アンダンテ

浦登みっひ

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夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ

一日目 昼(3)

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「彼は瀬名瞬くん。大学の同級生で、私のフィアンセなんです」

 真紀のその一言で、場の空気は一変した。
「ふ、フィアンセ?」
 得雄氏は素っ頓狂な声を上げながら、目を丸くしている。値踏みするような視線が、俺の頭からつま先までの間を何度も往復する。SRPGでよくある、キャラクターの頭の上にHP等のバーが表示されている画面を連想した。俺のパラメータはさぞかし貧相なことになっているだろうな。
「杏子からは何も聞いてないんだが……」
 当の俺自身が初耳なのだから無理もない。あまりに突然のことだったので、こちらも呆気に取られてしまい、否定するタイミングを逃してしまった。
「フィアンセと言っても、まだ口約束の段階で、両親への紹介もまだなんですけれど……」
 言い出した真紀もさすがに驚いたのか、自らフォローを始めている。とはいえ、ハッタリをかましてから妥協点を探るという交渉の常套手段によって、口約束そのものはほぼ既成事実となってしまった感がある。油断も隙もないとはこのことか……。
「あ、ああ、そうなのか……いや、杏子からは、使用人を一人同行させると聞いていたものだからね」
「私が無理矢理彼を連れてきてしまったんです……ごめんなさい」
「いやいや、そんな、謝ることはないんだよ。それにしても……」
 得雄氏は、改めてまじまじと俺を見た。どこの馬の骨か、と言わんばかりの表情である。俺は思わず背筋を正した。
「真紀ちゃんと同級生だと言ったね? 何を勉強しているんだい?」
「医学部に所属しております」

 ……ああ、やってしまった。

「ほう、医学部……ということは、つまり、医者の卵ということかね」
「はい、父が総合病院を経営しておりまして……」
「へえ、じゃあ、ゆくゆくはその病院を継ぐつもりなのかい?」
「はい、そのつもりでおります」
 得雄氏は顔を綻ばせた。何とか好印象を持たせることに成功したらしい。
「立派な青年じゃないか、真紀ちゃん。将来は院長夫人かい?」
 隣でずっと笑いを堪えていた真紀は、慌てて猫かぶりの微笑を作って答えた。
「そんな、気が早すぎますわ、伯父様」
「もしかして、真紀ちゃんが明るくなったのも彼のお陰なのかな?」
 得雄氏の言葉に、真紀は照れくさそうに俯いた。彼女のこんな表情は初めてだ。ぶりっこモードにも数種類のバリエーションがあるらしい。
「はは、図星みたいだね、結構結構。じゃあ瀬名君、改めてお願いしたいんだが、部屋に荷物を置いてきたら、準備を手伝ってはもらえんかね? ちょっと男手が足りなくて困ってるんだよ」
「ええ、それは勿論。お手伝いさせて頂きます」
「ありがとう、そいつは助かる……そうそう、部屋に行く前に、ちょっとおふくろに挨拶してやってくれると、おふくろも喜ぶと思うんだが……」
「はい、私も、葉子お祖母様にお目にかかりたいですわ」
「うむ、ありがとう。じゃあ黒木さん、二人をお願いします」
 指示を受けた黒木さんは、恭しく一礼した。
「かしこまりました」

 俺達三人は、黒木さんの先導で、再び長い廊下を歩いた。前を歩く真紀の背中を見つめながら、それにしても、と思う。
 今の真紀は、俺が普段接しているぶりっ子な彼女とはまるで別人だった。嫋やかな微笑み、流麗な身のこなし。アヒル口もハムハムポーズもせず、上品でお淑やかなレディとして振る舞っている。元々この小さな頭蓋の中に二つの人格を併せ持っている彼女ではあるが、いったい全部でいくつの顔を持っているのだろう……。
 いつの間に押し付けられたものか、ふと気がつくと、俺は自分のものに加えて真紀のキャリーケースまで引かされていた。
 マジシャンが持っていたトランプやコインが、気付かぬうちに観客のポケットに入っていた、という手品を見たことがあるだろう。マジックとしてはある意味定番のものだが、彼女はその種の手品の天才なのではないかとよく思う。彼女とデートをしていると、知らず知らずのうちにたくさんの荷物を持たされていることが本当に多いのだ。

 次に俺達が案内されたのは、本日の主役である、真紀の祖母・葉子女史の部屋だった。
 この館の主の部屋。さぞかし広くて豪奢な部屋なのだろうと思っていたのだが、想像に反して、そこは十畳か十二畳ほどの質素な部屋だった。家具もそれほど高価な調度品には見えないし、表面の細かい傷などから、相当使い込まれたものであることが窺い知れる。
 部屋の中央には大きなベッドが設えられており、ベッド脇にはメイド服姿の使用人が一人控えている。ベッドを覆う暖かそうな羽毛布団から、寝間着を纏った老婆が上半身を出しているのが見えた。
「こんにちは、ご無沙汰しておりました、葉子お祖母様、西野園真紀です」
 真紀が声を掛けると、傍に控えていたメイドがベッドのリクライニングを操作した。微かなモーター音とともに上半身がゆっくりと起き上がり、メイドは立ち上がってこちらに深くお辞儀をした。

 雪のように白い毛髪と、生気の薄い眼差し。そこにいたのは、痩せ細った小さな老婆だった。顔には深い皺が何本も刻まれ――初めて目にした葉子女史の姿は、とても弱々しく見えた。その小さな口から、辛うじて聞こえる程度の嗄れた声が漏れる。
「……おお、杏子か。よく来たね、ほら、こっちへおいで」
 たしか、『杏子』は真紀の母親の名前である。どうやら、真紀と彼女の母親を混同しているらしい。
「大奥様、あの方はお孫さんの真紀お嬢様です」
 メイドがそう耳打ちする。しかし、その声は耳打ちにしては相当大きく、こちらまで丸聞こえするほどだった。少し耳も遠くなっているのかもしれない。
「真紀……ああ、真紀……ずいぶん、大きくなったねぇ。もっと近くで、顔を見せておくれ」
「失礼いたします」
 真紀は小さくお辞儀をして、部屋の中へ足を踏み入れた。俺も彼女に倣い、一礼をして部屋に入る。

 真紀は、ベッドの脇に置いてあった椅子に腰掛けた。
「久しぶりね、真紀ちゃん……もう、何年ぶりになるかね」
「七年ぶりですわ。申し訳ありません、なかなか会いに来られなくて……」
「いいのよ、私ももう、すっかり体が弱くなってしまって……たまに、体調のいい時に館の周りを散歩するぐらいね。今日みたいに天気の悪い日は、もう体を起こすのも億劫でねえ……」
「でも、お散歩されるのなら、まだまだお元気でいらっしゃいますわ」
 葉子女史は、目を細めながら真紀の顔をまじまじと見た。
「真紀ちゃん、あなた、別人のように随分明るくなったわねえ。昔から大人しすぎる子で、心配していたんだけど、今のあなたを見て、安心したわ」
「伯父様にも言われましたわ、それ……あ、そうそう」
 真紀は何か思い出したようにこちらを振り返り、手招きをした。黒木さんと一緒に部屋の入り口に立っていた俺は、こわごわと彼女に歩み寄る。
「ご紹介致しますわ。彼は、私のフィアンセの、瀬名瞬君。大学の同級生なんですよ。実家が総合病院を経営していて、今は医学部で医師になるための勉強中」
「……お初にお目にかかります。瀬名と申します」
 ああ、何だかもう引き返せないところまで来てしまったような気がする。
「まあ、おやおや……これは驚いたわね……うっ……」
 と、葉子女史は突然、ゲホゲホと激しく噎せ始めた。傍に控えていたメイドが慌てて背中をさする。俺と真紀はどうしたらいいかわからず、アウストラロピテクスぐらい中途半端な姿勢でその様子を見守っていた。
「申し訳ありませんおばあさま……私が驚かせてしまったばっかりに……」
 咳が治まるまでには数秒を要した。いつの間にやってきたのか、黒木さんも一緒にその背中をさすっている。
「いいの、いいの……見苦しいところを見せてしまって、すまないね……。山根さんも黒木さんも、もう大丈夫だから。ありがとうね」
 山根と呼ばれたメイドは、見たところ二十代後半ぐらいか。硬派な印象を受ける黒木さんとは対照的に、やや垂れ目気味で温和そうな雰囲気を持つ女性だった。背中をさするのをやめた山根さんは、黒木さんに何か目配せをした。黒木さんは軽く頷き、
「では、お嬢様、瀬名様、お部屋にご案内させて頂きます。どうぞ、こちらへ」
 と、丁寧ながらも有無を言わせぬ口調で、俺達を廊下へ導いた。

 そそくさと部屋を後にした俺達は、黒木さんに従って二階に上がった。歩きながら、真紀が黒木さんに尋ねる。
「黒木さん、おばあさまの具合は、ずっと良くないのですか?」
 黒木さんはその場で、つと立ち止まった。その表情からは少し躊躇している様子が見受けられたが、こちらへ向き直り、俺の顔をちらりと見ると、意を決したように話し始めた。
「実は……数日前から、風邪を拗らせて肺炎になりかかっておられるようで……喀痰検査の結果待ちではありますが、現在は主治医から抗生物質を処方されております」
 言い終わると、また俺の顔をちらりと見る。俺が医学生だからかもしれない。
「まあ、そうだったのですね……大丈夫かしら、今日のパーティーは……」
 真紀が不安そうに呟く。
「ご本人は乗り気でいらっしゃいますが……得雄様とも相談して、一言挨拶のみで退席される手筈になっております」
「大事なければいいのですけれど……」

 会話はそこで途切れ、俺達三人は再び歩き出した。そこから少し進んだところにあるドアの前で、黒木さんは立ち止まり、振り返った。
「こちらが、本日お嬢様にお泊り頂く部屋になります。昔、杏子さまがお住まいになっていた部屋で、杏子さまがこちらへ滞在される際も、いつもこの部屋をご利用になります」
 通された部屋は葉子女史の部屋よりもだいぶ広く、家具や内装も、ロココ調の装飾が施された高級そうなもので統一されている。真紀はそれを興味深そうに観察していた。
「へえ、これがお母さまの部屋……なんだか、意外と少女趣味だわ……」
「瀬名様には、一階にある来客用の部屋をご用意しております。今すぐ行かれますか?」
「え、一階……瞬の部屋は、ここから離れているのですか?」
 真紀が聞き返した。
「ええ、はい……その、使用人の方がいらっしゃると伺っておりましたので……」
「その、来客用のお部屋は、一つしかないのですか?」
「いえ、元々は使用人の住居スペースだった部屋を改修したものですので、空き部屋はございますが……」
「でしたら、私も瞬の隣の部屋を使わせてもらえませんか? せっかく連れてきたのに……」
 黒木さんは少し眉を寄せて、困り顔になった。この人の表情らしい表情を初めて見たような気がする。
「はあ……部屋をご用意することはできますが、私の一存では……」
「伯父様には、私から話します。だから、お願い……」
 真紀が顔の前で手を合わせながら懇願すると、黒木さんはたまらないといった様子で両手のひらを胸の前に上げ、それを制した。
「あ、あの、そんな、おやめください……わかりました、お二人とも来客用の部屋にご案内致します」

 一階の来客用の部屋は、先程見てきた真紀の母親の部屋に比べるとかなり手狭で、内装もありふれたシンプルなものだった。黒木さんは真紀に念を押す。
「本当に、こちらでよろしいのですか?」
「はい、ありがとうございます。わがままを言ってしまって、申し訳ありません」
「いえ、何かご入用の際は何なりとお申し付けください。パーティーの準備についてですが……」
「ええ、お手伝いさせてください。そうでないと、伯父様に叱られますわ」
「かしこまりました。では、私はキッチンの方に詰めておりますので、ご用意ができましたら、インターホンでご連絡ください。それでは、失礼いたします」
 黒木さんは深々と頭を下げて、部屋を出ていった。

「ふぅ~、息が詰まるわ……」
 真紀は、大きくため息をつきながらポツリとこぼして、そのままベッドに倒れ込んだ。ごく自然に振る舞っているように見えていたが、実際には相当気が張り詰めていたのかもしれない。
 彼女はベッドの上にうつ伏せになったまま数秒間じっとしていたが、突然枕を抱きかかえ、顔を押しつけながら小さく肩を揺らし始めた。真っ白いワンピースから伸びるほっそりとした脹脛、白いハイヒールを履いたままの足が、クロールのようにぱたぱたと動いている。
「……おい、どうしたんだ」
 そう声をかけると、真紀は枕から顔を上げてこちらへ振り向いた。もの言いたげな表情で、にやにやと笑っている。
「瀬名君は、医学部に所属しているお医者さんの卵なの?」
「……教育学部だよ」
「お父様は、地元の総合病院を経営していらっしゃるの?」
「吹けば飛ぶような小さな広告代理店の経営者だよ」
 真紀は改めて、ふふ、と笑った。
「じゃあ、さっきはどうして嘘をついたの?」
 どうしてだろう。自分でもよくわからない。見栄? ……いや、そんな大それたものではない。強いて言えば、『ついつい』だ。
「……まあ、売り言葉に買い言葉、っていうかね……」
「それ、用法違うんじゃない? ……だって、すぐ否定されると思ってたし、まさか瞬も嘘を被せてくるなんて思わなかったんだもの」
 彼女はそう言いながら寝返りをうった。柔らかく微笑んだその表情からは、もう疲れの色は感じられない。
「『立派な青年じゃないか』だってよぉ~、ふふふふ……どうしよっか」
 声を殺したまま、鮮やかな紅をひいた唇が大袈裟に動く。読唇術の心得がない俺にでも、その唇は『け』『っ』『こ』『ん』と読めた。
「……しちゃう?」

 冗談めかして言っているように見えるが、その実、全くその気がないのなら、俺を親族に引き合わせたりはしないような気がする。もしかして今、俺は試されているのではないか……? 何かうまい返しをしなければ、と思考を巡らせてみたが、出てきた答えは、我ながら呆れてしまうほどしょうもないものだった。

「医者に、なれたらね」

 言い終わるや否や、飛んできた枕が俺の顔面を直撃する。真紀は、その小さな頬をぷくりと膨らませていた。
「もう……嘘でもいいから、『しよっか』って言えばいいのに。変なところだけ正直なんだから」
 俯いた彼女の視線が、その華奢な脚の上で止まる。

「あら、靴を履いたままベッドを使っちゃったわ……はしたない……」
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