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8.中村座にて
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瓦屋根の上に角切銀杏の座紋の櫓の立つ、中村座に面した堺町の往来は人で賑わっていた。武家の隠居と思われる老人が、木戸の端番と何か話し込んでいる。その後ろから、髷を志の字に結った、宿下がりの奥女中の一団が、芝居小屋へ入っていくのが見えた。櫓の下に掲げられた名題看板によれば、本日の演目は義経千本桜で、狐忠信が中村芝翫、静御前が瀬川菊之丞だった。夏になると怪談ものが演目に加わるから、兵次郎は今が夏でなくて良かったと思った。
柏屋の馴染みの芝居茶屋に、予め席を取らせ、兵次郎は東桟敷に座った。見物場所は五、六人ごとに区切られているが、彼は一人で広々と寛いでいた。隣の席の男はよほどの芝居好きなのか、鸚鵡石を片手に役者の声音を真似ていた。それが耳障りで、気を紛らわせようと、兵次郎は土間から向かいの西桟敷へと、視線を移ろわせ、女を物色していた。芝居は盛況なようで、羅漢台の上に「大入」と大書されていた。
二幕目に入ったときである。静御前が紅葉の木に縛り付けられ、義経一行が立ち去って、ちょうど早見藤太と配下の軍兵六人が、花道に登場するところだった。兵次郎はなんともなしに、花道から向かいの西桟敷に眼を移した。すぐに視線を花道に戻したが、一瞬赤い奇妙なものを見た気がしたので、西桟敷をもう一度見た。するとその正体が明らかになって、兵次郎は目を見張った。鹿の子絞りの赤い振袖を着た綾衣がそこにいた。顔を忘れていたはずが、見た瞬間に思い出した。しかも彼と眼が合った。
たちまち綾衣は立ち上がり、逃げるようにその場を離れた。自然と兵次郎も後を追って、芝居小屋を出た。走っているわけではないのに、早くも綾衣は、視界から消えそうなほど遠ざかっていた。慌てて走り出した兵次郎は、蕎麦屋のかつぎにぶつかってしまった。その男が担いでいた段重ねの赤い蒸籠は崩れ、中身の蕎麦が地面に撒かれた。尻もちをついた兵次郎は、急いで起き上がり、何も言わずに走り出した。
「何しやがる。おい、待て」
背後から聞こえる怒号を一顧だにせず、遠ざかっていく綾衣を追った。この女は悠然と歩いているのに、必死に追いつこうとしても、離れていく一方だった。息を切らしながら、親父橋を渡り、堀江町の角を曲がったところで、見失ってしまった。
兵次郎は中腰で、乱れる息を整えた。顔を仰げると、周囲の人々が不思議そうに彼を見ている。何食わぬ顔を取り繕い、その場を離れた。その途中で
「あ…」
と思わず声を上げた。
ついさっき見たばかりの綾衣の顔を、すでに思い出せなくなっていたからだった。いくら記憶を蘇らせようと努めても、鹿の子絞りの赤い振袖や、島田髷に珊瑚の玉簪まで思い出せるのに、顔だけがなぜか思い出せない。気を張り詰めて、命綱を掴むように、記憶を手繰り寄せようと努めても、綾衣の面を覆う闇が払われることはなかった。
こうなると、どうしてもこの女の顔をもう一度見たくなった。二度と会いたくないと思っていたのに、会いたくて堪らなくなった。綾衣の顔さえ明らかになれば、あの夜の快楽を、頭の中で鮮明に蘇らせることができる。
翌日も芝居に出かけた兵次郎は、舞台の上の役者ではなく、桟敷席の観客に目を凝らした。一人一人をつぶさに観察し、土間や羅漢台や吉野まで、視線を移ろわせ、何度観察を繰り返しても、綾衣はどこにもいなかった。昨日と同じ早見藤太の登場場面になっても、姿を現さなかった。兵次郎は落胆し、芝居小屋を後にした。
帰宅の途中、鹿の子絞りの赤い振袖を着た若い女を見つけたが、綾衣ではなかった。一目見れば思い出せるという歯痒い思いで、辺りに注意を払った。そんなことをしているうちに、やがて佐久間町にたどり着いた。遠くに平吉の実家の下駄屋の軒先が見えた。そこに見覚えのある男がいた。神田界隈を縄張りとする伝次という目明しだった。兵次郎はほとんど話したことはないが、商家で度々脅迫を行うごろつきで、皆から大変嫌われていた。そればかりではない。手下の孝六もいた。彼らの誰かを待っている様子に、兵次郎は胸騒ぎを覚えた。果して平吉が家から出てくると、彼らに連れ去られてしまった。
兵次郎は奈落に転落するような眩暈を覚えた。慌てて踵を返し、今戸町の花まちの家に向かった。もはや他に安心できる場所はなさそうだった。
平吉が目明しに呼び出されたからといって、例の件でそうなったとは限らないが、兵次郎にはそうとしか思えなかった。
柏屋の馴染みの芝居茶屋に、予め席を取らせ、兵次郎は東桟敷に座った。見物場所は五、六人ごとに区切られているが、彼は一人で広々と寛いでいた。隣の席の男はよほどの芝居好きなのか、鸚鵡石を片手に役者の声音を真似ていた。それが耳障りで、気を紛らわせようと、兵次郎は土間から向かいの西桟敷へと、視線を移ろわせ、女を物色していた。芝居は盛況なようで、羅漢台の上に「大入」と大書されていた。
二幕目に入ったときである。静御前が紅葉の木に縛り付けられ、義経一行が立ち去って、ちょうど早見藤太と配下の軍兵六人が、花道に登場するところだった。兵次郎はなんともなしに、花道から向かいの西桟敷に眼を移した。すぐに視線を花道に戻したが、一瞬赤い奇妙なものを見た気がしたので、西桟敷をもう一度見た。するとその正体が明らかになって、兵次郎は目を見張った。鹿の子絞りの赤い振袖を着た綾衣がそこにいた。顔を忘れていたはずが、見た瞬間に思い出した。しかも彼と眼が合った。
たちまち綾衣は立ち上がり、逃げるようにその場を離れた。自然と兵次郎も後を追って、芝居小屋を出た。走っているわけではないのに、早くも綾衣は、視界から消えそうなほど遠ざかっていた。慌てて走り出した兵次郎は、蕎麦屋のかつぎにぶつかってしまった。その男が担いでいた段重ねの赤い蒸籠は崩れ、中身の蕎麦が地面に撒かれた。尻もちをついた兵次郎は、急いで起き上がり、何も言わずに走り出した。
「何しやがる。おい、待て」
背後から聞こえる怒号を一顧だにせず、遠ざかっていく綾衣を追った。この女は悠然と歩いているのに、必死に追いつこうとしても、離れていく一方だった。息を切らしながら、親父橋を渡り、堀江町の角を曲がったところで、見失ってしまった。
兵次郎は中腰で、乱れる息を整えた。顔を仰げると、周囲の人々が不思議そうに彼を見ている。何食わぬ顔を取り繕い、その場を離れた。その途中で
「あ…」
と思わず声を上げた。
ついさっき見たばかりの綾衣の顔を、すでに思い出せなくなっていたからだった。いくら記憶を蘇らせようと努めても、鹿の子絞りの赤い振袖や、島田髷に珊瑚の玉簪まで思い出せるのに、顔だけがなぜか思い出せない。気を張り詰めて、命綱を掴むように、記憶を手繰り寄せようと努めても、綾衣の面を覆う闇が払われることはなかった。
こうなると、どうしてもこの女の顔をもう一度見たくなった。二度と会いたくないと思っていたのに、会いたくて堪らなくなった。綾衣の顔さえ明らかになれば、あの夜の快楽を、頭の中で鮮明に蘇らせることができる。
翌日も芝居に出かけた兵次郎は、舞台の上の役者ではなく、桟敷席の観客に目を凝らした。一人一人をつぶさに観察し、土間や羅漢台や吉野まで、視線を移ろわせ、何度観察を繰り返しても、綾衣はどこにもいなかった。昨日と同じ早見藤太の登場場面になっても、姿を現さなかった。兵次郎は落胆し、芝居小屋を後にした。
帰宅の途中、鹿の子絞りの赤い振袖を着た若い女を見つけたが、綾衣ではなかった。一目見れば思い出せるという歯痒い思いで、辺りに注意を払った。そんなことをしているうちに、やがて佐久間町にたどり着いた。遠くに平吉の実家の下駄屋の軒先が見えた。そこに見覚えのある男がいた。神田界隈を縄張りとする伝次という目明しだった。兵次郎はほとんど話したことはないが、商家で度々脅迫を行うごろつきで、皆から大変嫌われていた。そればかりではない。手下の孝六もいた。彼らの誰かを待っている様子に、兵次郎は胸騒ぎを覚えた。果して平吉が家から出てくると、彼らに連れ去られてしまった。
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