アンダンテ

浦登みっひ

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夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ

一日目 昼(1)

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主な登場人物

瀬名 瞬……19歳、大学2年
西野園 真紀……20歳、大学2年。瞬の彼女。二重人格の持ち主

榊 蒼太……14歳、中学2年。得雄の長男
榊 得雄……真紀の伯父、蒼太の父。榊グループのCEO
榊 葉子……真紀の祖母、朋光の妻
榊 朋光……真紀の祖父、大作家にして榊グループの中興の祖。故人。

黒木……榊家の使用人
山根……榊家の使用人
高部……榊家の運転手、使用人

京谷 小雨……瞬の幼馴染、真紀の親友

!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!


 雨が降り出した。
 梅雨空の厚く垂れ込めた雲。車の窓ガラスに点々と、雨粒の水玉模様が浮かび上がる。

 雨足が強まるにつれて、針の穴のように小さかった水玉模様は次第に大きくなり、自らの重みに耐えきれなくなって、一筋の川となって流れ落ちていく。川は周囲の水玉を飲みこみながら、更に大きな流れとなってガラスの表面を駆け下りる。その様子を俺は、高級車の後部座席から見つめていた。

「何見てるの?」
 俺の反対側、後部座席の右側……上座に座った真紀が、こちらを見ながら僅かに首を傾いでいる。
 美しく艶やかな黒髪。頬のあたりで切り揃えられた両サイドの姫毛は垂直に下がり、首の角度との誤差が絶妙なニュアンスを生み出している。真っ直ぐ切り揃えられた前髪、いわゆる、姫カットというやつだ。本当はもっと伸ばしてからにしたかったんだけど、と彼女は言うが、それでもとてもよく似合っている。

「また雨か、と思ってさ」
「最近なかなか晴れないね」
そう言って、真紀も窓ガラス越しに空を見上げる。

 数日前、真紀は髪を黒く染めた。よく髪色を変える彼女だが、黒髪に戻したのは俺と知り合ってからこれが初めてだ。さすがに良家の御令嬢だけあって、黒髪になるとより清楚で上品なレディという印象が強くなる。
 黒く大きな瞳、透き通るように白い肌。眩しい純白のワンピースが、彼女を無垢な少女のように見せていた。四月に二十歳になった真紀だが、今の彼女は二、三歳は若く見える。

 さて、そろそろ、俺と真紀が黒塗りの高級車の後部座席に並んで座っている理由を説明しておこう。


「瞬、ちょっとアルバイトしてみない?」

 数日前、真紀が発したその一言が、全ての発端だった。
「アルバイト……?」
「そう、一泊二日の、ボディーガード。今度の土日なんだけど……」
 俺は普段家庭教師のアルバイトをしているのだが、この週末はたまたま空いていた。しかし、ボディーガードなんて未経験だし、体力にも自信はない。
「ボディーガード……自分で言うのもなんだけど、俺に務まると思う?」
 彼女はそれには答えずに続けた。
「この週末にね、母方の祖母の誕生パーティーがあるの。いつもは両親のどちらかが出席してるんだけど、今年は二人とも、学会や研究でどうしても都合がつかないらしくて、私が代わりに出席することになったんだけど……」
 真紀のボディーガードということか。まさか身を護る必要があるほど物騒な誕生パーティーじゃあるまいし、これはいつもの荷物持ちかな。
「なるほど、要するに、付き添い……いや、荷物持ちってことかな?」
「ふふ……有り体に言えばそうなるね。ダメかな?」

 真紀は、上目遣いで俺の表情を窺っている。こういう時の彼女は本当にずるい。
 さて、どうするべきか。両親の代わりに出席するということは、いきなり彼女の両親と鉢合わせになるおそれはなさそうだが、他の親戚と遭遇する可能性は極めて高い。とはいえ、もしここで断ろうものなら、彼女の不興を大いに買ってしまうだろう。そう思わせるだけの威圧感が、彼女の瞳の奥からひしひしと伝わってきた。俺には最初から選択権など与えられていないのだ。

「いいよ、勿論。でも、泊まりがけ?」
 肯定の返事に、彼女は顔を綻ばせる。
「よかったぁ。パーティー会場はお祖母ばあさまが暮らしているお屋敷で、関東の山中にあるのよ」
「関東の山中……確かに日帰りは厳しいな」
「うん……二人で初めてのお泊まりだね♡」
 お泊まり。その言葉の甘い響きに、思わず体が硬直する。
「そ、それはつまり……」
 数秒間の沈黙。
「あ、部屋は別々だけどね?」
 なるほど、そりゃそうだ。親類の誕生パーティーに出席するために行くのに、そんな不埒な事をできるわけがないじゃないか。当たり前だろ、と自らを戒める。しかし、落胆が表情に出てしまっていたのか、
「期待させちゃった?」
 真紀は、ずい、と身を乗り出して、顔を覗き込んできた。俺の反応を面白がっているように見える。
「いや、そういうわけじゃ……」
「ごめんね、気を持たせるようなこと言って……」
 彼女の表情に、何故か切なげな色が浮かぶ。
「ごめん……」

 そして今日。駅で午前中に待ち合わせて、駅ナカで軽い食事を摂った後、彼女は俺に着替えを命じた。
 俺自身はそれなりの服装をしてきたつもりだったのだが、真紀の御眼鏡には適わなかったようだ。高そうな白いシャツと背広、靴まで揃っていて、着替えには駅のトイレを利用した。

 新幹線に揺られる事約一時間、駅の出口には、黒塗りの高級車が待っていた。いかにも仕事に疲れたサラリーマンに追突されそうな車である。
「あ、お迎えが来てるわ」
 真紀はまっすぐそちらへ歩いて行く。車から十メートルほどの距離まで近づいたところで、運転手は俺達の姿を認め、いそいそと降車すると、恭しく一礼しながら後部座席のドアを開けた。
「お待ちしておりました、真紀お嬢様」
「お久しぶりです、高部さん」
 高部と呼ばれたその運転手は、見たところ五十がらみ、がっちりとした巨躯を高そうなスーツに包み、白髪交じりの髪を綺麗に撫でつけた、柔和な物腰の男だった。
「ええ、お陰さまで……一度お送りさせて頂いただけのはずですが、よく私の事を覚えていらっしゃいますね」
「ふふ……お元気そうで何よりです」
「真紀お嬢様も、立派にお美しく、それに明るくなられて……」
「いえ、そんな……ありがとうございます」
 真紀との再開を喜んでいた高部氏だったが、俺には軽く会釈をしただけだった。彼の目には、俺が彼女の召使いに映っているに違いない。
 一通りの挨拶が済むと、真紀は先に後部座席に乗り込んだ。確か、席順にもマナーがあるんだったな……と、記憶を探る。真紀が座ったのは運転席の後ろ、たしかあそこは上座だ。ということは、俺は反対側に座ればいいのか。
 全員が乗り込むと、車は静かに動き出した。

 駅を出て、もう三十分ほど走っただろうか。山間を縫うように曲がりくねった道路、道の両脇には鬱蒼と深い森。道路脇から突然イノシシが飛び出してきそうな雰囲気だ。

「ん、なに?」
 視線に気付いた真紀が、こちらを振り返って微笑む。俺は慌てて話題を探した。
「え、いや、その……そうだ、真紀のお祖母さんって、どんな人なの?」
「あ、そっか……まだ全然話してなかったね。う~ん、どこから話そうかな……そう、榊朋光さかきともみつは知ってるよね? 作家の」
「さかき……? すまん、わからない」
 すると彼女は、目を丸くして声を上げた。
「ええええええっ? 知らないの? 大作家よ? 七年前に亡くなった……」
「そんなに有名な作家なのか?」
 七年前というと、中学に上がった年か。その頃はまだニュースも全く見ていなかったし、ゲーム三昧の日々を送っていて、本も全く読んでいなかった。読書家の小雨ならきっと知っているだろうけど。
「大学在学中から執筆活動を始めて、文芸誌に発表されるとたちまち人気作家の仲間入りを果たし、満を持して描かれた長編小説『闇夜』が大ヒット、以後亡くなるまで、数々の名作を世に送り続けてきた大作家なのよ」
 真紀は随分得意げだ。
「はあ、なるほど……」
「作家としての才能だけじゃないの。十四歳の時に両親を戦争と病気で亡くして、大学卒業と同時に家督を継ぐと、執筆活動の傍ら、戦後の復興期に家業であった製造業を発展させ、また新たにいくつもの事業を起こして全て成功を収め、一代で榊家を日本でも有数の財閥に育て上げた」
「……ふむ」
「彼の父親も、当時はまだ黎明期だった精神分析の分野で著名な研究者で、いくつもの論文を遺しているわ。朋光は名家のサラブレッドだったというわけ」
「それはすごい」
「それで、今日のパーティーの主役である葉子お祖母さまは、元々榊家の使用人として働いていたんだけど、朋光に見初められて、彼の大学卒業と同時に結婚したの。家督を継いだのとほぼ同時期ね。今日で御年八十八歳」
 やれやれ、ようやく彼女の祖母の話が出てきた。なお、ここまで彼女が披露した実家の自慢話は殆ど記憶に残っていない。大作家とやらの名前は何だったっけ……?
「へえ……じゃあ、真紀のお母さんも大変なお嬢様だったんだね」
「うん、まあ、そうね。私の母は研究者の道へ進んだけど……」
 真紀は両親の事をあまり話したがらない。母親が研究者だということもこれが初耳だ。話の流れからすると、もう少し母親の話が続くのかな、と思ったが、彼女はそれっきり口を噤んでしまった。

「あ、ほら、見えてきたよ」
 真紀が前方を指差す。
 なだらかな山の中腹に建つ古びた洋館。その赤黒い屋根が、木々の隙間から覗いている。曇り空の下、黒い森の中で、微かに滲んだ白亜の外壁が、不気味なほどぼんやりと浮き上がって見えた。
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