アンダンテ

浦登みっひ

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監獄島の惨劇 ジャンル:ホラー

4時12分 瞬

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 ザッ、ザッ……

 干からびたように不気味な音を立てながら、それはゆっくりと、しかし一歩一歩確実に近づいてくる。

 ゾンビの姿を確認した俺は咄嗟に、二人を庇うように背後へと押しやった。二人とも言葉を失い、茫然としている。真紀でさえも困惑した表情を浮かべていた。人間の死体を目にしても動じなかった真紀が……。
「ゾンビなんて……そんな、非科学的なものが……」
 真紀は消え入りそうな声で呟いた。俺はすぐさま聞き返す。
「じゃあ、あんな生き物、他にいるか?」
 彼女は無言で首を横に振った。

 緩慢な動作ではあるが、その目――があるはずの窪み――は明らかにこちらを見据えている。俺達は、蛇に睨まれた蛙のように絶句したまま、微動だにできなかった。
 あと数メートルという距離まで近づいたところで、ゾンビは両手を前方へ伸ばして足を踏み込み、こちらに飛びかかろうという素振りを見せた。

「危ない!」
 殺気を感じた俺は、反射的に二人を連れて飛び退いた。同時にゾンビは唸りながらジャンプして、一瞬前まで俺達が立っていた場所に着地した。間違いない、こいつは俺達を狙っているのだ。
「逃げるぞ!」
二人の手を引いて素早くゾンビの背後に回り、そのまま脱兎の如く駆けだした。幸いなことに、ゾンビの動きはのろく、その姿はみるみるうちに遠くなっていった。

 どれぐらい走っただろうか。もはやゾンビの姿は見えず、足音さえ聞こえない。
 もう安全だろうと判断して、俺達はそこで立ち止まった。1階は迷路のように通路が入り組んでいる階である。とにかく逃げる事で精一杯だったので、平面図を見ても、現在地が1階のどのあたりなのかわからなくなっていた。真紀と小雨は、息を切らして大きく肩を上下させている。かくいう俺も、既に息が上がっていた。

 やはり、最初に口を開いたのは真紀だった。
「一体何なの、あれは……?」
 息が乱れている所為かもしれないが、どうも、彼女らしくない姿だと俺は感じた。いつもの射貫くような視線も精彩を欠いているし、何より、冷静さを失っているように見える。無理もない状況ではあるのだが、ここまで彼女を頼ってきた部分が大きいため、不安を覚えざるを得ない。
「ゾンビにしか見えないな……」
「そんなもの……あるわけないじゃない……」
 怖いのか? と言いかけて、それがあまりに無神経な言葉である事に気付き、口を噤んだ。

 彼女の反応は全くおかしなものではない。現在、俺達は全く不可解な状況に置かれているし、ゾンビなどという空想上の生物――いや、生きてはいないから、空想上の存在と言うべきか――まで現れてしまったのだ。そして何より、彼女は女の子なのである。あんなものを目にしたら、怖がるのが普通の反応ではないか。これまでの、冷徹で威厳のある彼女の態度から、俺はそんな当たり前の事を忘れていた。これからは俺が二人を守らなければならないのだと、柄にもなく気を引き締めた。
「まずは、少し落ち着こう。息を整えて。この状況は、ちょっと俺達の手に負えるものではないかもしれない。今はとにかく、鮫ちゃんを探して一緒に脱出する事だけを考えよう」
 小雨は全く言葉を発していない。右手に、柔らかくて温かい感触。ゾンビと遭遇してからずっと手を繋いだままであるという事に、この時初めて気付く。
「小雨、大丈夫か?」
「うん……ごめんね、だらしなくて……」
「気にするなよ、そんな事。俺だって、お前らが居なかったら、こんなに強がっていられたかわからないし」
 これは偽らざる本音だった。もしも俺一人でゾンビに出くわしていたら、おそらくもっと取り乱していたに違いない。俺が小雨の肩をポン、と軽く叩いてやると、彼女の瞳がほんの少し輝きを取り戻し、いくらか緊張が和らいだようだった。

「まず、ここがどこなのか確認しなきゃな……」
 俺は、再び平面図を取り出して眺めた。しかし、周囲には目印になるようなものがなく、廊下も複雑に曲がりくねっているため、見通せる範囲は限られている。歩きながら探るしかないか……。

 ザッ、ザッ……

 再びゾンビの足音だ。それも、意外と近いように感じられる。
 俺達は、自分たちがやってきた方向を振り返った。相当な距離を走って逃げてきたので、まだ追いつかれる事はないだろうと高を括っていた。のろまなように見えて、意外と速く走れたりするのだろうか。
「ぼやぼやしていられない。逃げよう」
 二人の背中を押して、先に行かせた。レディ・ファーストというやつだ。俺も背後を確認しながら、二人に続いて走る。だが、数メートル進んだところで、二人の背中にぶつかった。二人とも、前方を見据えたまま立ち尽くしている。
「あっ、すまん……どうした?」

 その視線の先には、またしてもゾンビがいた。先回りされていたのだろうか。
「おい、何突っ立ってるんだ! 逃げるぞ!」
 俺達三人はすぐさま踵を返して、反対方向へ走った。途中に分かれ道を見つけたが、わき目もふらずに駆け抜けた。しかし、そこからさらに数メートル走ったところで、再び前方にゾンビの姿を認めた。どうやら、二体のゾンビに挟み撃ちにされてしまったようだ。
「一匹だけじゃないんだわ……」
 小雨が呟くと、真紀がそれに応じて、
「囲まれた……って事かしらね……」

「そこの脇の通路へ逃げよう。さあ、早く!」
 俺は再び二人の手を引いて、分岐点まで引き返し、脇の通路に入った。
 通路は、左右の壁にいくつか扉が並んでいて、その風景には何となく見覚えがあるような気がした。そのまま道なりに走っていくと、先は行き止まりになっていて、すぐ横に扉がある。先程覚えた既視感は、確信に変わった。
「ここは……確か、医務室だったな」
 そう、ここは小雨と一緒に、一度訪れた部屋だった。この先に通り抜けられるような通路はない。俺はそのことを、真紀にも説明した。
「袋小路に迷い込んじゃったみたいね……」
 真紀が力なく呟く。背後からは二体のゾンビの足音が、反響しながら、少しずつ近付いてくるのがわかった。
「とりあえず、中に入ろう。もしかしたら、やり過ごせるかもしれない」
 ただし、それは極めて低い可能性ではあるが……。俺は医務室の扉を開けた。

「うわっ!!」
 扉を開け、中の光景を目にした俺は、思わず二、三歩後ずさった。医務室の中には、既に二体ものゾンビがうろついていたのである。
 俺達はすぐに今来た通路を引き返した。だが、少し戻ったところですぐに、向こうから追手のゾンビが歩いてくるのが見えた。しかも、数が三体に増えている。完全に囲まれてしまったのだ。
「まだだ! まだ終わらんよ!」
 俺はその三体のゾンビに素手で殴りかかった。

 バキッ

 先頭を歩いていたゾンビの顔面に、右ストレートを食らわす。奴はよろめいた。右の拳に、ぬるぬるとした、気色悪い粘液のようなものが纏わりついた。更に、右の回し蹴りで追撃をかけると、奴はそこで横倒しになって倒れた。
 よし、いける! そう思えたのもほんの一瞬だった。左右に控えていた二体のゾンビから、同時にパンチが飛んでくる。まだ右脚を浮かせたままだった俺は、それに反応できなかった。右のゾンビのパンチはどうにか肘でガードしたが、左のゾンビのパンチが鳩尾にクリティカル・ヒットしてしまったのだ。
「うぐっ……」
「瞬!」
 俺は悶絶しながら後退した。背後から小雨の悲鳴が聞こえてくる。気付けば、さっき倒したゾンビも既に立ち上がっている。三体のゾンビが、じわりと距離を詰めてきた。
「瞬! こっち!」
 これは真紀の声だ。やはり三対一では勝ち目がない。自分から仕掛けておきながら、すごすごと逃げ帰る俺のカッコ悪さ……。

 二人の所へ戻ると、真紀が扉を開けて待っていた。ゾンビに殴り掛かっていった俺が見落としていた扉らしい。三人で、急いでその中へ駆け込む。
 そこは会議室のようだった。全員が中に入ったのを確認すると、真紀はすぐに扉に鍵をかけた。扉の向こうから、何体ものゾンビの足音が聞こえてくる。さっき見たものが全て合流したと考えると、少なくとも五体はいるはずだった。そのゾンビの群れが、扉をドンドンと叩き始める。
「これだけじゃ心許ないわね……」
 俺達は、その会議室に並べられている椅子やテーブルを手当たり次第に運んで来て、扉の前に積み上げた。これでしばらくは時間を稼げるだろう。
「窓は……窓はないか!」
 俺は会議室の中を見渡した。人が通り抜けられそうな大きさの窓が三つある。しかし案の定、全て外側に鉄格子が嵌っている。三人で手分けして、窓を開けて鉄格子が外せないかと試してみる事にした。
 一本一本握っては、強く揺らしてみる。だが、どれもびくともしなかった。真紀と小雨も結果は同じだったようだ。
「鍵だけは都合よく錆びついてるのに、こっちは全然なんて……」
 真紀が力なく呟く。窓からの脱出は諦めるしかなさそうだ。
 万策尽きた俺達は、扉から離れた壁際にぐったりと座り込んだ。

 誰も口を開かなかった。沈黙が俺達三人を包み、広い会議室の中を、ゾンビが扉を叩く音だけが響いている。
「鮫太郎……どうしてるかな」
 小雨がぽつりと呟いた。
「無事だと思いたいな」
 これは俺の願望に過ぎなかった。案外要領のいい鮫ちゃんなら、既にどうにかここを脱出しているかもしれない。
「ああ……どうしてこんな事になってしまったのかしら」
 真紀が頭を抱えた。全ての責任は俺にある。先輩の頼みを断り切れずに、ここまで真紀を連れてきたのは俺なのだ。いや、真紀だけじゃない、小雨も、鮫ちゃんも……。
「すまない。俺が肝試しなんかに巻き込んでしまったせいだ……」
「別にあなたを責めるつもりはないわ。私だってこんな事が起こるとは思ってなかったんだもの。百歩譲って殺人事件が起こるにしても、こんな……得体の知れないものが出てくるなんてね」
 その通りだ。肝試しを計画した菅山先輩だって、まさか本物のゾンビが出てくるなんて思ってもみなかっただろう。せいぜい、幻聴が聞こえるとか、写真に霊が映り込むとか、その程度のものだと考えていたに違いない。

 扉が、メリメリと音を立てて破られた。積み上げた机と椅子が少しずつ押し込まれている。
「もう駄目か……案外脆かったね」
 真紀が諦観した表情で言った。俺も小雨も、もう立ち上がるだけの気力が残っていなかった。

 やがて、机と椅子のバリケードが破られ、ゾンビの群れが室内へと雪崩れ込み、俺達を包囲した。その数は既に十体以上に膨れ上がっている。どうにかして奴らを撒いて脱出できないか、と頭を巡らせてみたが、どう考えても無理そうだ。そう考えているうちにも、数体のゾンビが会議室の入り口をくぐってきた。きっと廊下には、まだまだ多くのゾンビが徘徊しているのだろう。

 ゾンビの包囲網が少しずつ狭まってきた。
 廊下からは更に何体ものゾンビが流れ込んでくる。

 これは夢か?
 悪い夢に違いない。そう思い込む事にした。
 しかし、さっき殴られた鳩尾のあたりが、未だにジンと痛む。やはり夢ではないらしい。

 もう駄目だ。
 俺達は死ぬのか……? こんなところで……。

 俺は完全に諦めていた。真紀も、小雨も、きっと同じだろう。

 その時、突然、包囲網の外側にいたゾンビが消滅した。紙切れが一瞬で燃え尽きたかのように、シュボッ、と消えたのだ。
 俺達を取り囲んでいたゾンビ達も、驚いて背後を振り返る。しかし、やはりこれも、振り向きかけた姿勢のまま、シュボッ、と燃えた。

 俺達三人は、その様子を呆然と眺めていた。あまりに突然の出来事だったため、状況が全く呑み込めない。
 どうなってるんだ……? 助かった……のか?

 一体何が起こったのかと目をしばたたかせていると、会議室の入り口から、こちらへ歩いてくる人影が見えた。何か、手に板のようなものを持っている。

「ふぅぅ……間一髪だったね。でも、間に合ってよかった」

 その姿を見て、俺は驚愕した。俺だけではない、小雨も、真紀も……特に、真紀の驚き様といったらなかった。それもそのはずだ。

 その人影は、そのままこちらへ真っすぐ歩いてきて、俺達の前で立ち止まった。顔をはっきりと識別できる距離だ。
 間違いない。
 花のように可憐な微笑み。
 薔薇の甘い香りが、微かに漂ってきた。

 それは紛れもなく、ばっちりとメイクをした、馴染みのある真紀の姿だった。
「遅くなってごめんね、みんな、怪我はない?」
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