マドノアシ

ルルオカ

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マドノアシ 3

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瞼を上げるも、視界は白い光で埋めつくされていた。こめかみを引きつらせつつ、目を凝らしているうちに、徐々に光が薄まって、辺りの景色が浮かびあがってくる。

何度も瞬きしてから、あらためて見渡したそこは舞台上のようだった。注ぐスポットライトは舞台を焼きつくすように眩く、対照的に客席はほんの明かりも差さずに真暗で、誰も座っていないのか、声や息遣いが聞こえてこない。生まれてこの方、幼稚園のお遊戯会や学校の催し物などでも、表舞台に立ったことがなかったが、でも、小規模で簡易な作りのこの舞台には見覚えがあった。

バラエティ番組「スイリリング」の舞台だ。ということはと、前方の客席に向けていた顔を左右に振ると、いつもテレビで見ている通り傍に死体の人形が転がって、舞台の真ん中あたりに膝をつく自分を囲むように、数人が佇んでいた。これまた、いつも通りに、それぞれ役に合わせたコスチュームをしているものを、顔には靄がかかっている。体型や立ち姿、仕草などから、覚えのある芸人と知れるとはいえ、一人だけ、おそらく見たことがない芸人がいた。

時代がかった外国のドラマや映画に出てくる探偵が着ているような衣装を身にまとって、きざたらしくパイプをふかす小柄な男。芸人ではなさそうながら、まるで知らない相手でもなく思え、まじまじと見ていたら、男はにわかにパイプを振りかざし「犯人はホモよ!」と甲高く叫んだ。

「死んだ男の母親は魔性の女だった!その血をこの死んだ男は受け継いでいるの!」

声の低さに見合わない言葉遣いに、ぎょっとしたものを、周りはかまわずに「そんなの根拠になるか!」「魔性の男なんて馬鹿らしい!」と野次を飛ばす。しばらく喚くにまかせ、おさまってきたところで「じゃあ、教えてあげるわ!」と一段と声を張りあげた探偵は、紫のガウンを着た老人にパイプの先を向けた。

「死んだこの男の母親は、あんたの屋敷のメイドだった!そうでしょ!?しかも、大のお気にいりで、ずっと傍に置いていた!でも、いくらお気にいりたって、急にお腹をおっきくさせたメイドに、子供の面倒を見てやるからとまで言って、堕胎するのを必死に止めようとするかしら!?この男があんたの子供っていう科学的根拠はないけど、疑われてもしかたないんじゃなくて!」

老人は顔を青ざめながらも、なんとか口を開こうとしたが、先に「やっぱりそうだったのか!」とその隣から声が上がった。相変わらず顔には靄がかかっているものを、はちきれそうな太鼓腹を揺らしながら、上等なスーツに身を包み、黒光りする革靴を履いているのを見るに、成金らしい老人の血縁だろう。

「あんたは、そうやって、いつもおふくろを泣かせてきたんだ!」と怒鳴りつけて、老人の肩をさらに縮ませている。尚も責め立てようとする太った男に「あらまあ!お母さん思いのことで!」と探偵が皮肉っぽく言い放った。

「でも、母親思いなだけで、そんなに怒るものかしら?本当は父親に好きな人を横取りされたのが悔しいんじゃなくって?ほら、子供のころの日記にこう書いてあるじゃない。『僕がおっきくなったら、メイドさんを絶対にお嫁さんにする』だって。『なってもらう』じゃなくて、『する』なんて、まあ、こましゃくれたガキだけど、あくまで結婚を目標にして、襲うとか無理強いするとかしなかっただけ、ウブだったわよねえ?

その反動かしら。彼女が妊娠したと知って、父親に先を越されたって、すっかり思いこんじゃって。それでも、思いを打ち明けるなり、駆け落ちしようって情熱をぶつけてたなら、心の折り合いがついたかもしれないけど、手垢のついた彼女にはもう、興味がなくなったってわけ?単に告白する根性がなかっただけなのに、裏切られたって恨むばかりで、性癖まで捻じ曲げてしまって、まあ、救いようのないこと。父親の息子で、自分の弟かもしれない子供に、手を出すなんてね」

先までの剣幕はどこへやら、父親に劣らず太った男も唇まで青くして、言葉を失くしている。周りは眉をひそめて囁き合うだけで、二人に声をかけようとしなかったが、うち一人、長身の細身の男だけが「は、お前ら親子そろって、どうしようもないな」と鼻で笑った。

「探偵の言うことを信じるなら、お前ら、このメイドの私生児にゆすられてたってところか。まあ、ゆすられるだけの罪を犯したお前らがクソなんだから仕方ねえよ。にしたって、殺しまでするほどクズだったとはな。犯すにしろ、殺すにしろ、ばれないようにやれっつうの。俺に迷惑がかかるだろ」

おそらく老人のもう一人の息子であり、太った男の兄弟に、クソクズ呼ばわりされても、二人はうな垂れたまま黙りこくっている。代わりに「迷惑、ね」と探偵が白けたように応じた。

「迷惑どころか、おいしい思いをしているんじゃない?あなたのお兄さんには息子がいないから、このままいけば、次期跡とりは、あなたの息子になるわ。でも、お父さんの子、あなたとはかなり年の離れた弟という、厄介な存在がでてきた。しかも、お父さんとお兄さんをたぶらかした女と、そっくりの顔の子供ときたもんだから、二人が無理に跡取りにさせたがるかもしれないし、その子供の言いなりになるかもしれない。

そう考えるだけでも、あなたには彼を殺すもっともな動機があるけど、本当はもっと訳が悪いんじゃないかしら?だって、あなた、高校生のころ、メイドの彼女をレイプしたでしょ。そして、それを弱みにずっと彼女にゆすられてきた。子供を生んで彼女は死んでくれたけど、あなた病気なのかしらね?中学生になった、その息子にまたレイプをして、またゆすられて。それで、自業自得のくせに我慢できなくなって、殺したってわけ?なんとまあ、みみっちい話かしら。親子の諍いや、痴情のもつれでの殺人のほうが、まだ趣があるってもんよ」

言葉につまる細身の男に「レイプだと!お前!」「なんてことを!」と父親と兄が俄然、責めたてはじめる。細身の男はうつむいて唇を噛んでいたものを、すこしもせずに「黙れ!」と一喝をした。

「お前らに俺のことが言えるのか!?メイドに自分の子供を生ませておいて、認知しなければ、おふくろにも黙ったまま、傍に置いておくなんて、親父、あんた、いかれてるよ!おまけに、こいつが大きくなるにつれて、やらしい目で見るようになりやがって!それに兄貴!こいつに売春のようなことをさせておいて、レイプした俺を責めんじゃねえよ!てめえも俺に負けないくらい犯罪的な変態じゃねえか!」

人目を憚らず鞭打つように罵られて、二人はまた黙りこんでしまう。細身の男のほうは開き直ったのか「まあ、つっても、もともと、悪いのはこいつだけどな」と死体に向かい、顎をしゃくった。

「母親と顔が似ているのをいいことに、男にケツの穴をちらつかせて、誘惑するなんてな、とんだ性悪だ。母親に劣らずといったところか、いや、馬鹿女ならまだ可愛げもあるが、男漁りする男なんて目も当てられねえよ。金目当てにしろ、復讐やらの思惑にしろ、ケツの穴で遂げようとするなんて、馬鹿げているから、結局、根っからの男好きの淫乱じゃねえの。名家の男に蹂躙された被害者ぶりやがって、本当はよがってたんだろ。そうそう、俺が犯ったときも、むせび泣いてたくせにケツの穴の具合は」

気がつけば「やめろ!」と叫んでいた。周りから一斉に視線を向けられて、とたんに我に返って、声をつかえさせたものの、後をひきとるように「ああ、よかった!ちゃんと良識のある人がいて!」と探偵が両手を広げてみせた。

「レイプは、レイプされほうが悪い、なんて男根至上主義的に正当化された腐った理論なんてうんざりよ!相手がどれだけ病的なビッチかとくと語ってみせて、男じゃなきゃ勃たない自分の性癖なんかすっかり棚に上げて、それこそ、厚かましく被害者面をするのよね!なんて、かわいそうな男どもかしら!男が男にくらっとくるのも、愛することも、病気でも罪ではないのに!」

探偵の言い分は正論でありつつも、自分に酔っているようなのが、やや耳障りだ。周りは、成金助平親子まで、そんな一人芝に興じてるさまを鬱陶しそうに見やり、自分にしろ助け舟をだしてもらいながら、ありがた迷惑に思ったものだが、人の気も知らずにあろうことか、探偵は「ねえ、そうでしょ!」と掌をかざしてきた。嫌な予感がして、口を挟もうとするも間に合わずに、芝居がかったその声が舞台と客席の隅々まで響きわたった。

「あなたなら分かるわよね!死んだ彼のことを好きだったんだから!」

そう言いきったなら、鼻息の荒い探偵以外の、舞台上の全員が息を飲んだようだった。それまで、成金助平親子に向けられていた疑いと蔑みが、自分に寄せられているのが、ひしひしと伝わってきて、生きた心地がしなかったものを、傍らでは探偵がご満悦に笑っている。

舌打をしたくありつつ、なんだか疚しくて目を伏せれば、しばらくもせずに「はあ?」と探偵に言われた。先まで歌いだしそうだったのが、にわかに凄まれて、殺意に近いものさえ覚えて、目を上げることができない。うつむいて尚も黙りこめば「なにそれ?」とさらに棘のある声で笑われる。

「死んだ彼が好きだったことがばれるのが、そんなに困ること?それとも恥ずかしいわけ?まあ、好意にも色々あるから、誤解されたくないと思うのかもしれないけど、誤解されるのが嫌で、知らない人のふりをするわけ?変な目で見られたり、噂になるようだったら、関係を絶つわけ?それってひどくない?」

嘲りながら問い詰められるも、ひたすら床を見つめる。言い返せる余地がなかったからだが、「あんたの友達は、なんにも躊躇わずに好きって言ったのにね」との言葉には、つい拳を握りしめてしまった。気づいたのか、探偵は途中で言葉を切り「悪意のない人間のほうが、罪深いのよ」と呟いた。

「若いメイドを孕ませて尚、家族そっちのけで痴情に溺れる糞親父も、叶わなかった初恋を、その息子を抱いてまで取り戻そうとする外道な兄も、母親も息子もレイプして家族や相手に全部責任転換している下衆な弟も、どうしようもない奴らだけど、まだ可愛げがある。だって、そうでしょ?立場が悪くなったり、人間関係が壊れたり、地位が失われたり、自分が破滅するようなことを喜んで、してるんだから。

確かに、あんたは彼がひどい目にあえば助けようとするし、あんたが彼を傷つけるようなことはしないだろうけど、関わることで、どれだけリスクがあるか、常に考えているところがある。結局、保身ばかり考えて、自分の身に少しでも火の粉がかかるようなことがあれば、迷わずに、相手を切り捨てるのよ。案外、あんたみたいな人間が恨みも悪意もなく、人より自分が大事なのは当然だからって、良心の呵責も覚えずに人を殺すのかもしれない」

怒鳴りつけられるより、淡々と語りかけられるのが、却ってえげつなく響いてくる。耳を塞げない代わりに目を瞑ったものを、無駄だとばかり「そんな人間、一生、誰かを本当に好きになるとができないわ」ととどめに言われた。

口から嗚咽のようなものが漏れそうになって、唇を噛みつつ、汗に濡れそぼった顔を探偵から背ける。ちょうど、舞台の中央に転がる死体の人形が視界に入ったものを、はじめに見たときには気づかなかった特徴が目についた。

くたびれたモップのような黒髪のかつら、血溜りに浸る黒縁眼鏡、着せられている着古したようなスウェット、覗く手足や首は肌色でなく真っ白で、誰を模したものなのか、自分には嫌というほど分かる。綿を詰めた布袋をつなぎ合わせた、粗雑な作りだったが、それでも、血溜りに倒れているさまを見ていられなくて、目を逸らそうとした。そのとき、人形の顔が、こちら側に振りかえって。


※  ※  ※


寝返りを打って参考書を放った。床に突っ伏した参考書から顔をそらして、淡く明かりが透けるカーテンに、細めた目を向ける。登校時間までは、まだ大分あるとはいえ、今から眠気が催してきそうにはなく、ため息をついて枕に顔を埋めた。誠二が右側に詰めて寝そべるベッドの、左側にマドノアシはいなく、皺やへこみなど寝た跡もない。誠二がシーツに手を添えたところで、ひんやりとしている。

マドノアシがこの部屋に訪れなくなって、一週間になる。といって訪れなくなったのは、喧嘩したとか揉めたからとか、関係がこじれてのことではない。一週間前、明け方に誠二が勢いよくベッドから跳ね起きたら、帰ろうとしていたマドノアシがそっりゃあ驚いて、目を見張りつつ、一呼吸おいて「二週間、ここにこないよ」と唐突に切りだしたのだ。

悪夢から目覚めたと思ったら、まだ、つづいているのではないかと錯覚したほどに当惑したもので、返答も反応もできず、させてくれる暇もなく「じゃ」と帰られたという始末。理由は何なのか、まさか飽きられてしまったのか、二週間という限定はなんなのかと、落ち着いたら落ち着いたで、さらに頭を悩まされたのだが、学校に行って「あー俺、今回のテスト間に合わんかもー」と天を仰ぐ宮田を見て、腑に落ちた。

二週間後には期末テストが控えていた。マドノアシの学力や勉学への意欲がどれくらいなのかは知れないものを、テストまでの二週間、真夜中に裸足でほっつき歩き、人の家に入り浸っていられるほどの余裕はないのだろう。もし誠二のようにテスト期間中でもバイトを休まないのなら、いつもマンションで過ごす時間帯を勉強にあてるしかない。

肩を並べて勉強をするという発想はなかったのか。まあ、誠二を同じ学校の同学年の生徒だと知らないなら、元よりそういう発想もしないだろうが。誠二などは発想するまでもなく、テストのこと自体忘れていたが。

誠二は留年しないくらいに授業に出席して、テストの点数も取っている。一週間前から、学校に行かずにテスト勉強だけをして、それで大抵は間に合っていた。といっても、毎度、半端な点数を出していれば「お前、受験のこと考えてんのか」と教師は眉をひそめるし「遊びにうつつを抜かしているのではないか」と両親は勘ぐるのだが、誠二には馬の耳に念仏だった。

学校は一応、進学校とはいえ、大学にあがるつもりはなかった。教師にも親にも教えていない卒業後の進路は、実家に戻らずに一人暮らしをつづけ、バイトをしながら調理師専門学校に通うというもの。親に反対されたとして、リュウセイを頼ろうと考えていて、その計画を打ちあけたら、叔父は「おお、頼れ!頼れ!」と胸を叩いてくれた。

というのも、リュウセイ自身、調理師免許を持つほど、料理好きで得意だったからだろう。ホストのころから客の舌をうならせ、料理目当ての客も呼び寄せていたというし、今もクラブにあるメニューのレシピをすべて手がけているし、時に厨房に立ち客にふるまう料理は、やはり評判がいい。誠二に会うときも、必ず手作りの弁当や菓子を持ってきたので、凝ったそれらに魅了された幼い甥っ子は、年を重ねるうちに、リュウセイに手ほどきをしてもらうようになり、今やクラブにだすメニューの一部を客に披露するまでになっている。

高校に入る前から、将来は調理関係の仕事につきたいと考えていた誠二だったが、実際に経営をする店のキッチンに立ったことで、その決意はより固まった。だから、赤点にならないだけで、誉められたものでないテストの点数を取りつづけるのは苦でなかったし、親が電話で心配するふりをして、部屋に女を連れこんでいるのではないかと詮索してきても屁でもなく、義理としての高校卒業を無難にこなすつもりでいたものを、ひとつだけ誤算があった。夜に眠れないことだ。

中学三年のころから寝つきが悪くなったのが、一人暮らしをはじめたとたんに、夜に一睡もできなくなった。はじめのころは、かなり戸惑ったとはいえ、リュウセイに、ましてや親に相談はできずに、自分だけで対処せねばと腹をくくって、結果的に今も眠れないのだが、夜に限らずにこまめに寝る術を身につけた。

不健康ながら、そうやって日々をやり過ごすのに慣れてしまったので、マドノアシと熟睡をする一時期を経て、却って調子が狂わされた。一度、まともな睡眠の感覚を取り戻すと、前のように適当に眠れない夜をやり過ごせない。マドノアシと出会う前なら、眠くならず勉強ができるのだからちょうどいいと、割り切れたものを、今の誠二は眠くもないのにベッドから離れようとせず、参考書を持て余して、いたずらに寝返りを打つばかりだ。

ここ一週間、マドノアシが訪れなくなり、そして夜に眠れなくなったせいか、こまめに睡眠をとっても前のように眠気も疲れも今一、抜けない。抜けないままの眠気と疲れのせいで、頭を朦朧とさせながら、充血した目を参考書に走らせたところで、そりゃあ何も頭に入ってこなかった。

無駄に参考書を睨みつけるうちに朝を迎えれば、なんともいえない徒労感を覚え、やっと太陽を拝めたのもつかの間、すこしずつ睡眠をとる日中はすぐに過ぎさって、また長い夜に臨むことになる。一日の終わりと始まりの区切りがなく、生き殺しにされているような時間が、延々とつづている錯覚に陥ることもままあった。

ただでさえ、眠れないことに神経質になっているのが、勉強がはかどらないことの焦燥もあり、さらに目が冴えてしまう。このままでは、いつか倒れるのではないか、入院してテストを受けられなくなるのではないか、実家に戻さられるのではないか、無理にテストを受けたとして全教科赤点を取るのではないか、留年するのではないかと、日を重ねるごとに、どんどん思いつめてしまって、とうとう血の気のない顔色を誤魔化せなくなり「バイト代はいつも通りやるから、休め」とリュウセイに言い渡されたものだ。

理由もなく、欠勤分の給与をもらうのには、抵抗があったものを、それでも誠二はリュウセイに事情を打ち明けられなかった。睡眠障害と知られるのに気後れしたせいもあるが、リュウセイが添い寝をしてくれても駄目だと、分かっているからだ。と同時に、あらためて気づかされもした。そう、自分が寝られるのは、傍にマドノアシがいるときだけだと。

マドノアシと寝られたことで、人に添い寝してもらうのが睡眠障害の打開策と考えてもおかしくはない。だったら、マドノアシに限らずに、他の人と試せばいいところ、そうしなかったのは、思いつかなかったのではなく、はじめから無駄に終わるのが分かっていたからだ。

ただ、添い寝の相手がマドノアシに限ることを、認めるのに躊躇ってしまった。そんな迷いが、眠れぬ夜の苦悩の原因のひとつになっていて、そのことを、どこかで分かりつつ踏みきれなかったのだが、「リュウセイでは駄目だ」と自覚させられた以上、無視ができなくなった。

自分にとってマドノアシがかけがえのない存在だと、しかたなく認めたとはいえ、とたんに恐いほど開き直れた。テストの四日前くらいから、あれほど倦怠感に悩まさされベッドから起き上がれなかったのが、ほぼ一日ずっと机に向かい、教科書や参考書の内容を、一度目を通しただけで、漏らさずに覚えていった。ひたすら広げたテキストに目を走らせ、合間に軽い食事をとりつつ、机に肘をついて短く寝ては起きては繰り返しつつ、テキストを一時たりとも手放さなかった。

相変わらず、まとまった睡眠時間は取れていなかったし、心身の疲弊は限界にきていたが、誠二は前のように思い煩うことなく、思い煩う暇も失くすように、テキストの文字を掃除機で吸うように頭につめこんでいき、テスト期間を迎えても、その勢いのままに開始十分で回答を書き終えて、残りを睡眠に費やすという荒業をこなした。「お前、今回は完全に捨てる気か」と宮田は、ゾンビよろしく、やつれた誠二をおぞましそうに見たものの、本人にすれば、赤点ではなく留年しない程度の点数を取れるように計算した上で、夜にとれない分の睡眠時間を稼いでいるのだから、投げやりどころか、綱渡りをするようにテストに神経を使っていた。

といっても、そんな極限状態でいつづけるのが誠二には苦でなかった。人は自分の欲しいものがはっきりと分かっていると、いい意味でも悪い意味でも迷いがなくなるなと、テスト用紙に向かい目を血走らせながら、他人事のように関心したもので。

それまで鼻先に人参を吊るされた馬のように突っ走っていた誠二だったとはいえ、テスト期間が終わったとたん、人参が目の前からなくなったとたん、腑抜けになった。体力精力を絞るだけ絞って使いきれば、そりゃあ、生きた屍のようにもなるが、それでも、テスト明けの翌日に、ふらつきながらも登校をした。

夜まで待てなかったのだ。テスト期間中、マドノアシこと美希は誠二のクラスに顔をださずに、校内でも前の「うんこ騒動」のように、騒ぎたてることがなかった。さすがにテスト期間には、おちゃらけられないのかと思ったが、「いつもなら、ノートを見せろって泣きついてくんのに」と宮田が廊下をちらちらと見ていたからに、今回は例外のようだった。

そのことが引っかかって、二週間空いただけとはいえ、誠二は心配になった。テストが終わってから、改めて思い返すうちに「二週間、ここにこないよ」が最後の別れの言葉だったように思えてきたのだ。考えられる決別の理由としては、誠二が同じ学校の同学年の生徒と知り、そのことを不都合に思ったからだろう。憶測でしかなかったが、最悪の可能性がないことを祈るだけでは、夜まで正気でいられそうになく、ゾンビのように呻き、足を引きずりながらでも、学校にこないでいられなかった。

といっても、意識を失っては元も子もないので、誠二は机に突っ伏しつつ、組んだ手の甲をもう片方の手でつねって、辛うじて意識を留めていた。朝礼までの落ちつきない時間帯、テスト明けとあって、いつもよりざわめきが浮ついているクラスに、いつ、美希のけたたましい声が混じるともしれないと、耳を澄ましていたら、傍から「マジかよ、それ!」と笑いがあがった。

爪で金属を引っかくような甲高さに、眉をしかめつつ、聞き流そうとしたが「美希、洒落になんねーじゃん!」と耳に飛びこんできて、思わず、つねる手の甲に爪を立てる。その言葉を聞き咎めたのは誠二だけではなく、にわかに教室は静まり返って、といって、興味津々に耳を立てているというよりは、固唾を呑んでいるようだ。顔を上げるか迷ったものを「どー見たってこれラブホだし!」と喚くのが聞き捨てならずに、やおら上体を起こした。

机をひとつ挟んで左側の机、悟が座る両隣に、腰ぎんちゃくが二人いて、くすぐったそうに笑い声をたてている。椅子を斜めにして、机に足を乗せている悟はスマホを持っていて「で、これがズームした写真」と指を画面に滑らせると、二人が覗きこんで「うっそ、ほんと、笑えねー!」「笑えねえっていうか、ゲロ吐きそー!」と悲鳴をあげた。

悟におもねって、道化師のようにふるまっているのが間抜けだったが、周りの生徒は黙りこくって、事の成り行きを不安そうに見ている。委縮している周りの様子を得意げに見渡した悟は、隣のクラスまで届かせるように声を張りあげた。

「ラブホから一緒にでてきたのが、養父とか、マジ、やべー!」

寝なさ過ぎて、いよいよ頭がいかれたのかと思った。が、幻聴にしては、周りも耳を疑うようにして目を丸くして、頬をひきつらせている。唯一違ったのは宮田で、教科書で机を叩くと「前にも言っただろ」と怒気を滲ませつつ、諭すように言った。

「朝っぱらからホモネタは胃がもたれるって。大体、お前自身の品性が疑われるだけなんだから、アレにはかまうな」

宮田としては、一応、悟の顔を立てて宥めようとしたのだろうが、逆効果だったようだ。「俺の品性がどうこうの問題じゃねんだよ!」と悟は足を机に叩きつけると、その反動で椅子から下りて「じゃあ、自分の目で見てみろよ!宮田!」とスマホの画面を差しむけた。

そうしたところで、宮田は白けた目を向けるばかりで、近よったり覗きこんだりせず、舌打をした悟は、すぐに体を反転させて、ちょうど机ひとつ空けて真向かいにいる誠二に詰め寄った。宮田が待ったをかける間もなく、誠二の目の前につきつけられた画面には、ラブホの料金表の前を通りかかる男二人が写っていた。背広姿のにやつく中年男に肩を引き寄せられているのは、日中仕様の、前髪をちょんまげにした美希で。

気がついたら、右手を振りかぶって、スマホを奪いとっていた。そして、そのまま腕を振りきり、開いた窓の向こうにスマホを放った。


※  ※  ※


その瞬間のことも、後のことも、あまり覚えていない。教師に「なぜ、あんなことをしたのか」と聞かれても、応えようがなく、というか、寝不足を極めて半ば失神をしていたと思う。そんな誠二を心配してというより持て余して、教師は厳しく問いつめようとはなしなかった。

問題をこじらせて、鷲屋家と揉めるのを避けたくもあったのだろう。停学処分二週間を言い渡しつつ「親には知らせないでくれ」との誠二の頼みを飲んでくれた。両親に知られなければ、停学処分だろうが何だろうが問題はなかった。休めてちょうどいいとさえ思ったものを、周りの受け止め方はまた違って、教室に戻ったところ、あからさまに遠まきに顔をそらされたものだ。宮田だけが「どうやった」と寄ってきたので、応えたら「不運やったけど、何も言わんで正解やったな」と肩を叩かれた。

「ぶっちゃけ、スマホを三階から捨てられるだけの下劣なことを悟はしたし、掴みかかられて、殴られる寸前やったのに、お前だけが処分されるなんて、おかしいけど。まあ、悟も問題が大きなって、本家のバーサンに連絡がいくの嫌やったんやろ。謝罪しろだ、弁償しろだ、親の顔が見たいわだの、喚かれんかっただけ、ラッキーやったちゃうんか」

眠たかったから、肯きもしなかったが、宮田は言葉を切ったきり、何も言ってこなかった。変に思い、誠二が帰り支度をする手を止めて振り向けば、物言いたげな顔をしつつ、半端に口を開いたままでいた。じれったくなって、なに、と首をひねると、やや視線をそらして、また向きあったなら「ま、二週間、しかもテスト終わりに、だらだらてきるんやから、やっぱラッキーやんか」といつものように磊落に笑って、自身の席に戻っていった。

なぜ、スマホを投げたのだ。そう聞きたかったのではないかと思う。宮田は、誠二が真夜中に美希こと、マドノアシと逢引しているのを知らない。だから、不思議なのだ。

もし誠二が美希と親しいなら、悟の蛮行に怒るのも分かる。というより、それ以外にスマホを三階からぶん投げる理由は考えられない。考えなしに首突っ込んだり、お節介を焼かずにいられない性分なら、放っておけないかもしれないが、見て見ぬふりをする大多数の一人でしかないことを、誠二は自覚をしているし、宮田もおそらく、そう見なしている。

だとするなら、宮田が聞きたかったのは、正確にはスマホを投げた理由でなく、美希との間柄についてだ。いつの間に、親しくなったのかと。果たして、聞かれたら正直に応えられたかどうかは、誠二には分からない。ただ、訂正をしたかもしれない。友人を守ろうとしたなんて、そんな格好いいものではない、と。

「単に眠かったんだよ」

暗い部屋の中、テレビに流れる「スイリング!」を見るとも見ながら、誠二は独り言ちた。教師に処分をつきつけられ、というか「とりあえず、目のクマをどうにかしろ」と鬱陶しがられて、登校してから一時間と経たずにマンションに舞いもどって、ベッドに倒れこんだが、性懲りもなく眠れなかった。

ので、なんとかソファまで這いずって、テレビをつけたあとは、リモコンを操作する指を動かすだけで、食事を取ろうとしなければ、手洗いにもいかずに「スイリング!」を流し見をしていた。混濁した意識では、ほとんど内容が掴めず、もちろん笑いもできなかったが、所在無い時間を埋めるのには適当で、気がついたら、テレビ画面の右下に「22:04」と表示されていた。

いつも迎えにいくころまで、後、二時間くらい。もう少しのような、まだまだのようなで、尻がむず痒い思いをしつつ、画面の中央に焦点を戻そうとして、かつん、と硬い音を聞いた。

何かが床に落ちたのかと思い、やおら部屋を見回したのもつかの間、はっとして窓を見やる。と、少ししてまた、かつん、と鳴ったのに、慌てて立ちあがって窓に駆けつけたなら、カーテンを開け放った。

窓の向こうの眼下の道路、その暗がりに紛れるように黒ずくめの男が立っていた。パーカーのフードが被さっている上に、長い前髪に覆われて目元は隠れていたが、髪の隙間から誠二を覗いてだろう、小石を握る拳を下ろして、マンションのほうに寄り、視界から姿を消した。すぐには事態が飲みこめずに、しばしカーテンを握りしめたまま動けずにいた誠二は、でも、我に返ったとたん、踵を返して玄関のほうに突進していった。

インターホンは鳴っていない。マンションの正面玄関の自動ドアを開けてもらうつもりはないらしい。ということは、小石を窓に当てたのは、その催促をしたわけでなく、顔を見たかっただけか。いや、違う。マンションのほうに歩いてきていた。ただ、正面玄関とは逆で、非常階段がある方向だった。一度、カードキーを忘れたときに、二人して非常階段から侵入したのを、覚えていての行動なのだろう。

それにしたって、正面玄関から呼びださずに、わざわざ自力で乗りこんでくる理由は分からなかった。まさか、誰かに待ち伏せをされたり、見張られているのか。だとしたら、迂闊にドアを開けるべきではないのか。などと、考えている傍から、誠二はドアを勢いよく開け放った。

ちょうど、黒ずくめの男がドアの向こうに立っていて、取っ手を握ろうとしていたのだろう、浮かせた右手を、肩を跳ねたのと共に引っこめようとした。揺れる前髪の隙間から見開いた目を覗かせつつ、口を開こうとしたのを「いいから」と誠二は、引っこみかけのその手を掴んだ。

相手はフードを跳ねながらも、誠二が手を引くのによろけるように足を踏みだし、そのままドアの敷居を跨いだ。後ろ足もドアの向こうに吸いこまれて、惰性でドアが閉まった音が、廊下にけたたましく響いたきり、部屋から物音や声が聞こえることも、ドアが開くことも、朝が明けるまでなかった。


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「好きだ…付き合ってくれ。」 おれ七海 直也(ななみ なおや)は 告白された。 クールでかっこいいと言われている 鈴木 海(すずき かい)に、告白、 さ、れ、た。さ、れ、た!のだ。 なのにブスッと不機嫌な顔をしておれの 告白の答えを待つ…。 おれは、わかっていた────これは 罰ゲームだ。 きっと罰ゲームで『男に告白しろ』 とでも言われたのだろう…。 いいよ、なら──楽しんでやろう!! てめぇの嫌そうなゴミを見ている顔が こっちは好みなんだよ!どーだ、キモイだろ! ひょんなことで海とつき合ったおれ…。 だが、それが…とんでもないことになる。 ────あぁ、罰ゲームって楽しいね♪ この作品はpixivにも記載されています。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

側妻になった男の僕。

selen
BL
国王と平民による禁断の主従らぶ。。を書くつもりです(⌒▽⌒)よかったらみてね☆☆

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