綾衣

如月

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9.獄門の思い出

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「若旦那、どうしたんだい。顔が真っ青じゃないか」
 腰高障子を開けるなり、ただならぬ様子の兵次郎が立っていたので、花まちは目を丸くした。
「今晩おまえの家に泊めてくれ」
「それは構わないけど、いいのかい。また家が騒ぎになるよ」
 兵次郎はそれに答えず、花まちに倒れかかるようにして抱きついた。彼女はその震える体を支え、家の中へ入れた。
 帰宅することを勧める花まちに、兵次郎は接吻し、強引に黙らせた。それから押し倒してしまった。すると翌日彼女は「わたしにできることがあれば、なんでも言っておくれ。若旦那はもうすぐ江戸を発っちまうんだろ。今から寂しいよ」と、甘ったるいことを言うようになった。兵次郎はそれを上の空で聞いていた。気がかりなのは、助八のことだった。あの男が奉行所で洗いざらい話してしまい、平吉が番所に呼び出されたのかもしれない。
「ちょっと、若旦那、さっきからぼんやりして、どうしたっていうのさ。昨日何かあったんだろう。わたしに話してくれないのかい」
 すでに死罪に決まった気持ちでいた兵次郎は、弱音を吐くことが虚しくなった。隣にいる女との隔たりを感じ、孤独になった。けれどもそれを苦にしなかった。綾衣のことしか頭になかったからである。
 死が身近に迫る今となっては、綾衣とまぐわる最中であれば、たとえ刀で腹を刺されようが、首を切られようが、兵次郎は自分が幸福であると考えた。あの夜の快楽の記憶があまりにも素晴らしかったので、それに比べれば、この世のあらゆるものが下らないことにしか思えなくなっていた。こんな退廃した彼の頭の中では、綾衣に心臓を抜かれ殺されることも、綾衣とのまぐわい同様なのである。今ではあの女を求める自分に疑いを持たなくなった。
 綾衣に新たな幸福を見出すと、兵次郎は以前あった出来事を思い出した。
 ちょうど年が明けて間もないころ、白菊が去年の暮れに他界したので、兵次郎の足が廓から遠のいていた。柳橋の雁鍋屋で一杯ひっかけていた彼は、吉原がだめなら千住か深川へ行こうという、平吉と喜之助の提案を、ひたすら拒んでいた。あまりに暇を持て余した三人は、店を出ていく客の一人から、この日小塚原で獄門があったという話を聞いて、俄に顔が輝いた。すぐに生首を見に行こうという話で纏まった。
 刑場に着くと、高さ一丈二尺の大きな首切り地蔵が、遠目に見えた。両端の柱に縄を渡し、その縄に立てかけられた刺股や突棒が、獄門台の両脇にあり、手前には捨て札が立っていた。ちょうど兵次郎たちが到着した折、見物人と思われる男が二人、入れ違いで立ち去って行った。獄門台の上には、歳のころ三十台半ばほどの、眉と顎の太い、死んでもなお強い精力を思わせる男の首と、二十くらいの顎の細い優男の首が、枯れすすきの生い茂る野原に残されていた。優男の首の方は髪が長く、前髪で右目が隠れていたが、風が吹くたびに面が露になった。刑が執行されたばかりなので、烏に荒らされた跡もなく、目を瞑る二つの生首は、血の気を失い、白く奇麗だった。
「こいつら念此だったのかもな」
 平吉は笑いながらそう言った。たしかにこうして見ると、女っぽい若い方の首は若衆に見えた。
「それなら果報者だな。二人仲良く生首になって、きっと成仏するだろうよ」
 喜之助も釣られて笑っていると、早くも兵次郎が帰りたいと言い出した。
「なにをそんなに慌てやがる。まだ来たばかりじゃねえか」
 ここまで来るのに費やした労を思うと、平吉は兵次郎の我儘を許せなかった。
「こんなもの、つくづく見るもんじゃねえよ。馬鹿らしい」
 なぜか兵次郎が怒っているので、二人とも面食らってしまった。仕方なく、一人でさっさと立ち去ろうとする兵次郎に従った。
 兵次郎は獄門台の首を見ているうちに、奇妙な親近感と安らぎを覚えたのである。やがて材木屋を継いで、江戸の商人として生きる一生よりも、目の前の生首同様に凄惨な末路を辿る方が、自分には相応しいと感じたのである。これだけでも不快であるが、平吉が二つの首を茶化したせいで、ますます彼は不機嫌になった。
 兵次郎は獄門台の生首を思い出すと、綾衣を求める自分は、阿弥陀如来を求める坊主のようだと思った。
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