3 / 10
3.敷嶋
しおりを挟む
山城屋の敷嶋は平の昼三で、兵次郎は先月馴染みになったばかりである。利発で器量の良い彼女がなぜ呼び出しになれなかったのか、彼は疑問に思ったことがある。禿のときは今とは異なり、利発ではなかったのかもしれない。しかし別の理由がありそうだった。笑うと垂れる切れ長の目や、ふっくらとした頬は愛嬌があるけれど、たまに物思いに沈む折、見る角度によっては、白痴のように見えた。きっとこれがいけないのだろうと思った。
三つ布団に横臥し、兵次郎は頬杖を突きながら、敷嶋が角行灯の取っ手を掴んで、布団に引き寄せる、その横顔を眺めていた。伊達兵庫に浅葱縮緬の床着、緋縮緬の帯を締めている。引け四つを過ぎ、部屋の明かりはその角行灯ばかりである。屏風に掛けられた塩瀬の打掛の麗しい百鳥文様も、闇に沈んでいた。床着の褄を取り、薄闇の中、行灯に眼を向ける敷嶋の横顔が仄かに浮かんでいた。
「わっちの顔がそんなに珍しいのかえ」
「見惚れているだけさ」
敷嶋は鼻で笑い、寝床に近づくと、どすんと、勢いよく兵次郎の腹の上に背をもたげた。
「おっと、漬物石みてえな花魁だ」
敷嶋は彼の脇腹をくすぐった。
「堪忍してくれ」
「ぬしみたいな不実な男は、狐に化かさりいす」
句会の仲間との付き合いで、他の妓楼で遊んだことが露見したのである。ただの付き合いだから、馴染みになるつもりはないと、納得させたが、一晩中不機嫌は続きそうだった。
「狐に実不実が関係あるものか」
「知りいせんのかえ。太田屋の琴浦さんの馴染みの客衆が、浮気が故で、狐に憑かれて気狂いになりんした」
突然面白そうな話が飛び出したから、兵次郎は目の覚める心地がした。
「なんだい、それは。初耳だ」
聞くところによると、琴浦の馴染み客である、その新川の酒問屋の手代は、京町一丁目の鶴屋の店先で「此花に会いたい。早く此花を出せ」と、その妓楼に籍をおいていない遊女の名を連呼し、鶴屋の若い者に掴みかかったそうだ。吉原細見を見せても、その遊女がいないことを納得させるのに苦労したらしい。
「その手代っていうのは、ひょっとして、今戸橋の袂で殺されたやつじゃないか」
「左様ざます。名前も顔も知りいせんが、うちの客衆が、同じ人だと申しておりいした」
「その手代の言う女郎は、玉屋の此花とは違うのかい」
「鶴屋の人も同じ思いで、たびたび確かめたそうでありんすが、その客衆は鶴屋の此花さんだと言い張りなさんした。あんまり情の強い人でありんす」
玉屋の此花は呼び出し昼三だから、酒問屋の奉公人が買える女郎ではない。その手代の殺され方は異様であるが、死ぬ前の行いも異様だった。
「浮気相手が幻か。こいつは面白い」
兵次郎は感心したようにそう言った。
「わっちも幻かもしりんせんえ」
そう言うと、敷嶋は流し目を送り、うっとりと口の端に笑みを浮かべた。
「おきやがれ。こんな漬物石みたいな尻が、幻であるものか」
今度は脇腹をつねられた。
三つ布団に横臥し、兵次郎は頬杖を突きながら、敷嶋が角行灯の取っ手を掴んで、布団に引き寄せる、その横顔を眺めていた。伊達兵庫に浅葱縮緬の床着、緋縮緬の帯を締めている。引け四つを過ぎ、部屋の明かりはその角行灯ばかりである。屏風に掛けられた塩瀬の打掛の麗しい百鳥文様も、闇に沈んでいた。床着の褄を取り、薄闇の中、行灯に眼を向ける敷嶋の横顔が仄かに浮かんでいた。
「わっちの顔がそんなに珍しいのかえ」
「見惚れているだけさ」
敷嶋は鼻で笑い、寝床に近づくと、どすんと、勢いよく兵次郎の腹の上に背をもたげた。
「おっと、漬物石みてえな花魁だ」
敷嶋は彼の脇腹をくすぐった。
「堪忍してくれ」
「ぬしみたいな不実な男は、狐に化かさりいす」
句会の仲間との付き合いで、他の妓楼で遊んだことが露見したのである。ただの付き合いだから、馴染みになるつもりはないと、納得させたが、一晩中不機嫌は続きそうだった。
「狐に実不実が関係あるものか」
「知りいせんのかえ。太田屋の琴浦さんの馴染みの客衆が、浮気が故で、狐に憑かれて気狂いになりんした」
突然面白そうな話が飛び出したから、兵次郎は目の覚める心地がした。
「なんだい、それは。初耳だ」
聞くところによると、琴浦の馴染み客である、その新川の酒問屋の手代は、京町一丁目の鶴屋の店先で「此花に会いたい。早く此花を出せ」と、その妓楼に籍をおいていない遊女の名を連呼し、鶴屋の若い者に掴みかかったそうだ。吉原細見を見せても、その遊女がいないことを納得させるのに苦労したらしい。
「その手代っていうのは、ひょっとして、今戸橋の袂で殺されたやつじゃないか」
「左様ざます。名前も顔も知りいせんが、うちの客衆が、同じ人だと申しておりいした」
「その手代の言う女郎は、玉屋の此花とは違うのかい」
「鶴屋の人も同じ思いで、たびたび確かめたそうでありんすが、その客衆は鶴屋の此花さんだと言い張りなさんした。あんまり情の強い人でありんす」
玉屋の此花は呼び出し昼三だから、酒問屋の奉公人が買える女郎ではない。その手代の殺され方は異様であるが、死ぬ前の行いも異様だった。
「浮気相手が幻か。こいつは面白い」
兵次郎は感心したようにそう言った。
「わっちも幻かもしりんせんえ」
そう言うと、敷嶋は流し目を送り、うっとりと口の端に笑みを浮かべた。
「おきやがれ。こんな漬物石みたいな尻が、幻であるものか」
今度は脇腹をつねられた。
6
あなたにおすすめの小説
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
江戸『古道具 藍凪屋 〜再生と縁結いの物語〜』
藍舟めいな
歴史・時代
捨てられた道具に命を吹き込め。算盤娘と天才職人が贈る、痛快再生譚!
大坂の商才 × 長崎の技術 × 庄内の祈り。
神田お玉が池の古道具屋『藍凪屋(あいなぎや)』、本日開店。
文化十四年、江戸。 泥にまみれ、捨てられたガラクタを、異国の技で「勝色(かちいろ)」へと蘇らせる天才職人・徳三。 その価値を冷徹に見抜き、江戸の「粋」へとプロデュースする算盤娘・おめい。
吹き溜まりの裏長屋から、二人の「余所者」が江戸の価値観をひっくり返す! 捨てられた道具に新しい命を吹き込み、絶たれた「縁」を再び結ぶ、再生の物語。
「うちが売ってるんは物やなくて、職人の執念と、それを持つ人の『格』なんですわ」
どん底から江戸の頂点を目指す、痛快・職人再生サクセスストーリー!
※カクヨムで先読み可能です
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる