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夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ
ペルソナ
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真紀……いや、真紀さんがあの部屋から出て来たら。
今日は話をする機会があるだろうか。どんな話をしよう?
思えばこれまで、色恋沙汰とは無縁の人生だった。級友たちが女子の器量をあれこれと論評しているのを尻目に、僕はずっと勉学に励んできたのだ。だから、同年代の女子達ともあまり話をしたことがない。
とはいうものの、たとえば、文学作品に描かれる、激しく身悶えるような悲恋あるいは情愛、そして、妖しく艶めかしい女性の姿態、そういったものに憧れたことがないではない。夏目漱石の『三四郎』のような、不器用で爽やかな片想いに胸を打たれたこともある。しかし、それらは全て文学の中で表現として昇華された女性達であり、現世に存在する女性達は、僕の中にある偶像とは似ても似つかないものばかりだった。何も容姿のことだけを指してそう述べているわけではない。現実の女性は、理屈が通らず、我が儘で、妬み嫉みが激しく、陰口ばかり叩いている。まるで別の生き物である。
だから、僕は恋というものを諦めていた。
彼女と出会うまでは。
僕の夢想の中にしか存在しなかった偶像の女神が、現世に受肉して舞い降りたかと思わせるほどの、美しい御姿。かのエワルド卿の悲劇を知ってもなお、美しい精神は美しい肉体に宿る、そう信じずにはいられない。
一目惚れとは、こうしたメカニズムなのである。
息を殺し、廊下に身を潜めながら、僕は彼女が出てくるのを待っていた。昨日と同じように。別に疚しいことをしているわけでもないのに、何故僕は隠れているのだろう。我ながら滑稽なことである。こうして暗闇の中でじっとしていると、時間の感覚が曖昧になってくる。もうどれくらいこうしているのか、それは十分ほどのようにも思えたし、そろそろ一時間になるような気もする。自分の感覚にここまで信用が置けなくなるのも初めてのことだった。
それから程なくして扉は開き、真紀さんが姿を現した。
相変わらず焦点の定まらない眼つきで、来た時と同じ経路を戻っていく。僕は、彼女の邪魔をしないよう細心の注意を払いながら、その背中を追った。
そういえば、昨日はどこで尾行に気付かれたのだろう。そもそも、どこで夢中遊行から醒めたのだろう。この部屋を出た時にはもう意識が戻っていたのだろうか、だとすると、彼女の部屋の前に辿り着くまで僕の尾行に気付かなかったのか……? いや、僕だってそこまで用心して後をつけていたわけではない。彼女が正気を取り戻していたなら、こちらの気配にすぐ気付いていたはずである。
では、翻って今日の様子はどうか。彼女は既に覚醒しているのだろうか?
……しかし、見たところ、往路と格別の変化が見られるわけでもない。
ところで、夢遊病の患者には遊行中の記憶がないということは知っているのだが、ではその最中、患者の脳髄はどのように作用しているのだろう。夢遊病というぐらいだから、何らかの夢を見ているのだろうか。人は眠りの浅い時分に夢を見るわけであるが、その最中に寝言を漏らしたことがない人はいないであろう。ただ自分でそれを聞くことができないだけのことである。これは眠っている間の神経活動が声を出させているのだが、夢中遊行はその極端な例だと言えるかもしれない。
では、例えば、仮に夢中遊行を行っている最中に何かの夢を見ているとしたら、徘徊中の行動が夢に影響を及ぼしたり、またその逆に、夢の内容が徘徊中の行動に反映されたりすることは……?
考え出すとなかなかに興味深い。人間の脳の働きについては、まだまだ解明されていないことが多いのである。父ならば何か知っているかもしれないが……いや、あの男に尋ねる気には、やはりなれない。
昨夜と同じように、僕たちはまた彼女の部屋の前まで辿り着いた。今日はまだ夢から覚めていないのだろうか、話す機会はないのかと諦めかけた頃、
「今日もいらしたのですね」
背中越しに、真紀がようやく言葉を発した。鈴の音のように玲瓏たるその声が、凍てついた夜気を震わせて、僕の鼓膜を揺らす。
「ごめんなさい。でも、やっぱり気になって……」
「子供は寝る時間です」
彼女は詰るように冷たく言い放った。
「そんな……こ……子供扱いしないでください!」
「そういうところが子供なのです」
そう言われては、返す言葉もない。彼女から見たら、たしかに僕は子供なのかもしれない。
「……ごめんなさい。迷惑でしたか?」
彼女は相変わらずこちらに背中を向けたままで、表情が全く窺えなかった。怒っているのだろうか。
「いえ……でも、何も面白いことなんてありませんよ。それに私のせいでお風邪など召されたら……」
「それなら心配いりません。こう見えて、風邪ひとつひいたことがないのです」
これは嘘だった。どちらかといえば、僕は体が弱い方だ。こんなもやしのような体で粋がってみても、ちっとも様にならない。違う、こんな話がしたいわけではなかった。何か、別の話題を……。
「真紀さんは、どんな夢をよく見ますか?」
咄嗟に浮かんだ質問は、これだった。さっきまで彼女の見ている夢について考えていたため、そこから連想されたのであろう。
「……夢? 夢ですか?」
初めての会話で夢について尋ねられることはまずない。彼女は意表を突かれたように軽く首を傾げた。緩やかで繊細なその仕草が、子猫のように愛らしい。それから、ゆっくりとこちらを振り返る。その瞳に一瞬光るものが見えたような気がしたが、暗くて確認できない。ともあれ、怒ってはいないようで、僕は少し安心した。
「そうですね……逃げる夢が一番多いです」
「逃げる……何から?」
「わかりません……どうして逃げているのか、目が覚めるとすっかり忘れているのです。でも、とても怖かった記憶だけはハッキリ残っていて……」
伏し目がちで物憂げに語る彼女の横顔は白百合のように可憐で、僕はその横顔に穴があくほど見惚れていた。
「……私の顔に、何かついています?」
視線に気付いた彼女が、こちらへ正面に向き直った。僕は慌てて目を逸らす。
「あ、いえ……逃げる夢ですか……僕は、飛ぶ夢をよく見ます。遥か上空を、鳥のように自在に……風に乗って、雲間を抜けて……とても気持ちがいい、大好きな夢だ。でもね、いつも、最後には墜落してしまうんです」
「墜落……ですか」
ミニチュアのような山や街をはるか下方に見下ろしながら、空を飛んでいる感覚。顔に、体に、凄まじい風圧を浴びて、雲の隙間を縫いながら滑るように舞う。そんな夢の中の場面を想像した。
「ええ。突然、がくっと風に乗れなくなってしまうんです。そこから先は、真っ逆さま。錐揉みになって、どんどん地面が近付いてくる」
「それでは、地面に……」
「そう、激突する寸前に目が覚めるのです。ああ、よかった、生きていた……って。それから、寝小便をしていないことを確認して、安心します」
最後は態とおどけて言ってみた。これが功を奏したらしく、彼女は一瞬くすりと笑う。その微笑みが、天照大神もかくありや、というほど眩しかった。
「ふふ……。空の上から眺める景色は、さぞ美しいでしょうね。今夜は、これで失礼します。おやすみなさい、良い夢を……」
「おやすみなさい、真紀さん」
彼女は軽くお辞儀をして、部屋に入っていった。純白の寝間着が扉の中に吸い込まれ、辺りは再び暗闇に包まれる。でも、僕の心は、初めて彼女と会話をした喜びに満ちていた。
それにしても。僕は、さっきの彼女の表情を思い出す。最初にこちらを振り向いた横顔、その瞳に浮かんでいた光。あれは、もしかして、涙……?
今日は話をする機会があるだろうか。どんな話をしよう?
思えばこれまで、色恋沙汰とは無縁の人生だった。級友たちが女子の器量をあれこれと論評しているのを尻目に、僕はずっと勉学に励んできたのだ。だから、同年代の女子達ともあまり話をしたことがない。
とはいうものの、たとえば、文学作品に描かれる、激しく身悶えるような悲恋あるいは情愛、そして、妖しく艶めかしい女性の姿態、そういったものに憧れたことがないではない。夏目漱石の『三四郎』のような、不器用で爽やかな片想いに胸を打たれたこともある。しかし、それらは全て文学の中で表現として昇華された女性達であり、現世に存在する女性達は、僕の中にある偶像とは似ても似つかないものばかりだった。何も容姿のことだけを指してそう述べているわけではない。現実の女性は、理屈が通らず、我が儘で、妬み嫉みが激しく、陰口ばかり叩いている。まるで別の生き物である。
だから、僕は恋というものを諦めていた。
彼女と出会うまでは。
僕の夢想の中にしか存在しなかった偶像の女神が、現世に受肉して舞い降りたかと思わせるほどの、美しい御姿。かのエワルド卿の悲劇を知ってもなお、美しい精神は美しい肉体に宿る、そう信じずにはいられない。
一目惚れとは、こうしたメカニズムなのである。
息を殺し、廊下に身を潜めながら、僕は彼女が出てくるのを待っていた。昨日と同じように。別に疚しいことをしているわけでもないのに、何故僕は隠れているのだろう。我ながら滑稽なことである。こうして暗闇の中でじっとしていると、時間の感覚が曖昧になってくる。もうどれくらいこうしているのか、それは十分ほどのようにも思えたし、そろそろ一時間になるような気もする。自分の感覚にここまで信用が置けなくなるのも初めてのことだった。
それから程なくして扉は開き、真紀さんが姿を現した。
相変わらず焦点の定まらない眼つきで、来た時と同じ経路を戻っていく。僕は、彼女の邪魔をしないよう細心の注意を払いながら、その背中を追った。
そういえば、昨日はどこで尾行に気付かれたのだろう。そもそも、どこで夢中遊行から醒めたのだろう。この部屋を出た時にはもう意識が戻っていたのだろうか、だとすると、彼女の部屋の前に辿り着くまで僕の尾行に気付かなかったのか……? いや、僕だってそこまで用心して後をつけていたわけではない。彼女が正気を取り戻していたなら、こちらの気配にすぐ気付いていたはずである。
では、翻って今日の様子はどうか。彼女は既に覚醒しているのだろうか?
……しかし、見たところ、往路と格別の変化が見られるわけでもない。
ところで、夢遊病の患者には遊行中の記憶がないということは知っているのだが、ではその最中、患者の脳髄はどのように作用しているのだろう。夢遊病というぐらいだから、何らかの夢を見ているのだろうか。人は眠りの浅い時分に夢を見るわけであるが、その最中に寝言を漏らしたことがない人はいないであろう。ただ自分でそれを聞くことができないだけのことである。これは眠っている間の神経活動が声を出させているのだが、夢中遊行はその極端な例だと言えるかもしれない。
では、例えば、仮に夢中遊行を行っている最中に何かの夢を見ているとしたら、徘徊中の行動が夢に影響を及ぼしたり、またその逆に、夢の内容が徘徊中の行動に反映されたりすることは……?
考え出すとなかなかに興味深い。人間の脳の働きについては、まだまだ解明されていないことが多いのである。父ならば何か知っているかもしれないが……いや、あの男に尋ねる気には、やはりなれない。
昨夜と同じように、僕たちはまた彼女の部屋の前まで辿り着いた。今日はまだ夢から覚めていないのだろうか、話す機会はないのかと諦めかけた頃、
「今日もいらしたのですね」
背中越しに、真紀がようやく言葉を発した。鈴の音のように玲瓏たるその声が、凍てついた夜気を震わせて、僕の鼓膜を揺らす。
「ごめんなさい。でも、やっぱり気になって……」
「子供は寝る時間です」
彼女は詰るように冷たく言い放った。
「そんな……こ……子供扱いしないでください!」
「そういうところが子供なのです」
そう言われては、返す言葉もない。彼女から見たら、たしかに僕は子供なのかもしれない。
「……ごめんなさい。迷惑でしたか?」
彼女は相変わらずこちらに背中を向けたままで、表情が全く窺えなかった。怒っているのだろうか。
「いえ……でも、何も面白いことなんてありませんよ。それに私のせいでお風邪など召されたら……」
「それなら心配いりません。こう見えて、風邪ひとつひいたことがないのです」
これは嘘だった。どちらかといえば、僕は体が弱い方だ。こんなもやしのような体で粋がってみても、ちっとも様にならない。違う、こんな話がしたいわけではなかった。何か、別の話題を……。
「真紀さんは、どんな夢をよく見ますか?」
咄嗟に浮かんだ質問は、これだった。さっきまで彼女の見ている夢について考えていたため、そこから連想されたのであろう。
「……夢? 夢ですか?」
初めての会話で夢について尋ねられることはまずない。彼女は意表を突かれたように軽く首を傾げた。緩やかで繊細なその仕草が、子猫のように愛らしい。それから、ゆっくりとこちらを振り返る。その瞳に一瞬光るものが見えたような気がしたが、暗くて確認できない。ともあれ、怒ってはいないようで、僕は少し安心した。
「そうですね……逃げる夢が一番多いです」
「逃げる……何から?」
「わかりません……どうして逃げているのか、目が覚めるとすっかり忘れているのです。でも、とても怖かった記憶だけはハッキリ残っていて……」
伏し目がちで物憂げに語る彼女の横顔は白百合のように可憐で、僕はその横顔に穴があくほど見惚れていた。
「……私の顔に、何かついています?」
視線に気付いた彼女が、こちらへ正面に向き直った。僕は慌てて目を逸らす。
「あ、いえ……逃げる夢ですか……僕は、飛ぶ夢をよく見ます。遥か上空を、鳥のように自在に……風に乗って、雲間を抜けて……とても気持ちがいい、大好きな夢だ。でもね、いつも、最後には墜落してしまうんです」
「墜落……ですか」
ミニチュアのような山や街をはるか下方に見下ろしながら、空を飛んでいる感覚。顔に、体に、凄まじい風圧を浴びて、雲の隙間を縫いながら滑るように舞う。そんな夢の中の場面を想像した。
「ええ。突然、がくっと風に乗れなくなってしまうんです。そこから先は、真っ逆さま。錐揉みになって、どんどん地面が近付いてくる」
「それでは、地面に……」
「そう、激突する寸前に目が覚めるのです。ああ、よかった、生きていた……って。それから、寝小便をしていないことを確認して、安心します」
最後は態とおどけて言ってみた。これが功を奏したらしく、彼女は一瞬くすりと笑う。その微笑みが、天照大神もかくありや、というほど眩しかった。
「ふふ……。空の上から眺める景色は、さぞ美しいでしょうね。今夜は、これで失礼します。おやすみなさい、良い夢を……」
「おやすみなさい、真紀さん」
彼女は軽くお辞儀をして、部屋に入っていった。純白の寝間着が扉の中に吸い込まれ、辺りは再び暗闇に包まれる。でも、僕の心は、初めて彼女と会話をした喜びに満ちていた。
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