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夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ
本書について
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『まき』が彼女の名前ではなく苗字であることを知ったのは、恥ずかしながら、彼女と初めて言葉を交わした夜から数週間も後のことだった。使用人同士の会話を偶然立ち聞きして知ったのである。その時の私の驚きといったら、それはもう、筆舌に尽くしがたいものだった。思い出すと今でも顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
つまり、五章『太母元型』の時点では既に彼女の名前が『葉子』であると知っていたことになる。では、何故それを最後まで伏せておいたのか、という疑問を持たれるであろう。それはひとえに、真相は最後に明かした方が面白かろうという、私の作家としての直感によるものである。全般に渡って何か奥歯に物が挟まったような記述だと思われる向きもあったかもしれないが、そういう目論見があったということで、どうかお許し頂きたい。
著名無名に関わらず、物書きとして筆を執ったことがある者ならば、読者をわっと驚かせてみたいという欲求に一度はかられたことがあるだろう。この手記の読者である君も既にご存じのことと思うが、私もその一人なのだ。
しかしながら、私が長年身を置いてきた純文学というカテゴリでは、テーマや表現としての美しさが重視される一方で、巧緻な構成からなるトリックはそれほど重視されない。やや言い訳めいて聞こえるかもしれないが、いかに大作家と囃し立てられようとも、執筆を生業としている以上は読者に求められるものを書き続けなければならない。そのため、いつかトリックを用いて読者を驚かせてみたいという願望を持ち続けながら、今までついぞそうした作品を残すことができなかったのである。
前置きが長くなってしまったが、本書のおそらく数少ない読者である君は、この物語の結末に驚いてくれただろうか。もし頷いてくれるのならば、この世でやり残したことの一つは達成されたと言えよう。もし首を縦に振ってもらえなかったとしても、君の家に化けて出るようなことはないはずなので、ご安心召されたい。
ところで、既に君も察していることと思うが、この物語は私の私小説である。とはいえ、先に述べたような事情から、作中では多くのことを伏せてある。何から説明すべきだろうか。まずはこの館と私との出会いから順を追っていくこととしよう。
時は戦時中。我が国は敗色濃厚となり、本土への空襲が始まった時期である。父が建てたこの館に私が疎開してきたのは、首都が大空襲に見舞われてから数週間後の、四月上旬のことだった。
この空前絶後の空襲を受けて、榊家の屋敷は半壊。私の身を案じた母は、当時既に別居状態で、この館で暮らしていた父の許へ私を疎開させたのである。
母が私に同行しなかったのは、もう顔も見たくないほど父との関係が修復不可能になっていたからだ。しかし、この時引き摺ってでも母を一緒に連れてくるべきだったと、私は後に後悔することになる。
次に、葉子がこの館に来ることになった経緯についても触れておこう。
葉子はごく平凡な家庭に生まれた、普通の女児であった。ただ一つ異なる点を挙げるとすれば、それは彼女が大変な器量よしだったことであろう。
かねてより病弱であった葉子の母親が亡くなったのは、彼女が十歳の時であった。不幸は続くもので、工夫こうふだった父はその翌年に作業中の事故で命を落とし、葉子は孤児となった。彼女をどう処するべきか、葬儀の席で親戚同士が激しく言い争うのを、震えながら聞いていたそうだ。喧々諤々とした議論の末、葉子は彼女の伯母の元へ預けられた。
葉子が預けられた伯母の家は、決して裕福な家ではなかった。まだ貧しかった我が国の当時の社会情勢では無理もないが、義務教育を終えると、葉子はすぐに奉公に出されることとなった。それは我が父がこの山奥に館を建てて使用人を探していた時期とちょうど重なっており、たまたま伝手のあった葉子はこの館で働き始めたのである。
作中にも述べてある通り、母との不仲の原因ともなった父の好色ぶりは目に余るものがあった。そんな父が葉子の美貌を見逃すはずはなく、彼女がこの館に勤め始めて二年ほどが経った頃、卑劣にも、父は葉子を手籠めにしたのだ。或いは、当時から既に夢中遊行の症状があったのかもしれない。館の中をふらふらとうろついている葉子を部屋に連れ込むのは容易だったことだろう。
しかし、父の悪行はこれに止まらなかった。当時研究していた催眠術を用いて彼女に暗示をかけ、毎晩のように部屋に通わせるように仕向けたのである。
壁に耳あり障子に目あり、人の口に戸は立てられぬというが、使用人の間で徐々にその噂は広まっていき、巡り巡ってついには母の耳に入るまでに至った。つまり、父がこの館でかこっている若い愛人というのは、他ならぬ葉子のことであったのだ。
葉子はいつも決まって父の部屋で夢中遊行から醒めていたそうである。初めて父の隣で目を覚ました夜のことが、今でも夢に出てくるそうだ。
彼女はこの館から一刻も早く逃げ出したかった。しかし、当時は戦況がいよいよ悪化し、物資と食糧の慢性的な不足から、社会は混沌としていた。そんな情勢の中で、ある程度は自給自足が可能であったこの館を飛び出して、女一人世間の荒波に身を投じて行くことがどんなに厳しかったか、その葛藤は察するに余りある。
そんなこととは露知らず、私は暗示にかけられ父の部屋へと向かっていた葉子を愛してしまったのだ。
私の父は、当時まだ黎明期にあった精神医学の研究者だった。葉子の症状を見て夢遊病による夢中遊行だと思い込んでいた私は、その治療のために父の部屋へ赴いているものとばかり思っていた。疑念を抱き始めたのは、あの雨の夜、初めて口づけをかわした日……それは、母が空襲で亡くなったという知らせが届いた日でもあった。
あの日、彼女の口から感じた微かな葉巻の臭い。それは父が愛用している特殊な葉巻で、一種独特な臭いのするものだった。使用人である彼女が自ら口にするとは到底思えない高価な代物で、それが彼女の口から漂ってきたことに対して訝しんだのである。だがその時は、大方父が吐き出した煙を吸い込んだものであろう、と考え、それ以上追及することはなかった。
だが、この疑惑が真実であったことは、この手記を読んで頂けた君も既にご存じの通りである。この間、葉子が父の子を身籠らなかったのは、正に不幸中の幸いだったと言えよう。
さて、この事件の背景については概ね語り終えたと思われるので、その後の顛末について述べておこう。
私と葉子は父の死体を天井から吊るし、自殺に見せかけようと画策した。今にして思えば何とも稚拙な企みではあるのだが、当時はそれが精一杯だったのだ。
その目論見は、やや予想と異なる形で成功した。父は、表向きには心臓発作による突然死ということになったのである。父はもともと心臓の持病のために赤紙を免れていたので、榊家の息のかかった医者の診断書があれば疑う者はいなかった。当時の混乱した社会情勢では、警察の捜査の手も山奥の洋館までは及ばなかったという事情もあっただろう。自殺としなかったのは、世間体を慮ってのことではないか。いずれにしても、私と葉子の犯行が露見しなかったのは幸いだったと、若かりし頃の私は思った。
しかし今では、あれは全ての事情を察した周囲の人間達が、私を庇ってくれたのではないか、と考えるようになっている。
当時、学問の道へと進んだ私の父に変わって、父の弟、私から見れば叔父にあたる人物が榊家の事業を継いでいたのだが、この叔父には子がなかった。つまり、私が榊家唯一の跡取りだったわけである。
また、父の女癖の悪さは誰もが知るところであったし、父が若い愛人を作ったという噂が私の耳にまで入っていたということは、父と葉子の関係も公然の秘密となっていた可能性が高い。その上、私と父は不仲であったし、父が亡くなってからの私と葉子の親密さを見れば、真実が奈辺にあるか推察するのは容易であったろう。
この事件の後、葉子は精神的に不安定な時期が長く続いた。その間、私はずっと休学して、葉子の傍を片時も離れないようにした。そうしなければ、彼女は突然姿を晦ましてしまうのではないか、或いは、自ら命を絶ってしまうのではないか、という不安があったからである。
勿論事件のトラウマもあったはずだが、最も厄介だったのは、父が葉子にかけた暗示だった。彼女の夢中遊行を止めるために、時には体を縛り付けたりすることもあった。何故こんなに酷いことをしなければならないのかと自問したことも数知れない。彼女も、私によく愛想を尽かさなかったものだと思う。
葉子の精神が安定するまでにはおよそ二年の月日を要した。
葉子の復調を以って復学した私は、以前にも増して死に物狂いで勉学に励んだ。衒気になってしまうが、休学中もこの館で自習を続けていたため、私の学力は年下の同級生たちより一歩も二歩も抜きんでていた。
その甲斐あって旧帝大に進学した私は、葉子を伴って上京し、嘗て私が母と暮らしていた家の近くに小さな家を借りて、卒業までそこで二人暮らしをすることになった。
思えば、私の人生の中で、この頃が最も無邪気に幸福を享受できた時期であったように思う。大学の卒業と同時に、私と葉子は結婚した。
勉学の傍ら、気まぐれに書き散らして投稿した小説が評判になり始めたのもこの頃である。評判は評判を呼び、大学を卒業する頃には雑誌の連載の話を頂戴するまでになっていた。
また、私の卒業を待っていたかのように叔父が急逝し、榊家の家督が私の元に転がり込んできた。執筆と家業の両立は大変な苦労を伴ったが、葉子と、嘗ての叔父の部下達に支えられてなんとか切り抜けることができた。その後のことは、今更私が語るまでもあるまい。私の名声を不動のものにしてくれた作品『闇夜』を上梓したのは、長男の得雄が二歳の時であったと記憶している。
得雄が生まれたのは、結婚の翌年であった。長女の杏子は、その七年後である。
若い頃の得雄には少々やんちゃなところがあり、随分手を焼かされた。その上、私の父からの隔世遺伝なのか女癖が悪いところがあった。しかし、現在の奥さんと出会ってからはすっかり心を入れ替え、今では立派な愛妻家となっている。経営者としても堅実な経営手腕で、立派に私の事業を引き継いでいる。
そんな得雄とは対照的に、杏子は幼い頃から才色兼備の優等生、今では再生医療研究の第一人者だ。少々真面目すぎるきらいがあり、また勝気な性格も災いしてか、杏子にはなかなか男の影がなかった。このまま生涯独身を貫くのかと思われた頃、唐突に結婚の話が舞い込んできて、私も葉子も随分面食らったものである。
その杏子が、不妊治療の末ようやく授かった孫娘に『真紀』と名付けた時、私は運命を感じずにはいられなかった。真紀は若い頃の杏子や葉子の生き写しのように、いや、それ以上に綺麗な顔立ちをした女の子であるが、杏子とその夫・修司くんの夫婦間の不和のせいか、自分の殻に閉じこもりがちで、ほとんど笑わない子になってしまった。特にここ数年の彼女の様子には、私も葉子も大変心を痛めている。これ以上この美しい孫娘を見守ってやれそうもないことは、私にとって大きな心残りである。
一方で、杏子よりさらに遅れて随分若い嫁さんを貰った得雄が、その長男に、私にあやかって『蒼太』という名を付けたと聞いた時には、思わず苦笑を禁じ得なかった。私の父には私の名前を縮めて呼ぶ癖があり、私はそれが大変嫌だったからだ。
だがそれも、悲劇のオイディプス王を気取って、二人の子供にオイディプス王の長男エテオクレース、長女アンティゴネーをもじった名をつけた報いかもしれない。そう考えると、文句を言う気にもなれないのであった。
我が父の事件について、当時の事情を知る者は皆既に鬼籍に入った。私もこの件については、このまま墓場まで持っていくつもりであった。しかし、いざ死を目前にして、こうして筆を執らずにいられなかったのは、やはり私の物書きとしての性なのだろうか。
この手記は、葉子が使用人としてこの館に勤めていた当時の彼女の部屋のあたりに隠しておくつもりである。私の遺作となるであろうこの手記が誰かの目に触れる時、おそらく私はもうこの世にはいない。残念ながら、これを読んでいる君が誰なのか、私には知る術がない。
だが、無理は承知で、この手記の読者である君にお願いしたいことがある。
どうか、この手記の存在、そしてここに記されている内容を、君の心の中にそっとしまっておいて欲しいのだ。
父の事件は、今更露見したとしてもとっくに時効であろう。しかし、この手記に記された内容が、これからまだまだ長生きするであろう葉子の名誉を傷付けるようなことにはなってほしくないからである。
今際の際にある作家の我が儘ではあるが、どうかこれだけは、くれぐれもお願い申し上げたい。もしこの願いを聞き入れてくれたならば、私は空の上から、風に乗せて、最早使い古されたこの言葉をきっと届けるだろう。
私の最後の作品を読んでくれて、有難う。
榊朋光こと、榊宗太郎
つまり、五章『太母元型』の時点では既に彼女の名前が『葉子』であると知っていたことになる。では、何故それを最後まで伏せておいたのか、という疑問を持たれるであろう。それはひとえに、真相は最後に明かした方が面白かろうという、私の作家としての直感によるものである。全般に渡って何か奥歯に物が挟まったような記述だと思われる向きもあったかもしれないが、そういう目論見があったということで、どうかお許し頂きたい。
著名無名に関わらず、物書きとして筆を執ったことがある者ならば、読者をわっと驚かせてみたいという欲求に一度はかられたことがあるだろう。この手記の読者である君も既にご存じのことと思うが、私もその一人なのだ。
しかしながら、私が長年身を置いてきた純文学というカテゴリでは、テーマや表現としての美しさが重視される一方で、巧緻な構成からなるトリックはそれほど重視されない。やや言い訳めいて聞こえるかもしれないが、いかに大作家と囃し立てられようとも、執筆を生業としている以上は読者に求められるものを書き続けなければならない。そのため、いつかトリックを用いて読者を驚かせてみたいという願望を持ち続けながら、今までついぞそうした作品を残すことができなかったのである。
前置きが長くなってしまったが、本書のおそらく数少ない読者である君は、この物語の結末に驚いてくれただろうか。もし頷いてくれるのならば、この世でやり残したことの一つは達成されたと言えよう。もし首を縦に振ってもらえなかったとしても、君の家に化けて出るようなことはないはずなので、ご安心召されたい。
ところで、既に君も察していることと思うが、この物語は私の私小説である。とはいえ、先に述べたような事情から、作中では多くのことを伏せてある。何から説明すべきだろうか。まずはこの館と私との出会いから順を追っていくこととしよう。
時は戦時中。我が国は敗色濃厚となり、本土への空襲が始まった時期である。父が建てたこの館に私が疎開してきたのは、首都が大空襲に見舞われてから数週間後の、四月上旬のことだった。
この空前絶後の空襲を受けて、榊家の屋敷は半壊。私の身を案じた母は、当時既に別居状態で、この館で暮らしていた父の許へ私を疎開させたのである。
母が私に同行しなかったのは、もう顔も見たくないほど父との関係が修復不可能になっていたからだ。しかし、この時引き摺ってでも母を一緒に連れてくるべきだったと、私は後に後悔することになる。
次に、葉子がこの館に来ることになった経緯についても触れておこう。
葉子はごく平凡な家庭に生まれた、普通の女児であった。ただ一つ異なる点を挙げるとすれば、それは彼女が大変な器量よしだったことであろう。
かねてより病弱であった葉子の母親が亡くなったのは、彼女が十歳の時であった。不幸は続くもので、工夫こうふだった父はその翌年に作業中の事故で命を落とし、葉子は孤児となった。彼女をどう処するべきか、葬儀の席で親戚同士が激しく言い争うのを、震えながら聞いていたそうだ。喧々諤々とした議論の末、葉子は彼女の伯母の元へ預けられた。
葉子が預けられた伯母の家は、決して裕福な家ではなかった。まだ貧しかった我が国の当時の社会情勢では無理もないが、義務教育を終えると、葉子はすぐに奉公に出されることとなった。それは我が父がこの山奥に館を建てて使用人を探していた時期とちょうど重なっており、たまたま伝手のあった葉子はこの館で働き始めたのである。
作中にも述べてある通り、母との不仲の原因ともなった父の好色ぶりは目に余るものがあった。そんな父が葉子の美貌を見逃すはずはなく、彼女がこの館に勤め始めて二年ほどが経った頃、卑劣にも、父は葉子を手籠めにしたのだ。或いは、当時から既に夢中遊行の症状があったのかもしれない。館の中をふらふらとうろついている葉子を部屋に連れ込むのは容易だったことだろう。
しかし、父の悪行はこれに止まらなかった。当時研究していた催眠術を用いて彼女に暗示をかけ、毎晩のように部屋に通わせるように仕向けたのである。
壁に耳あり障子に目あり、人の口に戸は立てられぬというが、使用人の間で徐々にその噂は広まっていき、巡り巡ってついには母の耳に入るまでに至った。つまり、父がこの館でかこっている若い愛人というのは、他ならぬ葉子のことであったのだ。
葉子はいつも決まって父の部屋で夢中遊行から醒めていたそうである。初めて父の隣で目を覚ました夜のことが、今でも夢に出てくるそうだ。
彼女はこの館から一刻も早く逃げ出したかった。しかし、当時は戦況がいよいよ悪化し、物資と食糧の慢性的な不足から、社会は混沌としていた。そんな情勢の中で、ある程度は自給自足が可能であったこの館を飛び出して、女一人世間の荒波に身を投じて行くことがどんなに厳しかったか、その葛藤は察するに余りある。
そんなこととは露知らず、私は暗示にかけられ父の部屋へと向かっていた葉子を愛してしまったのだ。
私の父は、当時まだ黎明期にあった精神医学の研究者だった。葉子の症状を見て夢遊病による夢中遊行だと思い込んでいた私は、その治療のために父の部屋へ赴いているものとばかり思っていた。疑念を抱き始めたのは、あの雨の夜、初めて口づけをかわした日……それは、母が空襲で亡くなったという知らせが届いた日でもあった。
あの日、彼女の口から感じた微かな葉巻の臭い。それは父が愛用している特殊な葉巻で、一種独特な臭いのするものだった。使用人である彼女が自ら口にするとは到底思えない高価な代物で、それが彼女の口から漂ってきたことに対して訝しんだのである。だがその時は、大方父が吐き出した煙を吸い込んだものであろう、と考え、それ以上追及することはなかった。
だが、この疑惑が真実であったことは、この手記を読んで頂けた君も既にご存じの通りである。この間、葉子が父の子を身籠らなかったのは、正に不幸中の幸いだったと言えよう。
さて、この事件の背景については概ね語り終えたと思われるので、その後の顛末について述べておこう。
私と葉子は父の死体を天井から吊るし、自殺に見せかけようと画策した。今にして思えば何とも稚拙な企みではあるのだが、当時はそれが精一杯だったのだ。
その目論見は、やや予想と異なる形で成功した。父は、表向きには心臓発作による突然死ということになったのである。父はもともと心臓の持病のために赤紙を免れていたので、榊家の息のかかった医者の診断書があれば疑う者はいなかった。当時の混乱した社会情勢では、警察の捜査の手も山奥の洋館までは及ばなかったという事情もあっただろう。自殺としなかったのは、世間体を慮ってのことではないか。いずれにしても、私と葉子の犯行が露見しなかったのは幸いだったと、若かりし頃の私は思った。
しかし今では、あれは全ての事情を察した周囲の人間達が、私を庇ってくれたのではないか、と考えるようになっている。
当時、学問の道へと進んだ私の父に変わって、父の弟、私から見れば叔父にあたる人物が榊家の事業を継いでいたのだが、この叔父には子がなかった。つまり、私が榊家唯一の跡取りだったわけである。
また、父の女癖の悪さは誰もが知るところであったし、父が若い愛人を作ったという噂が私の耳にまで入っていたということは、父と葉子の関係も公然の秘密となっていた可能性が高い。その上、私と父は不仲であったし、父が亡くなってからの私と葉子の親密さを見れば、真実が奈辺にあるか推察するのは容易であったろう。
この事件の後、葉子は精神的に不安定な時期が長く続いた。その間、私はずっと休学して、葉子の傍を片時も離れないようにした。そうしなければ、彼女は突然姿を晦ましてしまうのではないか、或いは、自ら命を絶ってしまうのではないか、という不安があったからである。
勿論事件のトラウマもあったはずだが、最も厄介だったのは、父が葉子にかけた暗示だった。彼女の夢中遊行を止めるために、時には体を縛り付けたりすることもあった。何故こんなに酷いことをしなければならないのかと自問したことも数知れない。彼女も、私によく愛想を尽かさなかったものだと思う。
葉子の精神が安定するまでにはおよそ二年の月日を要した。
葉子の復調を以って復学した私は、以前にも増して死に物狂いで勉学に励んだ。衒気になってしまうが、休学中もこの館で自習を続けていたため、私の学力は年下の同級生たちより一歩も二歩も抜きんでていた。
その甲斐あって旧帝大に進学した私は、葉子を伴って上京し、嘗て私が母と暮らしていた家の近くに小さな家を借りて、卒業までそこで二人暮らしをすることになった。
思えば、私の人生の中で、この頃が最も無邪気に幸福を享受できた時期であったように思う。大学の卒業と同時に、私と葉子は結婚した。
勉学の傍ら、気まぐれに書き散らして投稿した小説が評判になり始めたのもこの頃である。評判は評判を呼び、大学を卒業する頃には雑誌の連載の話を頂戴するまでになっていた。
また、私の卒業を待っていたかのように叔父が急逝し、榊家の家督が私の元に転がり込んできた。執筆と家業の両立は大変な苦労を伴ったが、葉子と、嘗ての叔父の部下達に支えられてなんとか切り抜けることができた。その後のことは、今更私が語るまでもあるまい。私の名声を不動のものにしてくれた作品『闇夜』を上梓したのは、長男の得雄が二歳の時であったと記憶している。
得雄が生まれたのは、結婚の翌年であった。長女の杏子は、その七年後である。
若い頃の得雄には少々やんちゃなところがあり、随分手を焼かされた。その上、私の父からの隔世遺伝なのか女癖が悪いところがあった。しかし、現在の奥さんと出会ってからはすっかり心を入れ替え、今では立派な愛妻家となっている。経営者としても堅実な経営手腕で、立派に私の事業を引き継いでいる。
そんな得雄とは対照的に、杏子は幼い頃から才色兼備の優等生、今では再生医療研究の第一人者だ。少々真面目すぎるきらいがあり、また勝気な性格も災いしてか、杏子にはなかなか男の影がなかった。このまま生涯独身を貫くのかと思われた頃、唐突に結婚の話が舞い込んできて、私も葉子も随分面食らったものである。
その杏子が、不妊治療の末ようやく授かった孫娘に『真紀』と名付けた時、私は運命を感じずにはいられなかった。真紀は若い頃の杏子や葉子の生き写しのように、いや、それ以上に綺麗な顔立ちをした女の子であるが、杏子とその夫・修司くんの夫婦間の不和のせいか、自分の殻に閉じこもりがちで、ほとんど笑わない子になってしまった。特にここ数年の彼女の様子には、私も葉子も大変心を痛めている。これ以上この美しい孫娘を見守ってやれそうもないことは、私にとって大きな心残りである。
一方で、杏子よりさらに遅れて随分若い嫁さんを貰った得雄が、その長男に、私にあやかって『蒼太』という名を付けたと聞いた時には、思わず苦笑を禁じ得なかった。私の父には私の名前を縮めて呼ぶ癖があり、私はそれが大変嫌だったからだ。
だがそれも、悲劇のオイディプス王を気取って、二人の子供にオイディプス王の長男エテオクレース、長女アンティゴネーをもじった名をつけた報いかもしれない。そう考えると、文句を言う気にもなれないのであった。
我が父の事件について、当時の事情を知る者は皆既に鬼籍に入った。私もこの件については、このまま墓場まで持っていくつもりであった。しかし、いざ死を目前にして、こうして筆を執らずにいられなかったのは、やはり私の物書きとしての性なのだろうか。
この手記は、葉子が使用人としてこの館に勤めていた当時の彼女の部屋のあたりに隠しておくつもりである。私の遺作となるであろうこの手記が誰かの目に触れる時、おそらく私はもうこの世にはいない。残念ながら、これを読んでいる君が誰なのか、私には知る術がない。
だが、無理は承知で、この手記の読者である君にお願いしたいことがある。
どうか、この手記の存在、そしてここに記されている内容を、君の心の中にそっとしまっておいて欲しいのだ。
父の事件は、今更露見したとしてもとっくに時効であろう。しかし、この手記に記された内容が、これからまだまだ長生きするであろう葉子の名誉を傷付けるようなことにはなってほしくないからである。
今際の際にある作家の我が儘ではあるが、どうかこれだけは、くれぐれもお願い申し上げたい。もしこの願いを聞き入れてくれたならば、私は空の上から、風に乗せて、最早使い古されたこの言葉をきっと届けるだろう。
私の最後の作品を読んでくれて、有難う。
榊朋光こと、榊宗太郎
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