アンダンテ

浦登みっひ

文字の大きさ
65 / 126
夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ

一日目 昼(2)

しおりを挟む
 前にこの館を訪れたのは七年前、祖父の葬儀の時だった。たしかその時も、今日のような雨模様だったと記憶している。両親に伴われて、このマイバッハの後部座席に座っていた、当時十三歳の私。この頃から既に両親の仲は冷え切っていて、車中でも会話は一切なかった。

 瀟洒なフレンチスタイルのこの洋館が建造されたのは戦前のことで、心臓に持病を持っていた曾祖父が、静養のために建てた別荘だった。しかし、晩年はほとんどの時間をこの洋館で過ごしており、別荘というより、むしろ生活の拠点はこちらに置いていたようだ。周辺の森を切り開いて畑や家畜の飼育も行っていたらしく、当時は十人以上の使用人を雇い、戦時中、日本中が困窮していた時期にも、ある程度の自給自足生活を行えていたそうだ。
 畑も酪農もやめた今日、その跡地は広大な駐車場となっているが、その片隅に残された木造の掘っ立て小屋と錆び付いた水道管が、辛うじて当時の名残をとどめていた。あの寂しげな水道管は、今も変わらずにあるだろうか。
 洋風の半円窓に、切妻屋根の上品でモダンなデザイン。玄関前にはポーチが張り出しており、その上部が二階の窓から出られるバルコニーになっている。年月を感じさせない白壁は、灰色の空の下で蛍光塗料のように淡い光を放ち、赤黒い屋根は何故か色みが薄く、建物全体の色調がややモノクロームに映った。

 館は、七年前に訪れた時と少しも変わらぬ姿でそこにある。高部さんは、当時と比べると少し白髪が増えたようだ。
 当時まだ中学生だった私は、学校の制服で葬儀に出席した。よく言えば古風、悪く言えば古臭くて、女子にはあまり人気がない制服だった。でも今日は、我ながらあざといと自覚できるほど、清楚でかわいらしい白のワンピースに身を包んでいる。七年も経てば、人間は変わってしまうものだ。今回は、同行者も両親ではない……横目でちらりと隣を見る。

 そこに座っているのは、瀬名瞬。大学での同級生であり、また、付き合い初めて四か月になる私の彼氏だ。

 実は、両親から今回のパーティーへの出席を頼まれた際、実家から一人、同行する使用人を寄越す手筈になっていたのだが、私は独断で勝手に瞬を連れてきてしまった。もしかしたら、本来同行するはずだった使用人は、まだ私のマンションの部屋の前で待っているかもしれない。スマホの電源は切ってあるが、きっと不在着信が入りまくっているだろう。電源を入れ直すのが少し怖い……。それに、後で両親にこの事をどう説明しようか。
 まあ、今更悩んでも後の祭り、ここまで来てしまえばこっちのものだ。覆水盆に返らず、今は、彼との時間を楽しむ事だけを考えよう。二人で遠出をするのは、これが初めてなのだから。

 黒いマイバッハは九十九折りにくねくねと折れ曲がった山道を登ってゆく。道路脇に並ぶ広葉樹の枝が車の頭上を覆い、曇天も相俟って、昼だというのにヘッドライトを付けなければならないほど辺りは暗かった。

 ヘアピンカーブを数回曲がると、森が突然途切れて、開けた広い土地に出る。その中央にひっそりと建っているのが榊家の館だ。玄関の屋根付きのポーチには、黒地のドレスに白いエプロン姿の、クラシカルなメイド服に身を包んだ使用人が一人立っている。車はポーチの前に滑るように走り込み、静かに停まった。高部さんが後部座席のドアを開け、瞬の後に続いて私も車を降りた。

「お待ちしておりました、真紀お嬢様。本日ご案内をさせて頂く、黒木と申します」
 黒木と名乗ったその使用人は、慇懃に頭を下げた。三十代前半ぐらいに見える知的な雰囲気の女性で、清潔感のある黒髪のショートボブ、スマートな銀縁眼鏡ときびきびとした口調が、クールな容貌をさらに引き立てている。こんな女性が着れば、メイド服が全くコスプレに見えないのが不思議だ。ただ、その顔には見覚えがなく、きっと七年前ここに来た時よりも後に雇われたのだろう。

 車から荷物を下ろし、黒木さんに従って館の中を歩く。モノトーンを基調としたシックな内装。壁には等間隔で燭台が並んでいるが、照明としては主に天井からの電灯が用いられる。窓枠や手摺などにさりげなく装飾や浮かし彫りが施されており、華やかさはないものの、細やかな上品さが随所に感じられた。ヒールの足音とキャリーケースのキャスターのガラガラという音が、木造の廊下の中で反響している。館内の構造は七年前と変化がなく、案内がなくても迷う事はなさそうだ。
 黒木さんが一歩足を踏み出すたびに、メイド服のスカートが揺れる。彼女の後ろ姿は、背筋がぴんと伸びていて、とても凛々しかった。スカート丈が長く、全体的に落ち着いたデザインのメイド服ではあったが、エプロンのフリルがアクセントになっていて可愛らしい。ちょっと着てみたいな。

 最初に通されたのは、パーティー会場として使われるであろう大ホールだった。前面にちょっとしたステージがあり、その前にはピアノが置いてある。天井から吊り下げられた巨大なシャンデリア、ちょうどその真下で、見知った顔が丸テーブルを並べているところだった。母の兄、得雄伯父様だ。
 榊朋光の長男で、榊グループのCEOを務めている。偉大な父から事業を引き継いで以降、榊グループを堅実に発展させてきたやり手の経営者なのだが、私の知っている伯父様は、いつも優しくて剽軽で、一般的に知られているきれ者のイメージとは対照的な人だった。私はキャリーケースを黒木さんに預け、伯父様に挨拶をしに向かう。

「得雄伯父様?」
 名を呼ばれ、伯父様は辺りをきょろきょろと二、三往復見回していたが、私の姿を認めると、戸惑いの表情を浮かべた。
「え、え~と……真紀ちゃん? 真紀ちゃんなのかい?」
 エキゾチックでハンサムな顔立ちと柔らかな物腰、穏やかな声色。草刈正雄に雰囲気がよく似ていると思う。品のいいシャツとスラックスで、シャツの袖を肘のあたりまで捲っていた。
「ご無沙汰しております、伯父様」
「ああ、いや、こちらこそ。東北の方からわざわざ来てくれたんだって? 遠路はるばる、ありがとう」
「両親が学会や研究の都合でどうしても来られないとの事で……私が名代で参りました」
「ははは、うんうん。杏子と修司くんは、最近どうなんだい?」
 杏子は私の母で、修司は父の事だ。私は、ええ、まあ……と、言葉を濁した。
「そうか、相変わらずか……真紀ちゃんは? 二人とは、上手くやってるかい?」
「……あんまり。親元を離れることにも、強く反対されましたし……」
「そうか……。でも真紀ちゃん、前に会った時より随分明るくなったじゃないか? さっき声を掛けられた時、すぐには君だと気付けなかったよ。親父の葬式以来だから、七年ぶりか……」
 伯父様は私の姿をしげしげと眺めた。
「七年も経てば、女の子は変わるもんな……とても、素敵な女性になったね」
「まあ……お上手ですこと。でも、私をおだてても、何も出ませんよ?」

 と、伯父様は突然、ホールの入り口の方を見やり、そちらへ向かって手招きをして見せた。
「……あ、おい、蒼太、こっちに来なさい。真紀ちゃんにご挨拶なさい」
 振り返ると、開け放たれた出入り口の扉の陰から、男の子がひょっこりと顔を出してこちらを覗いているのが見えた。これまた初めて見る顔だ。だが、あっという間もなく、男の子の姿は見えなくなってしまった。トタトタと廊下を走る音が聞こえ、みるみる遠ざかってゆく。
「まったく……いや、すまないね真紀ちゃん。あれが、私の息子の蒼太だ。そういえば、真紀ちゃんは蒼太とは初対面かな?」
「ええ……はい、おそらく……」
「親父の葬式の時、蒼太は体調を崩していて連れてこなかったからね……まあ、見てのとおり、人見知りで困ったものだよ。神経質というのか、ナイーブというのか……私も、仕事が忙しくてなかなか蒼太の相手をしてやれないから、どうも嫌われているらしくてね」
「……まあ、そうなのですか?」
 適当に相槌はうったものの、蒼太君の気持ちは理解できなくもない。私の家庭も、両親が共に多忙で家を空ける事が多く、話し相手といえば、当時飼っていたアンジュという名前の犬だけだった。
「最近は部屋に篭もりがちだし、少しマザコンの傾向もあるようでね……でも、一度膝を突き合わせてゆっくり話してみたかったし、ちょっと環境を変えて、大自然の空気を吸わせたり体を動かしたりしてみたらいい気分転換になるんじゃないか、と思って連れてきたんだけどね……やれやれ、なかなか上手くいかんもんだ」
 伯父様はおどけたように肩を竦めてみせた。

「おっと、いつまでも愚図愚図しちゃおれんな、会場の準備をせんと……なにしろ、人手が足りなくてね。シェフだけはいつもの人に頼んだから心配はいらないんだが……休日に部下を駆り出すわけにもいかんし、人は連れてきていないんだよ。まあ、おふくろの誕生日パーティーは毎年欠かさずやってくれという親父の遺言もあるし、もう親孝行できる機会も限られているかもしれないと思ってね、こうして自ら汗を流しているわけだ。本当は蒼太にも手伝わせるつもりだったんだが、あの調子だからね」
「まあ伯父様、私も手伝いますわ」
「うん、頼む……しかし、真紀ちゃんの仕事は別だ、部屋に荷物を置いて来たら、黒木さんの指示に従って手伝ってほしい。そして、できればそっちの彼をこっちに回してもらいたいな」
 伯父様は顎をしゃくって瞬を指した。やっぱり、彼は付き添いの使用人だと勘違いされているようだ。
「あの、伯父様、彼は使用人ではありません。改めて、紹介させて頂きますわ……瞬、こちらは得雄伯父様。私の母の兄にあたる方よ」
 私は瞬の手を引いて、伯父様の目の前まで連れてきた。彼はさっきから、状況が今一つ飲みこめない様子でぼんやりしている。今こそ、とっておきの悪戯をしかける絶好のタイミングだ。彼と腕を絡ませて、私はこう言った。

「彼は瀬名瞬くん。大学の同級生で、私のフィアンセなんです」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...