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第1章
その7 精霊の森に暮らす
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精霊の森。
白い木々の間に、青白い精霊火が数限りなくふわふわと漂い、やがて光の川となって森の外へ流れ出ていく。
外界の人間達は、それを目にしては畏怖する。
人の手の及ばぬ世界、精霊(セレナン)達の理(ことわり)に。
今、精霊の森には、不似合いな客人がいる。
褐色の肌、黒い目、がっしりと体格の良い壮年男性。
大森林に住むクーナ族の賢者、深緑のコマラパと呼ばれている男である。
彼はそのままであれば『聖堂教会』に捕らわれ生命の危機に陥るはずだったところを「セレナンの大いなる意思」に助け出され、そのまま精霊の森に置かれた。
まあ、助けたのだから後は好きにしろと放置されたようなものである。
それをいいことに、コマラパは精霊の森に、堂々と居座っていた。
主に、精霊達に愛される黒髪の子どもの、遊び相手として。
「チェックメイト!」
黒髪の子どもが、嬉しそうに宣言した。
「むむむむ。負けた」
コマラパは渋面を作ったが、さして悔しそうではない。
勝敗よりも、共に遊ぶことに意味があった。
「負けた負けた。坊主は強いな」
にやりと笑って子どもの頭をぐしゃぐしゃと撫でると、
子どもは、憮然として、
「坊主じゃない。おれはもう小さい子どもじゃないし名前がある」
「しかし、わたしは、坊主の名前を当てて見ろと、姉さんと賭けをしている。当てられたら人間の世界へ連れて行ってもいいというのだ」
「ラト姉さんは言い出したら意地になっていそうだし。じゃあ、おれも賭けにつきあうしかないな。ねえ、おれの名前、なんだと思う? 最初にガルデルに付けられた名前じゃないよ。おれが自分で付けなおしたんだ。きっと、わかんないと思うな」
「分が悪い賭けになったなあ」
「当てなくてもいいよ。そうしたら、コマラパはいつまでも、この精霊の森で、おれと、精霊たちと一緒に暮らせば良い。ここでは食べることも飲むこともいらない。歳もとらないよ」
「なるほど。道理で食欲も何も感じないわけだ。これでは時間もあってないようなもの。人間界に戻ったら浦島太郎になってはいないだろうな」
「うらしま? なにそれ?」
きょとんとする子どもを見やり、コマラパは、目の前の子どもは前世を完全に思い出してはいないのかもしれない、と感じた。
「うん、戻ったときには何十年も過ぎているかもしれないと言ったのさ。わたしがチェスで負け続けている間にな」
「コマラパは『碁』と『将棋』では負け知らずじゃないか。チェスくらい、おれが勝ってもいいだろ」
黒髪の子どもは、手の中で駒をもてあそぶ。
「なんで『碁』では勝てないのかなあ。それに今までの勝負全部覚えてるとか、コマラパの頭の中どうなってるのさ」
「昔、棋士になりたかったのでな」
「それって前世? いいな。おれは、前世のことはぼんやり覚えてるけど。全部は思い出せないんだ」
黒髪の子どもは、チェスボードと駒を片手で引き寄せ、
ざらりと、傍らに投げやる。
するとそれらは、森に吸い込まれるように消えていった。
「それにしても、また服を着ていないのか。姉さんに新しいのを着せてもらっていたではないか」
「また黒くなっちゃったから。知ってるだろ。姉さんはいつでも、白い布を着せてくれるけど、おれが身につけると、黒くなってしまう。なんか、いやなんだ。やっぱり、おれは精霊じゃない。人間なんだろうな……」
子どもは顔をしかめた。
「ふむ。黒い服も、なかなか格好いいのだがな」
「そういう問題じゃないよ」
コマラパは目の前の子どもを見やった。
二人は白い森の中に向かい合って座っている。
先ほどまで、様々な種類のボードゲームに興じていたのだ。子どもが頭に思い描くものは、どんなものでも、森が作り出してくれる。
碁も将棋もチェスも、すごろくのゲームまでも。
「ちょっと疲れちゃった」
クスクス笑う。
神々の造作になるような美しい顔に浮かぶ、あどけない笑み。
長い黒髪が、固い首筋や薄い肩や、細い身体を覆っている。
透き通るように白い肌に、目が引きつけられてしまう。
肌の至る所に、うっすらと、白い傷跡が浮かんでいた。
刃物で切りつけられた傷だ。
どれも深い傷ではない。弄ぶかのように浅く、数十カ所も。
「傷跡が気になるの?」
見透かすように子どもが言う。
「……いや」
コマラパは思わず自らの口を押さえた。
でなければ、よけいなことを言ってしまいそうだったからだ。
なぜなのか、と。
なぜ、誰が、その傷をつけたのか?
そんなことを聞いてしまいそうになる。
「父親だよ」
子どもは目を伏せた。
「今生の、実の父親。ガルデル。ナイフで切りつけながら、おれを弄ぶんだ。そうすると締め付けがよくなるんだってさ」
「…………」
「あいつは狂ってた。魔月(まのつき)に唆されるよりもずっと前から。物心ついたときにはもう、毎晩、慰みものにされてたし、それが当然だったから、なんとも思わなかったんだ。でもさ……」
子どもは、コマラパをまともに見つめた。
漆黒の瞳。
夜空のような、闇のような。
「魔月(まのつき)が、教えてくれたんだ。親父は普通じゃないって。あたりまえの親は、子どもに、こんなことしないんだよって。あいつ、なんで教えたんだろう? 知らなければ、おれも、自分が不幸だなんて知らなかったのに」
かすかな、ため息を吐く。
「それからは夜が来るのがイヤでイヤで逃げ回った。結局は捕まるんだけど。それで、痛めつけられるんだけどさ。わかっていても、もうなにもかもイヤになってた。親父を殺せたらって……」
「そうだな」
コマラパが同意すると、子どもは驚いたように、繭をぴくりと上げた。
「呆れないの? そんなこと考えちゃいけないって怒らないの? おれの母親に言ったら、そう諭されたよ。灰色っていう名だった。父がたくさん抱えていた妾の一人さ。世の中には食べものがなくて死ぬ人も大勢居るのに、屋根の下で暮らしていけるだけでもありがたいと思わなきゃいけないんだって」
「そんなことはない。お母さんの言うのは、また別の問題だ。親でも、おかしいものは、おかしい。狂っている親もいる。そんな親から逃げたいと思うのは当然のことだ。もしもわたしが居合わせたら、ともかく坊主を連れ出したとも。絶対にだ」
「……ふぅん」
コマラパを見つめる子どもの瞳が、闇色から、光が差し込んだように変化していく。光が溢れ、精霊と同じ、透き通った淡い青に染まった。
「コマラパって、やっぱり変人だね」
楽しげに、笑い出した。
「それは認める」
コマラパも、くっくっと笑った。
木々が揺れて、ざわめいた。
森も、笑っているようだった。
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