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ぐうたらで享楽的な恋を

大川将の複雑な兄貴分⑤

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明るくなった舞台は、施設に戻ったようで、テーブルに彼と職員が座っている。

袖から、でてきた刑事は、大きく分厚い本を抱え、テーブルの手前にくると「今日はお手数をかけて、申し訳ありません」とお辞儀をした。

儀礼上の挨拶を済ませてから、本を差しだす。
「和樹さんは、和歌がお好きだそうで。これは、お詫びの印の、百人一首を点字で記した本です」と。

「まあ」と顔をほころばせた職員は、彼に掌を通して、刑事の言葉を伝え、本を触らせた。

本を撫でて、刑事の顔があるあたりを見上げ、深々とお辞儀をする彼。

早速、表紙をめくって、ページに手を滑らせだしたのを、そのままにして「ありがとうございます」と職員は礼を述べ、「和歌は甲田さんが、彼に教えたんですよ」と涙ぐんだ。

「甲田さんの息子さんは、生まれつき、難聴だったそうで。
それでも、子育てを楽しくしてたと、笑顔で話していたんですが、中学に上がったときに、息子さんが苛められたそうです。

補聴器を壊されたのがきっかけで、もう我慢の限界だったようで『お母さんに、申し訳ない』と遺書を残して、自殺をしてしまったのだとか・・・。

和樹さんには、息子さんと同じ目に合わせたくなかったんでしょう。

いっそ施設内にいて、世の中の怖いものとか醜いものとか知らないまま、心を汚されないで生きてほしいと、望んでいたようです。
『きれいな言葉だけを吸収してほしい』と和歌をすすめて、自分でも点字を打ったりして」

「そうだったんですか・・・」と相槌を打ったところで、けたたましいベルの音が鳴った。

「警報!?」と職員が立ち上がったのに「一応、避難を。俺は警報の確認と、救助を手伝います」と勇ましく告げて、彼を立たせるのに手を貸す。

本を読みつづける彼を引っ張りながら、二人が舞台から去ると、辺りを見回し、近くにあった受付の内側に入りこむ。
ノートパソコンで、しばし作業をしたようなら、受付からでて、舞台袖に走っていった。

暗転した舞台に、警報ベルと混乱する施設内の喧騒が響き、ボリュームが抑えられたと同時に明るくなる。

前に彼が、フォークを持ちだした部屋、彼の自室だろう。

袖から走ってきた刑事は、その勢いのまま、ベッドの下や隙間を覗きこみ、机を荒らしだした。
一通り、ちらかして見たところで、「くそ!」と机に拳を叩きつける。

そのとき、こんこんと音が耳についた。

振りかえれば、袖から彼が顔を覗かせ、ステッキを振りながら、歩いてきた。

連れ添っていた職員はいなく、一人。
目も耳も不自由なはずが、迷わず、自分を追ってきたような足取りに、刑事は不審がるというより、「え、あ、一人で、大丈夫なのか?」と心配そうに声をかけ、歩み寄った。

立ち止まり、鼻を引くつかせるのを見て、「そうだ、俺が見えていないし、声も聞こえないんだった」と手を取ろうとして。
その直前、一瞬、身を固めた刑事に、フォークが振りかぶられた。

ピンポイントに首めがけて、切っ先を突かれそうになったのを、胸を反らして、寸でで避ける。

勢いあまって、倒れたところ、まず手を蹴ってフォークを跳ばしてから、のしかかって両手を一まとめにし、背中に縫いとめた。

念のため持ってきた、拘束バンドをつけたが、失神したように身動きしない。

殺されかけたはずが、取り乱したり、激高することなく、刑事も放心したように、ひたすら息を切らし、おもむろに彼の掌に指を滑らせた。
「俺は君を怒らせるようなことをしたのか?」と口頭しながら。

今度は、彼の人差し指に、自身の掌を当てれば、返答をしてくれたようで、読みとったなら「いいえ。僕は母の真似をしたつもりです」と。

読み上げてから「母の真似?」と独り言ち、「君には母親を失くすまでの記憶がないと聞いたが、もしかして思いだしたのか?」と聞けば「そうです」と返ってきた。

「この前、思いだしました。

幼かった僕と母は、家の地下に閉じ込められ、父に殴られていた。
ずっと、そんな日がつづいていたのですが、あるとき、母がフォークを隠し持ってて、俺に向けてきたのです。

よけたら、フォークが手放されて、それを取ったときに、母が倒れかかってきた。
ちょうど、フォークが首に刺さった。

母は驚いたようだったけど、少しして、微笑んでくれて『ありがとう』と」

たどたどしく、掌に書かれた文字を読んで、一呼吸置いてから「君は首にフォークで刺すことが、人に喜ばれることだと思ったのか?」と質問を重ねたところで、「『はい』か・・・」と刑事はため息を吐く。

遠い目をしたものを、気を取り直すように顔を振ってから、「じゃあ、どうして、フォークを隠した」と刑事らしい詰問をした。

「父が、首からフォークを抜いて、『なんてことを!これは隠さねば!』と叫び、お仕置きをするように僕を殴ったので、そうすべきものだと思いました」

刑事が掌に指を当てつつ、二の句が継げないうちに、彼のほうが指を滑らせる。

目を見開いたなら、彼の背につきそうに頭を垂れて、呻くように読みあげた。

「・・・・僕は間違っていたのでしょうか」

固く目を瞑って、歯を食いしばってだろう。
頬を強張らせる刑事。

やるせない思いが、胸に痛いほど伝わってくる。
刑事が贈った本を、大事そうに抱えてきた彼を、つい先に見たからに尚のこと。

「君は、ほぼ生まれたときから、監禁生活を強いられ、社会の常識やルールを学ばず育ったのだろう。

だから、道義的、法的な善悪を知らず、その上で『ありがとう』と母親が礼を述べたから、人の首にフォークを刺す、イコール、『道に外れた行為、犯罪』ではなく『正しい道、厚意』と認識をしてしまった。

直後に、目と耳がいかれるほど、父親に殴られたとなれば『この地獄から、母を救えた』とも思えて、行為と意味合いの結びつきが、より強固になった。
ただ、記憶を失ったから、捻じ曲げられた認識も、一旦リセットされ、これまでは、問題を起こさなかったわけか。

施設にきてからは甲田さんが和歌だけ教えて、あえて社会通念を、とくに犯罪などについては知識を与えなかったから、過去の認識は、改められないままでいた。

そして、記憶を取り戻したとき、真っ先に、お世話になっている甲田さんに報いようと・・・」

ぶつぶつと独白し終えたなら、彼の掌に何か書きつけたものを、それは読み上げなかった。

うな垂れつつ、腕を伸ばしてフォークを取り、にわかに上体を起こし、振りかぶった。

首に一刺し。
彼が、母や甲田さんに刺したように。

体を痙攣させた彼は、そのまま一声も上げず、微動だにしなくなる。
「ありがとう」と発声はしなかったが、僅かに口角が上がっているような。

舞台の照明が徐々に暗くなって、スポットライトが、彼と、その体に跨る刑事に絞られていく。

やおら天を仰いだ刑事は、朗々と口上した。

倒れた彼の傍らにある、点字の百人一首の本。
それに載っている和歌の一つだろう。

「君がため 惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな」

読みあげると、さらにスポットライトの輪が小さくなっていき、二人が闇に飲みこまれていった。

それから長く、舞台は暗いまま、すこしも物音が立たず、いつまでも動向がなかった。

どうやら、舞台終了らしいと、息を詰めていた観客は、ほっとしたように、まばらに拍手をしだす。

まだ、現実感を取り戻してないらしく、拍手で立つ音はさざ波のようで、俺にしろ長風呂したように、頬を上気させ夢心地でいた。

観客が余韻に浸り、頭と心の整理をつける間もなく、出囃子もなく、そそくさと演者や監督、演出家が舞台にでてくる。

わざと明かりを抑えているのか、スポットライトも当たらない薄暗い舞台上で、にこりともせず、万歳したり手を振ることもなく、彼らは一斉にお辞儀をした。

主役のはずの、目と耳が不自由な彼が、気になったのだが、相変わらず、前髪がかかって目元が見にくく、うつむいてもいたから、まともに顔を拝めなかった。

「まさか、吉谷が演じていた!なんてな」と虚しい想像をしているうちに、ぼうっとする観客を置いてけぼりに、不愛想に劇団員たちが裾に引っ込んでいく。

盛りあがりに欠ける退場ぶりに、舞台から意識が逸れかけた、そのとき。
最後尾にいた刑事役の男が、すこし踏みとどまって、客席に向かい、小首を傾げお辞儀をした。

とたんに、頭から氷水をぶっかけられたように、目が覚める思いがし、立ち上がった。

他の客は、未だ酔ったように呆けて、気にとめなかったようだが、俺は知っている。

そう、二十年前に同じ舞台に立ったとき、「おや?」と思い、印象深かった仕草を。

以降、仕事でステージにあがる際には、引っこむ前に、必ず見せていた、吉谷の癖だ。





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