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第二章 有紀
2話
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一度この展覧会を訪れた雅之は、スマホで音声ガイドを聞くために、イヤホンが必要であることを二人に伝えた。持っていない芳美はダイソーで購入した。はじめのうち三人とも一緒に作品を観賞し、次第に分散すると、一巡りした雅之は、展示室前の廊下のベンチに座り、彼女たちを待った。やがて芳美が戻ると、彼の隣に座った。有紀はまだ展示室の中にいた。
彩子は芳美と同じ明立大学の二年生で、学科も同じだから、二人は互いを知っているかもしれないと、雅之は思った。彩子についてもっと知りたかったので、彼女との関係を知られないように、上手く話すように心がけた。
「向井さんは大野彩子っていう子を知ってる」
「瀬川くんて、大野さんの知り合いなの」
「アパートの隣の部屋に住んでるんだよね」
芳美は驚いた様子で、何かを思い出そうと、顎に手を当てていた。
「あー、そうか、たしか引っ越す前に、杉田に住んでいたって、大野さんが言ってたわ。そっかー、瀬川くんと同じアパートだったんだ」
「引っ越した? いや、彼女は俺と同じで、今杉田に住んでいるんだけど」
「今住んでいるのは港南台でしょ」
「港南台なの」
「うん、本人からそう聞いた」
雅之の腑に落ちない表情を、彼女は不思議そうに眺めていた。
「あれ、もしかして俺たち、別の人について話しているのかな。向井さんの知っている大野さんは、どんな女の子だった」
「背の大きい子でしょ。たしか186cmって聞いたけど」
「やっぱり違うね。俺が知っている大野さんは、そんなに大きくないよ。たぶん160cmくらいじゃないかな。ストレートの長い黒髪の、色白の女の子。かなり美人だから、分かると思うんだけど」
「全然違うね。同姓同名なのかな」
彼女は首を傾げ、前髪を切りそろえた、姫カットの横髪が頬にかかり「うちの学科って、一学年300人以上いるから、まだ一度も話していない子もいるんだよね。――あ、分かった」と、ふいに声を張り上げた。
「瀬川くんが言ってるのは、水沢さんのことじゃない」
「水沢さん?」
「そう、水沢さん。大野さんとは高校時代からの友達らしいよ」
アパートの郵便受けの前に落ちていたダイレクトメールに、「水沢沙織」という名前が記されていたことを、雅之は思い出した。
「水沢沙織さん?」
「なんだ、知ってるじゃん。たしかに美人だよね。大野さんの周りには、あの子くらいしか可愛い子がいないから、もしかしたらって思った。あ、今のはナイショね」
芳美は苦笑いを浮かべ、慌てて人差し指を鼻頭に当てた。
「ていうことは、今瀬川くんの隣に住んでいるのは、水沢さんということ」
「え、水沢さん?」
「だからそうじゃないの。美人だけど、けっこう人見知りする子でしょ」
「そうだね。たぶんその子だと思う…」
「でもどうして瀬川くんは、大野さんと水沢さんを間違えたの」
「どうしてだろ…。あのさ、もう一度確認するけど、大野彩子っていう子は、経済学科で他にいないんだよね」
「だからそんなの分からないよ。300人以上いるって言ったでしょ」
「やっぱりそうか。名簿を持っていたりもしないよね」
「持ってるわけないじゃん。瀬川くんだって学校の名簿なんて持ってないでしょ。大学の事務ならあると思うけど、見せてくれるわけないし」
このとき雅之は、入居して間もない頃、隣に住んでいた背の高い女を思い出した。彼女の姿を思い出すと、たしかに186cmくらいありそうだった。
「そういえば、引っ越したばかりのとき、隣に背の高い女の子が住んでいたよ。すぐに今の住人と変わったけど。彼女は俺より背が高かった。髪は肩までの長さで、毛先がカールして、赤っぽい色に染めていた」
「それは、大野さんっぽいね。え…、ということは、瀬川くんが住んでいるアパートに、大野さんの後、水沢さんが同じ部屋に入居したということ? そういうことだよね」
「本当に彼女が大野さんならね」
「意外だな。二人が入れ替わりで同じアパートに住んでいたなんて」
その理由を知っている雅之は、彩子が友人の名前を騙った理由は、それと関係があるのかもしれないと、考えを巡らせた。しかし彼女が偽名を使用したことを認めたくはなかった。
「あ、もしかして、瀬川くんが二人の名前を混同したのって、ちょうど入れ替わりの時じゃないかな。郵便受けの名前を見て、取り違えたとか」
彼女の部屋の郵便受けにはネームプレートがなく、部屋番号しか記されていなかった。表札もないから、外部から住人の名前を知るすべはなかった。
「うん、そうかも」
水沢沙織という女が、大野彩子の名を騙っていることなど、話したくないから、とりあえずそういうことにしておいた。
「あの大きな女の子は、大野…いや、水沢さんと友達なんだよね。向井さんはあの子のことをよく知ってるの」
便宜上とはいえ、彩子を「水沢さん」と呼んでしまうと、偽名を認めたようで、落ち着かない気持ちになった。
「大野さんとわたしは、一年生のとき、一緒に写真部に入ったのよ。彼女はもう辞めちゃったけど」
「去年の合同撮影会にいたの」
「いないね。瀬川くんが神学(かながく)の写真部に入ったの遅かったでしょ。彼女は夏休み前に辞めたから」
186cmの女がいれば、記憶に残っていたに違いない。
「大野さんは加藤くんが好きだったのよ」
「でも向井さんは以前加藤くんと付き合っていたよね」
「うん」
「ああ、なるほどね」
この納得の言葉に対し、芳美は何も言わなかった。
雅之は茫然として、展示室のドアに目を向けた。まだ有紀が戻る様子はなかった。
「瀬川くんは水沢さんに関心があるの」
「うん、まあね」
「水沢さんは美人だもんね。高校生のとき読モをやっていたらしいよ」
「今はやってないの」
「高校時代彼氏に勧められて応募してみたんだって。でもすぐに辞めちゃったみたい」
写真嫌いの彩子が、過去に読者モデルの経験があることは矛盾していた。しかしそれだけで偽名の可能性を否定するには、あまりにも芳美の話は事実に符合していた。とても偶然とは思えなかった。それでは彩子はなぜ偽名を使っていたのだろうか。理由を考えるうちに、ひどい疑心暗鬼に囚われた。すでに彼女が殺人を犯しているせいで、際限なく疑念が膨らんだ。彼女の親切には裏があり、すべての言葉はデタラメで、実は殺した相手も別人ではないか。死体の一部しか見ていないから、その可能性も否定できない。さらには真の殺害の動機は別に存在し、自分はそれに利用されたのではないか。そんなふうに一気に飛躍し、彼の中の彩子の像が、虚像へと変わっていった。
「有紀、遅いね。あの子、好きなものだとほんと長いよね」
芳美は腕時計を見ながらそう言った。疑念に頭を占められ、上の空の雅之は、話しかけられることを苦痛に感じた。今や彼の頭の中は膨らんでいく疑念で破裂しそうになっていた。
「瀬川くんは有紀をどう思ってるの」
「え、なに」
「瀬川くんは有紀をどう思うのかって聞いてるの」
「どうって、なにが」
「仲良さそうだけど、付き合いたいと思ったことはないの」
「有紀ちゃんには彼氏がいるでしょ」
「今の彼氏とは、上手くいってないみたいだよ」
「本人からは上手くいっていると聞いたけど」
「今は違うみたいだよ。――もしあの子が彼氏と別れたら、瀬川くんはどうする。付き合うことを考える?」
「ずいぶん唐突だね。さっきは告白するって言っちゃったけど、まあ、今は無理かな」
「水沢さんを好きだから」
「違うよ。俺が天野と付き合っていたことは知ってるでしょ」
「うん、でもすぐに別れたよね」
「たしかにすぐだね」
雅之はそう言うと、芳美の質問には答えず、答えを待っている彼女を放っておき、一人で考え込んでしまった。
「彼女を作らないのは、別れたばかりだから?」
「ん…、ごめん、もう一度言って」
「だから、別れたばかりだから、新しい彼女を作らないの?」
「別れてから半年くらい経ってるよ。向井さんは、俺を有紀ちゃんと付き合わせたいの」
「そんなことないよ。ただ、二人とも仲が好いから」
偽名の問題と格闘する雅之の頭の中は、火花が散っていた。そんなことを知らない芳美は「それじゃ、別れ方が悪かったとか」と、続けて質問した。とうとう彼は、執拗に追求する彼女が煩わしくなって、悪意に染まってしまった。
「別れるとき、なかったことにしようって言われたよ」
「うわー、きついね、それは」
「お互いに了解した上だから、いいんだよそれで」
「ああ、なんとなく分かる。サークル内だからね」
「ただ、まずかったのは、別れたすぐ後に、今年の6月頃なんだけど、仲良くなった一年生の女の子がいてさ、その子のマンションに招待されたんだ。行けばどうなるか分かりそうなものだけど、俺は何も考えずに出かけて、彼女と良い雰囲気になって、そのまま最後まで行っちゃったんだよね」
「その子とはその後どうなったの」
「それだけだよ。彼女はその後写真部に来なくなった」
「瀬川くんって、もっとしっかりした人なのかと思った」
「向井さんがどう思うかは勝手だけど、俺はしっかりしてないよ」
雅之は冷ややかにそう言った。
「ありがちだけど、気づいたらそのことが部内に知れ渡って、人格を疑われることになった。さらにこの上、一年生の女の子と付き合ったりすると、まずいんだよね」
悪意に染まった彼は、芳美のおせっかいを止めさせようと、洗いざらいぶちまけてしまった。
「周りの目が気になるんだ」
「気になるね。女の子が目的で写真部に入ったわけじゃないから」
「え、違うの」
わざとらしく驚いた様子で、芳美はそう言った。
「違うよ」
「でも写真部は女の子の方が多いでしょ。わたしにはそうとしか思えないんだけど」
「向井さん、なんでそんなに怒ってるの」
「怒ってないよ。思ったことをただ言っただけ」
「たしかに写真部は女の方が多いし、男しかいないサークルは、俺だって嫌だよ。雰囲気的にね。でもなんていうか…、写真部のOBでさ、もう社会人なのに、新歓の時期になると、必ず顔を出す人がいるんだよ。可愛い新入生の女の子がいると、声をかけているみたいで。ああいうふうにはなりたくないって思ったね」
「でも瀬川くんがやっていることは、その人と変わらないよね」
「やっぱり怒ってるし。向井さんが怒ることじゃないよ」
「わたしがどう思うかは勝手なんでしょ」
これまで見たことがないくらいに、芳美が攻撃的になっていた。真面目な性格の彼女に対し、わざと不快にさせることを口にした。すでに取り返しがつかない事態になっていた。
この後有紀が戻るまで、二人は会話を交わさなかった。芳美を怒らせたことを後悔しながらも、彩子の一件にすっかり気を取られ、雅之は早く帰ることばかり考えていた。様々なアートで飾られた、変わった内装のバーラウンジが、この建物の地下一階にある。そこに寄って行こうと、戻ってきた有紀が提案すると、二人の間の異様な雰囲気を察し「よっちゃんと何かあったんですか」と、雅之に耳打ちした。
「何もないよ」
上の空で彼はそう答えた。
結局三人はバーには寄らず、まっ直ぐ帰ることになった。
彩子は芳美と同じ明立大学の二年生で、学科も同じだから、二人は互いを知っているかもしれないと、雅之は思った。彩子についてもっと知りたかったので、彼女との関係を知られないように、上手く話すように心がけた。
「向井さんは大野彩子っていう子を知ってる」
「瀬川くんて、大野さんの知り合いなの」
「アパートの隣の部屋に住んでるんだよね」
芳美は驚いた様子で、何かを思い出そうと、顎に手を当てていた。
「あー、そうか、たしか引っ越す前に、杉田に住んでいたって、大野さんが言ってたわ。そっかー、瀬川くんと同じアパートだったんだ」
「引っ越した? いや、彼女は俺と同じで、今杉田に住んでいるんだけど」
「今住んでいるのは港南台でしょ」
「港南台なの」
「うん、本人からそう聞いた」
雅之の腑に落ちない表情を、彼女は不思議そうに眺めていた。
「あれ、もしかして俺たち、別の人について話しているのかな。向井さんの知っている大野さんは、どんな女の子だった」
「背の大きい子でしょ。たしか186cmって聞いたけど」
「やっぱり違うね。俺が知っている大野さんは、そんなに大きくないよ。たぶん160cmくらいじゃないかな。ストレートの長い黒髪の、色白の女の子。かなり美人だから、分かると思うんだけど」
「全然違うね。同姓同名なのかな」
彼女は首を傾げ、前髪を切りそろえた、姫カットの横髪が頬にかかり「うちの学科って、一学年300人以上いるから、まだ一度も話していない子もいるんだよね。――あ、分かった」と、ふいに声を張り上げた。
「瀬川くんが言ってるのは、水沢さんのことじゃない」
「水沢さん?」
「そう、水沢さん。大野さんとは高校時代からの友達らしいよ」
アパートの郵便受けの前に落ちていたダイレクトメールに、「水沢沙織」という名前が記されていたことを、雅之は思い出した。
「水沢沙織さん?」
「なんだ、知ってるじゃん。たしかに美人だよね。大野さんの周りには、あの子くらいしか可愛い子がいないから、もしかしたらって思った。あ、今のはナイショね」
芳美は苦笑いを浮かべ、慌てて人差し指を鼻頭に当てた。
「ていうことは、今瀬川くんの隣に住んでいるのは、水沢さんということ」
「え、水沢さん?」
「だからそうじゃないの。美人だけど、けっこう人見知りする子でしょ」
「そうだね。たぶんその子だと思う…」
「でもどうして瀬川くんは、大野さんと水沢さんを間違えたの」
「どうしてだろ…。あのさ、もう一度確認するけど、大野彩子っていう子は、経済学科で他にいないんだよね」
「だからそんなの分からないよ。300人以上いるって言ったでしょ」
「やっぱりそうか。名簿を持っていたりもしないよね」
「持ってるわけないじゃん。瀬川くんだって学校の名簿なんて持ってないでしょ。大学の事務ならあると思うけど、見せてくれるわけないし」
このとき雅之は、入居して間もない頃、隣に住んでいた背の高い女を思い出した。彼女の姿を思い出すと、たしかに186cmくらいありそうだった。
「そういえば、引っ越したばかりのとき、隣に背の高い女の子が住んでいたよ。すぐに今の住人と変わったけど。彼女は俺より背が高かった。髪は肩までの長さで、毛先がカールして、赤っぽい色に染めていた」
「それは、大野さんっぽいね。え…、ということは、瀬川くんが住んでいるアパートに、大野さんの後、水沢さんが同じ部屋に入居したということ? そういうことだよね」
「本当に彼女が大野さんならね」
「意外だな。二人が入れ替わりで同じアパートに住んでいたなんて」
その理由を知っている雅之は、彩子が友人の名前を騙った理由は、それと関係があるのかもしれないと、考えを巡らせた。しかし彼女が偽名を使用したことを認めたくはなかった。
「あ、もしかして、瀬川くんが二人の名前を混同したのって、ちょうど入れ替わりの時じゃないかな。郵便受けの名前を見て、取り違えたとか」
彼女の部屋の郵便受けにはネームプレートがなく、部屋番号しか記されていなかった。表札もないから、外部から住人の名前を知るすべはなかった。
「うん、そうかも」
水沢沙織という女が、大野彩子の名を騙っていることなど、話したくないから、とりあえずそういうことにしておいた。
「あの大きな女の子は、大野…いや、水沢さんと友達なんだよね。向井さんはあの子のことをよく知ってるの」
便宜上とはいえ、彩子を「水沢さん」と呼んでしまうと、偽名を認めたようで、落ち着かない気持ちになった。
「大野さんとわたしは、一年生のとき、一緒に写真部に入ったのよ。彼女はもう辞めちゃったけど」
「去年の合同撮影会にいたの」
「いないね。瀬川くんが神学(かながく)の写真部に入ったの遅かったでしょ。彼女は夏休み前に辞めたから」
186cmの女がいれば、記憶に残っていたに違いない。
「大野さんは加藤くんが好きだったのよ」
「でも向井さんは以前加藤くんと付き合っていたよね」
「うん」
「ああ、なるほどね」
この納得の言葉に対し、芳美は何も言わなかった。
雅之は茫然として、展示室のドアに目を向けた。まだ有紀が戻る様子はなかった。
「瀬川くんは水沢さんに関心があるの」
「うん、まあね」
「水沢さんは美人だもんね。高校生のとき読モをやっていたらしいよ」
「今はやってないの」
「高校時代彼氏に勧められて応募してみたんだって。でもすぐに辞めちゃったみたい」
写真嫌いの彩子が、過去に読者モデルの経験があることは矛盾していた。しかしそれだけで偽名の可能性を否定するには、あまりにも芳美の話は事実に符合していた。とても偶然とは思えなかった。それでは彩子はなぜ偽名を使っていたのだろうか。理由を考えるうちに、ひどい疑心暗鬼に囚われた。すでに彼女が殺人を犯しているせいで、際限なく疑念が膨らんだ。彼女の親切には裏があり、すべての言葉はデタラメで、実は殺した相手も別人ではないか。死体の一部しか見ていないから、その可能性も否定できない。さらには真の殺害の動機は別に存在し、自分はそれに利用されたのではないか。そんなふうに一気に飛躍し、彼の中の彩子の像が、虚像へと変わっていった。
「有紀、遅いね。あの子、好きなものだとほんと長いよね」
芳美は腕時計を見ながらそう言った。疑念に頭を占められ、上の空の雅之は、話しかけられることを苦痛に感じた。今や彼の頭の中は膨らんでいく疑念で破裂しそうになっていた。
「瀬川くんは有紀をどう思ってるの」
「え、なに」
「瀬川くんは有紀をどう思うのかって聞いてるの」
「どうって、なにが」
「仲良さそうだけど、付き合いたいと思ったことはないの」
「有紀ちゃんには彼氏がいるでしょ」
「今の彼氏とは、上手くいってないみたいだよ」
「本人からは上手くいっていると聞いたけど」
「今は違うみたいだよ。――もしあの子が彼氏と別れたら、瀬川くんはどうする。付き合うことを考える?」
「ずいぶん唐突だね。さっきは告白するって言っちゃったけど、まあ、今は無理かな」
「水沢さんを好きだから」
「違うよ。俺が天野と付き合っていたことは知ってるでしょ」
「うん、でもすぐに別れたよね」
「たしかにすぐだね」
雅之はそう言うと、芳美の質問には答えず、答えを待っている彼女を放っておき、一人で考え込んでしまった。
「彼女を作らないのは、別れたばかりだから?」
「ん…、ごめん、もう一度言って」
「だから、別れたばかりだから、新しい彼女を作らないの?」
「別れてから半年くらい経ってるよ。向井さんは、俺を有紀ちゃんと付き合わせたいの」
「そんなことないよ。ただ、二人とも仲が好いから」
偽名の問題と格闘する雅之の頭の中は、火花が散っていた。そんなことを知らない芳美は「それじゃ、別れ方が悪かったとか」と、続けて質問した。とうとう彼は、執拗に追求する彼女が煩わしくなって、悪意に染まってしまった。
「別れるとき、なかったことにしようって言われたよ」
「うわー、きついね、それは」
「お互いに了解した上だから、いいんだよそれで」
「ああ、なんとなく分かる。サークル内だからね」
「ただ、まずかったのは、別れたすぐ後に、今年の6月頃なんだけど、仲良くなった一年生の女の子がいてさ、その子のマンションに招待されたんだ。行けばどうなるか分かりそうなものだけど、俺は何も考えずに出かけて、彼女と良い雰囲気になって、そのまま最後まで行っちゃったんだよね」
「その子とはその後どうなったの」
「それだけだよ。彼女はその後写真部に来なくなった」
「瀬川くんって、もっとしっかりした人なのかと思った」
「向井さんがどう思うかは勝手だけど、俺はしっかりしてないよ」
雅之は冷ややかにそう言った。
「ありがちだけど、気づいたらそのことが部内に知れ渡って、人格を疑われることになった。さらにこの上、一年生の女の子と付き合ったりすると、まずいんだよね」
悪意に染まった彼は、芳美のおせっかいを止めさせようと、洗いざらいぶちまけてしまった。
「周りの目が気になるんだ」
「気になるね。女の子が目的で写真部に入ったわけじゃないから」
「え、違うの」
わざとらしく驚いた様子で、芳美はそう言った。
「違うよ」
「でも写真部は女の子の方が多いでしょ。わたしにはそうとしか思えないんだけど」
「向井さん、なんでそんなに怒ってるの」
「怒ってないよ。思ったことをただ言っただけ」
「たしかに写真部は女の方が多いし、男しかいないサークルは、俺だって嫌だよ。雰囲気的にね。でもなんていうか…、写真部のOBでさ、もう社会人なのに、新歓の時期になると、必ず顔を出す人がいるんだよ。可愛い新入生の女の子がいると、声をかけているみたいで。ああいうふうにはなりたくないって思ったね」
「でも瀬川くんがやっていることは、その人と変わらないよね」
「やっぱり怒ってるし。向井さんが怒ることじゃないよ」
「わたしがどう思うかは勝手なんでしょ」
これまで見たことがないくらいに、芳美が攻撃的になっていた。真面目な性格の彼女に対し、わざと不快にさせることを口にした。すでに取り返しがつかない事態になっていた。
この後有紀が戻るまで、二人は会話を交わさなかった。芳美を怒らせたことを後悔しながらも、彩子の一件にすっかり気を取られ、雅之は早く帰ることばかり考えていた。様々なアートで飾られた、変わった内装のバーラウンジが、この建物の地下一階にある。そこに寄って行こうと、戻ってきた有紀が提案すると、二人の間の異様な雰囲気を察し「よっちゃんと何かあったんですか」と、雅之に耳打ちした。
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