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第二章 有紀
4話
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以前は沙織との関係を他人に知られることに、雅之は恐れを感じたが、大学生活を一月送ると、その恐れもなくなっていた。それは沙織も同じであるようだった。
「神奈川学院のカフェテリアに、ティラミスプリンがあるでしょ。あれ、食べに行こうよ」
テレビやユーチューバー、雑誌やグルメ漫画、あらゆる媒体でその学食のスイーツが紹介されたらしく、とうとう沙織も食べに行きたいと言い出した。学園祭で行う写真部の展示会の時期が迫って、最近忙しく、彼女と過ごす時間が減っていた。機嫌を取るのに好い機会だと思った。
二人とも金曜日の授業は午後からだったので、午前中に大学へ足を運んだ。6号館の一階にある葉影というカフェテリアへ赴くと、入り口に黒板の立て看板が置かれ、プリンの絵がチョークで描かれていた。店内は盛況で、ただでさえ少ない席はすべて埋まっていた。彼らは神学(かながく)プリンを購入し、店の外のベンチで食べた。このプリンは入学当初から名物であるけれど、メディアの注目を浴びてからというもの、学外からの来訪者が絶えなかった。
沙織の要望で、食後にキャンパスを案内した。二人で歩いていると、穏やかな幸福に浸って、雅之はこの先も平和が続くような気がした。つい最近まで人目につくことが恐ろしく、二人で大学付近を歩くことなどなかったのに、すでに昔のことのようだった。
図書館前の広場を過ぎてチャペルの前を通るとき、前方から女が歩いてきた。雅之たちの姿を認めると、早くもいたずら小僧のような含み笑いを浮かべ、目の前に来た彼女に対し、雅之はまるで機先を制するように「宮下も今は授業ないの」と声をかけた。いつもとは異なり、敢えて苗字で呼ばれると、彼女は笑いを堪えながら「宮下ですか。ええ、今はないですよ」と言った。それから沙織に「初めまして。仏文一年の宮下です」と、一瞬前とは打って変わり、嫌味のない朗らかな笑みを浮かべた。彼女の前下がりのボブカットの髪は、陽を浴びて銅褐色の光沢を帯び、溌溂とした笑顔は輝かしいばかりで、少し気圧された沙織は「初めまして。水沢沙織です」と、髪をかき上げながら小さく会釈した。有紀は早く紹介しろと、雅之に目で合図した。
「彼女は向井さんと同じ、明立の二年生だよ。アパートの隣の部屋に住んでいるんだ」
「え、隣。隣に住んでいるんですか」
「はい」
ちょっと震えた声でそう言うと、沙織は腰が引けて、硬い笑顔を浮かべていた。
雅之は沙織との関係を陽の下に出しても構わないと判断し、馴れ初めについて話した。例の酔っ払いを退散させた話である。話しているとき、あまりにも知られたくないことが多過ぎて、背中の辺りを覗かれているような、落ち着かない気分になった。
「それで、二人は付き合ってるんですか」
一旦沙織に視線を移し「うん、まあ、そうだね」と、雅之は歯切れの悪い返事をした。彼女も気まずそうに俯いていた。どこかぎくしゃくした雰囲気が漂って「なにその漫画みたいな展開。先輩、めちゃくちゃツイてるじゃないですか」と、有紀はちょっと大げさに驚いた。雅之もそれに合わせ「ほんと一生分のツキを使い切っちゃったよ」と、精一杯はしゃいで見せた。
「でも酔っぱらいから女の子を救うなんて、全然似合いませんね」
「まあ、殴り合ったわけじゃないからね。頭を使って解決したんだよ。言葉巧みに追い払う感じかな」
雅之は自分の頭を指さして誇らしげにそう言った。
「瀬川さんにとっては言葉巧みなんですね。わたしにもできそうですけど」
沙織はクスクス笑っていた。そんな彼女に、有紀はふいに目を輝かせ「水沢さんて、すごく美人ですね」と感嘆の声を発した。不意を突かれた沙織は、目を瞬いていた。
「本当に瀬川さんでいいんですか」
首を傾げ、覗き込む有紀から目を逸らし、沙織は可笑しそうに笑っていた。
「余計なことを言わないの」
ふいに何かを思いついたように、有紀はリュックサックに手を突っ込んで、カメラを取り出した。
「あの、写真を撮ってもいいですか」
「え、写真」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「はい、ちょうど今、天気も時間帯も、いい感じなんですよね」
罪のない満面の笑みを浮かべ、有紀は一眼レフのレンズカバーを外した。
「ちょっと待って。沙織さんは写真が苦手なんだよ」
カメラを構えた有紀はきょとんとしていた。
「そうなんですか」
「すみません」と小声で謝り、頭を下げ、沙織の肩は縮こまっていた。
「いえいえ、気にしないで下さい。悪いのはこっちですから。初対面でいきなり言うことじゃないですよね。カメラ女の悪い癖だと思って、許してください」
有紀も頭を下げ、カメラをリュックサックに戻した。
「それじゃ、そろそろ行きますね。あ、瀬川さん、今日部会には来るんですか」
「うん、後で行くよ」
去っていく有紀の後ろ姿を、沙織は眺めていた。
「可愛い子だね。写真を撮らせてほしいって言われたときは、びっくりしたけど」
「代々木公園でも言われたよね。きっと沙織さんを見ると、写真を撮りたくなるんだよ」
彼女は困惑の笑みを浮かべていた。
「宮下さんは友達が多そうだね。誰とでもすぐ仲良くなれそう」
「高校のときに友達が増え過ぎたせいで、人付き合いに疲れたらしいよ」
「ハハハ、そうなんだ」
雅之は腕時計を見ながら「まだ少し時間があるけど、大野さんはどうする。もう少し見て回る」と、名前を間違えたことに気づくと「あ、ごめん。沙織さんだった…」と訂正した。
「いいよ。気にしないで」
沙織はにこやかにそう言うと、彼の手を引いて「最後に部室棟を見ようかな。写真部があるんでしょ」と歩き出した。歩きはじめると、雅之のスマホにLINEの着信が入った。それを見て彼が笑ったので、彼女も見せてもらった。有紀から送られてきたLINEのスタンプだった。割れたくす玉の垂れ幕に「おめでとう」と記され、その隣に両手を上げ、万歳をするうさぎのキャラクターが描かれていた。
「ほんとに可愛い子だね」
束の間沙織は憂わしげな表情を浮かべた。
「神奈川学院のカフェテリアに、ティラミスプリンがあるでしょ。あれ、食べに行こうよ」
テレビやユーチューバー、雑誌やグルメ漫画、あらゆる媒体でその学食のスイーツが紹介されたらしく、とうとう沙織も食べに行きたいと言い出した。学園祭で行う写真部の展示会の時期が迫って、最近忙しく、彼女と過ごす時間が減っていた。機嫌を取るのに好い機会だと思った。
二人とも金曜日の授業は午後からだったので、午前中に大学へ足を運んだ。6号館の一階にある葉影というカフェテリアへ赴くと、入り口に黒板の立て看板が置かれ、プリンの絵がチョークで描かれていた。店内は盛況で、ただでさえ少ない席はすべて埋まっていた。彼らは神学(かながく)プリンを購入し、店の外のベンチで食べた。このプリンは入学当初から名物であるけれど、メディアの注目を浴びてからというもの、学外からの来訪者が絶えなかった。
沙織の要望で、食後にキャンパスを案内した。二人で歩いていると、穏やかな幸福に浸って、雅之はこの先も平和が続くような気がした。つい最近まで人目につくことが恐ろしく、二人で大学付近を歩くことなどなかったのに、すでに昔のことのようだった。
図書館前の広場を過ぎてチャペルの前を通るとき、前方から女が歩いてきた。雅之たちの姿を認めると、早くもいたずら小僧のような含み笑いを浮かべ、目の前に来た彼女に対し、雅之はまるで機先を制するように「宮下も今は授業ないの」と声をかけた。いつもとは異なり、敢えて苗字で呼ばれると、彼女は笑いを堪えながら「宮下ですか。ええ、今はないですよ」と言った。それから沙織に「初めまして。仏文一年の宮下です」と、一瞬前とは打って変わり、嫌味のない朗らかな笑みを浮かべた。彼女の前下がりのボブカットの髪は、陽を浴びて銅褐色の光沢を帯び、溌溂とした笑顔は輝かしいばかりで、少し気圧された沙織は「初めまして。水沢沙織です」と、髪をかき上げながら小さく会釈した。有紀は早く紹介しろと、雅之に目で合図した。
「彼女は向井さんと同じ、明立の二年生だよ。アパートの隣の部屋に住んでいるんだ」
「え、隣。隣に住んでいるんですか」
「はい」
ちょっと震えた声でそう言うと、沙織は腰が引けて、硬い笑顔を浮かべていた。
雅之は沙織との関係を陽の下に出しても構わないと判断し、馴れ初めについて話した。例の酔っ払いを退散させた話である。話しているとき、あまりにも知られたくないことが多過ぎて、背中の辺りを覗かれているような、落ち着かない気分になった。
「それで、二人は付き合ってるんですか」
一旦沙織に視線を移し「うん、まあ、そうだね」と、雅之は歯切れの悪い返事をした。彼女も気まずそうに俯いていた。どこかぎくしゃくした雰囲気が漂って「なにその漫画みたいな展開。先輩、めちゃくちゃツイてるじゃないですか」と、有紀はちょっと大げさに驚いた。雅之もそれに合わせ「ほんと一生分のツキを使い切っちゃったよ」と、精一杯はしゃいで見せた。
「でも酔っぱらいから女の子を救うなんて、全然似合いませんね」
「まあ、殴り合ったわけじゃないからね。頭を使って解決したんだよ。言葉巧みに追い払う感じかな」
雅之は自分の頭を指さして誇らしげにそう言った。
「瀬川さんにとっては言葉巧みなんですね。わたしにもできそうですけど」
沙織はクスクス笑っていた。そんな彼女に、有紀はふいに目を輝かせ「水沢さんて、すごく美人ですね」と感嘆の声を発した。不意を突かれた沙織は、目を瞬いていた。
「本当に瀬川さんでいいんですか」
首を傾げ、覗き込む有紀から目を逸らし、沙織は可笑しそうに笑っていた。
「余計なことを言わないの」
ふいに何かを思いついたように、有紀はリュックサックに手を突っ込んで、カメラを取り出した。
「あの、写真を撮ってもいいですか」
「え、写真」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「はい、ちょうど今、天気も時間帯も、いい感じなんですよね」
罪のない満面の笑みを浮かべ、有紀は一眼レフのレンズカバーを外した。
「ちょっと待って。沙織さんは写真が苦手なんだよ」
カメラを構えた有紀はきょとんとしていた。
「そうなんですか」
「すみません」と小声で謝り、頭を下げ、沙織の肩は縮こまっていた。
「いえいえ、気にしないで下さい。悪いのはこっちですから。初対面でいきなり言うことじゃないですよね。カメラ女の悪い癖だと思って、許してください」
有紀も頭を下げ、カメラをリュックサックに戻した。
「それじゃ、そろそろ行きますね。あ、瀬川さん、今日部会には来るんですか」
「うん、後で行くよ」
去っていく有紀の後ろ姿を、沙織は眺めていた。
「可愛い子だね。写真を撮らせてほしいって言われたときは、びっくりしたけど」
「代々木公園でも言われたよね。きっと沙織さんを見ると、写真を撮りたくなるんだよ」
彼女は困惑の笑みを浮かべていた。
「宮下さんは友達が多そうだね。誰とでもすぐ仲良くなれそう」
「高校のときに友達が増え過ぎたせいで、人付き合いに疲れたらしいよ」
「ハハハ、そうなんだ」
雅之は腕時計を見ながら「まだ少し時間があるけど、大野さんはどうする。もう少し見て回る」と、名前を間違えたことに気づくと「あ、ごめん。沙織さんだった…」と訂正した。
「いいよ。気にしないで」
沙織はにこやかにそう言うと、彼の手を引いて「最後に部室棟を見ようかな。写真部があるんでしょ」と歩き出した。歩きはじめると、雅之のスマホにLINEの着信が入った。それを見て彼が笑ったので、彼女も見せてもらった。有紀から送られてきたLINEのスタンプだった。割れたくす玉の垂れ幕に「おめでとう」と記され、その隣に両手を上げ、万歳をするうさぎのキャラクターが描かれていた。
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