アンダンテ

浦登みっひ

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夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ

四日目 昼

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 朝食を終えて部屋に戻った俺は、ソファの上で瞑想していた。

 瞑想というとなんだか高尚な行為のように思えるかもしれないが、俺の場合は、ぼんやりするけれど眠れないという状態を意味する。物は言いようだ。
 一言に瞑想と言っても、その定義は幅広い。宗教的なものをイメージしがちだが、無心になることも、逆に静かに物思いに耽ることも、全てが瞑想の定義に含まれる。最早共通点は静かにしていることぐらいしかないのだが、我々現代人にとって、静かに時を過ごすということがそれだけ貴重で贅沢なことになっているということだろう。

 俺は静かに目を閉じ、しとしとと降り続く規則的な雨音を聞きながら、朝食の席で交わされた、真紀の過去に関する話題のことを考えていた。
 彼女に引きこもりの過去があったということ。それも、中学生の頃からついこの間まで。彼女にはそんな気配を全く感じなかったし、俺は想像すらしていなかった。だが、彼女は二重人格の持ち主なのである。それに、家庭環境が少々複雑であることも、言葉の端々から窺うことができた。彼女の二重人格は、彼女の生い立ちや精神的なショックから生まれたものだとは考えられないか。
 しかし、そうなると事情は一層複雑である。俺の恋人である真紀の人格は、彼女の辛い過去によって作られたものということになってしまうからだ。そもそも彼女はいつ作られたのだろう。そんな、少し頭を使えば辿り着ける推論すら、俺はこれまでしていなかったのだ。これでは、彼女のことを理解できるわけもない。


 午前中は結局そのまま瞑想をして過ごし、昼食の時間になった。

 昼食のメニューは、チーズリゾットとサラダだった。食材が減ってきたというだけあって確かに具材は少な目だったのだが、味については文句のつけどころがなく、俺の舌ではとてもおいしく感じられた。やっぱり山根さんとは味覚がとても合いそうだ。
 しかし、じっと瞑想しているだけでも案外腹は減るもので、腹八分目……いや、六分目ぐらいか、具材の少なさの影響か、あまり満腹感は得られなかった。とはいえ、今の俺は穀潰しの居候みたいなものだし、贅沢は言えない。
 蒼太少年は昼食にも姿を見せなかった。朝食のサンドイッチは食べたのだろうか。山根さんは、俺達の配膳が終わるとすぐに蒼太少年の部屋へと昼食を運びに行った。リゾットが冷めないうちに、という心配りだろう。三人になった俺達は、テレビのニュースを見ながら天気や政治、国際情勢などについて軽く意見を交わした。と言っても、俺の発言は全体のほんの一割ほどではあったが。
 なにしろ、得雄氏は巨大企業の経営者、真紀は経済学部の学生である。横文字の専門用語が飛び交い、俺のようなエセインテリが口を差し挟めるような話題ではなかった。

 昼食後、部屋に戻って再びソファに寝そべりながら、さて午後は何をしようか、と考えていたところ、またしてもノックの音がした。普段の生活において家族以外に俺の部屋を訪れるのは小雨ぐらい、昔から友達を部屋に招き入れる機会もあまりないので、こう何度もノックが続くと妙に忙しく感じる。とは言うものの、この扉をノックしてくる相手も決まり切っているのだが。
「はい、開いてますよ」
 扉が開いて入ってきたのは、やっぱり真紀だった。だが今回は、何かワゴンのようなものを押している。誕生日パーティーの配膳の際に俺もあれを使った記憶がある。ワゴンの上には、金属製でドーム型をした、大きめの蓋が二つ伏せてあった。
「……なんだ、これ?」
 すると真紀は、得意げに微笑んだ。
「何でしょう? 開けてみて」

 言われるままに蓋を外してみると、そこにあったのは何と、どんぶりに入ったラーメン、それも、乳白色のスープから察するに、俺が愛してやまないとんこつラーメンだ。俺は蓋を持ったまま、数秒間その場で固まっていた。
「……ラ、ラーメン?」
「うん、瞬が食べたいんじゃないかなあと思って、山根さんに聞いてみたの。そしたらね、さすがにお客様には出せないけど、使用人さん達が食べるインスタントラーメンがあるって聞いて……お願いして、用意してもらったの。……もしかして、お腹いっぱいだった?」
 俺の反応の薄さを心配してか、真紀は不安そうに俺の顔を覗き込む。突然のことに驚いただけで、俺はとても嬉しかった。何しろ、前の晩のディナーの際、オムライスにケチャップで描いてもらうほどラーメンが恋しくなっていたのだから。
「いや、ちょっとびっくりしてるだけだよ。ありがとう……真紀は? 昼飯食べたばかりできつくない?」
「ううん、ぜんぜ……あ、いや、ちょっと、多いかもだけど、うん、多分、大丈夫」
 今絶対、全然って言いかけただろ。

 それから俺達は、椅子に並んで腰かけ、一緒にインスタントラーメンを啜った。
 何の変哲もない市販のインスタントラーメンのはずなのに、今日はやけにおいしく感じられる。それは、久しぶりに食べるラーメンだったからかもしれないし、もしかしたら山根さんが何か一手間加えてくれたのかもしれない。だが、真紀が気を利かせて持って来てくれたラーメンを、彼女と一緒に啜っている、それが最も大きな理由ではないかと、俺は思った。
 しとしとと雨が降り続く、ほんの少し憂鬱な午後が、彼女のお陰でこの上なく幸せな時間になったのだ。

 麺を食べ終え、スープまで残らず飲み干すと、真紀は空になった二人分のどんぶりをワゴンに片付けながら言った。
「ラーメン、おいしかった?」
「うん、とても。わざわざありがとうな」
「どういたしまして……ねえねえ、昨日撮ったやつ、また見せてよ」
 彼女は頗る上機嫌だった。昨日撮ったやつ……あれか、メイドのやつか。

 ベッドに並んで腰掛け、スマホのカメラロールを開いた。何十枚も、よくもまあこんなに撮ったものだと、我ながら呆れてしまう。
「あはは……なんか私、すごい楽しそう!」
「そりゃ、ノリノリでポーズ決めてたもんな。レイヤーみたいだったよ」
「コスプレイヤー? コスプレかぁ、楽しいかもね……でもあんまりカメラ小僧みたいな人に撮られるのは何かちょっとやだな……」
 確かに、それは俺もあまり勧めたくない。これが独占欲というやつだろうか。

 不意に、画面を覗き込む真紀の髪から薔薇の香りがふわりと漂い、俺は突然昨夜のことを思い出した。
 毒々しいほどに赤い口紅、蠱惑的な微笑み、もう一人の彼女の誘惑……。
 今日の真紀は、昨晩とはメイクも雰囲気も全く違う。違うはずなのに、気が付けば、彼女の唇に視線が釘付けになっていた。自分の意志に反して、勝手にスイッチが入ったような感覚。
「……え、なに? 瞬……」
 視線に気付いた真紀は、少し訝しむような表情でこちらを見つめている。
「……もしかして、ネギとかついてる?」
 彼女はそう言って、口の周りを右手の指先でなぞり始めた。

 いったい俺はどうしてしまったんだろう。今までこれほど彼女に対して強い性的欲求を覚えることはなかったはずだ。だが今は、こみ上げてくる衝動をどうにも抑えきれない。まだ昼間だというのに……。
 俺は、唇をなぞる真紀の手首を掴んだ。彼女の動揺した視線が、その手首に注がれる。
「……瞬……? どうしたの……?」
 そのまま、もう片方の手で彼女の首を抱き寄せて、唇を強引に貪った。真紀は体を強張らせてひどく驚いた様子だったが、すぐに体の力を抜いて、俺の腕に身を委ね始めた。彼女の華奢な体が更にか細く感じられ、ほんの少し力を込めるだけで、飴細工のようにバラバラに砕けてしまいそうな気がした。

 彼女が壊れてしまわないように、慎重に、ゆっくりと、ベッドの上に押し倒す。
「んっ……んっ……」
 真紀のか弱い両腕が、俺の体を押し返そうと抵抗を始めた。しかし、俺は構わず彼女の絹のように滑らかな太腿を撫で、スカートを捲りあげる。
「いや……瞬、だめ……っ」
 彼女は固く脚を閉じて接近を拒んでいたが、俺は無理矢理それをこじ開け、腰を入れて抑え込んで体の自由を奪った。唇から首筋へと舌を這わせ、愛撫を続ける右手が下腹部からくびれた脇腹へと移動した、その時だった。

 パチン

 真紀の平手打ちが、俺の頬を打った。それほど力が強かったわけではない。だが、この一発によって俺は我に返り、自分のしていることの意味にようやく気付いた。俺は何をしているんだ。後悔と共に、自分自身が恥ずかしくて堪らなくなった。

 彼女に打たれたのは、これが初めてだ。

「……ごめんね、瞬……」
 真紀の瞳には涙が滲んでいる。彼女が謝ることなんて何もないというのに。
「謝るのは俺のほうだよ。ごめん……どうかしてるんだ、今日の俺は……」
 俺は、ベッドを離れて、ソファの上にぐったりと座り込んだ。とても彼女の顔を直視することができない。真紀もゆったりと体を起こし、乱れたスカートと髪を直し始める。

 それから数分間、俺達は互いに無言のまま、呆然と座り込んでいた。
 時間が経つにつれて、自責の念が沸々と湧き上がってくる。真紀の意思を尊重したい、なんて言っていたのは、他でもない俺自身じゃないか。それなのに……。
「瞬は悪くないよ。男の子だもんね……何もかも、全部私のワガママ」
「やめてくれ、そんなこと言われたら……」
 自分が余計に惨めに思えてくるじゃないか。もっと俺を責めてくれよ。

 真紀は涙を拭って、つと立ち上がった。
「ワゴン……片付けるね」
 一言そう呟くと、そのままラーメンの丼が乗ったワゴンを押しながら部屋を出て行った。

 一度もこちらを振り返ることなく。

 彼女が去った部屋には、雨音と、乱れたベッド、そして、微かに残るラーメンの匂いしか残されていない。
 午前中の瞑想の意味は一体何だったのか。乱れた心を鎮めたいんじゃなかったのか。
 曇り空と同じ灰色のカーペットを見つめながら俺は、自分の理性が緩やかに、しかし確実に崩壊しつつあることを自覚していた。
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