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茉莉花と藍子
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演劇部に入部したことを真っ先に報告したのはもちろん姉貴だった。入部が決まったその日の夜、バイト帰りの姉貴にすぐに伝えたのだ。
しかし、姉貴の反応は僕が想像していたより薄かった。
「あ、そうなんだ?」
姉貴は台所で歯を磨きながら、こちらに背を向けて素っ気ない口調でそう答えた。もっと喜んでくれると思っていたので、僕はすっかり拍子抜けしてしまった。
「そうなんだ、って……それだけ?」
「うん? いや……まあ、演劇部の後輩たちは皆いい子たちだったから、客観的に見たら、いい部を選んだんじゃないかと思うよ」
歯を磨きながら喋っているから実際にはこんなに明瞭な発音ではない。それにしても、客観的に見て、とは何だろう。なんか随分よそよそしい言い方じゃないか?
「じゃあ、主観的に見たらどうなの? 僕が演劇部に入ること、姉貴も結構乗り気だと思ってたんだけど」
「う~ん、嬉しいっちゃ嬉しいし、演劇部に入れば安心だなとも思ってたんだけど、いざ入ったって聞くと、なんだろうな、ちょっと、こそばゆいというか……」
歯磨きを終えた姉貴は、二、三度うがいをしてからこちらに向き直った。かすかに苦笑を浮かべたその表情。姉貴がこんな顔をするときにどういう感情を抱いているのかを、僕は十五年余りの姉貴との付き合いの中で明確に理解していた。
つまり、この姉貴の苦笑いは、照れ隠しなのだ。
僕は少しほっとした。
「こそばゆい?」
「うん……まあ、とりあえず、頑張って」
「うん。色々相談することになるかもしれないけど、その時はよろしく」
「演技のことで? まあ、いいけど……多分、それも藍子に相談したほうが、ためになるアドバイスを聞けるんじゃないかと思うよ」
!i!i!i!i!i!i!i!i
「おお~、葉太郎くん、演劇部入ったんだ! おめでとう!」
次の週末、藍子さんとの個人授業の日。演劇部に入ったことを伝えると、藍子さんはらんらんと目を輝かせ、姉貴とは対照的に、ややオーバーとさえ思えるぐらいに喜んでくれた。でも、今回の個人授業の場所は静かな雰囲気のブックカフェ。静まり返った店内に、藍子さんの声は否応なく隅々まで響いて、店員や他の来店客たちから非難の視線を集めることになってしまった。
そんな周囲の様子には気付く気配すらない藍子さんの代わりに頭を下げると、藍子さんもようやく気付いたらしく、口に手を当てながら『ごめんなさい』と上品にお詫びして、店内は元の静寂を取り戻した。
藍子さんは小声になって話を続ける。
「で、どう? もう何回か行ってみたんでしょ?」
「ええ、もちろん。でも、想像とは全然違いましたよ」
「どこらへんが?」
「……それはやっぱり、筋トレとか、走り込みとか」
そう、演劇部といえば穏やかな文化系のイメージがあったのだが、実態は全く違った。いや、最初に部室に足を踏み入れた瞬間に気付いておくべきだったのかもしれない。そういえばあの時、僕がどうして筋トレしてるのか尋ねたところで副部長である福島舞さんに声をかけられて、結局その答えを聞かぬまま僕は演劇部への入部を決めてしまったんだっけ。
部室に入ってまず行うのはストレッチ。それから腕立て、腹筋、背筋などの筋トレを軽く行い、天気が良ければ外でランニング、更に発声練習があって、具体的に台本を読んだり演技の練習に入るのはその後になる。
わざと答えをはぐらかしたわけではないと思うし、仮に聞いていても入部をやめたりはしなかったとは思う。しかし、騙されたとまでは言わないが、こんなはずじゃなかった、ぐらいには感じたりする。走り込みの後とかは特に。毎回僕よりへたばっている武田は、僕以上にその思いが強いのではないだろうか。
「え? 茉莉花から聞いてなかったの? 活動内容」
「ええ。姉貴は学校のこととかバイトのこととか、僕にはあんまり話さないし……。演劇部のことだって、僕は舞台の映像でしか知りませんでしたから」
「そっか……。言われてみれば、そうだね、茉莉花が部活の話をしているなら、葉太郎くんはもっと前にあたしのこと知ってるはずだもんね」
「たしかにそうですね」
「てっきり知ってるもんだと思って勧めちゃったわ、ごめん。それが理由ですぐに辞めちゃう子も毎年いるからなあ。でも、実際どう? やっぱりキツい?」
「いえ、まあ大変ではありますけど、でも楽しいですよ」
熱心に勧めてくれた人を目の前にして、いやあキツいです、とはなかなか言えないものだ。でも、そう答えることで藍子さんが喜んでくれるのなら、それだけでもう十分元は取れていると言っていい。
藍子さんは、ぱっと満開の牡丹のような笑顔を作った。
「ほんと? よかった! まあ、確かに最初はキツいかもしれないけど、きっとそのうち役を作り上げていくことの楽しさがわかるようになるよ。それに、今の演劇部にいる子はみんないい子ばっかりだし」
「はい、それはよくわかります。皆さんすごく優しくしてくれて」
「でしょ? 私と茉莉花が入った時の先輩はさ、演技はヘタクソなくせに、内輪で盛り上がって変にマウント取ってくるウッザい人達で。筋トレとかしてるから妙に体育会系で上下関係に厳しいところもあったし、それに女しかいないからさ。もう、女のグループのイヤなところをまるごと凝縮したような部だったんだ」
何かジュースのCMみたいなフレーズでかつての演劇部を評した藍子さんは、そこで一度言葉を切り、目の前のタピオカミルクティーを一口飲んで、さらに話を続ける。
「そういうのもあって、私たちと一緒に入った一年の子もほとんどすぐに辞めていってさ。私だって何回辞めてやろうと思ったことか」
「じゃあ、藍子さんはどうして辞めなかったんですか?」
「それは……うーん、やっぱり、演じること、自分の演じる役を深く読み解いて、それを自分なりに表現する、それが好きだったからだと思う。あたし、子供の頃から宝塚とか好きだったし、バレエもやってたし、実は花倉入るときも、宝塚音楽学校落ちて花倉にしたっていう経緯もあってさ」
宝塚に落ちていた、とは初耳の情報である。
「へえ……でも藍子さんならその気になれば、部活でやるよりも、芸能関係とかそっちの道に進むこともできそうに思えますけど……」
そこいらのアイドルなんか足元にも及ばないほどの藍子さんの美貌なら、その可能性も十分あったように思える。いや過去形ではない、今からだって。
しかし、藍子さんは何か気味の悪いものでも見たかのように顔を顰め、肩を竦めながら、震え上がるように小刻みに首を横に振った。
「やー、無理無理無理無理。芸能人みたいに、あんな愛想振りまけないし、昔の演劇部以上に上下関係厳しそうだもの」
「でも……そういえば藍子さん、大学では演劇部とか……大学はサークルか、所属してるんです?」
「んー、いや、してないよ。今はまだそんな、遊んでる余裕ないもの」
「藍子さんが舞台で演じているところ、僕はまだ映像でしか見たことないから……いつか、生で見てみたいです」
これは全く偽らざる本音だった。文化祭の映像で観た『ロミオとジュリエット』のジュリエット、つまり藍子さんの息を呑むような美しさ。あれをこの目で見ることができたなら、といつも思う。藍子さん自身にはここ数か月、もう両手で数え切れないほど会っているのだけれど、舞台の上の彼女とはやはり別人だと感じる。迫力というか、気迫というか(どっちも似たような意味か)、目の前にいる可愛くて少し気の強い女子大生とは異なった凄みがあるのだ。
すると、藍子さんは今度は照れ笑いを必死に噛み殺しているような、微妙かつ絶妙にすました表情で言った。
「……わかった。見したげるよ、いつか」
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
「ねえ、姉貴はどうして演劇部に入ったの?」
藍子さんと話したその日の夜、銭湯からアパートに帰ってきたところで、僕は姉貴に尋ねてみた。藍子さんの話によると、姉貴たちの世代の一年生が入部したころ、演劇部の環境は決していいものではなかったらしい。福島麻美さんの話によると当時は部室もなく、トレーニングの厳しさや人間関係の煩わしさも相俟って、すぐに辞めていく部員が多かった。にも拘わらず、姉貴は一年の頃から卒業するまでずっと演劇部員でい続けたのだ。
僕のために毎日バイトして多忙な日々を送っていたはずなのに、それでも演劇部を辞めなかった。バイトと部活と勉強の両立は大変だっただろう。姉貴は学校のことはほとんど話さなかったし、当時は部活が楽しいから続けてるんだろうな、ぐらいに漠然と思っていた。でも藍子さんの話を聞く限り、どうもそれだけではないような気がする。
かといって、演劇そのものに深く情熱を注いでいるかというと、そうでもないように見える。これはこの間三人で一緒に観劇をした時に感じたことだけれど、姉貴がもともとあまり感情を表に出す方ではない点を差し引いて考えても、藍子さんと比べると演劇との向き合い方は一歩分ぐらい冷めているように思うのだ。
姉貴は台所に立ち、僕に背を向けて右手で左手の肩を揉みながら答えた。
「あ~、う~ん、何だったかな……最初は、そう、なんか消去法で選んだような気がする」
「消去法?」
「うん。運動部は拘束時間が長そうだしお金かかるからまず無理。文化系は……そうだなぁ、あんまり本読むの好きじゃないから文芸部は無理だし、楽器もできないから吹奏楽部もだめでしょ? それから……何だっけ、そうそう、美術部も道具とか結構お金かかるから。ってな感じで、消去法で選んだような気がするなあ。演劇部は全然真面目に活動してないから部費も大してかからないって話も聞いたし。つまんなかったら幽霊部員になればいいや、っていう軽いノリ」
「そ、そうだったんだ……。でも、姉貴と一緒に入った一年生は、大体すぐ辞めちゃったんでしょ?」
「ああ、藍子から聞いたの? うん、まあね。その時の先輩、言い方もキツくてヤな感じの人達だったから」
「たしかにそれは藍子さんも言ってた。で、姉貴はどうして続けようと思ったの?」
姉貴はこちらに向き直り、薄笑いを浮かべて言った。
「何? 今日は随分グイグイ来るじゃん。あたしも、最初からそんな熱心にやってたわけじゃないよ。雰囲気悪かったし、バイトで忙しかったのもあるし。でも、藍子の情熱がちょっとずつ部の雰囲気を変えていったんだよね」
「藍子さんの情熱?」
情熱って、日常生活ではなかなか聞く機会のない言葉だな、とふと思った。
「そ。最初はさ、演劇部なのに、小道具とか音響機器とか、その辺の基本的な設備すらなかったんだよ。だから、ほんとのお遊戯会みたいなものだったわけ。そこに、藍子が私物を持ち込んで、衣装も作って、脚本もネットで探して――メイクの道具とかもそうだね。それで、意地悪な先輩たちも一目置かざるを得ない状況になって、徐々に部の雰囲気が変わっていった。で、これならちょっとは楽しめそうかなと思って、マメに部活に顔出すようになったんだ」
「へぇ……藍子さん、そんなことは全然言ってなかったけど」
「言わないでしょ? サバサバしてるからさ、藍子は。過ぎたことをグチグチ言わないし、あの通り美人で、お金持ちのお嬢様で、頭も良くて演技の才能もすごいのに、それを鼻にかけることは全くない。だから、あたしも気に入ったんだよ」
「そうだったんだ……」
「まあ、元の演劇部のユルい感じのほうが楽だったかもしれないけどね。人間関係だって、あんまり深入りしなければいいだけだし。でもやっぱり楽しかったよ、藍子と一緒に舞台を作っていくのは。後輩にも恵まれたしさ」
「後輩って、福島さんとか天野さんとか?」
「そーそー。あ~、なんか今日はだいぶ凝ってるな……葉太郎、ちょっと肩揉んでくれない?」
「うん、いいよ」
すると姉貴は、長い髪をまとめて左前に流し、床にぺたんと、いわゆる女の子座りで僕に背を向けた。姉貴は女性にしてはややいかり肩なほうだと思うけれど、細く長い首とうなじのラインはとても滑らかな流線形だ。
僕は姉貴の背後に正座し、その両肩に手をかけて、親指にぐっと力をこめる。マッサージを頼まれることは時々あるけれど、姉貴の言葉通り今日はかなり凝っていて、こちらの親指まで痛くなりそうなほどだった。
「あ~、そこ、ん~、気持ちいい」
「すごい凝ってるね、今日は」
「でしょ? もうちょっと強めにグッとやっていいよ」
「強め……こう?」
「そそ、その調子」
「ねえ姉貴、演劇部の先輩たちのこと、ちょっと聞いてもいい?」
「ん? いいよ。あたしでわかることだったら」
時折妙に艶めかしい息を漏らす姉貴の肩を揉み解しながら、僕は天野部長や福島副部長、その他の先輩たちの色々な話を聞き出した。姉貴の話を聞いても藍子さんの話を聞いても、先輩たちは皆本当にいい人そうだ。決して楽な部活ではないかもしれないけれど、二人が興した演劇部で、しばらく頑張ってみよう。僕はその決意を新たにした。
しかし、姉貴の反応は僕が想像していたより薄かった。
「あ、そうなんだ?」
姉貴は台所で歯を磨きながら、こちらに背を向けて素っ気ない口調でそう答えた。もっと喜んでくれると思っていたので、僕はすっかり拍子抜けしてしまった。
「そうなんだ、って……それだけ?」
「うん? いや……まあ、演劇部の後輩たちは皆いい子たちだったから、客観的に見たら、いい部を選んだんじゃないかと思うよ」
歯を磨きながら喋っているから実際にはこんなに明瞭な発音ではない。それにしても、客観的に見て、とは何だろう。なんか随分よそよそしい言い方じゃないか?
「じゃあ、主観的に見たらどうなの? 僕が演劇部に入ること、姉貴も結構乗り気だと思ってたんだけど」
「う~ん、嬉しいっちゃ嬉しいし、演劇部に入れば安心だなとも思ってたんだけど、いざ入ったって聞くと、なんだろうな、ちょっと、こそばゆいというか……」
歯磨きを終えた姉貴は、二、三度うがいをしてからこちらに向き直った。かすかに苦笑を浮かべたその表情。姉貴がこんな顔をするときにどういう感情を抱いているのかを、僕は十五年余りの姉貴との付き合いの中で明確に理解していた。
つまり、この姉貴の苦笑いは、照れ隠しなのだ。
僕は少しほっとした。
「こそばゆい?」
「うん……まあ、とりあえず、頑張って」
「うん。色々相談することになるかもしれないけど、その時はよろしく」
「演技のことで? まあ、いいけど……多分、それも藍子に相談したほうが、ためになるアドバイスを聞けるんじゃないかと思うよ」
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「おお~、葉太郎くん、演劇部入ったんだ! おめでとう!」
次の週末、藍子さんとの個人授業の日。演劇部に入ったことを伝えると、藍子さんはらんらんと目を輝かせ、姉貴とは対照的に、ややオーバーとさえ思えるぐらいに喜んでくれた。でも、今回の個人授業の場所は静かな雰囲気のブックカフェ。静まり返った店内に、藍子さんの声は否応なく隅々まで響いて、店員や他の来店客たちから非難の視線を集めることになってしまった。
そんな周囲の様子には気付く気配すらない藍子さんの代わりに頭を下げると、藍子さんもようやく気付いたらしく、口に手を当てながら『ごめんなさい』と上品にお詫びして、店内は元の静寂を取り戻した。
藍子さんは小声になって話を続ける。
「で、どう? もう何回か行ってみたんでしょ?」
「ええ、もちろん。でも、想像とは全然違いましたよ」
「どこらへんが?」
「……それはやっぱり、筋トレとか、走り込みとか」
そう、演劇部といえば穏やかな文化系のイメージがあったのだが、実態は全く違った。いや、最初に部室に足を踏み入れた瞬間に気付いておくべきだったのかもしれない。そういえばあの時、僕がどうして筋トレしてるのか尋ねたところで副部長である福島舞さんに声をかけられて、結局その答えを聞かぬまま僕は演劇部への入部を決めてしまったんだっけ。
部室に入ってまず行うのはストレッチ。それから腕立て、腹筋、背筋などの筋トレを軽く行い、天気が良ければ外でランニング、更に発声練習があって、具体的に台本を読んだり演技の練習に入るのはその後になる。
わざと答えをはぐらかしたわけではないと思うし、仮に聞いていても入部をやめたりはしなかったとは思う。しかし、騙されたとまでは言わないが、こんなはずじゃなかった、ぐらいには感じたりする。走り込みの後とかは特に。毎回僕よりへたばっている武田は、僕以上にその思いが強いのではないだろうか。
「え? 茉莉花から聞いてなかったの? 活動内容」
「ええ。姉貴は学校のこととかバイトのこととか、僕にはあんまり話さないし……。演劇部のことだって、僕は舞台の映像でしか知りませんでしたから」
「そっか……。言われてみれば、そうだね、茉莉花が部活の話をしているなら、葉太郎くんはもっと前にあたしのこと知ってるはずだもんね」
「たしかにそうですね」
「てっきり知ってるもんだと思って勧めちゃったわ、ごめん。それが理由ですぐに辞めちゃう子も毎年いるからなあ。でも、実際どう? やっぱりキツい?」
「いえ、まあ大変ではありますけど、でも楽しいですよ」
熱心に勧めてくれた人を目の前にして、いやあキツいです、とはなかなか言えないものだ。でも、そう答えることで藍子さんが喜んでくれるのなら、それだけでもう十分元は取れていると言っていい。
藍子さんは、ぱっと満開の牡丹のような笑顔を作った。
「ほんと? よかった! まあ、確かに最初はキツいかもしれないけど、きっとそのうち役を作り上げていくことの楽しさがわかるようになるよ。それに、今の演劇部にいる子はみんないい子ばっかりだし」
「はい、それはよくわかります。皆さんすごく優しくしてくれて」
「でしょ? 私と茉莉花が入った時の先輩はさ、演技はヘタクソなくせに、内輪で盛り上がって変にマウント取ってくるウッザい人達で。筋トレとかしてるから妙に体育会系で上下関係に厳しいところもあったし、それに女しかいないからさ。もう、女のグループのイヤなところをまるごと凝縮したような部だったんだ」
何かジュースのCMみたいなフレーズでかつての演劇部を評した藍子さんは、そこで一度言葉を切り、目の前のタピオカミルクティーを一口飲んで、さらに話を続ける。
「そういうのもあって、私たちと一緒に入った一年の子もほとんどすぐに辞めていってさ。私だって何回辞めてやろうと思ったことか」
「じゃあ、藍子さんはどうして辞めなかったんですか?」
「それは……うーん、やっぱり、演じること、自分の演じる役を深く読み解いて、それを自分なりに表現する、それが好きだったからだと思う。あたし、子供の頃から宝塚とか好きだったし、バレエもやってたし、実は花倉入るときも、宝塚音楽学校落ちて花倉にしたっていう経緯もあってさ」
宝塚に落ちていた、とは初耳の情報である。
「へえ……でも藍子さんならその気になれば、部活でやるよりも、芸能関係とかそっちの道に進むこともできそうに思えますけど……」
そこいらのアイドルなんか足元にも及ばないほどの藍子さんの美貌なら、その可能性も十分あったように思える。いや過去形ではない、今からだって。
しかし、藍子さんは何か気味の悪いものでも見たかのように顔を顰め、肩を竦めながら、震え上がるように小刻みに首を横に振った。
「やー、無理無理無理無理。芸能人みたいに、あんな愛想振りまけないし、昔の演劇部以上に上下関係厳しそうだもの」
「でも……そういえば藍子さん、大学では演劇部とか……大学はサークルか、所属してるんです?」
「んー、いや、してないよ。今はまだそんな、遊んでる余裕ないもの」
「藍子さんが舞台で演じているところ、僕はまだ映像でしか見たことないから……いつか、生で見てみたいです」
これは全く偽らざる本音だった。文化祭の映像で観た『ロミオとジュリエット』のジュリエット、つまり藍子さんの息を呑むような美しさ。あれをこの目で見ることができたなら、といつも思う。藍子さん自身にはここ数か月、もう両手で数え切れないほど会っているのだけれど、舞台の上の彼女とはやはり別人だと感じる。迫力というか、気迫というか(どっちも似たような意味か)、目の前にいる可愛くて少し気の強い女子大生とは異なった凄みがあるのだ。
すると、藍子さんは今度は照れ笑いを必死に噛み殺しているような、微妙かつ絶妙にすました表情で言った。
「……わかった。見したげるよ、いつか」
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「ねえ、姉貴はどうして演劇部に入ったの?」
藍子さんと話したその日の夜、銭湯からアパートに帰ってきたところで、僕は姉貴に尋ねてみた。藍子さんの話によると、姉貴たちの世代の一年生が入部したころ、演劇部の環境は決していいものではなかったらしい。福島麻美さんの話によると当時は部室もなく、トレーニングの厳しさや人間関係の煩わしさも相俟って、すぐに辞めていく部員が多かった。にも拘わらず、姉貴は一年の頃から卒業するまでずっと演劇部員でい続けたのだ。
僕のために毎日バイトして多忙な日々を送っていたはずなのに、それでも演劇部を辞めなかった。バイトと部活と勉強の両立は大変だっただろう。姉貴は学校のことはほとんど話さなかったし、当時は部活が楽しいから続けてるんだろうな、ぐらいに漠然と思っていた。でも藍子さんの話を聞く限り、どうもそれだけではないような気がする。
かといって、演劇そのものに深く情熱を注いでいるかというと、そうでもないように見える。これはこの間三人で一緒に観劇をした時に感じたことだけれど、姉貴がもともとあまり感情を表に出す方ではない点を差し引いて考えても、藍子さんと比べると演劇との向き合い方は一歩分ぐらい冷めているように思うのだ。
姉貴は台所に立ち、僕に背を向けて右手で左手の肩を揉みながら答えた。
「あ~、う~ん、何だったかな……最初は、そう、なんか消去法で選んだような気がする」
「消去法?」
「うん。運動部は拘束時間が長そうだしお金かかるからまず無理。文化系は……そうだなぁ、あんまり本読むの好きじゃないから文芸部は無理だし、楽器もできないから吹奏楽部もだめでしょ? それから……何だっけ、そうそう、美術部も道具とか結構お金かかるから。ってな感じで、消去法で選んだような気がするなあ。演劇部は全然真面目に活動してないから部費も大してかからないって話も聞いたし。つまんなかったら幽霊部員になればいいや、っていう軽いノリ」
「そ、そうだったんだ……。でも、姉貴と一緒に入った一年生は、大体すぐ辞めちゃったんでしょ?」
「ああ、藍子から聞いたの? うん、まあね。その時の先輩、言い方もキツくてヤな感じの人達だったから」
「たしかにそれは藍子さんも言ってた。で、姉貴はどうして続けようと思ったの?」
姉貴はこちらに向き直り、薄笑いを浮かべて言った。
「何? 今日は随分グイグイ来るじゃん。あたしも、最初からそんな熱心にやってたわけじゃないよ。雰囲気悪かったし、バイトで忙しかったのもあるし。でも、藍子の情熱がちょっとずつ部の雰囲気を変えていったんだよね」
「藍子さんの情熱?」
情熱って、日常生活ではなかなか聞く機会のない言葉だな、とふと思った。
「そ。最初はさ、演劇部なのに、小道具とか音響機器とか、その辺の基本的な設備すらなかったんだよ。だから、ほんとのお遊戯会みたいなものだったわけ。そこに、藍子が私物を持ち込んで、衣装も作って、脚本もネットで探して――メイクの道具とかもそうだね。それで、意地悪な先輩たちも一目置かざるを得ない状況になって、徐々に部の雰囲気が変わっていった。で、これならちょっとは楽しめそうかなと思って、マメに部活に顔出すようになったんだ」
「へぇ……藍子さん、そんなことは全然言ってなかったけど」
「言わないでしょ? サバサバしてるからさ、藍子は。過ぎたことをグチグチ言わないし、あの通り美人で、お金持ちのお嬢様で、頭も良くて演技の才能もすごいのに、それを鼻にかけることは全くない。だから、あたしも気に入ったんだよ」
「そうだったんだ……」
「まあ、元の演劇部のユルい感じのほうが楽だったかもしれないけどね。人間関係だって、あんまり深入りしなければいいだけだし。でもやっぱり楽しかったよ、藍子と一緒に舞台を作っていくのは。後輩にも恵まれたしさ」
「後輩って、福島さんとか天野さんとか?」
「そーそー。あ~、なんか今日はだいぶ凝ってるな……葉太郎、ちょっと肩揉んでくれない?」
「うん、いいよ」
すると姉貴は、長い髪をまとめて左前に流し、床にぺたんと、いわゆる女の子座りで僕に背を向けた。姉貴は女性にしてはややいかり肩なほうだと思うけれど、細く長い首とうなじのラインはとても滑らかな流線形だ。
僕は姉貴の背後に正座し、その両肩に手をかけて、親指にぐっと力をこめる。マッサージを頼まれることは時々あるけれど、姉貴の言葉通り今日はかなり凝っていて、こちらの親指まで痛くなりそうなほどだった。
「あ~、そこ、ん~、気持ちいい」
「すごい凝ってるね、今日は」
「でしょ? もうちょっと強めにグッとやっていいよ」
「強め……こう?」
「そそ、その調子」
「ねえ姉貴、演劇部の先輩たちのこと、ちょっと聞いてもいい?」
「ん? いいよ。あたしでわかることだったら」
時折妙に艶めかしい息を漏らす姉貴の肩を揉み解しながら、僕は天野部長や福島副部長、その他の先輩たちの色々な話を聞き出した。姉貴の話を聞いても藍子さんの話を聞いても、先輩たちは皆本当にいい人そうだ。決して楽な部活ではないかもしれないけれど、二人が興した演劇部で、しばらく頑張ってみよう。僕はその決意を新たにした。
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