アンダンテ

浦登みっひ

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夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ

四日目 夜

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 その日の夕食は、ポトフとドライカレーだった。作ったのはもちろん山根さんだ。ポトフの具は残り物の野菜をまとめてぶち込んだような雑多なものだったし、その一方でドライカレーには具が入っておらず、ありあわせの物でどうにか拵えたという苦心の跡が見て取れる。もしかすると、明日あたりにはいよいよ俺達もインスタント食品を食べ始めることになるのかもしれない。インスタントラーメンだったら、それはそれでいいのだが。

 真紀は、少なくとも表面上はいつもと変わらない様子だった。
 昼間あんなことがあった後だから、相当気まずい思いをするかもしれないと覚悟していたのだが、全く変化がないというのも、それはそれで不気味である。得雄氏や山根さんの手前、何事もなかったかのように装っているだけかもしれない。
 蒼太少年は夕食にも姿を見せなかった。
 夕食の席では、大学での暮らしぶりや、震災以降の東北の復興状況など様々なことが話題に上った。
 特に、震災当時は真紀もまだ都内に住んでいたため、震災当時の様子についてはほとんど俺が一人で話をした。震度の大きさは無論のこと、俺達が住んでいる街は海に面しているため、沿岸部では津波の被害もあった。余震が頻発していた頃は、ただ立っているだけでも地面がグラグラと揺れているような錯覚を覚えたものだ。
 あれから既に五年が過ぎ、俺達が住んでいる街では元通りの生活が送れるようになっている。しかし、被害が甚大だった地域ではまだまだ復興が進んでいない。いや、完全に元通りの生活を送ることはもう不可能なのかもしれない。震災といい、この雨といい、大自然の力の前で我々人間はあまりにも無力だ。自然災害はいつ何が起こるかわからない。それを今現在、身をもって知らされている。
 そういえば、件の孤立集落は今どうなっているのだろうか。ワイドショーの関心は既に新しく沸き起こった有名芸能人の不倫スキャンダルへと移っており、今回の災害に関する報道に割かれる時間は急激に少なくなった。
 東北で震災が起こるずっと前から関東では更に大きな地震が起こると言われているため、得雄氏も明日は我が身という心構えを持っているらしい。当時の状況について根掘り葉掘り聞かれたわけではないのだが、少しでも参考になればと、知っている限りのことは話したつもりだ。俺自身も久しぶりに当時の事を思い出したため、少し気分が重かった。

 夕食を終えると、得雄氏は仕事の関係ですぐに打ち合わせなければならない事案が発生したらしく、そそくさと食堂を後にした。
 またしても俺と真紀は二人きりになったわけだが、彼女も気まずかったのか、これといった会話もないままに部屋へ引き上げて行った。
 一人になった俺は、しばらく食堂の窓から外を眺めていた。風が強く、またどこからか遠雷の音も聞こえてくる。今夜は相当荒れそうだ。

 ロビーに移動して一人で時間を潰していると、余程寂しそうに映ったのか、見かねた山根さんが紅茶を持ってきてくれた。ミルクとスティックシュガーが一つずつ。本当は砂糖がもう一つ欲しかったのだが、何となく言い出せず、俺はいつもの半分の甘さのミルクティーを飲む。

「お嬢様と、何かございました?」
 山根さんの言葉に、俺は体をびくりと震わせる。女の勘というのは本当に怖い。すぐに気を取り直して、なるべく平静を装って答えた。
「……ええ、ちょっと、些細な言い争いをしてしまって……」
 勿論嘘である。
「やっぱり。夕飯のとき、少しよそよそしかったから、もしやと思ったんです」
「お恥ずかしい話です」
「たまには喧嘩もいいものですよ、不満が全くないなんてことはまず有り得ないんですから。溜め込んで一気に爆発させるよりは、何でも少しずつ話し合っていったほうが、より安全に距離を縮められるというか……」
 彼女の優しい心遣いに、本当は喧嘩なんかじゃないんです、と心の中で呟く。どうも山根さんは恋バナが好きなタイプのような気がする。何も事情を知らないのだし、悪気はないはずなのだが、正直なところ、今はそっとしておいて欲しいという気持ちの方が強かった。何か適当な理由をつけて部屋に戻ろう。
「すみません、俺がここにいると山根さんも休めないですよね。部屋に戻ります……紅茶、ありがとうございました」
「あ、いえ、とんでもない……おやすみなさいませ」
 深々とお辞儀をする山根さんに一言礼を述べて、ロビーを後にした。

 部屋のドアの前まで戻ってきた時、ふと、さっきの山根さんとの会話の中で『俺』という一人称を使ってしまった事に気付く。この館に着いてからずっと、真紀以外の人物の前では、インテリぶって『私』と言っていたのだが……迂闊だった。たったその一言でバレるはずもないのだが、気の緩みはこういうところに表れるものである。本当に、今日はだめだ。

 部屋に入りベッドに横たわると、窓の外が一瞬、パッと光った。……一、二、三。稲光のちょうど三秒後に、ドドドドッと、窓ガラスが揺れたのではないかという程の凄まじい音が轟く。どうやら近くに雷が落ちたらしい。近くに落ちたということは、この館の上空にも既に雷雲がかかっていると考えるべきだ。もしこの上停電にでもなったら、いよいよこの館も救助を求めなければならなくなるだろう。

 その後も雷鳴はひっきりなしに鳴り響き、眠る事は到底できなさそうだった。
 上体を起こし、悶々とする心を落ち着けるため、蝋燭に火を灯す。

 辛い時、不安な時、悲しい時……どんな時でも、蝋燭の小さな炎の揺らめきを眺めている間だけは、何もかもを忘れられる。人それぞれ夢中になれるものはあるだろうけれど、残念なことに、俺には時間を忘れて打ち込めるような趣味がない。だが、唯一その代わりになるものが蝋燭の収集であり、その灯火を眺めることなのだ。

 コン、コン

 この館に来てから毎晩聞こえるノックの音。いつも決まって二回で、三回になることはない。何か拘りがあるのだろうか。わざわざ確かめる気にはならないが。

 今夜も来たか。

「空いてるよ」
 素っ気ない雰囲気を装いながら声を投げると、扉はすぐに開かれた。そう、今日は鍵を閉めていなかったのだ。忘れたような気もするし、わざと閉めなかったような気もする。どちらだったのだろう。俺は彼女を待っていたのだろうか。
 ノックの主は真紀だった。今日も相変わらず白いスリップ一枚という無防備な格好。化粧をしているが、明らかに俺がよく知っている彼女ではない。もう一人の真紀……何故か一目でそう直感できる。表情の違いを見分けられるようになったのかもしれない。
 彼女は扉を閉めると、まっすぐ俺の目の前までやってきた。今日は何を言われるのか、と身構えたが、彼女は無言のまま、ベッドに腰掛けた俺を見下ろしている。

 すると、真紀はおもむろにスリップを脱いで、床へ投げ捨てた。俺は思わず息を呑む。

 彼女は下着を着けていなかった。一糸纏わぬ姿で、そこに立っていたのだ。

 その刹那、一際大きな雷鳴が轟いて、雷光を浴びた彼女の白い肌が闇の中にぼうっと浮かび上がる。俺の手首ほどしかなさそうな、か細い足首。緩やかな曲線を描く脹脛と柔らかそうな太腿、腰から脇腹にかけてのシルエットはまるでコルセットでも巻いているかのようにくびれており、お椀型の胸の膨らみは、華奢な体の割にはふっくらと、全体のバランスを崩さない程度の絶妙な稜線を描いている。細い首と両腕、肩幅は女性にしても狭いほうだろう。
 初めて彼女の裸体を見た俺は、人形のように綺麗だ……そう思った。彫刻や銅像のような芸術作品において、女性の裸身像はおしなべてややふっくらとした造形をしているものだ。それは母性や健康美を象徴し、また具現化した姿としての表現であると言えよう。だが、真紀の裸身はそれとは対極を成す、純粋に美しさを追求して作られた、人間を模倣した全く別の何か――つまり、人形のような造型美だった。

「最初からこうするべきだった……」

 彼女は無表情のままそう言った。事実、彼女の裸体を目の前にした俺の体は、オスとして極めて自然で生理的な反応を起こしていた。ついさっきまで頭の中を支配していた葛藤は無意識の彼方へと放擲され、最早その影すら感じられない。

 彼女はやや乱暴に俺をベッドの上へ押し倒し、おずおずと唇を重ねてきた。今日の昼間の出来事とは立場が逆転した形だ。
 それから俺達は、じっくりと時間をかけて互いの体を解しあった。強気な彼女はいつの間にか消え失せて、ほんのりと頬を赤らめ、快楽に身を委ねながら火照る体をくねらせている。そんな彼女の姿態を、俺は心から愛おしく思った。もしかすると、俺のような優柔不断な人間が一人の女性を真摯に愛することができるのは、こんな時だけなのかもしれない。なんとも情けないことである。

 互いに体の準備が整った頃、彼女は眦を決して俺の上に跨がった。
 僅かな抵抗の後、めきょっ、という感触と同時に、彼女の腰が深く沈む。その美しい顔が苦痛に歪み、磁器のように白い頬を一筋の涙が伝った。震える体を愛撫し、蜜と肉が織りなす窮屈なほどの密着感を愉しみながら、俺はじっと彼女の反応を待っていた。
 彼女の固く結ばれた唇は徐々に、餌を待つ雛のようにだらしなく開かれてゆく。苦悶の表情はいつのまにか恍惚へと変わり、それに合わせて彼女の漏らす声と吐息も次第に熱を帯び始めた。

 彼女の声の変化を確かめてから、俺は硝子細工を扱うように優しく彼女の体を横たえ、体勢を入れ替える。
 人としての尊厳を失った彼女は、ただ規則的に喘ぐだけの獣になり、
 俺は彼女をひたすら深く抉るだけのマシンになった。

 快楽に身を捩らせながら、彼女の頬を伝う一筋の涙。その意味を考えようともしない俺は、果たして薄情だろうか……。
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