「死者が還る街」冥府庁事件簿ーfile.X

秋初夏生

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【鎌倉】死者が帰る街

第十話:遠ざかる潮騒

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 扉が完全に閉ざされた後。

 矢口はしばらく、その場に膝をついたまま、肩を震わせていた。

 声にはならない。
 ただ、喉の奥で何かを飲み込むように、震えながら息を吐く。
 こぼれた涙が、静かに地面を濡らしていく。

 やがて。
 彼は少しふらつきながらも、ゆっくりと静かに立ち上がった。

「……ありがとう」

 微かに呟いたそれは、誰に向けた言葉だったのか。

 神崎にも、アイリにも。
 そして何より、もう触れることのできない佳織へ向けたものだったのかもしれない。

 彼は最後に深く祠へと一礼する。

 その手が、ほんの一瞬、宙を彷徨った。
 そこにあるはずのない何かを、確かめるように——。

 夜明け前の江ノ島の道へ、ゆっくりと歩き出す。

 その後に続くように、他の参拝者たちも、静かに祠を振り返りながら、その場を後にしていく。

 まるで、今まで彼らを縛っていた何かから解放されたかのように——。


 静寂が戻る。

 だが、夜の静寂はもう、先ほどまでのものとは違っていた。

 潮の香りが、どこか遠くへと引いていく。
 肌を撫でる風は、わずかに温かさを帯びていた。

 神崎は目を細める。

 完全に”終わった”とは、まだ言えなかった。

 祠の周囲に、微かに残る気配。

 門が閉じてもなお、境界の歪みは完全には収束していない。
 何かがそこにいた証が、まだ僅かに残っている。

 神崎はアイリへと目を向ける。

 結界を張り続けていた彼女の肩が、わずかに上下している。
 長時間の霊力消費、異常の修復——疲労がないはずがなかった。

 彼女の額には細かな汗が滲んでいる。

 神崎はそっと、彼女のそばに歩み寄った。

「後は俺がやります」

 アイリはその言葉に、わずかに瞼を閉じる。

 そして、短く首を振った。

「いや、まだ大丈夫だ。二人でやる方が効率がいい」

 そう言いながらも、彼女の声はほんのわずかに掠れている。

 神崎は食い下がろうとしたが、アイリはそれを制するように、静かに言った。

「朝には終わらせるぞ」

 ——彼女らしい、気丈な言葉だった。

 神崎は小さく息を吐き、頷く。

「……分かりました」



 二人は、夜明けまでかけて境界の補修を続けた。

 崩れかけた結界を織り直し、霊的な歪みを整える。

 神崎は、指先をゆっくりと宙に滑らせた。
 目には見えないが、そこには確かに”裂け目”が存在している。

 “向こう側”へ繋がる糸のようなものを、慎重にほどいていく。

「……微細な裂け目が、まだいくつか残っているな」

「こっちもだ。思ったより深くまで歪みが走ってる」

 アイリもまた、祠の周囲をなぞるように手をかざしながら、歪みの残滓ざんしを探る。

 彼女の指先から、淡い光が揺らめいた。
 見えない結界の”綻び”を、一つずつ紡ぎ直していく。

 時間がかかる作業だった。

 だが、夜が明ける頃には——

 すべての”痕跡こんせき”は消え去っていた。

 境界は閉じ、異変の気配は完全に消えていた。

 神崎は大きく伸びをし、ゆっくりと夜が明けつつある空を見上げる。

「……終わりましたね」

 その言葉に。

 アイリもまた、静かに視線を上げた。

 江ノ島の町が、穏やかな朝を迎えようとしていた。

 波が穏やかに打ち寄せる。
 潮騒は、もう先ほどまでのざわめきを失い、ただ静かに砂を濡らしている。

 どこかで、カモメの声が聞こえた。

 神崎は、ふっと小さく笑う。

「これで、一件落着ですね」

 アイリは、軽く伸びをしながら答える。

「……長かったな」

 その声には、どこか安堵が滲んでいた。

 神崎はポケットからスマートフォンを取り出し、岡部に電話をかける——。

 コール音の後、ここ数日で聞き慣れたやや怠そうな声が応じた。

 「おう、おはよう。そっちは片付いたか?」

 「ええ、一応」

 「ならいいんだけどさ……。ところで、お前さん今どこにいる?」

 「江ノ島ですが……?」

「……あー、ならまあいいや。もうちょっと近かったら、そっちにもう一件調べ物を頼もうかと思ってな」

 神崎は一瞬絶句し、そして即答した。

「勘弁してくださいよ!」

 岡部の笑い声が返ってくる。

「はは、まあ、そう言うな。詳細はまた後日教えてくれよ。とりあえず、ご苦労さん」

 それだけ言って、一方的に通話が切れる。神崎はため息をつき、スマホをしまった。

「まったく、休む間もない……」

 ふっと肩の力を抜いた瞬間、ふと視界の端に、街の店が少しずつ開き始めるのが映った。

 そのとき——

「……何か、食べて帰るか?」

 不意にアイリが言った。
 神崎は、驚いたように彼女を見る。

 普段なら、任務が終われば真っ先に冥府庁へ戻る彼女が、そんなことを言うとは思ってもいなかった。

「アイリさんが、食事の誘いとは珍しいですね」

「……今回は長丁場だったからな」

 アイリは淡々とした口調だったが、その声にはわずかに疲れと、そして僅かな労りが滲んでいた。

 神崎は少しだけ笑い、軽く伸びをした。

「じゃあ、しらす丼でも食べますか」

 そうして、二人は静かに歩き出した。

 江ノ島の海は、穏やかに朝日を映していた——。
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