アンダンテ

浦登みっひ

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京谷小雨の日常&Fall in the moonlight ジャンル:コメディ&ホラー

9月9日(1) 小雨

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「お~い姉貴! そろそろ起きないと遅刻するぞ!」

 階下からドタドタと登ってくる足音と、推定震度2ぐらいの揺れ。マグニチュードにしたら……わかんね。いつか階段の板をぶち抜いてしまうんじゃないかと、毎朝ハラハラしてしまう。もっと静かにできないものか、まったく、朝っぱらから……。
 その足音は私の部屋の前までやってきて、ノックもなしに扉を開けた。

「おい、姉貴ってば! っわわわわっ!」

 と思いきや、すぐに慌てて扉を閉めた。
「姉貴、ちゃんと服着て寝ろっていつも言ってんだろ! 起こすほうの身にもなってみろよ!」
 扉の向こうでなにか喚いている。ああ~うるさい……そもそも、姉弟だからといってノックもなしに人の部屋に入ってくる方が非常識だし、ここは私の部屋なんだからどんな格好で過ごそうが私の自由である。毎朝毎朝、学習能力のない奴だ。
「俺はちゃんと起こしたからな! 後で文句言うなよ!」
 弟は情けない捨て台詞を残して、再びドタドタと階段を降りて行った。起きてるっつの。

 そんなわけで、今日も目覚めは最悪だった。
 布団の周りに散らばっている目覚まし時計は三つ。どれもしっかり止められている。無意識なのに器用すぎない? 私。
 今年の夏はジュニーニョだかアヒージョだか(どっちも違う気がするけどまあいいか)いう現象のために、記録的な猛暑となった。九月も半ばに入ったとはいえ、今年の残暑はまだまだ厳しく、全裸にタオル一枚で寝ているはずなのに、起きるとしっとりと汗を掻いている。人間は通常コップ一杯分の寝汗をかいているというが、多分私は三杯分ぐらいはかいてると思う。やっぱりエアコンつけないとだめかな……。ちなみに私は、よっぽど涼しくならない限り、自分の部屋では基本的に全裸である。

 ああ、まだ自己紹介をしてなかった。
 私の名前は京谷小雨。ビッチじゃないけど清純でもない、バイトと時々勉学に励む、ごく普通の女子大生。寝起きの悪さと酒癖の悪さを除けば、これといった特徴もない、平凡な女だ。

 夏季休暇が終わったばかりでまだ休みボケが抜けておらず、特に朝が辛い。暑さがピークを越えて、ようやく夜ぐっすり眠れるようになったというのに、すぐに学校が始まってしまうなんて、世の中は無情すぎる。しかし、これ以上ぼやぼやしてるとほんとに遅刻してしまうな……。
 私は大急ぎで下着をつけ、適当なショーパンとTシャツを着て一階に降りた。

 食卓には既に朝食が用意してあった。ごはん、納豆、味噌汁、酢の物……うちの献立はいつも何かワンパンチ足りない。肉はないのか肉は。
「あら小雨おはよう。今日はちゃんと起きてきたわね」
「だから言ったろ? ちゃんと起こしてきたって」
 母と弟が言い合っている。

 母の名前は康子。若い頃にはそれなりにスレンダーで美人だったのに、ここ数年で一気にトドみたいに中年太りしてしまった。私達にはこんなにヘルシーな食事ばかり食べさせているのに何故、とよく思うのだが、きっと日中一人でこそこそジャンクフードを食べているに違いないと私は睨んでいる。まあ、私も昔から小遣いのほとんどを食べ物に消費してきたクチだから、人の事を言えた義理ではないのだが。

 さっき私を起こしに来た弟の名前は鮫太郎。現在高二の16歳だ。身長は180センチ以上あり、顔もまあまあイケメンでスポーツ万能、本来なら自慢の弟になるはずなのだが、残念なことに、こいつは致命的に頭が悪い。天は二物を与えずとはよく言ったものだが、こいつに関しては神様が匙加減を間違えたらしい。
 で、食卓の片隅で黙々と新聞を呼んでいるのが、私の父、一郎だ。母が年々ぶくぶくと肥えていく一方で、父の方は年々痩せ細り、近頃は白髪も増えてきた。家でもほとんど言葉を発することがなく、サラリーマンのくせにあまり飲みに誘われることがない。それは、母から支給される小遣いの少なさにも関係があるかもしれないから、一概に父を責めるわけにもいかないのだが。それでも、私たちをここまで養ってくれた一家の大黒柱だから、家族からは一目置かれている……はずなんだけど、普段から存在感があまりにも希薄で、忘れられがちな人である。

「ほら、あんたも早く食べなさい」
 そう言って母が持ってきたのは、塩鮭の切り身だった。
 私達一家が父親の左遷によって東北の青葉市に引っ越してきたのは、私がまだ八歳の時だった。引っ越して間もない頃、こちらの食べ物の味の濃さに、ちょっとしたカルチャーショックを受けたのを思い出す。
「あれ、母さん、父さんの塩鮭がないよ」
 鮫太郎が指摘すると母は、
「あらっ、忘れてたわ……ごめんごめん、今焼くからね」
 と、慌てて魚焼きグリルに新しい塩鮭の切り身を載せた。いつもこんな調子である。今は鮫太郎が気付いたからよかったようなものの、父の場合は、もしかしたら誰にも気付かれないまま一食抜かされているようなこともあるかもしれない。この人ならきっと、それでも文句を言わないだろう。そのうち栄養失調で倒れてしまわないか心配である。

 朝食を大急ぎでかきこみ、最低限の身だしなみを整えた私は、使い古したバッグをひっかけて家を飛び出した。なお、私の定義する『最低限の身だしなみ』に、メイクは含まれない。

「おっ、小雨。おはよう」
 私が玄関を出ると、向かいの家からちょうど瞬が出てくるところだった。彼は向かいの瀬名さんちの同い年の男の子で、私達家族が都内からこちらに引っ越してきて以来、十年以上の付き合いになる。私にとって彼は……なんだろう、一言ではとても言い表せない事情があるのだが、そこのところはおいおいわかってもらえるだろう。

「おはよう、瞬。今日も暑いねぇ」
 いかに東北といえども暑いものは暑い。九月に入るとさすがに猛暑日を記録することはなくなったが、それでも日によっては真夏日ぐらいにはなってしまう。瞬も、なんだかよくわからない柄のTシャツにハーフパンツというラフな出で立ちだった。

 私達が通う大学のキャンパスは家から徒歩で通える距離にあり、それがこの大学を選んだ最大の理由であるとも言える。大学生といえば親許を離れて遊びたいという子も多いのだが、私も瞬もあまりそういうことには興味がなく、今でも実家から大学に徒歩で通っている。一人暮らしにも興味がないではないのだが、他県からこちらにやってきて一人暮らししている他の子たちを見ていると、バイトをしている子でも大体みんな金欠に喘いでおり、私には大変そうに思えてならない。きっと瞬もそう考えたのだろう。

 昨日見たテレビの話をしながら、二人で大学まで歩いた。といっても、瞬はあまり普段テレビを見ないので、ほとんど私が一方的に喋っていた。私も女子の中ではかなり無口な方だと思うのだが、瞬は普段それ以上に無口なので、彼と一緒にいると必然的に多弁になってしまう。彼は常に聞き役だ。おそらく、話している内容のほとんどは聞き流されているだろうけど。

 大学の門の前に着くと、反対側からとんでもない美人が歩いてくるのが見えた。なんとかベージュという色のウェーブがかかった髪を靡かせ、シャンプーハットみたいにつばの広い白い帽子、涼しげな薄い水色のワンピースが風に揺れている。道行く男共をメンコのようにくるりと振り返らせながら、その美人は真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
「あら、おはよう、瞬、小雨」

 彼女の名前は西野園真紀。容姿端麗才色兼備、その上、大金持ちのご令嬢。

 彼女は私がまだ幼い頃、都内に住んでいた頃のご近所さんだったのだが、大学に入ってから偶然再会し、今では一応親友ということになっている。
 真紀は私達の姿を見るなりこちらに駆け寄って来て、私と瞬の間に割り込み、彼と腕を組んだ。慧眼なる読者の皆様なら既にお気づきのことと思うが、瞬と真紀は恋人同士。今年のバレンタインデー以来だから、二人が付き合い始めてかれこれ半年余りになる。
 真紀が来るともうすっかり二人の世界になってしまって、私には入り込む余地がなくなってしまう。真紀は私よりかわいいし、明るいし、私より話が面白いから。客観的に見ても、三人揃うと私と瞬は真紀の添え物みたいに映るだろう。しかし、真紀が所属しているのは経済学科、私達とは学部が違うため、構内に入るとすぐに別れて自分の講義室へ向かっていった。ちなみに私と瞬は同じ人間科学科である。

 講義室に着くと、私達は前から三番目あたりの列の右端の席に並んで座った。端の多い人生を送ってきました。前後の位置は多少ずれることがあるが、座るのは大体右端か左端である。理由は単純に端のほうが落ち着くからで、それ以上に深い意味はない。

 今日もまた退屈な一日が始まるのだなと思うと、朝から早々に気が重くなった。
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