隣の女

如月

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第二章 有紀

5話

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 十月の末の学園祭で、雅之の写真部は展示会を開催し、フランクフルトの屋台を出した。最終日の片付けの後、打ち上げを行い、彼は朝まで酔っていた。十一月に入ると、今度は入れ違いで明立大学の学園祭が催された。芳美が雅之たちの展示会に来てくれたお返しに、今度は彼と有紀が、文化の日に彼女の写真部の展示会へ行くことになった。部室棟の中に多目的ホールがあり、そこで開催されていた。「ご自由にお入りください」と書かれた立て看板に従って、入り口から入ると、芳美ともう一人、加藤一馬という雅之と面識のある部員がいた。芳美にすっかり嫌われた雅之は、彼女への挨拶は有紀に任せ、壁に展示された写真の前に立ち、一馬と話した。
「この写真って、尾道だよね」
「そうだよ。夏休み中に旅行に行ってさ。前から一度行ってみたかったんだ」
「でもどうして風景写真を撮り始めたの。前は鉄道の写真だったでしょ」
「モチベーションを保つためだよ。同じものばかりを撮っていると飽きるからね」
 一馬の写真の前で、雅之は旅行の感想を聞いたり、写真の感想を述べたり、展示会に出した自分の廃墟の写真についても、簡単な話をした。それからフロアを一巡りした後「それじゃ、またね」と別れの挨拶を告げたが、芳美は有紀に手を振るばかりで、彼には見向きもしなかった。建物から出ると、有紀がそのことについて文句を言った。
「瀬川さん、どうしてよっちゃんに余計なことを言ったんですか」
「えーと、なんて言えばいいんだろ。正直に話そうかと思って」
「なんのために」
「ありのままの自分を…」
「もういいです」
 会話を断ち切って、雅之を振り切るようにずんずん歩き出し、彼は慌てて追い駆けた。
「ちょっと待って。そんなに怒ることないだろ。まさか向井さんがこんなに怒るとは思わなかったんだよ」
「それは嘘でしょ。よっちゃんの潔癖な性格くらい、先輩も知ってますよね。わたしだって、すべてを正直に話したら、一瞬で縁を切られちゃいますよ」
「悪かったよ。ただ俺は、試してみようと思って。あれくらいなら大丈夫かどうか」
「ただ他人に無関心なだけじゃないですか。だから人を不快にさせることを無神経に口にするんです。先輩は自分にしか興味がないんです」
「そこまで言うことないだろ。悪かったよ。反省してるから」

 なぜ有紀がここまで怒るのか、雅之には分からなかった。こうなると、怒りが冷めるのを待つより他にないと思ったが、ルート13というオルタナロックバンドのコンサートが始めると、彼女の機嫌は直った。模擬店で昼食を済ませた後、友達との付き合いで、自主製作映画の上映会に、彼女が観に行くと言ったので、雅之は煙草を吸った後、遅れて行くと伝えた。模擬店の学生に場所を尋ね、5号館の西側の喫煙室に入った。すでに三人の若い喫煙者がいた。室内はかなり広く、三つの大きなスタンド灰皿が、中央で等間隔に配置されていた。彼らはそれを囲み、空気清浄機の微かな音の中、瞑想するように、煙を吸ったり吐いたりしていた。やがて彼らが出て行くと、入れ違いで背の高い女がやってきた。彼女はメンソールを吸いながらスマホを眺め「大野さん」と呼びかけられると、訝しげに雅之を見た。目尻の吊り上がった、目つきの鋭い女だった。
「大野さんだよね」
「そうですけど」
「覚えてるかな。ほら、以前アパートの隣に住んでいたでしょ」
 訝し気な彼女の表情は、やがて過去の記憶に思い至り、ふいにパッと輝いた。
「あー、もしかして、富山ハイツに住んでいた人」
「そう、隣に住んでいた人。よかったー、思い出してもらえて」
 本物の大野彩子を発見し、声をかけた雅之は、ろくに話したことはないのに、旧友との再会のような雰囲気を漂わせていた。幸い彼女もそれに付き合ってくれた。
 雅之は簡単な自己紹介をした後にこう言った。
「大野さんはすぐに引っ越しちゃったよね」
「オートロックがあるところに住むように、親がうるさくてさ。あのアパート、学校から近くてよかったけど。周りも静かだし」
「ああ、そうか。だから友達に部屋を譲ったんだ」
「沙織のことも知ってるの」
「うん、まあ、隣の部屋だからね」
「もしかして、沙織の新しい彼氏って、瀬川くんなの」
 偽名の一件を思うと、沙織との日ごろの会話の中に、一体どれだけの嘘が潜んでいるのか、雅之は気になることがあった。彼女の高校時代からの友人である彩子であれば、彼よりもっと多くのことを知っているはずだと思った。
「沙織さんからそこまでは聞いてないんだね」
「彼氏ができたことは聞いたけど、まさかわたしが知っている人だと思わなかった。あの子、自分からあまり話さないから。前の彼氏ともいつの間にか別れたし」
「ああ、そうなんだ」
 雅之は目を逸らし、三本目の煙草に火を点けた。彩子は足元に視線をさ迷わせ、新たに喫煙室に入ってきた二人に視線を向け「沙織の前の彼氏って、今どうしてるの」と、声を潜めて訊ねた。
「どうって言われても、分からないよ。どうして気になるの」
 一旦口を噤んだ彼女は「ただなんとなく」と声をさらに潜めた。
「もしかして、沙織さんの元カレとは友達とか」
「いや、違うよ」
「会ったことはあるの」
「ないけど」
「会ったこともないのに気になるんだ」
「うん、そうだね」
「それはどうして」
 やけに食い下がる雅之に、彼女は切迫した表情を浮かべた。
「それは…、ただなんとなくよ」
 再び足元に視線をさ迷わせ、内側にカールしたチェリーレッドの毛先を、彼女は指で摘み弄んでいた。
 彩子について芳美から聞いた話を雅之は思い出した。
「そういえば、大野さんは加藤くんを知っているんだよね」
「経済学科の加藤くん?」
「うん、その加藤くん。彼は写真部で、俺は神学(かながく)の学生だけど、写真部だからさ、写真部同士の交流があるんだよ。ほら、神学(かながく)と明立って、すぐ近くにあるでしょ。彼のことをよく知ってるんだよ。さっきも展示会で会った」
「そうなんだ」
「大野さんについても話していたよ」
「え、わたし」
「名前をはっきり言ったわけじゃないけど、同じ学科で身長が186cmの女の子って、大野さんしかいないよね」
「どうしてわたしの身長まで知ってるの」
「加藤くんから聞いた」
「わたしは加藤くんにも話してないよ」
「そんなの知らないよ。たぶん加藤くんも誰かから聞いたんでしょ」
 彩子は釈然としない様子である。
「加藤くん、わたしのことを何て言ったの」
「すごく褒めていたよ。ビックリするくらいにね」
「それ、本当なの」
「本当だよ。彼が何て言ったのか、知りたい」
「うん」
「俺も知りたいことがあるんだよ」
「なに、知りたいことって」
「さっき沙織さんの元カレについて話したでしょ。大野さんは今彼がどうしているか気になっていたよね。なぜ気になったの」
 罠に嵌められたと思ったのか、さっきまでの打ち解けた様子とは打って変わり、彼女の釣り目の角度がさらに上がった。
「それって、話さなきゃいけないの」
「べつに話さなくてもいいよ。でもその場合、俺も話さないけど」
「どうしてそんなことを知りたいのよ」
「途中で話を誤魔化されたら、知りたくなるのが当然だろ。それに沙織さんに関係のある話は聞きたいね。あと加藤くん、今彼女はいないらしいよ」
 二人の喫煙者のうちの一人が、喫煙室から出て行く姿を彩子は目で追って、もう一人の背中を窺いながら「沙織に言っちゃダメだよ」と小声で注意した。
「分かってる。誰にも言わないよ」と、つられて彼も小声になった。
「沙織は高校生のとき、二人の男の子と付き合っていたの。あ、二股っていう意味じゃないよ。二年生のときと三年生のとき、一人ずつね。その二人が…」と言い淀んで、雅之に顔を近づけ、耳打ちするようにこう言った。
「行方不明になったのよ」
 全身の毛が逆立つように感じた。
「見つからなかったの」
「うん。でも一人は東京の大学生で、沙織と一緒にいるとき、一度しか会っていないの。行方不明になったのを知ったのは、人から聞いた話。だから本当かどうか分からない。ただもう一人はうちの学校の生徒なの。突然学校に来なくなっちゃって、大騒ぎになった。それで…」と、残りの喫煙者の背中を窺って、一旦話を途切らせた。彼が出て行くのを見送ると、室内に自分たち以外に誰もいなくなり、彼女はのめり込むようにして口を切った。その様子から雅之は、本当は話したいのではないかと思った。
「それで、当時噂になったのよ。沙織が何かやったんじゃないかって。だからその彼氏が今でも無事なのか、気になったの」
「警察に疑われたの」
「事情聴取のために警察に呼び出されていたよ。でもまあ、疑われているでしょ。二人も行方不明になっているからね」
 沙織の交際相手が行方不明になったのは、三人目ということになる。
「あ、でも、わたしはこんな噂、信じているわけじゃないから。ちょっと気になってはいるけどね。だいたい沙織にそんなことができるなんて思えないし。このせいで、あの子、すごく傷ついたみたい。だから気にしないで。あの子を大切にしてあげて」
 高校生の女の子が単独で、二人の男の死体をきちんと処理できるのか、雅之は疑問に思った。実際に死体処理を行ったので、真っ先にその点を疑った。それでも胸の騒めきは鎮まらなかった。横浜のような都市部ではなく、秦野のような自然豊かな環境であれば、人里離れたところなど容易に見つけることができる。人を殺した後にその場で埋めてしまえば、高校生の女の子でもできるのだろうか。しかし男一人を埋めるための穴を掘るのは、相当骨が折れるだろう。俺と沙織さんがバラバラになった死体を埋めたときでさえ、それなりに時間がかかった。やはり女子高生が一人で二件の殺人を完全に隠蔽するのは無理がある気がする。そんなことをあれこれ考えていると「あの、それで、加藤くんは何て言ったの」と、彩子が訊ねた。
「え、加藤くん?」
「わたしのことを何て言ったのよ。話してくれるんじゃなかったの」
「ああ、そうか」と彼は彩子に向き直った。
「大野さんがタイプらしいよ。前からずっと気になる子がいるって、そう言ってた」
 彩子は眉根を曇らせ「それ、本当なの。信じられないんだけど」と声を荒げた。
「本当だよ。彼は自分より大きい女がタイプなんだ」
「ふざけてるの」
「どうしてそう思うの」
「信じられないからよ」
「好みなんて人それぞれだろ。信じられないのは、その理由が大野さんにあるからじゃないの」
 彩子は恨めしそうに彼を睨んでいた。
「たぶん大野さんは自分の魅力に気づいてないんだよ」
「やっぱり信じられないわ」
「もっと自分に自信を持った方がいいよ。加藤くんは大野さんのすべてを好きなんだと思う。いくら性癖にヒットしたからって、背が大きいだけで好きになったりはしないから」
 否定する気にはなれないのか、彼女は悩ましい表情を浮かべた。
「たぶん大きな女に母性を感じるんじゃないかな。男はみんなオギャりたいんだよ」
 これが余計な一言であることに気がついて、慌てて次のように付け加えた。
「いや、今のは俺がそう思っただけだから。加藤くんが言ったわけじゃないよ。たぶんそういうことなんじゃないかって思ってさ。さすがにこれは勘違いかもしれない。あくまでも俺の意見だから」
「分かってるよ。そんなこと」
「べつに加藤くんがオギャりたいわけじゃないから」
「分かってるって言ってるじゃん」
「よかった。分かってくれたんだ」
 彩子は恥辱と怒りに頬を赤く染め、悩ましさが極みに達したのか、口だけを動かして、言葉が出てこなかった。
「それじゃ、分かってくれたことだし、そろそろ行かないと」
 彼はそう言うと、強引に会話を終わらせてしまった。挨拶を述べた後、彩子に背を向け、逃げるようにその場を立ち去った。
 そのとき背後から
「あなたも無事だといいね」
 と、彼女が小声で呟いた。
「あなたも」ということは、彼女は沙織の三人目の彼氏が、無事だと思っているらしい。
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