アンダンテ

浦登みっひ

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京谷小雨の日常&Fall in the moonlight ジャンル:コメディ&ホラー

9月14日(1) 小雨

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「いらっしゃいませ〜」
「ありがとうございました〜」
「お弁当、温めますか?」
 この台詞、今日だけで既に何回言っただろう。聡明なる読者の皆様は既にお察しのことと思うが、今はバイト中である。

 私のバイト先は、私が子供のころからあるコンビニだ。うちのすぐ近所にあるので、昔から頻繁に利用していた。店長ともすっかり顔見知りになっていたため、世間話の中で『今アルバイトを探していて』みたいなことを言ったら、店長の方から誘ってきたのだ。
『じゃあ、うちでバイトしたら? 小雨ちゃんなら面接もいらないわよ』と。

 まあ、そういう展開を狙ってバイトの話を持ち出したわけだが。あは。

 ともかく、私がこのコンビニで働き始めたのはこういう経緯だった。昔はいつ来ても閑古鳥が鳴いているような状態で、いったいどうやって経営が成り立っているのか、子供の私でも疑問に感じていたものだ。未だに当時のイメージを持ち続けていた私は、あんなにぼーっと突っ立ってるだけでお金が貰えるなんてラッキー☆と思ってここで働くことにしたのである。

 ところがどっこい、この近くに新しく何軒かホテルが建ったことによって、状況はガラリと一変していた。
 私が客としてこのコンビニを利用していたのは主に学校帰り(所謂買い食い)だったから気付かなかったのだが、夜になるとホテルの利用客が結構やってくる。昔とは人の流れがまるっきり違うのだ。確かに、最近交通量が増えたなあと漠然と感じてはいたのだが、まさかこれほどとは。完全な見込み違い。
 とはいえ、顔見知りの店長に『思ってたより忙しかったから辞めます』なんて言えるわけもなく。さっと辞められないのがコネのデメリットだと痛感しつつ、私は真面目に働いている。トカトントン。
 しかし、いくらやっても接客というものに対する苦手意識は拭えない。次のバイトはなるべく人と接しなくて済むものにしようと思う毎日である。

「いらっしゃいませ〜」
 あ、来た。

 さて、そんな辛いバイト生活にも、ささやかな楽しみぐらいはある。砂漠にぽつんとあるオアシスみたいに、どんな仕事にだってたまにはやりがいを感じられる瞬間があるものだろう。それが自然の摂理ってやつ。
 では、しがないコンビニ店員である私にとってのオアシスとは何か? ……それは、たった今入ってきた、常連のイケメン客だ。
 年齢は多分三十歳ぐらい。180センチはあるワイルド系のイケメンで、アイドルとか俳優というより、某ダンスヴォーカルユニットにいそうな、若干コワモテっぽい雰囲気だ。やや色黒で、髪はいつもオールバックにきっちり固めている。瞬とは全く正反対のタイプだが、逆にそこがまたいいのかもしれない。
 この近くにあるホテルの従業員らしく、時々制服姿のままで来ることもある。おにぎりやサンドイッチ、飲み物などを買っていくことが多く、きっと休憩時間に食べているのだろうと推測している。彼が来ると、無意識のうちに普段より若干声が高くなってしまう。念のために言っておくが、私はレイシストではない。

 イケメンはお茶とたらこのおにぎりを手に取り、レジにやってきた。胸の高鳴りを気取られぬよう、努めて通常の対応を心掛ける。まあ声はどうしようもないけど。
「おにぎり、温めますか?」
「あ、いえ」

 会計の際、お釣りを渡すときに手が触れるかどうか。これが一日の幸運のバロメーターとなる。触れたら大吉、触れなかったら大凶。今日は、ほんの少し指先が当たった。多分、何かいいことがあるだろう。

 イケメンが去ってしまうと、また退屈なバイト店員に逆戻り。退勤まであとどれくらいだろう。カレーの具は何にしようかな。なんてことをぼんやり頭の片隅で考えながら、粛々と仕事をこなしていた。

 ところで、些か唐突ではあるが、世の中というのは案外狭いものだ。日本だけでも一億二千万もの人間がいて、絶えず移動しているというのに、思いがけないところで不思議な縁のある人と出会ったりする。その人がやってきたのは、退勤の数十分前。夜の八時半ぐらいのことだったと思う。先に述べておくが、今度はイケメンではない。

 それはとても綺麗な女の人だった。
 ほんのりブラウンがかった髪をスマートなショートボブに決めた、銀縁眼鏡が似合うキャリアウーマン風の女性。年齢は、見たところ三十代半ばぐらいだろうか。細身の体をきっちりしたグレーのスーツに包み、なんとなく話し掛けにくい雰囲気を周囲に振り撒いている。美人だけどナンパはされないタイプ、パワプロで言ったら『威圧感』を持っている感じである。
 こんな美人は滅多にいないはずなのだが、私は何故かその顔立ちに既視感を覚えていた。いや、でも……う〜ん、どこかで見かけただけかな?

 その美人は、店内を一巡してからペットボトルの紅茶と数個のおにぎりを持ってレジに来た。間近で見ても思い出せない。どこかで……。
 記憶の糸を辿りながらレジ打ちを済ませると、その美人は突然口を開いた。
「あの、失礼ですが、この近くに『アーバンシティ青葉』というマンションがありますよね?」
 アーバンシティ青葉。真紀が住んでるマンションじゃないか。
「ええ、はい、ここから歩いて10分ぐらいのところにあります」
「ちょっと、道順をお聞きしてもよろしいかしら?」
 わざわざ教えなければならないほど複雑なわけでもないのだが、一応店員の責務として、私は件のマンションへの道のりを説明した。といっても、大通りに出てずっと歩いて行けば、この辺りでは群を抜いて大きい塔のような建物が見えてくるから、そこに向かって歩いて行けばいいだけなのだが。
「ありがとうございます。ところで……」
 礼を述べたあと、その美人は私の顔をきっと見据えた。銀縁眼鏡の向こうの大きな瞳、その眼力に気圧されてしまう。な、なんだろう。緊張する。
「あなた、もしかして京谷小雨さん?」
「は?」
 ええっ、どうして私の名前を知っているんだ? やっぱりどこかで会ったことがあるのだろうか。いや、しかし、意表を突かれたにしても、『は?』はいくらなんでも失礼だ。接客態度として有り得ない。
「ええ、はい、確かに私です……失礼ですが、どこかでお会いしたことがありましたか?」

 すると、そのインテリ風美人は途端に相好を崩した。
「先にこちらから名乗るべきでしたね……私は榊杏子、西野園真紀の母です。京谷さんご一家が引っ越されて以来だから、覚えていないのも無理はないわね」
 ええっ、マジか……どうりでなんとなく見覚えがあるわけだ。今まで表情が硬くて気付かなかったけど、笑うと真紀にそっくりじゃないか。いや、でも、真紀の母親にしては若すぎないか?
「ああっ、真紀のお母さま……すみません、今まで気付かなくて……」
「いいのよ、気にしないで。こちらに来てから、真紀が随分お世話になっているそうね。よく電話で話しているのよ、女友達はあなただけだって。私からもお礼させてもらうわ、真紀のこと、いつも気にかけてくれてありがとう」

 杏子さんは深々と頭を下げた。本来なら喜ぶべきところなのだろうが、実はとても気まずい。なぜなら、私は真紀の親友として振る舞いつつ、一方で彼女を裏切ってもいるのだから。
「いえ、そんな……こちらこそ、私だって友達は少ないですし……今日は、真紀に会いに来られたんですか?」
「実は今日、こちらで講演の仕事があってね。ホテルはすぐそこなんだけど、せっかくだから、ついでに真紀の部屋にも押しかけてやろうかと思って」
「そうなんですか……あの、失礼かとは思いますが、その、苗字が……ご離婚されたんですか?」
 さっき名前を聞いてから、ずっと気になっていたことだった。真紀の家庭がやや複雑らしいということは、彼女の口ぶりからなんとなく知っていたのだが、西野園という苗字を名乗らなかったということは、いよいよ離婚したのだろうか。真紀からはそんな話は聞いていないけど。しかし、非常にデリケートな質問でもあるので、言葉を選ぶあまり、ご離婚などという変な日本語になってしまった。
「ああ、いえ、これは違うのよ。仕事の関係で普段は旧姓を名乗っているものだから、つい。まだ離婚はしていません」
 まだ、という部分が気にはなったが、ひとまず安心して良さそうだ。ほら、一応、真紀の親友だから。私。

 その後、話題は私の両親のことへと移り、母は太って父は痩せたけどどちらも元気です、というようなことを話したあと、杏子さんはコンビニを出て、真紀のマンションの方へと歩いて行った。

 ……あ。しまった。

 大事なことを訊くのを忘れていた。

 今、おいくつなんですか? って。
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