綾衣

如月

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10.文政の大火(最終話)

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 花まちが仕事へ出るのを待たないで、厠へ行くのを見計らい、兵次郎は家を出てしまった。
 綾衣の顔を思い出せないし、何の印象も残っていないが、この女を抱いたときの感触を思い出すと、その肉感は恐怖と溶け合って、新鮮な官能を生み出した。もはや綾衣の残酷な殺人さえも、新たな官能を生み出すことにしかならなかった。今では忌避する感情はすっかり消え、もう一度あの女の顔を見るまでは死ねないと思った。
 そうはいっても、どこにいるのか分からない。兵次郎は再び芝居町へ足を向けていた。しかしそこへ行くまでもなかった。今戸橋へ来たところで、山谷堀の向こう岸に、綾衣が立っていたのである。
 緋縮緬の鹿の子絞りの振袖が、やけに鮮やかに見えた。この女の背後を棒手振りが通り過ぎていった。あまりにも唐突で、錯覚に思えて、一旦彼女から眼を反らし、その周囲に視線を移した。左手の船着き場に幾艘かの屋形船が停泊し、隅田川の下流から猪牙舟が流れてくる。正面に建ち並ぶ家屋の右奥には待乳山が控え、その頂に、聖天宮の朱色の建物が見えた。そんな見慣れた光景の中で、綾衣はこちらを見て笑っていた。
 自らの劣情を見抜かれたように感じ、兵次郎はとても恥ずかしくなった。
 綾衣は兵次郎に背を向け、歩き出した。彼も歩いてその後を追った。この前と同じように、走ると見失いそうだから、女の歩調に合わせて歩いた。途中道を曲がるたび、兵次郎は慌てて走ったが、見失うことはなかった。けれども声をかけるのは憚られた。次第に彼の家に近づいていることが分かると、捕り手が家の周りを見張っていることを危惧した。すでに命運が尽きたように思えて、兵次郎は観念し、女の後を追った。やがて神田川沿いにある柏屋の店舗が見えた。板壁の陰に隠れた綾衣を追って、彼は店の前に出た。
 兵次郎は呆然と佇んでいた。そこは柏屋の材木置き場で、舟から河岸に揚げられた大量の材木が、見上げるばかりの高さに積まれていた。檜の香りの立ち籠める、材木の陰に綾衣が隠れていないか、探してみたけれど、見つからなかった。その代わり材木の間に、職人が落としたと思われる鳶口が見つかった。そればかりでなく、置き忘れたのだろうか、地面に手拭いと、その上に煙管が置かれていた。もし喜兵衛がこれを見たら激怒するに違いない。
 風の強い日だった。浅草寺の方角から吹くその風は、対岸の土手に並んだ柳を揺らし、枝葉の擦れるざわめきを広げると、神田川の川面にさざ波を立てた。兵次郎の足元には大鋸屑が吹き流され、彼は煙管筒を手に取って、煙管に火をつけたが、その煙も吹き流されていった。
 煙草の煙を吐きながら、地面の一点を凝視する兵次郎は、綾衣の顔を思い出そうと努めていた。いつ果てるとも知れない甲斐のない努力による、このもどかしさは、彼に非常な苦しみをもたらした。やがて力が抜け、綾衣の顔を覆う闇に囚われていくように、行灯の薄闇に浮かぶ柔らかな白い肌の感触が、纏わり付いて、湿り気を帯びた息が首筋に触れると、まるで外から遮断された官能の牢獄にいるような、夢見心地に浸されていた。わけても綾衣の汗の臭いは彼の想像力を刺激し、女がすぐ側にいるような錯覚を抱かせた。こんな淫らな夢にうっとりしている最中に、彼の脳裏には、胸を抉られたあの侍の死体が浮かんでいた。すると彼は笑った。死体と淫らな夢想が溶け合って、強烈な痙攣が胸のうちから込み上げたのである。しかし高揚は兵次郎の肉体を超え、彼は口を噤んだ。天にも昇るような心地で、高揚に身を任せ、あまりにも高みへ押し上げられたから、眩暈に襲われた。そしてその高みから、まるで鳥が俯瞰するように、彼は人々の営みを見下ろした。この視点はあらゆるものを矮小にしてしまった。人を蠢く虫けらのごとく、ひどく醜いものに見せたのである。江戸城よりも高く翔んだから、公方様でさえ虫けら同然であった。この有り様はどこか滑稽で、同時に嫌悪を覚えさせ、なによりも、彼を怒らせた。なぜならその虫けらの群れの中に、自分の姿を見出したからである。
 兵次郎は地面に落ちている大鋸屑を拾い集め、積まれた材木の隙間に、それを詰めた。そして大鋸屑に煙管の火を移してしまった。
「人間というやつは、死ぬってことが分かると、何をするか分からねえからな」
 ふと平吉の言葉を思い出し、兵次郎は笑った。
 湿気を含んだ材木が燃えるとは思えないが、そんなことを考えずに火をつけた兵次郎は、材木の焦げた臭いを嗅いだ途端に、我に返った。するとこの愚かしい行いに驚いていた。慌てて火を消して、早く花まちの家に戻ろうと思った。ところが材木置き場を離れ、来た道を引き返し、浅草寺の辺りへ来たところで、今度は万一材木が燃えていたらどうしようと、不安が募って、居ても立ってもいられなくなった。鎮火が不十分かもしれないからである。結局兵次郎は再び材木置き場へ戻ることにした。
 遠目から早くも異変に気がついた。材木置き場の辺りから、煙が昇っていたのである。急いで駆け寄ってみると、燃えているのは材木ではなかった。近くにある物置小屋が燃えていた。強風に飛ばされた大鋸屑によって、燃え移ったようだ。不思議なことに、まだ誰もこの火災に気づいていないようだった。
 火は早くも小屋全体に燃え広がっていた。パチパチと弾ける音が鳴って、開け放たれた戸口から煙を吐いていた。施錠された小屋の戸口は、先ほどは閉められていたはずが、なぜか今は開放されていた。彼は呆然と立ち尽くしていた。途方に暮れ空を仰ぎ見ると、風が唸るように燃え立つ炎の奥から
「兵さん」
 と呼ぶ声が聞こえた。
「兵さん」
 綾衣の声のように聞こえたが、白菊かもしれなかった。
 兵次郎は羽織の袖を口に押し当て、小屋の中に目を凝らした。すると濛々と立ち籠める煙の奥に、炎に巻かれながら女が立っているように見えた。炎と煙で、誰であるか分からない。
「兵さん」
 呼び声に誘われ、小屋の中へ吸い込まれるようにして、兵次郎は足を踏み出した。そして小屋へ入ると、木の折れる音が鳴って、天井が落ちてきた。家屋の崩壊が彼を吞み込んでしまった。

 崩壊した小屋はなお燃え続けた。強風に乗った炎は神田川を越え、対岸の須田町や岩本町に燃え移ると、さらに勢いを増してゆき、両国橋から永代橋、京橋にまで達した。武家屋敷や町屋、武士や町人問わず、あらゆるものを焼き尽くしてしまった。火災は多数の死者を出し、一帯を灰に変えた挙句、翌朝鎮火されたものの、小屋の焼き跡から兵次郎が見つかることはなかった。
 この火事に因るものだろうか。翌年の師走に元号が改められ、天保となった。
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