ひとつとせ、舟唄は夜を越えて

秋初夏生

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第八章

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 潮の香りを含んだ風が、ステージ背後の垂れ幕を大きく膨らませていた。
 海沿いの広場には、ぽつぽつと照明が灯り始めている。朱く染まった提灯の明かりが、夕暮れににじんでいた。
 波打ち際からは、さっきのリハーサルの音が、名残のように微かに響いてくる。

 航はギターを肩にかけたまま、ペグを回して音を調整していた。その指先が、ほんのわずかに震えているのに、自分でも気づいていた。

 ──屋外での演奏は、想像以上だった。
 風が強い。音が、空にさらわれていくようだ。コードを鳴らしても、ピッチが揺れる。リズムが、足元からずれる。
 耳ではわかっているのに、身体がうまく反応しない。それが悔しかった。でも、もっと怖かったのは──この音が、誰にも届かないことだった。

 少し離れたところで、和太鼓の拓もバチを持ち替えては、手首の感覚を確かめている。音楽室や、練習会場ならしっかり響いた“芯”のある音が、ここではスカスカに抜けていく。
 空が広すぎる気がした。航の胸には、いつもより少し大きな鼓動が鳴っていた。
 
「……ちょっと、今日はダメかもしれないな」

 そう思った瞬間だった。拓が、笑った。
 音響のケーブルを踏まないように器用にまたぎながら、航の隣に来て、ぽん、と背中を軽く叩いた。

「いやー、風強すぎ。海から怒鳴られてる気分だな。俺、負けずに叩き返してるけど」
「……マジでやりにくい」
「だよな。でも、俺らの音なら届くって。つか、そう思わなきゃ無理だろ?」

 そう言って笑う顔は、いつもどおりふざけてるようで、でもちゃんと目の奥に“今日”をわかってる色があった。
 笑っているのに、目だけは静かに燃えていた。今日という日を、逃すつもりはないというふうに。

「……わかってる。じいちゃんに、ちゃんと聴かせたいから」

 航はふと視線を遠くに向けた。観客席の向こう。赤い灯の奥。
 折りたたみ椅子が並ぶ、その端に──車椅子の姿があった。
 白いシャツに、紺の上着。祖父だ。その隣には、母が立っていた。
 二人とも、静かにステージを見つめている。何も言わない。ただ、“そこにいる”。それだけで、十分だった。

 スタッフの合図が飛ぶ。照明のチェック、マイクの音量、モニターの返し音。
 準備は整っていく。

「──じゃあ、いこうか」

 航はギターのネックを握り直した。
 すべての視線が、自分たちに集まる。

 太鼓の音が、深く鳴った。呼吸のように、ゆっくりと。ベースがうなり、キーボードが柔らかく空間を包む。

 風が吹く。髪がなびく。
 マイクの前に立った航は、目を閉じて、ひとつ、息を吸った。

 音が始まる直前、世界が一度だけ静かになった。息を吸ったその瞬間、全部が繋がった気がした。

「♪ ひとつとせ──帆をあげろ──」

 その一音を、風がさらっていった。でも、声は負けなかった。まっすぐに、前へ進んでいった。
 拓の太鼓が応える。ドン、と深く響く音が、足元から伝わってくる。

 ベースが低くうねり、ギターが寄り添う。明澄のキーボードが空気をすくうように音を重ね、音の帯が広場に広がっていった。
 音が重なり合い、広場の空気にすっと溶けていった。それは、どこか遠くへ進んでいく感覚だった。

 航は感じていた。あのステージの端に、祖父のまなざしがあること。その隣に、母の姿があること。
 そして、広場に集まった人々の耳が、確かにこちらへ向いていること。

 誰かの手が止まり、誰かの呼吸が音に寄り添っていく。音と音とが一つになって、響きになって返ってくる。
 迷いが、音に変わっていく。それを感じたとき、ようやく自分も“音楽”の中にいられた気がした。

 ラストのフレーズが、ゆっくりと海へほどけていく。マイク越しに伸びた航の声は、潮風に乗って、広場の灯りを越えていくようだった。

「……約束の島へ──祈りを運ぶ……」

 ギターの余韻が、静かに弾む。そして、太鼓の一打がそれを包むように沈んだ。
 
 ──静寂。
 すべてが、一瞬止まった。
 潮の音さえも、遠くへ消えたように感じられる。ライトの光が揺れる中、観客席の輪郭だけが、ぼんやりと熱を孕んで浮かんで見えた。

 そのときだった。
 パン、と乾いた音。続いて、低く腹の底に響くような音がぼすんと重なる。
 夜空が──ゆっくりと、音もなく明るく染まっていった。

 花火だった。
 紅、緑、金。色とりどりの光が、夜の広場の上に咲きこぼれていく。

 その光の中で、航はある“動き”に気づいた。
 ──祖父が、立っていた。
 車椅子のアームをぎゅっと握り、震える膝で身体を支えながら、必死に。その姿は小さく、けれど確かにそこにあって──揺れるように、けれど確かに立っていた。それだけで、すべてが報われたような気がした。

 誰かが歓声を上げた。拍手の音が、歓声と混ざり、どこかで泣き声も混じったような気がした。
 それが自分たちへのものなのか、花火へのものなのか、それはもう分からなかった。でも、それでも──いいと思った。

 ──終わったんだ。ちゃんと、ここまで来たんだ。
 ギターを持つ手が、かすかに震えていた。声は、もう出ない。目だけが、涙を堪えるように空を仰いでいた。

 ステージ袖の陰から、大川優が顔を覗かせる。一度、頷いた。言葉はなかったけれど、「よくやった」という声が、風に紛れて聞こえたような気がした。

「航ーっ!」

 名前を呼ぶ声が飛んでくる。スティックを持ったままの拓が、真っ先に走ってきた。
 続けて、陸と明澄もステージ中央に駆け寄ってくる。誰がどう動いたのかもう分からないまま、肩が叩かれ、楽器がぶつかり、笑い声が混ざっていく。

「……マジで、やばかったな……」
「最後の一音、鳥肌立ったよ……」
「ちゃんと“歌”になってた……」

 航は、うまく返せなかった。ただ、笑った。
 声は出なかったけれど、笑いだけは止まらなかった。その笑顔が、いちばんの“音”だったのかもしれない。

 誰かが泣いていたかもしれない。それが誰なのか、にじんだ景色の中では最後まで分からなかった。
 ただ、空に広がる残り火のように──そのすべてが、優しく胸に残った。

 ステージを降りると、潮の匂いがぐっと濃くなっていた。
 空にはまだ、花火の名残がふわふわと煙のように漂い、色の痕跡がじんわりと滲んでいた。
 機材の片付けが始まるその傍らで、太鼓の輪がゆっくりと解けていく。余韻の中、あちこちから笑い声が聞こえた。飲み足りない大人たちは紙コップを片手に、なんとなく気持ちよさそうに談笑している。

 そんな人混みの中を、ふらりと肩を揺らしながら歩いてくる影があった。

「いやぁ~……まさか、“あの歌”をやるとはなぁ」

 声とともに現れたのは、浴衣の襟が少し乱れた久保田さんだった。手には空になったビールの缶。顔には深く刻まれた笑い皺。くしゃっとしたその表情が、なぜだか懐かしく見えた。

「なあ、航平よ」

 久保田さんはふと目線を観客席の端にやり、そう呼びかける。祖父が、そこにいた。先ほどは立ち上がっていたその姿は、今はまた車椅子に戻っていたけれど──どこか、顔つきが違って見えた。

 表情のすべてを読み取ることはできない。けれど、目の奥には、確かに光が宿っていた。
 久保田さんは、祖父のそばに立ち、言った。

「おまえの孫、すげぇよ。あれは、ちゃんと“届いてた”」

 言葉のひとつひとつは素朴だったけれど、そこににじむ喜びは、まぎれもないものだった。

「船乗りにはならなかったがな。音の上じゃ、ちゃんと舵取ってたぜ。あんたの舟唄、あの子に、ちゃんと継がれてるよ……いい孫だな」

 その言葉に、祖父はしばらく黙っていた。目線は前を向いたまま、ほんの一拍、空白が流れる。
 そして、ぽつり。

「……そりゃあ……帰るときには……でっかいのを持って帰らにゃな」

 かすれたその声は、少しだけ笑っていた。それが、冗談だったのか、本音だったのか──でも、間違いなく、心の奥から出た言葉だった。
 久保田さんが一瞬「あぁ?」と聞き返してから、ぱっと顔をほころばせる。

「ははっ、そいつぁいい! ……そりゃそうだ!」

 陽気な笑い声が、夜の空気に響いた。その隣で──
 母は、静かに祖父を見つめていた。ステージの照明から少し外れた場所。ほの暗いその横顔は、影の中でやわらかく浮かんでいた。

 そっと、目元を指でぬぐい、一度だけ、深く息を吸う。それから、微笑んだ。
 声にはしなかった。ただ、頷くように。
 それは「ありがとう」でも、「よかったね」でもない。
 もっと静かで、もっと深い気持ち。母という役割でも、子どもという立場でもなく、一人の人間として──夢を信じようとする顔だった。

 その微笑みは、遠く離れた航の背にも、ちゃんと届いていた。
 航はギターを背負い直し、ステージから少し離れた空の向こうを見上げた。夜の帳の向こうに、まだ余韻のような音が残っている気がした。

 潮の匂いを含んだ風が、いつの間にかやわらいでいた。
 ステージの明かりも少しずつ、夜に溶けていく。

 ──この灯りの海で、たしかに“出航”は始まった。
 音の舟が、そっと未来へと帆を張った。

 風は止んでも、その音だけは、どこかで鳴っていた。
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