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ノックスの憂鬱 ジャンル:ミステリ
『変装して登場人物を騙す以外に、探偵自身が犯人であってはならない』
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俺の証言によって密室の可能性が浮上したためか、さっきまで饒舌に事情聴取を行っていた高橋刑事の表情は一気に曇り始めた。まさか本当に俺が犯人だと考えていたわけではないだろうが、あの様子を見ると、微かに期待を寄せていたぐらいのことはあったのかもしれない。
また、元々メンバーに対する殺害予告が出ていたこともあり、外部から侵入してきた人間による犯行であれば、それほど複雑な事件にはならない。この辺り一帯に聞き込みローラー作戦をかければ、案外簡単に目撃情報が得られるかもしれない。人通りが少ない上に建物も少なく、人混みに紛れることも物陰に隠れることも難しい環境で、不審な人物や車がうろついていれば、付近の住民に目撃されている可能性は少なくない。ミステリに於いて探偵にしばしば揶揄される、足を使った捜査というやつである。
おそらく高橋刑事も本音では狂信的なファンによる犯行と考えていて、掲示板に投稿された殺害予告を辿れば犯人が絞り込めると踏んでいたのだろう。メンバーに対する事情聴取は内容から見ても形式的なもので、もしかすると、単純にメンバーと会話してみたかっただけなのではないか。あわよくばメンバーから認知してもらおうという意図もあったのかもしれない。
しかし、密室となると若干話がややこしくなる。キーボードの角で後頭部を殴られたにせよ、部屋に入らずして襲撃することはまず不可能なのだ。とはいえ、玄関からロビーを通っておおむらの部屋に行くことはできなかった、その事実だけでも大きな収穫であるように思えるのだが、どうだろう。なまじミステリなんかを読み始めたために、思考がどんどん不謹慎になっていくのが自覚できた。
ちなみに、俺達が宿に到着する前にオーナーが全ての部屋を清掃しており、後に防犯カメラの映像からも確認されることではあるが、あらかじめ犯人が部屋に、或いは民宿のどこかに潜んでいたという可能性は排除された。そもそも、メトロポリタン・ヴァンガードのメンバーがこの民宿に来ること自体、予測がほぼ不可能なことであり、狙って潜伏していたと考えるのは無理筋だと言える。
また、通報を受けて到着した警察が隈無く捜索した結果、犯人がまだ民宿内に潜んでいるという可能性も排除された。例えばこれが怪人二十面相や怪盗キッドによる犯行ならば警察官や鑑識官に紛れて脱出するというのが常套手段であるが、彼らは創作上の存在であり、そんな手が通用するほど現実の警察は甘くないらしい。
かくして、焦点は密室に絞られた。
もう一度現場の状況を確認するため、俺達六人は民宿『やすらぎ』に移動することになった。まだおおむらの部屋には入れないため、とりあえず全員ロビーに集まる。
「おおむらさんの部屋は、廊下を挟んで右側に並んだ三部屋の中央。手前の部屋が世々さん、奥の部屋には私が宿泊していました」
高橋刑事が状況の整理を始める。
「瀬名君の証言によると、このドアを通った不審な人物はいなかった。となると、他の侵入及び逃走経路は窓しかないわけですが……」
民宿『やすらぎ』の客室の窓は、一般的なクレセント錠である。事件当時、おおむらの部屋の窓の鍵はしっかり施錠されており、もちろん窓ガラスが割られていたわけでもない。外から糸などの細工をして操作するような余地はなかった。また、築二十年は経過していそうな客室の中で、窓のサッシもその例外ではなく、古びたクレセント錠を回すにもそれなりの力が必要である。手品のように、糸を使ってスルリと回せるような代物ではない。
そういえば、これはミステリ好きの彼女が話していたことなのだが、傷を負った被害者が自ら鍵を閉めた、という密室モノもあるらしい。それは今回のケースに当てはまるだろうか。犯人が部屋を出て行った後、再び襲ってくるのを防ぐために被害者自ら鍵を閉める、というものだ。部屋から出て助けを求めるほうが理にかなった行動なのだが、酩酊した状態で後頭部を強打され意識が朦朧とした被害者が常に合理的な行動をとるとは限らない。また、被害者が犯人を庇うために自ら鍵を閉めて密室を作る、というケースもあるそうだ。
鍵を閉めた方法にばかり目が行きがちだが、どうやって部屋に入ったのか、という点も考える必要がある。ただしこれについては、例えば酔ったおおむらが風に当たろうとして自分で開けた可能性や、オーナーが部屋を掃除した際に閉め忘れた可能性を排除できないため、あまり突き詰めて考えることはできない。
そう考えてみると、完全な密室というものは、現実にはなかなか成立しないものだ。
それはさておき、密室トリックを解くためにはこの窓をどうにかしなければならないわけだが、高橋刑事のお手並みや如何に?
高橋刑事は、ロビーの窓のクレセント錠を睨みながら必死に思考を巡らせている。
「窓のクレセント錠には誰の指紋も付着していませんでした。もちろん、おおむらさんの指紋も。おおむらさんが自分で拭き取るとは考えにくいですし、犯人が部屋を脱出してから指紋を拭き取ることは不可能ですから、おおむらさんが自分で窓を開けたとは考えられない。オーナーが部屋の清掃を行ってから誰も触れていないか、もしくは、犯人が手袋をしていた……いや、手袋をしていたなら、何故キーボードの指紋を拭き取る必要があったのか……ううむ、どうにも筋が通らない。何か、痕跡を残さずに窓の鍵を閉められる仕掛けはないものか……」
十分ほど経ったころ、高橋刑事はボリボリと頭を掻きながら突然叫んだ。
「あああっ、無理だ! できっこない!」
そして再び、俺の顔をねめつけるように見据える。
「瀬名君、君は誰かを庇っているんじゃないのか?」
なるほど、当然の帰結である。
「はあ……一体誰を?」
「決まってるじゃないか! 彼だよ、君の同行者の京谷君だ!」
いきなり名指しされた鮫ちゃんは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で自分を指差した。
「え、俺っすか?」
高橋刑事は鬼の形相で鮫ちゃんに詰め寄るが、童顔の彼が凄んでもさほど迫力がない。警察官としては損な容姿だな、と思う。
「そうだ、それしか考えられん! 君はごく普通におおむらさんの部屋に入り、彼を襲った! そうだろう?」
「えええ、何で俺が?」
「狂ったファン心理だよ! こういうアホ面したイケメンが意外と心に闇を抱えていて突然狂ったりするんだ!」
最早完全に言いがかりである。鮫ちゃんはあの客室から出ていない。もちろん、俺がロビーにいた間に窓から外に出た可能性は皆無ではないが、窓からの出入りについて考えるなら、ずっと二人で話し込んでいた松生と世々以外の全員に同じことが言えるはずだ。それにしても、アホ面したイケメンとは、誉めたいのか貶したいのかよくわからない表現だ。
「……あの、ちょっと、刑事さん」
剣呑になり始めた空気を鎮めるように、葉政の玲瓏たる声が響く。
「は、はい、何でしょうか、葉政さん……」
「ずっと黙って見ていましたけど、ちょっと彼等に突っ掛かりすぎではないですか? 瀬名君が何らかの理由で犯人を庇っている、もしくは見過ごしたために密室が崩れているという前提なら、客観的に見れば私やあなたにも犯行は可能なはずです。私達にはアリバイがありませんからね。私達のファンでいてくれるのは本当に有難いし、私達を信じてもらえるのは嬉しいけれど、そのためにいい加減な理由で他の人が疑われていくのを見せられると不愉快だわ」
一息にぴしゃりと言い切った葉政の凛とした声は、セイレーンもかくやというほどに美しかった。彼女の射抜くような視線を受けて、さしもの高橋刑事もすっかり萎縮してしまったようだ。
「い、いえ、決してそのようなつもりは……ご不快に感じられたなら申し訳ありません。ただ、庇うような動機があるとしたら、同行者の京谷君ではないかと……」
「彼等も私達のライブを観に来てくれた観客ですよ。仮に私が犯人だとしたら、瀬名君が私を庇う可能性はあるのでは……」
そこまで言いかけて葉政は、ふっと表情を綻ばせた。
「ふふっ、何を言ってるのかしら、私……ちょっと自惚れすぎね、ごめんなさい」
さっきまでの厳しい表情から一転して、柔らかいチャーミング(死語)な笑顔。そのギャップがまた堪らない。
高橋刑事に対する批判は、彼女の微笑を以て一旦ピリオドが打たれた。
客観的に見れば葉政と高橋刑事にも可能性はある、と彼女は言ったが、仮に高橋刑事が犯人だとすると、自分を庇ってくれている相手をわざわざ詰問していることになってしまい、話がこじれてくる。第一、俺には高橋刑事を庇う理由がないのだ。
「おほん……失礼しました。では、密室が崩れたもう一つの可能性について検討することに致しましょう」
葉政の諫言がよほど効いたと見えて、高橋刑事は違う観点から推理を行うことにしたらしい。
おそらく、彼も葉政推しなのだろう。
また、元々メンバーに対する殺害予告が出ていたこともあり、外部から侵入してきた人間による犯行であれば、それほど複雑な事件にはならない。この辺り一帯に聞き込みローラー作戦をかければ、案外簡単に目撃情報が得られるかもしれない。人通りが少ない上に建物も少なく、人混みに紛れることも物陰に隠れることも難しい環境で、不審な人物や車がうろついていれば、付近の住民に目撃されている可能性は少なくない。ミステリに於いて探偵にしばしば揶揄される、足を使った捜査というやつである。
おそらく高橋刑事も本音では狂信的なファンによる犯行と考えていて、掲示板に投稿された殺害予告を辿れば犯人が絞り込めると踏んでいたのだろう。メンバーに対する事情聴取は内容から見ても形式的なもので、もしかすると、単純にメンバーと会話してみたかっただけなのではないか。あわよくばメンバーから認知してもらおうという意図もあったのかもしれない。
しかし、密室となると若干話がややこしくなる。キーボードの角で後頭部を殴られたにせよ、部屋に入らずして襲撃することはまず不可能なのだ。とはいえ、玄関からロビーを通っておおむらの部屋に行くことはできなかった、その事実だけでも大きな収穫であるように思えるのだが、どうだろう。なまじミステリなんかを読み始めたために、思考がどんどん不謹慎になっていくのが自覚できた。
ちなみに、俺達が宿に到着する前にオーナーが全ての部屋を清掃しており、後に防犯カメラの映像からも確認されることではあるが、あらかじめ犯人が部屋に、或いは民宿のどこかに潜んでいたという可能性は排除された。そもそも、メトロポリタン・ヴァンガードのメンバーがこの民宿に来ること自体、予測がほぼ不可能なことであり、狙って潜伏していたと考えるのは無理筋だと言える。
また、通報を受けて到着した警察が隈無く捜索した結果、犯人がまだ民宿内に潜んでいるという可能性も排除された。例えばこれが怪人二十面相や怪盗キッドによる犯行ならば警察官や鑑識官に紛れて脱出するというのが常套手段であるが、彼らは創作上の存在であり、そんな手が通用するほど現実の警察は甘くないらしい。
かくして、焦点は密室に絞られた。
もう一度現場の状況を確認するため、俺達六人は民宿『やすらぎ』に移動することになった。まだおおむらの部屋には入れないため、とりあえず全員ロビーに集まる。
「おおむらさんの部屋は、廊下を挟んで右側に並んだ三部屋の中央。手前の部屋が世々さん、奥の部屋には私が宿泊していました」
高橋刑事が状況の整理を始める。
「瀬名君の証言によると、このドアを通った不審な人物はいなかった。となると、他の侵入及び逃走経路は窓しかないわけですが……」
民宿『やすらぎ』の客室の窓は、一般的なクレセント錠である。事件当時、おおむらの部屋の窓の鍵はしっかり施錠されており、もちろん窓ガラスが割られていたわけでもない。外から糸などの細工をして操作するような余地はなかった。また、築二十年は経過していそうな客室の中で、窓のサッシもその例外ではなく、古びたクレセント錠を回すにもそれなりの力が必要である。手品のように、糸を使ってスルリと回せるような代物ではない。
そういえば、これはミステリ好きの彼女が話していたことなのだが、傷を負った被害者が自ら鍵を閉めた、という密室モノもあるらしい。それは今回のケースに当てはまるだろうか。犯人が部屋を出て行った後、再び襲ってくるのを防ぐために被害者自ら鍵を閉める、というものだ。部屋から出て助けを求めるほうが理にかなった行動なのだが、酩酊した状態で後頭部を強打され意識が朦朧とした被害者が常に合理的な行動をとるとは限らない。また、被害者が犯人を庇うために自ら鍵を閉めて密室を作る、というケースもあるそうだ。
鍵を閉めた方法にばかり目が行きがちだが、どうやって部屋に入ったのか、という点も考える必要がある。ただしこれについては、例えば酔ったおおむらが風に当たろうとして自分で開けた可能性や、オーナーが部屋を掃除した際に閉め忘れた可能性を排除できないため、あまり突き詰めて考えることはできない。
そう考えてみると、完全な密室というものは、現実にはなかなか成立しないものだ。
それはさておき、密室トリックを解くためにはこの窓をどうにかしなければならないわけだが、高橋刑事のお手並みや如何に?
高橋刑事は、ロビーの窓のクレセント錠を睨みながら必死に思考を巡らせている。
「窓のクレセント錠には誰の指紋も付着していませんでした。もちろん、おおむらさんの指紋も。おおむらさんが自分で拭き取るとは考えにくいですし、犯人が部屋を脱出してから指紋を拭き取ることは不可能ですから、おおむらさんが自分で窓を開けたとは考えられない。オーナーが部屋の清掃を行ってから誰も触れていないか、もしくは、犯人が手袋をしていた……いや、手袋をしていたなら、何故キーボードの指紋を拭き取る必要があったのか……ううむ、どうにも筋が通らない。何か、痕跡を残さずに窓の鍵を閉められる仕掛けはないものか……」
十分ほど経ったころ、高橋刑事はボリボリと頭を掻きながら突然叫んだ。
「あああっ、無理だ! できっこない!」
そして再び、俺の顔をねめつけるように見据える。
「瀬名君、君は誰かを庇っているんじゃないのか?」
なるほど、当然の帰結である。
「はあ……一体誰を?」
「決まってるじゃないか! 彼だよ、君の同行者の京谷君だ!」
いきなり名指しされた鮫ちゃんは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で自分を指差した。
「え、俺っすか?」
高橋刑事は鬼の形相で鮫ちゃんに詰め寄るが、童顔の彼が凄んでもさほど迫力がない。警察官としては損な容姿だな、と思う。
「そうだ、それしか考えられん! 君はごく普通におおむらさんの部屋に入り、彼を襲った! そうだろう?」
「えええ、何で俺が?」
「狂ったファン心理だよ! こういうアホ面したイケメンが意外と心に闇を抱えていて突然狂ったりするんだ!」
最早完全に言いがかりである。鮫ちゃんはあの客室から出ていない。もちろん、俺がロビーにいた間に窓から外に出た可能性は皆無ではないが、窓からの出入りについて考えるなら、ずっと二人で話し込んでいた松生と世々以外の全員に同じことが言えるはずだ。それにしても、アホ面したイケメンとは、誉めたいのか貶したいのかよくわからない表現だ。
「……あの、ちょっと、刑事さん」
剣呑になり始めた空気を鎮めるように、葉政の玲瓏たる声が響く。
「は、はい、何でしょうか、葉政さん……」
「ずっと黙って見ていましたけど、ちょっと彼等に突っ掛かりすぎではないですか? 瀬名君が何らかの理由で犯人を庇っている、もしくは見過ごしたために密室が崩れているという前提なら、客観的に見れば私やあなたにも犯行は可能なはずです。私達にはアリバイがありませんからね。私達のファンでいてくれるのは本当に有難いし、私達を信じてもらえるのは嬉しいけれど、そのためにいい加減な理由で他の人が疑われていくのを見せられると不愉快だわ」
一息にぴしゃりと言い切った葉政の凛とした声は、セイレーンもかくやというほどに美しかった。彼女の射抜くような視線を受けて、さしもの高橋刑事もすっかり萎縮してしまったようだ。
「い、いえ、決してそのようなつもりは……ご不快に感じられたなら申し訳ありません。ただ、庇うような動機があるとしたら、同行者の京谷君ではないかと……」
「彼等も私達のライブを観に来てくれた観客ですよ。仮に私が犯人だとしたら、瀬名君が私を庇う可能性はあるのでは……」
そこまで言いかけて葉政は、ふっと表情を綻ばせた。
「ふふっ、何を言ってるのかしら、私……ちょっと自惚れすぎね、ごめんなさい」
さっきまでの厳しい表情から一転して、柔らかいチャーミング(死語)な笑顔。そのギャップがまた堪らない。
高橋刑事に対する批判は、彼女の微笑を以て一旦ピリオドが打たれた。
客観的に見れば葉政と高橋刑事にも可能性はある、と彼女は言ったが、仮に高橋刑事が犯人だとすると、自分を庇ってくれている相手をわざわざ詰問していることになってしまい、話がこじれてくる。第一、俺には高橋刑事を庇う理由がないのだ。
「おほん……失礼しました。では、密室が崩れたもう一つの可能性について検討することに致しましょう」
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