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夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ
三日目 朝
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ついに一睡もできなかった。
昨夜の真紀との口論。どちらの人格でも、彼女があんなに声を荒げたことはない。あんなに激昂した姿を見るのは昨夜が初めてだった。何気なく発した一言が、彼女を深く傷つけてしまったのだ。去り際の、どこか悲しげな表情が頭から離れない。
俺と小雨の関係について、もう一人の真紀は勘付いていた。小雨が自分から話すはずはない。どこで気付かれたのか、女の勘は怖いものだと改めて思い知らされる。
彼女の中にいる二人の真紀。彼女たちの間で、記憶や思考はどこまで共有されているのだろう。彼女の二重人格については、メイクの有無で人格が切り替わる、と大まかに聞かされているだけで、それ以上詳しく聞いたことがない。昨夜の素顔の真紀の言葉を信じるなら、俺の彼女――メイクをした後の真紀――は、まだ俺と小雨の関係に気付いていないらしい。だが、それはいつか伝わるかもしれないし、昨夜から今朝にかけて、既に伝わっている可能性もある。
俺達はどうなってしまうのだろう。絶望的な気分だった。しかし、いくら頭を抱えてみたところで、結局は全て俺の優柔不断から端を発しているのだから、自業自得なのだ。もう俺に選択肢は残されていないのかもしれない。
だから、正直なところ、今朝は真紀と顔を合わせるのが怖い。いったい彼女はどんな顔をしているのだろう。俺はどの面さげて彼女に会えばいいのか。
しかし、結論から言えば、それは杞憂に終わった。まるで無限ループに陥っているのではないかと錯覚してしまうほど、何もかもが昨日と同じ朝。全く止む気配もなく降り続く雨、扉を叩くノックの音、扉には鍵がかかっておらず、開いた扉から白いワンピースに身を包んだ真紀が顔を覗かせる。化粧の施された、屈託のない笑顔。鮮やかな紅色の口紅が口角を上げて、彼女の微笑みは生きた芸術品となる。
「おはよう、瞬。今日はよく眠れた?」
「うん、まあ、ぼちぼちかな。それ、昨日は俺がした質問だね」
二人揃って食堂に行くと、得雄氏が既にテーブルについていた。たしか、昨日も俺達より先にテーブルについていたはずだから、随分早起きな人らしい。デキる男は違うということか。だが、今日は彼の息子の蒼太少年の姿がなかった。軽く挨拶を交わして席につくと、キッチンから朝食が運ばれてくる。その姿を目にして俺は、おや、と思った。
黒木さんと比べると頭一つぐらい大きいシルエット。朝食を運んできたのは山根さんだったのである。ある意味、昨日との最大の相違点と言える。
トーストにハムエッグ、そしてサラダとフレッシュジュース。ごく一般的な洋風の朝食だ。黒木さんは和食で、山根さんは洋食だと言っていたっけ。
「どうぞ、お召し上がりください……黒木さんほど、上手ではないかもしれませんが」
山根さんは遠慮がちにそう言ったが、味はなかなか良好だった。目玉焼きの焼き加減もちょうどよく、ハムにもしっかり胡椒がきいていて、むしろ、全体的に薄味な黒木さんの料理よりも俺の舌に合っている。
これまで山根さんとはほとんど話す機会がなかったが、改めて見ると、黒木さんとは違ったタイプでなかなかかわいらしい。年上の女性に対してかわいらしいと言っては失礼かもしれないが、そう言いたくなってしまうほど笑顔にとても愛嬌があった。硬派な印象の強い黒木さんとは対照的に、何となく親しみやすさを覚える顔立ちだ。
小柄で華奢、背格好が真紀と似ている黒木さんと比べると、身長も160台半ばぐらいはありそうで、しかも、なかなかのグラマーに見える。髪はセミロングでやや丸顔、若干垂れ目気味で、話し方がおっとりしているところがまた温和な雰囲気を引き立てている。
「まだ土砂の撤去作業には時間がかかるそうだよ」
得雄氏が言う。
「何しろこの雨だからね……まだ断続的に土砂が落ちて来たりするらしくて、なかなか作業が進んでいないようなんだ」
「でも、大奥様はお喜びでしたよ、『得ちゃんと久しぶりにゆっくり話ができる』って」
お盆を抱えた山根さんがにこやかに答えた。
「ははは……そういえば、そうかもしれないなあ……もう私も年だから、いい加減『得ちゃん』はやめてくれって言っているんだけどね」
得雄氏は苦笑を浮かべた。そういえば俺も、小雨の弟である鮫太郎のことを親しみをこめて『鮫ちゃん』と縮めて呼んでいるのだが、ここ数年でにわかに色気づいた彼は、それを嫌がるようになった。俺はそれを面白がってさらに呼び続けるのだが、得雄氏の年までそれを続けられたら、確かに可哀想である。
一旦話が途切れたが、すぐに真紀が話の穂をつぐ。
「今日は、山根さんがお食事を作られているんですね。日替わりなんですか?」
「ああ、いや……そういうわけでもないんだけど、一昨日の疲れが出てきたのか、どうも昨日の夜あたりからお袋の調子が悪くてね。付き添いを黒木さんに代わってもらったんだよ。一応、何かあったらドクターヘリに来てもらう手筈にはなっているんだけどね」
「あら……心配ですね」
「まあ、年だから仕方ないよ」
症状が重くなると、付き添いが元看護師である黒木さんに交代となり、その場合は山根さんが俺達の身の回りの世話をしてくれるというわけか。
食事を運んできたあとはほとんど無言で控えていた黒木さんとはこれまた対照的に、山根さんはよく会話に参加した。最近この館で起こった出来事、葉子女史の普段の過ごしぶりや、先日、高部さんがタヌキを捕まえてきて、それで鍋を作ろうと言い出したため、三人がかりでどうにか止めて山に逃がしてやったという話まで。
もちろん俺は相変わらずROMだったのが、それでも、昨夜のことをすっかり忘れてしまうぐらい楽しい朝食だった。
昨夜の真紀との口論。どちらの人格でも、彼女があんなに声を荒げたことはない。あんなに激昂した姿を見るのは昨夜が初めてだった。何気なく発した一言が、彼女を深く傷つけてしまったのだ。去り際の、どこか悲しげな表情が頭から離れない。
俺と小雨の関係について、もう一人の真紀は勘付いていた。小雨が自分から話すはずはない。どこで気付かれたのか、女の勘は怖いものだと改めて思い知らされる。
彼女の中にいる二人の真紀。彼女たちの間で、記憶や思考はどこまで共有されているのだろう。彼女の二重人格については、メイクの有無で人格が切り替わる、と大まかに聞かされているだけで、それ以上詳しく聞いたことがない。昨夜の素顔の真紀の言葉を信じるなら、俺の彼女――メイクをした後の真紀――は、まだ俺と小雨の関係に気付いていないらしい。だが、それはいつか伝わるかもしれないし、昨夜から今朝にかけて、既に伝わっている可能性もある。
俺達はどうなってしまうのだろう。絶望的な気分だった。しかし、いくら頭を抱えてみたところで、結局は全て俺の優柔不断から端を発しているのだから、自業自得なのだ。もう俺に選択肢は残されていないのかもしれない。
だから、正直なところ、今朝は真紀と顔を合わせるのが怖い。いったい彼女はどんな顔をしているのだろう。俺はどの面さげて彼女に会えばいいのか。
しかし、結論から言えば、それは杞憂に終わった。まるで無限ループに陥っているのではないかと錯覚してしまうほど、何もかもが昨日と同じ朝。全く止む気配もなく降り続く雨、扉を叩くノックの音、扉には鍵がかかっておらず、開いた扉から白いワンピースに身を包んだ真紀が顔を覗かせる。化粧の施された、屈託のない笑顔。鮮やかな紅色の口紅が口角を上げて、彼女の微笑みは生きた芸術品となる。
「おはよう、瞬。今日はよく眠れた?」
「うん、まあ、ぼちぼちかな。それ、昨日は俺がした質問だね」
二人揃って食堂に行くと、得雄氏が既にテーブルについていた。たしか、昨日も俺達より先にテーブルについていたはずだから、随分早起きな人らしい。デキる男は違うということか。だが、今日は彼の息子の蒼太少年の姿がなかった。軽く挨拶を交わして席につくと、キッチンから朝食が運ばれてくる。その姿を目にして俺は、おや、と思った。
黒木さんと比べると頭一つぐらい大きいシルエット。朝食を運んできたのは山根さんだったのである。ある意味、昨日との最大の相違点と言える。
トーストにハムエッグ、そしてサラダとフレッシュジュース。ごく一般的な洋風の朝食だ。黒木さんは和食で、山根さんは洋食だと言っていたっけ。
「どうぞ、お召し上がりください……黒木さんほど、上手ではないかもしれませんが」
山根さんは遠慮がちにそう言ったが、味はなかなか良好だった。目玉焼きの焼き加減もちょうどよく、ハムにもしっかり胡椒がきいていて、むしろ、全体的に薄味な黒木さんの料理よりも俺の舌に合っている。
これまで山根さんとはほとんど話す機会がなかったが、改めて見ると、黒木さんとは違ったタイプでなかなかかわいらしい。年上の女性に対してかわいらしいと言っては失礼かもしれないが、そう言いたくなってしまうほど笑顔にとても愛嬌があった。硬派な印象の強い黒木さんとは対照的に、何となく親しみやすさを覚える顔立ちだ。
小柄で華奢、背格好が真紀と似ている黒木さんと比べると、身長も160台半ばぐらいはありそうで、しかも、なかなかのグラマーに見える。髪はセミロングでやや丸顔、若干垂れ目気味で、話し方がおっとりしているところがまた温和な雰囲気を引き立てている。
「まだ土砂の撤去作業には時間がかかるそうだよ」
得雄氏が言う。
「何しろこの雨だからね……まだ断続的に土砂が落ちて来たりするらしくて、なかなか作業が進んでいないようなんだ」
「でも、大奥様はお喜びでしたよ、『得ちゃんと久しぶりにゆっくり話ができる』って」
お盆を抱えた山根さんがにこやかに答えた。
「ははは……そういえば、そうかもしれないなあ……もう私も年だから、いい加減『得ちゃん』はやめてくれって言っているんだけどね」
得雄氏は苦笑を浮かべた。そういえば俺も、小雨の弟である鮫太郎のことを親しみをこめて『鮫ちゃん』と縮めて呼んでいるのだが、ここ数年でにわかに色気づいた彼は、それを嫌がるようになった。俺はそれを面白がってさらに呼び続けるのだが、得雄氏の年までそれを続けられたら、確かに可哀想である。
一旦話が途切れたが、すぐに真紀が話の穂をつぐ。
「今日は、山根さんがお食事を作られているんですね。日替わりなんですか?」
「ああ、いや……そういうわけでもないんだけど、一昨日の疲れが出てきたのか、どうも昨日の夜あたりからお袋の調子が悪くてね。付き添いを黒木さんに代わってもらったんだよ。一応、何かあったらドクターヘリに来てもらう手筈にはなっているんだけどね」
「あら……心配ですね」
「まあ、年だから仕方ないよ」
症状が重くなると、付き添いが元看護師である黒木さんに交代となり、その場合は山根さんが俺達の身の回りの世話をしてくれるというわけか。
食事を運んできたあとはほとんど無言で控えていた黒木さんとはこれまた対照的に、山根さんはよく会話に参加した。最近この館で起こった出来事、葉子女史の普段の過ごしぶりや、先日、高部さんがタヌキを捕まえてきて、それで鍋を作ろうと言い出したため、三人がかりでどうにか止めて山に逃がしてやったという話まで。
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