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夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ
終章 五日目 昼~夜
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この館に着いてから四度目の夜が明けた。
窓から差し込む暖かい日の光に照らされながら、俺は目を覚ました。いつの間に眠ってしまったのだろう。昨夜はこのベッドで確かに真紀の寝顔を見ていたはずなのだが、既にそこに彼女の姿はなかった。
日光に誘われるように窓辺へ行くと、視界一面に広がる青い空と碧みどりの山。長く降り続いていた雨もようやく上がり、ここから眺める景色も一変している。それはさながら、水墨画が一夜にして水彩画へと姿を変えてしまったかのような変貌ぶりだった。
その日の午前中、真紀は部屋から出てこなかった。朝食の席にさえ姿を見せない。
彼女の部屋の扉をノックして呼び掛けてみたが、返事はなかった。どこか体調が悪いのだろうか、もしや、昨晩どこか痛めたか……?
心配になった俺は、山根さんに事情を話して(もちろん昨晩の出来事は伏せて)、マスターキーを使って様子を見てもらった。
「お嬢様、よくお休みになっておられますよ。お声がけしたら、昨晩よく眠れなかったから、と言って、またそのままお休みになられました。何があったのかは存じ上げませんし、差し出がましいようですが、お嬢様もご心痛の様子ですし、仲直りされてみてはいかがでしょうか?」
にこやかに諭すような口調でそう言い残して、山根さんは去って行った。なるほど、山根さんの中では、俺達がまだ喧嘩の最中であるという認識らしい。確かに、当たらずとも遠からずではあるのだが……。
その場は一旦引き上げて自分の部屋に戻ることにした。
ベッドに寝転がり、昨夜のことを思い出す。昨夜の俺はまったく俺はどうかしていた。いつもどうかしているだろうと言われると何も言い返せないのが悲しいところではあるが、それで結局後悔するのは自分なのだ。自制心というやつは、まるであの雲のように、確かにそこに存在するはずなのに、実体として掴むことができない。そういえば、子供の頃は雲の上にもう一つ世界があって、雲の上を自由に歩くことができると思い込んでいたっけ。
そんな夢想に耽りながら、午前中をだらだらと全く無為に過ごした。童心に帰ったところで時計が止まるわけでもない。気付けば、もう昼食の時間になっていた。
真紀の部屋の扉をノックし、一緒に昼食を食べないかと声をかけてみたのだが、やはり返事はなかった。
仕方なく一人で食堂に行くと、真紀は既に食卓に着いていた。食欲が戻ったのだろうか。俺の姿に気付くと、彼女はまるで何事もなかったかのように明るく微笑んだ。
「おはよう、瞬」
「……あ、おはよう。どう? 体調は」
「うん、大丈夫。ゆっくり眠れたから疲れが吹き飛んじゃったよ」
昼のメニューはミートソース・スパゲッティ。おそらくパウチのものだろう。ちなみに朝はリゾットだった。ついに我々の食事にも食糧難の皺寄せがやってきたということか。
昼食の席には、得雄氏も蒼太少年も現れず、山根さんもスパゲッティを運んできただけですぐに下がっていった。おそらく、山根さんあたりが気を使って、俺達が二人きりになるように仕向けたのではないか、と推測する。
「真紀、昨日のこと、怒ってる?」
「昨日の……なんのこと?」
「ほら、昼の……」
「……ああ、あれね。全然気にしてないよ!」
本当だろうか。俺の懸念を振り払うように、彼女は屈託のない笑顔を見せた。いつもの真紀だ。
それから俺達の会話は、スパゲッティの味や天気のことなど、当たり障りのない会話に終始した。昨夜のことを尋ねる気にはなれなかったし、彼女の方からも何も言ってこなかった。お互いにどこか、腫れ物に触るようなぎこちなさがなかったわけではないが、とりあえず一安心といったところか。
折角の晴天なので、午後は一緒に散歩に出ることにした。
長く降り続いた雨の影響で地面はだいぶぬかるんでおり、足場は相当悪くなっている。真紀は、俺の腕に掴まって歩いた。なんとなく既視感を覚えるシチュエーションである。
庭に出ると、花の手入れに勤しむ高部さんに遭遇した。
「こんにちは、高部さん」
「これはお嬢様、そして瀬名様、お揃いで」
客人である俺はこの館に来てから『様』をつけて呼ばれることが多いのだが、その呼称には未だに違和感があった。これまでの人生でそんな扱いを受けたことがなかったので、何だかこそばゆいのだ。
「ずっと雨続きでしたから、庭のお手入れも大変なのではないですか?」
「ええ、まあ多少は手がかかりますが……何しろ、車も使えず外にも出られず、ここ数日は仕事が全くありませんでしたので、随分退屈だったのですよ。今日はようやく仕事ができますので、振り切っておるところです」
庭には赤白黄桃と色とりどりの花が咲き乱れていたが、中でも一際目を引いたのは、鮮やかな青紫に咲き誇る紫陽花の花だった。青と紫の比率と濃度を一房ごとに微妙に変えながら、梅雨の主役は自分だと主張するように見事に咲き誇っている。
庭を離れ、周囲の森に作られた小径を散策してみると、曇り空の下ではモノクロームに見えていた森も、日光を受けて青々と輝いていた。精一杯に枝を伸ばし、光合成という名の日光浴を楽しんでいるようにさえ見える。木の葉を透かして降り注ぐ翠色の木漏れ日を潜りながら森を抜け、山頂近くの見晴らしの良い場所に出ると、そこには見渡す限りの緑が広がっていた。
深い森に覆われた山々と、抜けるような青空。不意に強い山風が吹いて、白いワンピースが揺れ、風に靡く真紀の黒髪、そして、その唇の鮮やかな紅色。
この風景を見られただけでも、ここまで来た価値はあったと思えた。
夕食は焼き魚とわかめの味噌汁、そして数種類の和え物。そう、久しぶりの和食である。和食が食卓に上るということは……。
「おふくろの状態もだいぶ安定してきたらしくてね。今日は久しぶりの和食だよ」
昼食には姿を見せなかった得雄氏だったが、夕食の席には俺達よりも先についていた。その隣には、これまた久しぶりに蒼太少年の姿もある。俺達が席に着くと、食事を運んで来たのはメイド服に身を包んだ黒木さんだった。彼女に会うのも随分久しぶりのような気がする。表情が豊かな山根さんという比較対象ができたせいか、以前にも増して冷徹な印象を受けるが、勿論黒木さんの態度そのものが変わったわけでは決してない。
「今日は土砂の撤去作業も順調に進んだらしくてね。今夜中には通行可能になるそうだ。私と蒼太は明日の朝一番に帰るけど、君たちは気にせずゆっくりしていってくれ」
「まあ、ようやく帰れるのですね……じゃあ、高部さんにお願いしなければ。瞬、どうする?」
「俺は何時でもいいよ」
夕食の話題は専ら、明日の予定に関するものだった。
夕食を終えてお手洗いに立つと、途中の廊下で得雄氏と遭遇した。軽く会釈を交わすと、彼は突然独り言のように話し始める。
「蒼太のことがおふくろの耳に入ったらしくてね、久しぶりに叱られてしまったよ。『蒼太は、反骨心旺盛なところや神経質なところが若い頃のあの人にそっくりだから、あんまり小言を言わないで、蒼太を信じて自主性に委ねなさい、あの子は賢い子なんだから、放っておいてもいつか自分で気付くはず』ってね。私は温厚で理知的な親父しか知らないから、子供の頃の親父があんなふうだなんて知らなかった。それに、私は蒼太のことを本当に理解していなかったんだって、思い知らされたよ……ところで、真紀ちゃんとは、上手く仲直りできたのかい?」
得雄氏は、興味津々な様子で薄笑いを浮かべている。
「……ええ、まあ、その、上手くいったようです」
なんとか誤魔化そうと思ったのだが、得雄氏は顔を寄せ、追及の手を緩めない。
「どうやってご機嫌をとった? あれ、ほら、ヤったのか?」
「いえ、それは……」
こう単刀直入に来られると、なかなか上手い嘘が思いつかないものである。彼は俺の沈黙を肯定の意味と捉えたらしく、
「そうかそうか。言葉は重ねれば重ねるほど嘘になってしまうからね、うん。よかったよかった」
得雄氏はニヤニヤしながらもう一度『そうかそうか』と呟き、俺の肩をバシンと叩いてその場を立ち去ろうとした。が、途中でつと立ち止まり、こちらを振り返る。
「そうそう、言い忘れるところだった。瀬名君、杏子や修司君と会う時は、医学部なんかを名乗らないほうがいいな。見え透いた嘘に付き合ってくれるほど、彼らは優しい人間じゃあないぞ」
「な、なっ……」
突然の指摘に狼狽える俺を見て、彼はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ははは、その顔は、図星だね?」
得雄氏はそのまま、はっはっは、と哄笑しながら去って行った。
負けた。完全に。彼の方が一枚も二枚も上手だったのだ。
部屋に戻った俺は、床に長い黒髪が落ちているのに気が付いた。俺の意識はたちまち、昨夜の記憶へと引き摺り込まれる。
ベッドの上で乱れた真紀の姿態。
磁器のように白い肌が、ほんのりと赤みを増してゆく。
疲れ果てて、すやすやと寝息をたてる彼女の無垢な寝顔。
真紀は今夜も来るだろうか。
どっちの彼女が?
俺はどっちの彼女を待っているのだろう。
いや、きっと彼女も、明日に備えて早めに寝るはずだ。そう考えて、俺もいつもより早くベッドに入った。
しかし、ここ数日の昼夜逆転生活が体に染みついてしまったのか、なかなか寝付くことができない。シーツにはまだ真紀の香水の匂いが残っているような気がする。
ベッドの中で悶々としていると、廊下の方から何やら物音が聞こえてきた。
ひたっ、ひたっ……
この館に来て最初の晩に聞いた、あの音だ。雨音がなくなった分、今夜の方がより明瞭に聞こえる。
遠くから聞こえてきたその音は、廊下に沿って次第にこちらへ近付いてくる。誰かの足音なのだろうか。その物音は、そのままゆっくり俺の部屋の前を通過していった。
その音の主が妙に気になった。無意識のうちに、これは真紀の足音なのではないか、と期待していたのかもしれない。そう考えてしまうと、もう確かめずにはいられなくなる。
俺はベッドから飛び起き、扉を開けて廊下へ出た。するとそこには……
「そうたろう、そうたろう……」
譫言のように何か呟きながら、覚束ない足取りで真っ暗な廊下を徘徊してゆく、葉子女史の小さな背中があった。
窓から差し込む暖かい日の光に照らされながら、俺は目を覚ました。いつの間に眠ってしまったのだろう。昨夜はこのベッドで確かに真紀の寝顔を見ていたはずなのだが、既にそこに彼女の姿はなかった。
日光に誘われるように窓辺へ行くと、視界一面に広がる青い空と碧みどりの山。長く降り続いていた雨もようやく上がり、ここから眺める景色も一変している。それはさながら、水墨画が一夜にして水彩画へと姿を変えてしまったかのような変貌ぶりだった。
その日の午前中、真紀は部屋から出てこなかった。朝食の席にさえ姿を見せない。
彼女の部屋の扉をノックして呼び掛けてみたが、返事はなかった。どこか体調が悪いのだろうか、もしや、昨晩どこか痛めたか……?
心配になった俺は、山根さんに事情を話して(もちろん昨晩の出来事は伏せて)、マスターキーを使って様子を見てもらった。
「お嬢様、よくお休みになっておられますよ。お声がけしたら、昨晩よく眠れなかったから、と言って、またそのままお休みになられました。何があったのかは存じ上げませんし、差し出がましいようですが、お嬢様もご心痛の様子ですし、仲直りされてみてはいかがでしょうか?」
にこやかに諭すような口調でそう言い残して、山根さんは去って行った。なるほど、山根さんの中では、俺達がまだ喧嘩の最中であるという認識らしい。確かに、当たらずとも遠からずではあるのだが……。
その場は一旦引き上げて自分の部屋に戻ることにした。
ベッドに寝転がり、昨夜のことを思い出す。昨夜の俺はまったく俺はどうかしていた。いつもどうかしているだろうと言われると何も言い返せないのが悲しいところではあるが、それで結局後悔するのは自分なのだ。自制心というやつは、まるであの雲のように、確かにそこに存在するはずなのに、実体として掴むことができない。そういえば、子供の頃は雲の上にもう一つ世界があって、雲の上を自由に歩くことができると思い込んでいたっけ。
そんな夢想に耽りながら、午前中をだらだらと全く無為に過ごした。童心に帰ったところで時計が止まるわけでもない。気付けば、もう昼食の時間になっていた。
真紀の部屋の扉をノックし、一緒に昼食を食べないかと声をかけてみたのだが、やはり返事はなかった。
仕方なく一人で食堂に行くと、真紀は既に食卓に着いていた。食欲が戻ったのだろうか。俺の姿に気付くと、彼女はまるで何事もなかったかのように明るく微笑んだ。
「おはよう、瞬」
「……あ、おはよう。どう? 体調は」
「うん、大丈夫。ゆっくり眠れたから疲れが吹き飛んじゃったよ」
昼のメニューはミートソース・スパゲッティ。おそらくパウチのものだろう。ちなみに朝はリゾットだった。ついに我々の食事にも食糧難の皺寄せがやってきたということか。
昼食の席には、得雄氏も蒼太少年も現れず、山根さんもスパゲッティを運んできただけですぐに下がっていった。おそらく、山根さんあたりが気を使って、俺達が二人きりになるように仕向けたのではないか、と推測する。
「真紀、昨日のこと、怒ってる?」
「昨日の……なんのこと?」
「ほら、昼の……」
「……ああ、あれね。全然気にしてないよ!」
本当だろうか。俺の懸念を振り払うように、彼女は屈託のない笑顔を見せた。いつもの真紀だ。
それから俺達の会話は、スパゲッティの味や天気のことなど、当たり障りのない会話に終始した。昨夜のことを尋ねる気にはなれなかったし、彼女の方からも何も言ってこなかった。お互いにどこか、腫れ物に触るようなぎこちなさがなかったわけではないが、とりあえず一安心といったところか。
折角の晴天なので、午後は一緒に散歩に出ることにした。
長く降り続いた雨の影響で地面はだいぶぬかるんでおり、足場は相当悪くなっている。真紀は、俺の腕に掴まって歩いた。なんとなく既視感を覚えるシチュエーションである。
庭に出ると、花の手入れに勤しむ高部さんに遭遇した。
「こんにちは、高部さん」
「これはお嬢様、そして瀬名様、お揃いで」
客人である俺はこの館に来てから『様』をつけて呼ばれることが多いのだが、その呼称には未だに違和感があった。これまでの人生でそんな扱いを受けたことがなかったので、何だかこそばゆいのだ。
「ずっと雨続きでしたから、庭のお手入れも大変なのではないですか?」
「ええ、まあ多少は手がかかりますが……何しろ、車も使えず外にも出られず、ここ数日は仕事が全くありませんでしたので、随分退屈だったのですよ。今日はようやく仕事ができますので、振り切っておるところです」
庭には赤白黄桃と色とりどりの花が咲き乱れていたが、中でも一際目を引いたのは、鮮やかな青紫に咲き誇る紫陽花の花だった。青と紫の比率と濃度を一房ごとに微妙に変えながら、梅雨の主役は自分だと主張するように見事に咲き誇っている。
庭を離れ、周囲の森に作られた小径を散策してみると、曇り空の下ではモノクロームに見えていた森も、日光を受けて青々と輝いていた。精一杯に枝を伸ばし、光合成という名の日光浴を楽しんでいるようにさえ見える。木の葉を透かして降り注ぐ翠色の木漏れ日を潜りながら森を抜け、山頂近くの見晴らしの良い場所に出ると、そこには見渡す限りの緑が広がっていた。
深い森に覆われた山々と、抜けるような青空。不意に強い山風が吹いて、白いワンピースが揺れ、風に靡く真紀の黒髪、そして、その唇の鮮やかな紅色。
この風景を見られただけでも、ここまで来た価値はあったと思えた。
夕食は焼き魚とわかめの味噌汁、そして数種類の和え物。そう、久しぶりの和食である。和食が食卓に上るということは……。
「おふくろの状態もだいぶ安定してきたらしくてね。今日は久しぶりの和食だよ」
昼食には姿を見せなかった得雄氏だったが、夕食の席には俺達よりも先についていた。その隣には、これまた久しぶりに蒼太少年の姿もある。俺達が席に着くと、食事を運んで来たのはメイド服に身を包んだ黒木さんだった。彼女に会うのも随分久しぶりのような気がする。表情が豊かな山根さんという比較対象ができたせいか、以前にも増して冷徹な印象を受けるが、勿論黒木さんの態度そのものが変わったわけでは決してない。
「今日は土砂の撤去作業も順調に進んだらしくてね。今夜中には通行可能になるそうだ。私と蒼太は明日の朝一番に帰るけど、君たちは気にせずゆっくりしていってくれ」
「まあ、ようやく帰れるのですね……じゃあ、高部さんにお願いしなければ。瞬、どうする?」
「俺は何時でもいいよ」
夕食の話題は専ら、明日の予定に関するものだった。
夕食を終えてお手洗いに立つと、途中の廊下で得雄氏と遭遇した。軽く会釈を交わすと、彼は突然独り言のように話し始める。
「蒼太のことがおふくろの耳に入ったらしくてね、久しぶりに叱られてしまったよ。『蒼太は、反骨心旺盛なところや神経質なところが若い頃のあの人にそっくりだから、あんまり小言を言わないで、蒼太を信じて自主性に委ねなさい、あの子は賢い子なんだから、放っておいてもいつか自分で気付くはず』ってね。私は温厚で理知的な親父しか知らないから、子供の頃の親父があんなふうだなんて知らなかった。それに、私は蒼太のことを本当に理解していなかったんだって、思い知らされたよ……ところで、真紀ちゃんとは、上手く仲直りできたのかい?」
得雄氏は、興味津々な様子で薄笑いを浮かべている。
「……ええ、まあ、その、上手くいったようです」
なんとか誤魔化そうと思ったのだが、得雄氏は顔を寄せ、追及の手を緩めない。
「どうやってご機嫌をとった? あれ、ほら、ヤったのか?」
「いえ、それは……」
こう単刀直入に来られると、なかなか上手い嘘が思いつかないものである。彼は俺の沈黙を肯定の意味と捉えたらしく、
「そうかそうか。言葉は重ねれば重ねるほど嘘になってしまうからね、うん。よかったよかった」
得雄氏はニヤニヤしながらもう一度『そうかそうか』と呟き、俺の肩をバシンと叩いてその場を立ち去ろうとした。が、途中でつと立ち止まり、こちらを振り返る。
「そうそう、言い忘れるところだった。瀬名君、杏子や修司君と会う時は、医学部なんかを名乗らないほうがいいな。見え透いた嘘に付き合ってくれるほど、彼らは優しい人間じゃあないぞ」
「な、なっ……」
突然の指摘に狼狽える俺を見て、彼はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ははは、その顔は、図星だね?」
得雄氏はそのまま、はっはっは、と哄笑しながら去って行った。
負けた。完全に。彼の方が一枚も二枚も上手だったのだ。
部屋に戻った俺は、床に長い黒髪が落ちているのに気が付いた。俺の意識はたちまち、昨夜の記憶へと引き摺り込まれる。
ベッドの上で乱れた真紀の姿態。
磁器のように白い肌が、ほんのりと赤みを増してゆく。
疲れ果てて、すやすやと寝息をたてる彼女の無垢な寝顔。
真紀は今夜も来るだろうか。
どっちの彼女が?
俺はどっちの彼女を待っているのだろう。
いや、きっと彼女も、明日に備えて早めに寝るはずだ。そう考えて、俺もいつもより早くベッドに入った。
しかし、ここ数日の昼夜逆転生活が体に染みついてしまったのか、なかなか寝付くことができない。シーツにはまだ真紀の香水の匂いが残っているような気がする。
ベッドの中で悶々としていると、廊下の方から何やら物音が聞こえてきた。
ひたっ、ひたっ……
この館に来て最初の晩に聞いた、あの音だ。雨音がなくなった分、今夜の方がより明瞭に聞こえる。
遠くから聞こえてきたその音は、廊下に沿って次第にこちらへ近付いてくる。誰かの足音なのだろうか。その物音は、そのままゆっくり俺の部屋の前を通過していった。
その音の主が妙に気になった。無意識のうちに、これは真紀の足音なのではないか、と期待していたのかもしれない。そう考えてしまうと、もう確かめずにはいられなくなる。
俺はベッドから飛び起き、扉を開けて廊下へ出た。するとそこには……
「そうたろう、そうたろう……」
譫言のように何か呟きながら、覚束ない足取りで真っ暗な廊下を徘徊してゆく、葉子女史の小さな背中があった。
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