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第二章 戦友の絆~繋ぎ合う手
2-3 掴めないが憎めない
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練習終了後。
音楽室の片隅に寄せた机の上で楽器ケースを開けて、トランペットを拭くための布を取り出しながら
「ハル」
有智は、隣で楽器の手入れをしている春久に話しかけた。
「さっき先輩がドラメやってたって言ってたけど」
「あ?うん」
頷いた春久に
「ラッパやっててドラメもやるって、ありなのか?」
練習中ずっと気になっていた疑問を、投げかける。
と。
「ドラメやってた奴が夏休み前に急に転校しちまって。誰か代わりにやれないかって言われてさ」
何でもないことのようにさらりと、春久が言った。
「サブドラメとかいなかったんだ?」
あれだけ大規模な鼓笛部なら、当然次年度のドラムメジャー候補として下の学年のサブを育てているのではと思いながらなおも問うと
「いたけどそいつ四年生で。一学期の最初に入ったばかりで次の運動会やれって言われてビビッてまだ無理だって泣き出しちまって。どうしてもだったら鼓笛辞めるって」
「……ああ、まあ、ビビるよなそりゃ」
「流石に可哀想だろ。でまあ、小学校最後の記念になるしいっかな、と思ってやらせてもらったんだ」
やらせてもらった、って。
有智は、唖然とした。
ドラムメジャーはマーチングバンドの指揮者で、ドリルの花形であり要でもある。
マーチングにはあまり詳しくない有智だが、昨年観たそれがピンチヒッターの付け焼刃でやれるようなものじゃない事くらいは、判る。
あんな大掛かりなドリルを指揮しろと言われたら、いくらサブドラメとは言え始めて半年も経たない四年生が及び腰になるのも無理はない。
それを、他の楽器をやりながら『記念になるしいっかな』なんて理由で気軽に立候補して、やり遂げてしまうとは。
有智は幼い頃から、クラシック音楽が好きだった。
亡き父が大のクラシックファンで、若い頃から買い集めたという沢山のレコードを時々かける横で一緒に聴きながら、色々な事を教えてもらった。
それもあって、鼓笛部にいながらマーチングにはあまり興味を持てずコンサート等のステージ演奏に憧れていたが、それでも昨年の笹並東小学校のドリルには素直に感動した。
全員が揃いの華やかな制服に身を包んだバンドのセンターで、ひときわ目立つ衣装とひとりだけ羽根がついた帽子を身に着けたドラムメジャーが、鮮やかなバトン捌きと軽快なホイッスルの号令で皆を先導し次々とフォーメーションを変化させていく。
演奏のレベルの高さや全員の整然とした動きの美しさもさることながら、ドラメって凄くカッコいいんだな、と。
最初から最後まで、ひたすら見惚れていた。
まさか、あれが、こいつだったとは。
「でもドラメって、そんな簡単に出来るもんじゃないだろ?」
あのレベルならば尚更、と思いながら。
観ていたとは何となく言い出せなくて、素朴な疑問を装って問うと。
「夏休み中先生に特訓してもらって、家でも毎日練習してた」
「……だろうな」
「やっぱやるんだったら最高を目指したいもんな」
きっぱりと。
そう言った春久の視線は、どこか遠く、高い所に向けられているように、見えた。
が。
次の瞬間、へらりと表情を緩めて。
「いや、あれやってから何か女子に手紙とかプレゼントとかやたらもらうようになっちまって」
「……」
「嬉しいけど面倒ってか、もて過ぎるのも考えもんだよな」
何とも鼻持ちならない科白をしれっと吐くのに
「よく言うよ」
ふん、と鼻で笑ってあしらいながら。
――あれを観て凄くカッコいいと思った、なんて。
言ってやるもんか、絶対――。
有智は、心に固く誓った。
いい事を言った、と思ったら、途端に態度をがらっと崩して。
ったく何なんだよこいつは、と呆れながら、綺麗に拭き上げた楽器をケースに収める。
と。
「まあでも俺、どっちかって言うとドリルとかよりステージでラッパ吹きたかったんだよな」
横から不意に聴こえて来た言葉に
「あ、俺も!」
今の今まで忌々しく思っていた事を忘れて、反射的に同意してしまった。
――こいつも俺と同じ事を考えていた、なんて。
ドラムメジャーに立候補して猛練習して最高を目指した、と。
つい今しがた言ったばかりの春久の意外な言葉に、有智は思わず春久の顔をまじまじと見た。
春久は口許に緩く笑みを浮かべていた。
「ユーチって音感すげぇいいよな」
「え」
たった三日前に知り合ったばかりの相手に、唐突にそう言われて戸惑う、と。
「昨日の聴音のテスト、全問正解してただろ?」
「ああ、うん」
「ってかユーチの番だけ難しい和音いくつも追加してたよな先生。俺途中まで何とか追ってたけど黒鍵ふたつ位混じったら流石に音取れなくなったし」
眩しげに細めた視線を向けて来て。
「あれ全部聴き取れちまうなんて、マジすげぇなって」
昨日の練習の合間に、顧問の先生が一年生全員を集めてピアノを使った聴音テストをした。
ひとつの音から二音、三和音と順に増やしていき、口頭で応えるテストをひとりずつやった後、先生が弾く簡単なフレーズを全員が五線紙に書き取り、その場で先生が全員分の正誤をチェックしていた。
そう言えば自分の時は後半、妙に複雑なコードが入っていたかも、と。
春久に言われてみて、初めて有智は気がついた。
だが。
音が取れなかったとは言うものの
『黒鍵ふたつ位混じったら』
それが聴き取れる春久も、かなり音感が良い方なのだろう。
そんな事を考えていたら
「昨日、梓川先輩とクラシックの話してただろ?」
またしてもの唐突な話題転換に、有智は面食らった。
話していたと言われる程の話をした覚えはない。何がきっかけだったかクラシック音楽の話題になって、先輩もクラシックが好きだと言うので話が弾んだ事は弾んだが。
「あれ聞いてて、ユーチ結構詳しいんだな、って」
「え、うん、クラシック好きだし」
「CDとか色々持ってる?」
「CDはあんまり。レコードなら沢山あるけど」
矢継ぎ早に話を振って来るのについつられて応えていると
「へぇ今時レコード!」
春久が目を丸くした。
時代遅れとだと笑われるかと思ったら
「クラシックはデジタルよりアナログがいいって聞いた事があるけど。そっか、こだわってるんだな」
感心したように言われて。
「俺じゃなくて、死んだ父さんが趣味で集めてたやつだから」
突然、春久があ、という顔をして、口を噤んだ。
そして。
「俺もクラシック色々聴いてみたいから、今度ダビング頼んでもいいか?」
今までの早口から一転して。
妙に穏やかな口調で、そう言うのに
――もしかして、俺に気を遣ってる?
またしても意外な一面を見たような気がして。
「うん、いいよ」
口許を綻ばせながら、有智は頷いた。
かなりの自信家っぽくて積極的に前に出ていく目立ちたがり、かと思えばひとの長所をよく見ていて謙虚に褒めたり、相手の気持ちを気遣ったりする。
もしかしたらドラムメジャーを引き受けたのも、自分が小学校最後の記念にやりたかったと言うよりは、退部を考える程思い詰めていた四年生のサブドラメを助けてやるつもりで、だったんだろうか。
いややっぱり、単純に目立つチャンスだと意気込んで手を上げただけ、かもしれないが。
どこからどう突っ込んでいいのか。
何とも掴みどころのない奴、だけど。
――こいつとなら三年間、一緒にやっていける。
何となく、そう思いながら。
ほぼ同時に楽器をしまい終えた春久とふたりで、楽器ケースや譜面台袋を持って楽器庫に入ると
「お、青山と赤池ちょうどいい、話がある」
中にいた顧問の先生に手招きされた。
「村崎は?あ、おーい村崎、ちょっとこっち来てくれ!」
「あ、はぁい!」
後方で、いつもよりトーンが高めのソプラノが響いた。
「いよいよ本決まり、なんだねぇ」
「良かったよな、ラッパ続けられることになって」
その日の帰り道。
ついさっき顧問の先生と話した事について、有智と菜々美はあれこれと語り合った。
「流石に高校まで続ける気あるのかって訊かれた時はビビったけど」
「私も!そんな先の事まで全然考えてなかったし」
楽器庫に呼び込まれた有智と春久と菜々美は、このまま吹奏楽部に正式入部してトランペットを続ける意思があるかどうかを顧問の先生に問われた。
異口同音に『はい!』と応えた三人に、先生は
『じゃあ少し早いけれどここからは正式な部員として扱わせてもらうぞ?パートも確定って事で』
そして言われたのが、楽器をどうするか、という事だった。
有智や菜々美はもとより春久も、この機会に楽器を購入したい、親にも了解を得ていると話すと。
『高校までラッパ続ける気、あるか?』
突然の先生の問いに、有智は返す言葉に詰まった。
まだ中学校に入ったばかりで三年後の高校の事など、随分先の話で考えようもない。そもそも高校に入学するためには受験という関門があるがそれも今の時点では遠い話だった。
春久も菜々美も、同様に黙ったままだ。
と、先生が
『もし続ける気があるんだったら、の話だが、出来ればいい楽器を買う事を勧めたいと思ってな』
思いがけない事を言い出した。
三人とも今の段階で基礎がしっかり出来ていてこれからまだまだ伸びると思うし聴音テストの結果も良かった、だから音が出やすいスタンダードなものよりも使いこむ事で音が鳴るようになるタイプの楽器を勧めたい、と。
だが『いい楽器』となると価格もそれなりに高い。
最終的な結論は先生がそれぞれの親と話し合った上で出す事になるが、当の本人達が高校まで続ける気がないなら勿体ないので、今の段階でどう考えているのかを訊きたいと先生が言うのに
『俺は高校に入っても続けたいと思っています』
春久がきっぱりと、応えた。
「赤池は真っ先に言ってたよね、続けたいって」
有智が思い出していたことを、菜々美が口にした。
真っ直ぐに先生の顔を見てそう言った彼は、三年後の高校、いやそれよりも更に先に目を向けているように、有智には思えた。
あんな風に顔を上げて、未来を見ていた頃が、自分にもあった。
けれど、今は。
足許のほんの僅か先を見るだけで精一杯で。
それが、即答をためらわせた。
『青山と村崎は?』
先生が問うのに
『私も、出来れば続けたいです。でも高校の事までまだピンとこなくて』
菜々美が僅かに首を傾げながら、そう言った。
残るは有智ひとり。
先生の視線が自分に向けられるのを、僅かに目を伏せて躱しながら、有智は考えた。
ずっとトランペットを続けたいかと訊かれたら、イエス、だ。
だが、先生の言う『いい楽器』が一体どの位の金額なのかが、気になる。
母は、正式に入部とパートが決まったら楽器を買ってくれると言っていたけれど。
『もしもの時はお母さんを護ってくれよな』
病と闘いながら、先がもう長くない、と覚悟した父が、そう言い遺した。
『ユーチは、男だから』
同じ男としてお父さんの頼みを聞いて欲しい、と。
父が亡くなってから三年半。
ひとりで一所懸命働いている母に、あまり無理な事は言いたくない。
今の自分には『お母さんを護る』と言っても、それくらいしか出来る事がない。だから。
でも――。
『まだ先の事だし、ブラバンがある高校に行くかどうかも判らないから、何とも言えないんですが……』
迷いから返した、歯切れの悪い応えに
『まあ確かにそうだろうな。でも、青山自身は続けたいって気持ち、ないのか?』
先生が容赦なく追及をかけてきた。
『青山、絶対音感あるだろ?折角だからやれる所までやるつもりで頑張ってみたらどうかな?』
「ユーチが迷ってたの、やっぱあれ?楽器高かったらどうしようって」
菜々美がずばり核心を突いて来るのに、まあな、と軽く返すと。
「それなんだよねぇ。私もお父さんにあんまり贅沢なおねだりしたくないなって考えちゃったんだけど。でもラッパは出来ればずっと続けたいって思ってるからね」
物心がつかないうちに母親を亡くして父ひとり子ひとりで育てられた菜々美も、同じ事を気にしているようだった。
「でも凄いねユーチ!絶対音感って先生が言ってたの!」
「え、ああ」
そう言われても実はピンと来ない。
音感がいいとはちいさい頃から言われていた事だが、『絶対音感』という言葉で指摘されたのは今日が初めてだったから。
結局、先生にそんな風に言われたおかげで
『はい、出来れば……』
煮え切らない言い方ではあったが、自分の本心を口にすることが出来た。
早速今晩それぞれの家に電話を掛けて詳しい事を話したいので、帰ったら家の人に予め伝えておいて欲しいと先生に言われて、三人でその場を辞した。
楽器庫を出た所で、春久が
『これから頑張ろうな!』
と言い、有智と菜々美も
『ああ』
『うん!』
と返した。
「赤池も音感いいみたいだしラッパ上手いし。私ももっともっと頑張らなくちゃな」
隣を歩きながら、菜々美が勇ましい事を言った。
「ななだって先生に音感いいって言われただろ?聴音テスト三人とも良かったって」
「うんでも今の所赤池にもユーチにもまだまだ敵わないからね。ラッパ始めたの私がいちばん遅いし」
負けてられないな、と、最後はひとりごちるように落とした呟きに、有智は思わずくっと笑った。
「何よ?何か可笑しい?」
むっとした顔で問い返されて。
「いや去年の事色々思い出すとさ。音出ないとか指回らないとか毎日愚痴ってたななが凄い事言うようになったもんだって」
「もう!そんな過去の事さっさと忘れて!」
三人とも『これからまだまだ伸びる』と、先生に言われた。
多分、菜々美はこれから頑張って追い上げて来る。
春久は……まだよく判らない所もあるが、少なくとも二ヶ月そこそこの練習で未経験のドラムメジャーをやり遂げた程の根性の持ち主だ。うかうかしていたらどんどん先に行かれてしまいそうな気がする。
菜々美の家の門前で
「じゃあまた明日ね!」
「じゃあな」
手を振り合って、門の中に入る菜々美に背を向けて歩き出しながら。
「俺も頑張らなくちゃな」
気負いが、言葉になってこぼれ出た。
と。
「頑張ろうねユーチ!」
振り返ると、家に入ったと思っていた菜々美が、親指を立てた右手の拳をぐっとこちらに向けて突き出していた。
「うん、頑張ろうな!」
こいつが一緒なら。
あいつも、一緒なら。
きっと頑張れる。明日から。
思いを新たにして、有智は数メートル先の自宅へと足を向けた。
音楽室の片隅に寄せた机の上で楽器ケースを開けて、トランペットを拭くための布を取り出しながら
「ハル」
有智は、隣で楽器の手入れをしている春久に話しかけた。
「さっき先輩がドラメやってたって言ってたけど」
「あ?うん」
頷いた春久に
「ラッパやっててドラメもやるって、ありなのか?」
練習中ずっと気になっていた疑問を、投げかける。
と。
「ドラメやってた奴が夏休み前に急に転校しちまって。誰か代わりにやれないかって言われてさ」
何でもないことのようにさらりと、春久が言った。
「サブドラメとかいなかったんだ?」
あれだけ大規模な鼓笛部なら、当然次年度のドラムメジャー候補として下の学年のサブを育てているのではと思いながらなおも問うと
「いたけどそいつ四年生で。一学期の最初に入ったばかりで次の運動会やれって言われてビビッてまだ無理だって泣き出しちまって。どうしてもだったら鼓笛辞めるって」
「……ああ、まあ、ビビるよなそりゃ」
「流石に可哀想だろ。でまあ、小学校最後の記念になるしいっかな、と思ってやらせてもらったんだ」
やらせてもらった、って。
有智は、唖然とした。
ドラムメジャーはマーチングバンドの指揮者で、ドリルの花形であり要でもある。
マーチングにはあまり詳しくない有智だが、昨年観たそれがピンチヒッターの付け焼刃でやれるようなものじゃない事くらいは、判る。
あんな大掛かりなドリルを指揮しろと言われたら、いくらサブドラメとは言え始めて半年も経たない四年生が及び腰になるのも無理はない。
それを、他の楽器をやりながら『記念になるしいっかな』なんて理由で気軽に立候補して、やり遂げてしまうとは。
有智は幼い頃から、クラシック音楽が好きだった。
亡き父が大のクラシックファンで、若い頃から買い集めたという沢山のレコードを時々かける横で一緒に聴きながら、色々な事を教えてもらった。
それもあって、鼓笛部にいながらマーチングにはあまり興味を持てずコンサート等のステージ演奏に憧れていたが、それでも昨年の笹並東小学校のドリルには素直に感動した。
全員が揃いの華やかな制服に身を包んだバンドのセンターで、ひときわ目立つ衣装とひとりだけ羽根がついた帽子を身に着けたドラムメジャーが、鮮やかなバトン捌きと軽快なホイッスルの号令で皆を先導し次々とフォーメーションを変化させていく。
演奏のレベルの高さや全員の整然とした動きの美しさもさることながら、ドラメって凄くカッコいいんだな、と。
最初から最後まで、ひたすら見惚れていた。
まさか、あれが、こいつだったとは。
「でもドラメって、そんな簡単に出来るもんじゃないだろ?」
あのレベルならば尚更、と思いながら。
観ていたとは何となく言い出せなくて、素朴な疑問を装って問うと。
「夏休み中先生に特訓してもらって、家でも毎日練習してた」
「……だろうな」
「やっぱやるんだったら最高を目指したいもんな」
きっぱりと。
そう言った春久の視線は、どこか遠く、高い所に向けられているように、見えた。
が。
次の瞬間、へらりと表情を緩めて。
「いや、あれやってから何か女子に手紙とかプレゼントとかやたらもらうようになっちまって」
「……」
「嬉しいけど面倒ってか、もて過ぎるのも考えもんだよな」
何とも鼻持ちならない科白をしれっと吐くのに
「よく言うよ」
ふん、と鼻で笑ってあしらいながら。
――あれを観て凄くカッコいいと思った、なんて。
言ってやるもんか、絶対――。
有智は、心に固く誓った。
いい事を言った、と思ったら、途端に態度をがらっと崩して。
ったく何なんだよこいつは、と呆れながら、綺麗に拭き上げた楽器をケースに収める。
と。
「まあでも俺、どっちかって言うとドリルとかよりステージでラッパ吹きたかったんだよな」
横から不意に聴こえて来た言葉に
「あ、俺も!」
今の今まで忌々しく思っていた事を忘れて、反射的に同意してしまった。
――こいつも俺と同じ事を考えていた、なんて。
ドラムメジャーに立候補して猛練習して最高を目指した、と。
つい今しがた言ったばかりの春久の意外な言葉に、有智は思わず春久の顔をまじまじと見た。
春久は口許に緩く笑みを浮かべていた。
「ユーチって音感すげぇいいよな」
「え」
たった三日前に知り合ったばかりの相手に、唐突にそう言われて戸惑う、と。
「昨日の聴音のテスト、全問正解してただろ?」
「ああ、うん」
「ってかユーチの番だけ難しい和音いくつも追加してたよな先生。俺途中まで何とか追ってたけど黒鍵ふたつ位混じったら流石に音取れなくなったし」
眩しげに細めた視線を向けて来て。
「あれ全部聴き取れちまうなんて、マジすげぇなって」
昨日の練習の合間に、顧問の先生が一年生全員を集めてピアノを使った聴音テストをした。
ひとつの音から二音、三和音と順に増やしていき、口頭で応えるテストをひとりずつやった後、先生が弾く簡単なフレーズを全員が五線紙に書き取り、その場で先生が全員分の正誤をチェックしていた。
そう言えば自分の時は後半、妙に複雑なコードが入っていたかも、と。
春久に言われてみて、初めて有智は気がついた。
だが。
音が取れなかったとは言うものの
『黒鍵ふたつ位混じったら』
それが聴き取れる春久も、かなり音感が良い方なのだろう。
そんな事を考えていたら
「昨日、梓川先輩とクラシックの話してただろ?」
またしてもの唐突な話題転換に、有智は面食らった。
話していたと言われる程の話をした覚えはない。何がきっかけだったかクラシック音楽の話題になって、先輩もクラシックが好きだと言うので話が弾んだ事は弾んだが。
「あれ聞いてて、ユーチ結構詳しいんだな、って」
「え、うん、クラシック好きだし」
「CDとか色々持ってる?」
「CDはあんまり。レコードなら沢山あるけど」
矢継ぎ早に話を振って来るのについつられて応えていると
「へぇ今時レコード!」
春久が目を丸くした。
時代遅れとだと笑われるかと思ったら
「クラシックはデジタルよりアナログがいいって聞いた事があるけど。そっか、こだわってるんだな」
感心したように言われて。
「俺じゃなくて、死んだ父さんが趣味で集めてたやつだから」
突然、春久があ、という顔をして、口を噤んだ。
そして。
「俺もクラシック色々聴いてみたいから、今度ダビング頼んでもいいか?」
今までの早口から一転して。
妙に穏やかな口調で、そう言うのに
――もしかして、俺に気を遣ってる?
またしても意外な一面を見たような気がして。
「うん、いいよ」
口許を綻ばせながら、有智は頷いた。
かなりの自信家っぽくて積極的に前に出ていく目立ちたがり、かと思えばひとの長所をよく見ていて謙虚に褒めたり、相手の気持ちを気遣ったりする。
もしかしたらドラムメジャーを引き受けたのも、自分が小学校最後の記念にやりたかったと言うよりは、退部を考える程思い詰めていた四年生のサブドラメを助けてやるつもりで、だったんだろうか。
いややっぱり、単純に目立つチャンスだと意気込んで手を上げただけ、かもしれないが。
どこからどう突っ込んでいいのか。
何とも掴みどころのない奴、だけど。
――こいつとなら三年間、一緒にやっていける。
何となく、そう思いながら。
ほぼ同時に楽器をしまい終えた春久とふたりで、楽器ケースや譜面台袋を持って楽器庫に入ると
「お、青山と赤池ちょうどいい、話がある」
中にいた顧問の先生に手招きされた。
「村崎は?あ、おーい村崎、ちょっとこっち来てくれ!」
「あ、はぁい!」
後方で、いつもよりトーンが高めのソプラノが響いた。
「いよいよ本決まり、なんだねぇ」
「良かったよな、ラッパ続けられることになって」
その日の帰り道。
ついさっき顧問の先生と話した事について、有智と菜々美はあれこれと語り合った。
「流石に高校まで続ける気あるのかって訊かれた時はビビったけど」
「私も!そんな先の事まで全然考えてなかったし」
楽器庫に呼び込まれた有智と春久と菜々美は、このまま吹奏楽部に正式入部してトランペットを続ける意思があるかどうかを顧問の先生に問われた。
異口同音に『はい!』と応えた三人に、先生は
『じゃあ少し早いけれどここからは正式な部員として扱わせてもらうぞ?パートも確定って事で』
そして言われたのが、楽器をどうするか、という事だった。
有智や菜々美はもとより春久も、この機会に楽器を購入したい、親にも了解を得ていると話すと。
『高校までラッパ続ける気、あるか?』
突然の先生の問いに、有智は返す言葉に詰まった。
まだ中学校に入ったばかりで三年後の高校の事など、随分先の話で考えようもない。そもそも高校に入学するためには受験という関門があるがそれも今の時点では遠い話だった。
春久も菜々美も、同様に黙ったままだ。
と、先生が
『もし続ける気があるんだったら、の話だが、出来ればいい楽器を買う事を勧めたいと思ってな』
思いがけない事を言い出した。
三人とも今の段階で基礎がしっかり出来ていてこれからまだまだ伸びると思うし聴音テストの結果も良かった、だから音が出やすいスタンダードなものよりも使いこむ事で音が鳴るようになるタイプの楽器を勧めたい、と。
だが『いい楽器』となると価格もそれなりに高い。
最終的な結論は先生がそれぞれの親と話し合った上で出す事になるが、当の本人達が高校まで続ける気がないなら勿体ないので、今の段階でどう考えているのかを訊きたいと先生が言うのに
『俺は高校に入っても続けたいと思っています』
春久がきっぱりと、応えた。
「赤池は真っ先に言ってたよね、続けたいって」
有智が思い出していたことを、菜々美が口にした。
真っ直ぐに先生の顔を見てそう言った彼は、三年後の高校、いやそれよりも更に先に目を向けているように、有智には思えた。
あんな風に顔を上げて、未来を見ていた頃が、自分にもあった。
けれど、今は。
足許のほんの僅か先を見るだけで精一杯で。
それが、即答をためらわせた。
『青山と村崎は?』
先生が問うのに
『私も、出来れば続けたいです。でも高校の事までまだピンとこなくて』
菜々美が僅かに首を傾げながら、そう言った。
残るは有智ひとり。
先生の視線が自分に向けられるのを、僅かに目を伏せて躱しながら、有智は考えた。
ずっとトランペットを続けたいかと訊かれたら、イエス、だ。
だが、先生の言う『いい楽器』が一体どの位の金額なのかが、気になる。
母は、正式に入部とパートが決まったら楽器を買ってくれると言っていたけれど。
『もしもの時はお母さんを護ってくれよな』
病と闘いながら、先がもう長くない、と覚悟した父が、そう言い遺した。
『ユーチは、男だから』
同じ男としてお父さんの頼みを聞いて欲しい、と。
父が亡くなってから三年半。
ひとりで一所懸命働いている母に、あまり無理な事は言いたくない。
今の自分には『お母さんを護る』と言っても、それくらいしか出来る事がない。だから。
でも――。
『まだ先の事だし、ブラバンがある高校に行くかどうかも判らないから、何とも言えないんですが……』
迷いから返した、歯切れの悪い応えに
『まあ確かにそうだろうな。でも、青山自身は続けたいって気持ち、ないのか?』
先生が容赦なく追及をかけてきた。
『青山、絶対音感あるだろ?折角だからやれる所までやるつもりで頑張ってみたらどうかな?』
「ユーチが迷ってたの、やっぱあれ?楽器高かったらどうしようって」
菜々美がずばり核心を突いて来るのに、まあな、と軽く返すと。
「それなんだよねぇ。私もお父さんにあんまり贅沢なおねだりしたくないなって考えちゃったんだけど。でもラッパは出来ればずっと続けたいって思ってるからね」
物心がつかないうちに母親を亡くして父ひとり子ひとりで育てられた菜々美も、同じ事を気にしているようだった。
「でも凄いねユーチ!絶対音感って先生が言ってたの!」
「え、ああ」
そう言われても実はピンと来ない。
音感がいいとはちいさい頃から言われていた事だが、『絶対音感』という言葉で指摘されたのは今日が初めてだったから。
結局、先生にそんな風に言われたおかげで
『はい、出来れば……』
煮え切らない言い方ではあったが、自分の本心を口にすることが出来た。
早速今晩それぞれの家に電話を掛けて詳しい事を話したいので、帰ったら家の人に予め伝えておいて欲しいと先生に言われて、三人でその場を辞した。
楽器庫を出た所で、春久が
『これから頑張ろうな!』
と言い、有智と菜々美も
『ああ』
『うん!』
と返した。
「赤池も音感いいみたいだしラッパ上手いし。私ももっともっと頑張らなくちゃな」
隣を歩きながら、菜々美が勇ましい事を言った。
「ななだって先生に音感いいって言われただろ?聴音テスト三人とも良かったって」
「うんでも今の所赤池にもユーチにもまだまだ敵わないからね。ラッパ始めたの私がいちばん遅いし」
負けてられないな、と、最後はひとりごちるように落とした呟きに、有智は思わずくっと笑った。
「何よ?何か可笑しい?」
むっとした顔で問い返されて。
「いや去年の事色々思い出すとさ。音出ないとか指回らないとか毎日愚痴ってたななが凄い事言うようになったもんだって」
「もう!そんな過去の事さっさと忘れて!」
三人とも『これからまだまだ伸びる』と、先生に言われた。
多分、菜々美はこれから頑張って追い上げて来る。
春久は……まだよく判らない所もあるが、少なくとも二ヶ月そこそこの練習で未経験のドラムメジャーをやり遂げた程の根性の持ち主だ。うかうかしていたらどんどん先に行かれてしまいそうな気がする。
菜々美の家の門前で
「じゃあまた明日ね!」
「じゃあな」
手を振り合って、門の中に入る菜々美に背を向けて歩き出しながら。
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気負いが、言葉になってこぼれ出た。
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「頑張ろうねユーチ!」
振り返ると、家に入ったと思っていた菜々美が、親指を立てた右手の拳をぐっとこちらに向けて突き出していた。
「うん、頑張ろうな!」
こいつが一緒なら。
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きっと頑張れる。明日から。
思いを新たにして、有智は数メートル先の自宅へと足を向けた。
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ケセラセラ
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幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
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