綾衣

如月

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2.大七にて

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 墨堤の染井吉野が咲き始め、花見客で向島が賑わうと、三月の満開を見計らい、兵次郎も芸者衆を伴って、踊りや茶番を肴に、友人たちと花見を楽しんだ。やがて宴が引けて、兵次郎たち三人と、助八は、大七で風呂を浴びた。なにやら密談があるらしく、この料亭の離れ座敷を借りた。三人の部屋住みの息子たちは大仰に助八を持て囃し、彼は照れ笑いを浮かべていた。
「おめえほど肝っ玉のふてえ野郎は見たことがねえ。よくぞやりやがった。で、一体どんな手を使った。いい加減白状しねえか。この助六め」
 この日ばかり助六に昇格した助八は、若旦那たちに頭や肩を叩かれながら、笑みを絶やすことはないが、口ばかりは重かった。
「そりゃもう、顔料ですね。べらぼうに難儀しました。なんせ石垣に描くっていうんですから」
「また顔料の話かい。お前が難儀したのは分かったよ」
 もったいをつける助八に、三人が苛立つことはなかった。深く追究することを恐れたからである。とはいえ、本当は話したくて仕方なかったので「それじゃあ、若旦那たちが呑み込みやすいように、順を追って話しましょう」と、一旦話しはじめると、結末まで一気に話した。
「事前に下見をして、見廻りの時間を調べました。それから夜を待ってお濠に入り、大手門脇の石垣を登るんですが、手で登るわけにはいきませんから、そのための道具を鍛冶屋に作らせました。足に付ける爪と、石垣に打ち込む杭、それと縄に結ぶ鉤ですね。しかし道具を揃えたところで、お城の石垣を登るのは容易ではございません。わたしの知り合いに、旗本屋敷の中間の男がおりまして、この男が猿のように身軽な男で、若旦那から今回の話を聞いたとき、この男の顔がすぐ頭に浮かんだくらいです。だからこいつに協力させました。この男に石垣を登らせ、上から縄を垂らします。その縄に顔料を入れた桶と筆を結んで、上に引き上げたんですが、顔料は芝居で使う糊紅に膠を混ぜて作りました。筆も自作ですね。竹ぼうきの柄を適当なところで切って、先を綿でくるんだ上で、布で包んだものを使いました。次にわたしが登り、石垣の半ば辺りでいちもつを描きます。大きさは二間ぐらいですね。斜め上に反るように描きましたよ。ほんと大変でした。なんせ見廻りが来る前に一気にやらなきゃいけませんからね。途中で疲れましたが、いちもつを描くのはわたしの役目だったので、ちゃんと終いまでやり遂げました。こう見えてわたし、絵心があるんです」
 得意そうに語る助八を、三人は畏敬の念を込めて眺めた。が、どちらかというと、畏れが勝った。この男の度胸は常軌を逸している。もはや彼がただの幇間でないことは明らかなので、なるべくいつものように接し、畏れを押し殺した。だから大七を後にして、吉原へ向かう段になって、どうしても外せない用事があるからと、助八が先に帰ると、三人ともほっとした。大金を稼いだばかりで働く気がないのだろうと、彼らは思った。
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