アンダンテ

浦登みっひ

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夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ

エディプス・コンプレックス

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 思えばその日は、何かいつもと様子が違っていた。

 彼女の夢中遊行に異変があったわけではない。いつもと同じ経路を、同じ足取りで、同じ部屋に辿り着いた。彼女はその日も人形のように美しかった。僕はその小さな背中を追いかけて、あの男の部屋の近くで彼女を待つ。そこまでは全く同じだった。では何が違うのかと問われると、具体的に答えることはできない。ただ、何かを予感していた、胸騒ぎがした……慣用句で表すならば、『虫の知らせ』であろうか。平時であれば気のせいで片付けられるような、それは微かな違和感であった。

 僕は膝を抱えたまま、いつものようにひたすら待った。湿気がねっとりと肌に纏いつき、うっすら滲む汗と混じり合って形容しがたい不快感をもたらす。客観的に見れば、なんと滑稽なことだろう。しかし、それでもやめる気にはならなかった。

 最早見慣れた廊下の板目、窓外の風景……彼女のために費やした蝋燭は、いったいこれで何本目だろうか。暇を持て余し、指を繰って数えようとした時だった。

 ……ギッ……ギッ……

 あの部屋の方から、何か物音が聞こえてきた。
 それは耳を澄ませば辛うじて聞き取れる程度の、ごく微かな物音。何の物音なのかは判別がつかない。
 念のため周囲を見回してみたが、辺りに人の気配はない。鼠か何かの仕業かとも思ったが、それにしては規則的だし、随分長かった。

 僕は忍び足であの部屋の扉へと近づき、耳を欹ててみた。確かに物音はこの部屋の中からしているようだ。しかし、何故今日はその音が聞こえるのだろうか。
 疑問に思って扉の様子を観察してみると、確かに異変はあった。扉がきちんと閉まっていなかったのである。ほんの数センチ、いや数ミリだろうか、それだけ開いていたのだ。

 その瞬間、僕の心臓はドクンと大きく脈打った。
 この扉一枚を隔てた向こうに彼女がいる。その扉は、ほんの少し力をこめるだけで開けることができるのだ。
 この中で行われている何か、そして毎夜彼女が足繁くこの部屋に通う理由。ずっと頭の片隅で考え続けていたことの答えが、今この向こうに、手の届くところにある。

 魔が差した、という言葉の意味を、この時初めて実感した。中を覗いてみたくて堪らなくなったのだ。罪悪感は勿論あったけれど、彼女に関する上では極めて些細なことだった。思えば、初めて夢中遊行する彼女の姿を見た瞬間から、僕のモラルは緩やかに崩壊し始めていたのかもしれない。
 扉の隙間から光は漏れてこなかった。扉の向こうは暗闇なのだろうか。音を立てぬようにそっと扉を引き、悟られぬように注意しながらも、どうにか中が見える程度に隙間を広げて覗き込む。

 案の定、その部屋は真っ暗闇だった。人の気配もない。どうやら、物音は奥の部屋から聞こえてくるようである。そのまま扉をゆっくりと開き、蝋燭の明かりを頼りに部屋の中へと侵入する。まるで服部半蔵になったような気分だ。抜き足差し足で忍び込んだ僕の目に最初に飛び込んできたのは、乱雑に脱ぎ捨てられた彼女の寝間着であった。

 はて、これは一体どうしたことだろう。僕の頭の中を疑念がよぎる。奥の扉の向こうからは、ベッドが軋む音と、何やら呻き声のような……。
 とても嫌な予感がした。見てはいけない、これ以上足を踏み入れてはいけない。僕の中の理性がそう叫んでいる。しかしその一方で、見たいのだろう、お前が求めているものはその先にあると、本能がメフィストフェレスのように怪しげな声色で囁きかけてくる。相反する二つの感情は、天秤の上で完全に拮抗していた。しかし、その均衡を大きく乱すもの――それは好奇心キュリオシティという名の破壊者――の力によって、天秤は本能の側に大きく傾いた。
 緊張のせいであろう、いつの間にか体はじっとりと汗を掻いており、腋から吹き出した汗が脇腹を伝って流れ落ちて行く。その感触はまるで皮膚の表面を蛇が這っていくようで、とても気持ちが悪かった。やおら昂ってゆく神経。僕は衝動の赴くままに、恐る恐る奥の扉の向こうを覗き込む。

 そこは寝室だった。
 部屋の中央に設えられたベッド。その上に、彼女はこちらに背を向けて座っていた。背中から腰、臀部にかけての官能的な曲線美が浮かび上がる。体には何一つ、下着すら着けていない。小さな燭台の明かりだけが頼りの狭く薄暗い部屋の中で、その白い肌は恒星のようにまばゆく輝いている。
 僕はその後姿を一目見て『座っている』と認識したのだが、どうも様子が違った。何か頻りに腰を動かしていて、先だって聞こえていた物音は、彼女の動きに合わせて軋むベッドの音だったのだと気付く。
 そして僕は、彼女の下で仰向けに横たわる男の姿を目にした。闇をも弾く彼女の白い肌、その腰のあたりに、節くれだった男の指が食い込んでいる。

 それを見た瞬間、僕は全てを悟った。頭が真っ白になった。そして、その男に向かって叫んだ。
「お前は……何をしているんだ!」

 男はびくりと体を震わせ、仰向けの姿勢のまま、首だけをこちらに向けた。僕の姿を認めると、男は目玉が飛びださんばかりに瞼を大きく見開き、まるでもののけにでも出くわしたかのように驚愕の表情を浮かべた。それから少し遅れて、彼女がゆっくりとこちらを振り返る。白痴の如く焦点が定まらない視線。その瞳からは一筋の涙が流れていた。あの日、僕の頬に降りかかった彼女の温かい涙、そして唇の感触が、不意に蘇る。

「お前は……お前は……!」

 僕はほとんど正気を失って男につかみかかり、その首に手を掛けた。男は必死に抵抗したが、彼女が上に乗ったまま、身じろぎもせずぼんやりしているために、思うように身動きが取れないようだった。

 それから後のことは、はっきりと覚えていない。気が付くと、そこにはぐったりと動かなくなった男と、その体に跨ったまま、心ここにあらずといった様子で虚ろに視線を彷徨わせる彼女がいた。僕は彼女を男から引き剥がし、そのか細い肩を揺すりながら何度も何度も名前を呼び続けた。この男から彼女を取り戻さなければ。そんな使命感に似た感情が僕を支配していた。

「真紀さん! 真紀さん!  しっかりしてください! 真紀さん!」

 どんなに肩を揺すっても、声を張り上げても、彼女にはまるで届かない。僕の腕の中で、彼女の体は糸の切れた人形のようにぐったりとしている。それでも僕は諦めなかった。暫くの間は夢うつつという状態だったが、めげずに呼び続けていると、数分の後、ようやく彼女の目に光が戻り始めた。
「……痛い、肩が……そんなに強く……」
 彼女は頭を押さえながら、消え入りそうな声で言う。
「ご、ごめんなさい」
 僕は慌てて肩を揺するのをやめ、彼女の体を支えて起こしてやった。強く体を揺すりすぎたせいか、或いは、夢中遊行の症状の最中に無理矢理目覚めさせてしまったせいか、意識もまだ朦朧としているようだ。
「うっ……頭が……割れるみたい……どうして、貴方がここに……?」
「僕は……僕は、貴女の後を追ってここまで来て、部屋の扉が開いていて、それで、覗きこんでみたら、貴女が、あの男と……そうしたら、頭にカッと血が昇って……」
 我ながら酷い説明だと思った。頭の整理がついていないのは彼女だけではなかったのだ。
「あの男……はっ……」
 彼女は、ベッドの上で伸びている男の方を見やった。
「あれは……ああ、なんてこと……」
 頭を抱えたまま、未だ覚束ない足取りで、それでもあの男の方へ向かおうとしている。その姿を見て、僕は激しく嫉妬した。彼女の腕を掴み、やや強引に引き寄せる。

「あの男のことなんて忘れてください……あれは女性を不幸にする男だ。僕が……僕が、きっと貴女を幸せにしてみせる。だから……」
「だめよ……そんなこと、許されないわ……」
 彼女はゆるゆると首を横に振った。そのまま勢いで倒れ込みそうになるのを、肩を支えて抱き起す。
 僕は彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「真紀さん、僕は貴女を愛しているんです。一目見た時から、ずっと……」

 すると、次の瞬間、彼女の大きな瞳から大粒の涙が零れ落ちた。黒真珠のような瞳を、鼻を、口を、その完全な造形をちり紙のようにくしゃくしゃにして、時折嗚咽を漏らしながら、彼女は泣いているのだ。
 もう抵抗はなかった。最初は少し躊躇っているようだったが、その痩せた肩を抱き寄せると、彼女は僕の胸に額を押し当て、堰を切ったように声を上げて泣き始めた。女性とは斯くも脆いものであるということを、僕は初めて知った。

 その時、もはや息絶えたと思われていたあの男の指が、ぴくりぴくりと毛虫のように動き始めていることに気付いた。
「こいつめ……」
 僕は再び男に馬乗りになって、その首に手を掛け、体重を乗せていく。男の体は大きく脈打ったが、僕を押し返すだけの力は残されていなかった。
 ふと、僕の手の上に、小さな掌が重ねられた。彼女の、雪女のように白く冷たい掌。振り返ると、彼女の顔はすぐ横にあり、もう涙は流れていなかった。
「これは、私の罪……あなただけに背負わせはしない」

 やがて、男は完全に動かなくなった。胸に耳を当ててみても、心音は聞こえない。胸板の上下動も止まった。呼吸をしていない。

 男の死体を前にして、僕達はしばらくの間呆然と座り込んでいた。無言のまま、自分達の犯した罪の重さを噛みしめていたのだ。

 僕はふと、彼女に伝えなければいけない言葉を思い出した。よりによってこんな時に、と思われるかもしれない。だが、今伝えなければ、彼女はこのままどこかに姿を眩ましてしまうのではないか……彼女の思い詰めたような表情を見て、そんな予感がしたのだ。
 僕は覚悟を決めて、大きく深呼吸をした。彼女の方へ向き直り、正座をして背筋をぴんと張る。
「真紀さん……」
「は、はい……」
 彼女は大きな瞳をしばたたかせ、少し驚いた様子だったが、こちらを向いて、僕と同じように正座をした。

 もう迷いはない。

「こんな時に……実の父親を手にかけて、その死体の傍で言うような事じゃないかもしれない……けど、真紀さん……いや、」

 一度言葉を切る。

「葉子さん……牧、葉子さん。僕と、結婚してください」

 それは、酷く蒸し暑い夏の夜、玉音放送の二日前の出来事だった。
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