、“この自分”のままで。
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