隣の女

如月

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第二章 有紀

3話

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 雅之が「大野さん」と呼んでいた女が、浴室に入っている間、壁際に置かれた赤いレザートートバッグに目を留めた。バッグの中から財布を取り出し、学生証を確認した。ドライヤーの音が漏れ聞こえると、ベッドに立てかけられた、折り畳み式の木製のローテーブルを部屋に設置して、彼女を待ち構えるようにして座った。戻ってきた彼女はこの不穏な様子を前にして「どうしたの」と訊ねた。
「そこに座って」
 ダイニングテーブルに夕飯が用意されていないことを、彼女は訝しんだが、彼の様子を前にしてすべてを察した。気まずそうに頭を掻きながら、その真向かいに座ると、目を合わせようとはしなかった。
「どうして大野さんの振りをしていたの」
「ごめん、本当はもっと早く話そうと思っていたんだけど」
 ようやく彼女は真実を話したが、雅之の想像していたような陰謀めいた話ではなく、他愛のないことだった。

 彼女はツイッターを介しあの男に出会ったが、はじめはただの興味本位だったので、一度きりしか会わないと心に決めていたらしい。警戒心の強い彼女が、一度きりしか会わない得体の知れない男に、偽名を使うのは不思議なことではない。しかしよりによって友人の名前を使ってしまった。最終的に二人は付き合うことになって、彩子は本名を明かす意思を持っていたらしいが、あることがきっかけで、その機会は永久に失われた。というのも、彼も偽名を使っていたからである。
「あいつは馬鹿だから、うっかり自分で本名を言っちゃったのよ。占いのお店に入ったとき、占い師から名前を聞かれて、本名を伝えたの」
 かなり間抜けに思えたが、死者を冒涜したくないので、雅之は自制心を働かせた。

 彼は偽名の使用について、ツイッターを通じて知り合った関係だから、心を許せなかったと話したらしいが、彼女は同じ大学の女との浮気が理由だと疑っていた。おそらく学年も学科も同じで、彼女のすぐ側にいたのではないかと。このおかげで頭にきた彼女は、交際開始からおよそ五カ月もの間、結局本名を言わなかった。
 雅之にまで偽名を使ったのは、その交際相手が接触する可能性のある人間だからだった。つまり挨拶するときなどに、雅之が彼女の本名を口にしたらまずいからである。

「どうしてもっと早く言わなかったの」
「言おうと思っていたけど、言いそびれたの。ごめん」
「俺は君ことをいつも大野さんて呼んでいたけど、これは友達の名前なんだよね。俺にそう呼ばれて、後ろめたさを感じなかったの」
「後ろめたさは感じたけど、何度も呼ばれるうちに慣れちゃって…」
 彼女は耳の脇を掻きながら、苦笑いを浮かべていた。しかし雅之が異様なものを見るような顔をしているので
「あ、でも、ちゃんとそろそろ言おうとは思っていたんだよ」
 と慌てて付け加えた。
 怒りを覚える雅之が間抜けに思えるほど、彼女の態度に悪気がなかった。というより、悪いとは思いながらも、あまりの決まりの悪さに、つい彼女はこんな態度をとってしまった。
 まだ二人は付き合いはじめて一月も経たないが、こんな重要なことは、交際開始の直後に言うべきことに彼には思えた。彼らはいつも雅之の部屋で過ごしていたから、もし彼女の部屋で過ごす機会が多ければ、もっと早く気づいたに違いない。

 いずれ露見するような嘘なので、彼女の言う通り、本当に言いそびれただけで、そろそろ言い出そうと思っていたのかもしれない。それでも悪びれない態度を見ていると、雅之は二人の間に、考え方や感受性についての、大きなずれを感じてしまった。そのずれは受け入れ難いものだから、たちまち目の前の女から親しみが失われ、異邦人のように見えると、突き放されたように感じた。
「ダイレクトメールを受け取ったとき、言ってくれたらよかったのに。こんな形で知りたくなかった。大野…、いや、沙織さんの方から伝えてもらいたかった。そうしていたら、俺は驚いたかもしれないけど、怒ったりはしなかったよ」
「水沢さん」という苗字で呼ぶのは違和感が大きいので、彼は「沙織さん」という名前で呼ぶことにした。
「本当にごめんなさい。瀬川くんの状態が良くなったら、言い出そうと思っていたのだけど、言い出しそびれちゃったの」
 そう言いながら、沙織はしょんぼり俯いていたが、雅之は彼女の言葉の真偽を疑っていた。もし今回こうして明るみに出なければ、彼女はバレるまで永遠に偽名を使っていたのではないかと、そんな想像をしていたのである。そしてこの想像のおかげで、沙織本人がそう言ったわけではないのに、彼女にとって本名も偽名も同じ名前であって、SNSのアカウント名とたいして変わらないのではないかと、そんなことまで考えてしまった。しかし彼女の言葉が真実で、本当にそろそろ言い出そうと思っていたのであれば、この想像はただの行き違いである。

 沙織との会話の後、雅之は憂鬱になっていた。彼女との関係は長続きしないかもしれないと思ったからである。きっと彼は心のどこかで、生きている限りこの関係が続くものと思っていたのだろう。そして二人を結びつける罪は、生涯消えぬ烙印であり、破滅するときも、共に地獄へ落ちるのだろうと。しかしその夢は二人の関係に生まれた齟齬によって壊されてしまった。こうして醒めたくない夢から醒め、彼女との関係が唐突にかりそめの関係に思えてしまったので、彼は憂鬱になったのである。しかも彼女の新たな「沙織」という名前を呼んで、違和感を覚えるたび、彼は憂鬱になった。

「もし俺が本物の大野さんと話したことがあったら、どうするつもりだったの」
「一度も話したことはないって、ちゃんと彩子に確認したから」
 雅之にはこの用意周到さが憎らしかった。

 奥多摩の山林に死体を埋めてからすでに一月が経過していた。夕食後に観た邦画のサスペンス映画で、警察が犯人の足取りを掴むため、Nシステムを利用するのを見て、あの日雅之はNシステムの配置場所をネットで調べなかったことを思い出した。Nシステムや高速道路を回避しても、アパートの排水管を調べれば、証拠が出てしまうから、沙織が疑われた時点で終わりだと思っていた。おかげで生きた心地はしなかったが、今では希望を持てるようになった。たとえ雇用形態がアルバイトであっても、被害者の勤め先がしっかりしたところであれば、従業員が無断欠勤し、連絡を取れなくなった場合、安否の確認を行うが、幸いなことに、そうしなかったようだ。彼は嘘で塗り固めた人物像を女に見せていたので、実際にどういう人間であったのか分からないが、後は彼の周囲に彼のことを親身に想う人が一人もいないことを願うばかりである。それと彼の所持していたスマホは奥多摩で処分済みで、LINEのトーク履歴のサーバー上の保存期間はすでに過ぎている。商業施設や公共の場所の防犯カメラの映像は、保存期間が長くても一カ月程度であると、すでにネットで調べて知っていた。時間が経過するほど、沙織の交際相手の失踪後の足取りを辿るのは困難になる。
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