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接吻
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『走れメロン』の配役が決まってから、新人デビューコンテストに向けた本格的な練習が始まった。それまでは部活のほとんどの時間が筋トレと発声、ランニングなどの体力づくりに割かれていたが、そこに脚本の読み合わせなどのメニューが新たに加わったのだ。
僕自身元々大きな声を出すのは苦手な方だったが、演劇部に入部してから皆と一緒に発声練習を繰り返すことで、徐々に声が出せるようになってきている。とはいえ、演劇経験者である麻美さんとは雲泥の差だった。
麻美さんはよく通るしなやかな声の持ち主で、滑舌もよく、表情も豊か。二人で脚本を読んでいるだけでも、他に誰が見ているわけでもないのに、喜怒哀楽ころころと表情が変わる。素人の僕から見れば、彼女は演劇の天才。はたして僕にその相手役が務まるのだろうかと不安になってしまうほどに。
「今川くんが演じる明日斗には盲目という設定があるし、あんまりハキハキしてると逆に違和感が出ちゃうから、素朴な感じでいいんだよ。大丈夫」
と麻美さんはフォローしてくれるが、いざ舞台に立つと、同じく主役を務める彼女との演技力の格差は目についてしまうだろう。まあ、新人限定のコンテストだから、出場者の大半は僕と同じ立場のはず。麻美さんのほうが特別なのだ。
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
「へええ、出るんだね、新人コンテスト」
配役が決まった日の夜、遅めの夕食を摂りながら新人コンテストのことを姉貴に伝えると、姉貴は少し驚いた様子だった。
「姉貴は出なかったの? 新人コンテスト」
「うん、あたしたちが一年のときの先輩は、身内でわいわいやってればいいっていう感じの人だったし」
「ああ、なるほど……」
「あたしたちが三年で藍子が部長だったときも、話は出たんだけど結局参加しなかったしな~。ちょうどいい脚本が見つからなかったっていうのもあったけど、一年だけじゃ不安だって、一年の子たちのほうから言われた気がする。色んな部分で、藍子に依存してた部分が大きかったからね」
「へえ……今回は、オリジナルの脚本で参加することになったよ」
「え、マジで? オリジナルとは随分思い切ったね。脚本か~。ダリアあたりが書いたのかな?」
「みんなで相談しながら書いたみたいだよ」
姉貴はサンドイッチを頬張りながらしみじみと天井を見上げた。
「そっかぁ。まあ、藍子がいた時は、藍子が古典厨の悲劇厨だから、現代劇とかコミカルなやつは全然やらなかったんだよね。その反動で、自分たちで脚本を作ってみたくなったのかもしれないな」
「そうだったんだ……たしかに、脚本とか設定について話し合ってるとき、ふざけ半分っていうと語弊があるかもしれないけど、みんなすごく楽しそうだったよ」
「うんうん。主役の子は? 福島の妹っつってたっけ?」
「そうそう。福島麻美さん。高校に入る前から演劇をやってたらしくて、凄いんだよ、声も演技も」
「なるほどね。その子がいるから、今年は新人デビューコンテストに出ることにしたのかもしれないな。ま、何にせよ、うまくいくといいね。頑張って」
そう言うと、姉貴は僕の肩をポンと叩いて、穏やかな笑みを浮かべた。
!i!i!i!i!i!i!i!i!
「はぁぁぁぁ!? 『走れメロン』? 何それ!」
ある程度予想はしていたし、姉貴からも言われていたことだけれど、藍子さんの反応は芳しくなかった。
週末、近くの洋食レストランでいつものように個人授業を受けた後、早めの夕食を食べながら、僕は新人デビューコンテストのことを打ち明けた。コンテストに参加すること自体は、チャレンジ精神があるのはいいことだ、と藍子さんも極めて好意的に受け止めてくれたらしい。
しかし、肝心の劇の内容に話が及ぶと、一転してその大きな瞳を吊り上げた。
「ふざけてんの? そんな、スベったギャグみたいなタイトルの話で、本気でコンテストに出ようと思ってるわけ?」
「す、スベったギャグ……」
まあ言い得て妙ではあるけれど。
「くっっっっだらない。あたしは花倉の演劇部をそんな部に育てた覚えはないわ!」
「ま、まあまあ、そこまで言わなくても……」
「葉太郎くんは恥ずかしくないの? 『走れメロン』よ? 高校生にもなって」
実はちょっと恥ずかしいのだが、それを言うと話が余計ややこしくなるから、藍子さんの前では口が裂けても恥ずかしいとは言えなかった。藍子さんは唇を尖らせ、眉間に皺を寄せて、まるでゆで蛸のようにぷっくり頬を膨らませている。
「今度ダリアたちにLINEして問い詰めなくちゃ。どういうことなのかって」
藍子さんは鼻息荒く言い放つと、運ばれてきたパンケーキに突き刺すような勢いでナイフを入れた。
藍子さんがこんな風に声を荒らげて怒ることは極めて珍しい。以前僕が藍子さんとの個人授業をやめたいと申し出たとき以来である。普段の僕だったら、彼女にどう返したらいいかわからず右往左往していたに違いない。
でも今日の僕は、藍子さんがこういう反応を示すだろうと予測していた姉貴から伝言を預かっていた。
「あ、あの、姉貴が言うには……」
!i!i!i!i!i!i!
「たぶん、新人コンテストの話を聞いたら藍子は怒るだろうけどさ、あたしも藍子ももう引退した身なんだから、あの子たちがやることに口出しするのはやめようって、藍子に伝えといてよ」
「それ……僕が言っても大丈夫なやつ?」
「葉太郎から伝えたほうが、角が立たないよ、多分。あ、でも、藍子が古典厨だった反動っていうのは言わないでね。藍子さ、下級生から尊敬されてはいたんだけど、でもちょっと怖がられてたのも事実なんだ。だから、現役の時もあたしがこっそりフォロー入れたりしてたんだよね」
!i!i!i!i!i!i!
姉貴の言葉を伝えると、藍子さんは大きめに切って口に入れたパンケーキを咀嚼しながら、
「うーん」
と唸った。
「仮に『走れメロン』をやめさせたところで、お互い暇じゃないし、具体的に何をやるかまで指示するような時間はない。だから基本的にはやりたいことをやらせてやろうよ、って言ってました」
口の中のものを飲み込み、再びパンケーキにナイフを入れる藍子さんは、反論こそしなかったものの、それでもまだ少し口を尖らせていた。
「まあ、それはたしかにそうだけど……葉太郎くんはいいの? 初めて挑戦する劇がそんなふざけた話で」
「う~ん、僕は演劇のことはよくわからないですけど……でも、実際に脚本を読んでみた感じ、藍子さんが思ってるほどふざけた話ではないと思います。コンプレックスを持った女の子と視覚障害の男の子の話で、タイトルの割にテーマは真剣なんじゃないかって」
「……そう。まあ、葉太郎くんがそう言うなら……で、葉太郎くんは、その視覚障害を持った少年の役なんだっけ?」
渋々といった様子ではあるけれど、ようやく藍子さんも『走れメロン』を認めてくれたらしい。僕は頷いた。
「はい、いきなり難しい役になっちゃったなって」
「そうだね。単に目隠しの練習をするだけじゃ、特に先天的に障害を持っている人とは全然違う感じになっちゃうだろうし。そこは自分なりに観察してみるのが一番かな。あたしも、見かけたら注意して観察するようにしてみるけど」
「でも、そんなにジロジロ見ちゃったらなんか変な感じになっちゃいません?」
「う~ん。じゃあ、誰か知り合いにいる? 視覚障害を持った人」
「いえ。いないです」
「あたしも。だから、どこかで見かけたら観察してみようかなと思って」
「やっぱり、藍子さんも普段人間観察とかするんですか?」
「ん~、人並みに……? 別に、演劇に役立てるためとか、そういうんじゃないけどさ」
ふと気付くと、藍子さんの皿の上のパンケーキはいつの間にか綺麗さっぱり片付けられていた。僕のジェノベーゼのスパゲティはまだ三割ぐらい残っている。ちなみに運ばれてきたタイミングはほぼ同じである。おかしいな。僕が遅いだけか。
さっきまでこちらの様子をちらちらと窺っていたウエイトレスが、藍子さんの前にパンケーキとセットになった食後のコーヒーを運んでくる。そのウエイトレスに、藍子さんはコーヒーをもう一つ注文した。パンケーキセットにはコーヒーがついてくるが、僕のスパゲティは単品のメニューなのだ。
一言礼を述べたあと、そういえば、と僕は、フォークに多めのスパゲティを巻き取りながら『走れメロン』の脚本についてのもう一つの懸念を口にした。
「そうそう、もう一つ気になったのが……もしかしたら、キスシーンが入るかもしれないんですよね」
その瞬間、ミルクと砂糖の入ったコーヒーを混ぜる藍子さんのスプーンの回転が少し遅くなったように見えたけれど――いや、気のせいかもしれない。藍子さんは無表情で言った。
「へえ……その、相手役の子……舞の妹さんと?」
「ええ。まだ脚本も完全には固まっていなくて、どうなるかわからないし、仮にそういうシーンが入ったとしても、したように見せかける方法も色々あるし、という曖昧な感じなんですが」
キスシーンのアイディアは副部長の福島舞さんの発案だ。恋愛要素のある、いわゆるガール・ミーツ・ボーイものだから、キスシーンが入ったほうが盛り上がるだろう、というちょっと安易な発想ではある。が、安易なものほど得てして効果的なものだ、との理屈で、この案は現在真剣に検討されている。
そして、そのアイディアの根拠として挙げられたのが、姉貴と藍子さんの『ロミオとジュリエット』のキスシーンだったのだ。
僕は遠目の映像でしかそれを見ていないので、実際に二人がキスをしていたのかどうか知らなかったのだが、三年、二年生の部員の証言によると、あれは種も仕掛けもないガチキッス(副部長談。ちなみに天野部長はベーゼと表現した)だったらしい。
藍子さんはコーヒーを一口飲んでから言った。
「葉太郎くん、したことあるの? キス」
「……ええ、まあ、一回だけ……」
「そう。なら、別に、いいんじゃない」
そのまま会話が終わってしまいそうな雰囲気だったので、僕は慌てて言葉を継ぐ。
「あ、あの、どういうものなんですか? やっぱり役を演じ切れていると、そういうのもあんまり気にならないんですかね……?」
「う~ん、たしかに、私の場合はそうだったかもな……。相手が茉莉花だから、安心して役に入れたし気にならなかったっていうのもあるかもしれないけど」
藍子さんの場合は、と直接訊くのは何となく躊躇われたので、藍子さんの方からその話をしてくれたのはありがたかった。上級生の話によると、藍子さんはかなり役にのめり込むタイプだったそうだ。身も心もジュリエットになりきっていれば、相手が同性とはいえキスも些細なことなのだろうかと気になっていたのだ。
しかし、やっぱり相手による部分もあるのだと聞いて、少しほっとした。
「なるほど。信頼関係も大事なんですね」
「うん。そりゃあ、一緒に劇を作っていくわけだから、基本的な信頼関係は大事だよ。それは劇に限ったことじゃないと思うけどね。葉太郎くん、脚本の中で何か嫌な部分があったら、ちゃんと伝えた方がいいよ。でないと、那利亜も舞も調子こいて色々やらかしかねないから」
既に色々やらかされてます、という言葉を、僕はスパゲティの最後の一口と一緒にすんでのところで飲み込んだ。
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
レストランを出た僕たちは、そのまま僕のアパートへ向かう路地を歩いた。
日の長い季節だから、夕食を終えてもまだ空は完全に暗くなりきっていない。人通りは何故かいつもより少なく、藍子さんのパンプスの靴音がはっきりと聞こえた。
僕の住む小さなアパートの姿が見え始めた頃、僕はふと気付いた。そういえば、アパートまで送ってもらうのはこれが初めてではないだろうか。藍子さんもずっと無言だったし、何となく流れでここまで来てしまった。本来なら男の僕が藍子さんを送らなきゃいけないはずなのに、とは思ったけれど、まさか今更引き返すとも言えない。
アパートの前まで着いて、僕は藍子さんにお礼を述べようと振り返る。
「あの、藍子さん、今日はそ……」
相談に乗ってくれてありがとう、という言葉は、しかし途中で断ち切られた。
藍子さんの顔がすぐ目の前に。
その大きな瞳はそっと閉じられている。
唇に触れる柔らかい感触。
鼻からはフローラル系の芳しい香り。
そして口には、コーヒーのほろ苦い香りが微かに感じられる。
辺りはまるで時が止まったかのように静まり返っていた。
理解が追いつかず、僕はただただ五感が知覚する情報を受け止めることしかできない。
世界が完全に静止し、まるで麻酔にかけられたように、一瞬にも永遠にも思える感覚。
全く反射的に、僕も瞼を閉じていた。
やがて唇は離れ、その隙間に、ほんの少し夜の気配が混じった冷たい空気が忍び込んでくる。
ぼんやりとした意識を奮い立たせながら目を開くと、藍子さんもゆっくりと瞼を開けるところだった。
藍子さんは無表情のまま、素っ気なくさえ感じられる口調で言った。
「ね、簡単でしょ? キスなんて」
何か返事をしなければ。頭ではそう考えるものの、全く言葉が出てこない。
藍子さんはそのまま滑らかな動作で僕に背を向け、今来た道を戻っていった。
僕自身元々大きな声を出すのは苦手な方だったが、演劇部に入部してから皆と一緒に発声練習を繰り返すことで、徐々に声が出せるようになってきている。とはいえ、演劇経験者である麻美さんとは雲泥の差だった。
麻美さんはよく通るしなやかな声の持ち主で、滑舌もよく、表情も豊か。二人で脚本を読んでいるだけでも、他に誰が見ているわけでもないのに、喜怒哀楽ころころと表情が変わる。素人の僕から見れば、彼女は演劇の天才。はたして僕にその相手役が務まるのだろうかと不安になってしまうほどに。
「今川くんが演じる明日斗には盲目という設定があるし、あんまりハキハキしてると逆に違和感が出ちゃうから、素朴な感じでいいんだよ。大丈夫」
と麻美さんはフォローしてくれるが、いざ舞台に立つと、同じく主役を務める彼女との演技力の格差は目についてしまうだろう。まあ、新人限定のコンテストだから、出場者の大半は僕と同じ立場のはず。麻美さんのほうが特別なのだ。
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「へええ、出るんだね、新人コンテスト」
配役が決まった日の夜、遅めの夕食を摂りながら新人コンテストのことを姉貴に伝えると、姉貴は少し驚いた様子だった。
「姉貴は出なかったの? 新人コンテスト」
「うん、あたしたちが一年のときの先輩は、身内でわいわいやってればいいっていう感じの人だったし」
「ああ、なるほど……」
「あたしたちが三年で藍子が部長だったときも、話は出たんだけど結局参加しなかったしな~。ちょうどいい脚本が見つからなかったっていうのもあったけど、一年だけじゃ不安だって、一年の子たちのほうから言われた気がする。色んな部分で、藍子に依存してた部分が大きかったからね」
「へえ……今回は、オリジナルの脚本で参加することになったよ」
「え、マジで? オリジナルとは随分思い切ったね。脚本か~。ダリアあたりが書いたのかな?」
「みんなで相談しながら書いたみたいだよ」
姉貴はサンドイッチを頬張りながらしみじみと天井を見上げた。
「そっかぁ。まあ、藍子がいた時は、藍子が古典厨の悲劇厨だから、現代劇とかコミカルなやつは全然やらなかったんだよね。その反動で、自分たちで脚本を作ってみたくなったのかもしれないな」
「そうだったんだ……たしかに、脚本とか設定について話し合ってるとき、ふざけ半分っていうと語弊があるかもしれないけど、みんなすごく楽しそうだったよ」
「うんうん。主役の子は? 福島の妹っつってたっけ?」
「そうそう。福島麻美さん。高校に入る前から演劇をやってたらしくて、凄いんだよ、声も演技も」
「なるほどね。その子がいるから、今年は新人デビューコンテストに出ることにしたのかもしれないな。ま、何にせよ、うまくいくといいね。頑張って」
そう言うと、姉貴は僕の肩をポンと叩いて、穏やかな笑みを浮かべた。
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「はぁぁぁぁ!? 『走れメロン』? 何それ!」
ある程度予想はしていたし、姉貴からも言われていたことだけれど、藍子さんの反応は芳しくなかった。
週末、近くの洋食レストランでいつものように個人授業を受けた後、早めの夕食を食べながら、僕は新人デビューコンテストのことを打ち明けた。コンテストに参加すること自体は、チャレンジ精神があるのはいいことだ、と藍子さんも極めて好意的に受け止めてくれたらしい。
しかし、肝心の劇の内容に話が及ぶと、一転してその大きな瞳を吊り上げた。
「ふざけてんの? そんな、スベったギャグみたいなタイトルの話で、本気でコンテストに出ようと思ってるわけ?」
「す、スベったギャグ……」
まあ言い得て妙ではあるけれど。
「くっっっっだらない。あたしは花倉の演劇部をそんな部に育てた覚えはないわ!」
「ま、まあまあ、そこまで言わなくても……」
「葉太郎くんは恥ずかしくないの? 『走れメロン』よ? 高校生にもなって」
実はちょっと恥ずかしいのだが、それを言うと話が余計ややこしくなるから、藍子さんの前では口が裂けても恥ずかしいとは言えなかった。藍子さんは唇を尖らせ、眉間に皺を寄せて、まるでゆで蛸のようにぷっくり頬を膨らませている。
「今度ダリアたちにLINEして問い詰めなくちゃ。どういうことなのかって」
藍子さんは鼻息荒く言い放つと、運ばれてきたパンケーキに突き刺すような勢いでナイフを入れた。
藍子さんがこんな風に声を荒らげて怒ることは極めて珍しい。以前僕が藍子さんとの個人授業をやめたいと申し出たとき以来である。普段の僕だったら、彼女にどう返したらいいかわからず右往左往していたに違いない。
でも今日の僕は、藍子さんがこういう反応を示すだろうと予測していた姉貴から伝言を預かっていた。
「あ、あの、姉貴が言うには……」
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「たぶん、新人コンテストの話を聞いたら藍子は怒るだろうけどさ、あたしも藍子ももう引退した身なんだから、あの子たちがやることに口出しするのはやめようって、藍子に伝えといてよ」
「それ……僕が言っても大丈夫なやつ?」
「葉太郎から伝えたほうが、角が立たないよ、多分。あ、でも、藍子が古典厨だった反動っていうのは言わないでね。藍子さ、下級生から尊敬されてはいたんだけど、でもちょっと怖がられてたのも事実なんだ。だから、現役の時もあたしがこっそりフォロー入れたりしてたんだよね」
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姉貴の言葉を伝えると、藍子さんは大きめに切って口に入れたパンケーキを咀嚼しながら、
「うーん」
と唸った。
「仮に『走れメロン』をやめさせたところで、お互い暇じゃないし、具体的に何をやるかまで指示するような時間はない。だから基本的にはやりたいことをやらせてやろうよ、って言ってました」
口の中のものを飲み込み、再びパンケーキにナイフを入れる藍子さんは、反論こそしなかったものの、それでもまだ少し口を尖らせていた。
「まあ、それはたしかにそうだけど……葉太郎くんはいいの? 初めて挑戦する劇がそんなふざけた話で」
「う~ん、僕は演劇のことはよくわからないですけど……でも、実際に脚本を読んでみた感じ、藍子さんが思ってるほどふざけた話ではないと思います。コンプレックスを持った女の子と視覚障害の男の子の話で、タイトルの割にテーマは真剣なんじゃないかって」
「……そう。まあ、葉太郎くんがそう言うなら……で、葉太郎くんは、その視覚障害を持った少年の役なんだっけ?」
渋々といった様子ではあるけれど、ようやく藍子さんも『走れメロン』を認めてくれたらしい。僕は頷いた。
「はい、いきなり難しい役になっちゃったなって」
「そうだね。単に目隠しの練習をするだけじゃ、特に先天的に障害を持っている人とは全然違う感じになっちゃうだろうし。そこは自分なりに観察してみるのが一番かな。あたしも、見かけたら注意して観察するようにしてみるけど」
「でも、そんなにジロジロ見ちゃったらなんか変な感じになっちゃいません?」
「う~ん。じゃあ、誰か知り合いにいる? 視覚障害を持った人」
「いえ。いないです」
「あたしも。だから、どこかで見かけたら観察してみようかなと思って」
「やっぱり、藍子さんも普段人間観察とかするんですか?」
「ん~、人並みに……? 別に、演劇に役立てるためとか、そういうんじゃないけどさ」
ふと気付くと、藍子さんの皿の上のパンケーキはいつの間にか綺麗さっぱり片付けられていた。僕のジェノベーゼのスパゲティはまだ三割ぐらい残っている。ちなみに運ばれてきたタイミングはほぼ同じである。おかしいな。僕が遅いだけか。
さっきまでこちらの様子をちらちらと窺っていたウエイトレスが、藍子さんの前にパンケーキとセットになった食後のコーヒーを運んでくる。そのウエイトレスに、藍子さんはコーヒーをもう一つ注文した。パンケーキセットにはコーヒーがついてくるが、僕のスパゲティは単品のメニューなのだ。
一言礼を述べたあと、そういえば、と僕は、フォークに多めのスパゲティを巻き取りながら『走れメロン』の脚本についてのもう一つの懸念を口にした。
「そうそう、もう一つ気になったのが……もしかしたら、キスシーンが入るかもしれないんですよね」
その瞬間、ミルクと砂糖の入ったコーヒーを混ぜる藍子さんのスプーンの回転が少し遅くなったように見えたけれど――いや、気のせいかもしれない。藍子さんは無表情で言った。
「へえ……その、相手役の子……舞の妹さんと?」
「ええ。まだ脚本も完全には固まっていなくて、どうなるかわからないし、仮にそういうシーンが入ったとしても、したように見せかける方法も色々あるし、という曖昧な感じなんですが」
キスシーンのアイディアは副部長の福島舞さんの発案だ。恋愛要素のある、いわゆるガール・ミーツ・ボーイものだから、キスシーンが入ったほうが盛り上がるだろう、というちょっと安易な発想ではある。が、安易なものほど得てして効果的なものだ、との理屈で、この案は現在真剣に検討されている。
そして、そのアイディアの根拠として挙げられたのが、姉貴と藍子さんの『ロミオとジュリエット』のキスシーンだったのだ。
僕は遠目の映像でしかそれを見ていないので、実際に二人がキスをしていたのかどうか知らなかったのだが、三年、二年生の部員の証言によると、あれは種も仕掛けもないガチキッス(副部長談。ちなみに天野部長はベーゼと表現した)だったらしい。
藍子さんはコーヒーを一口飲んでから言った。
「葉太郎くん、したことあるの? キス」
「……ええ、まあ、一回だけ……」
「そう。なら、別に、いいんじゃない」
そのまま会話が終わってしまいそうな雰囲気だったので、僕は慌てて言葉を継ぐ。
「あ、あの、どういうものなんですか? やっぱり役を演じ切れていると、そういうのもあんまり気にならないんですかね……?」
「う~ん、たしかに、私の場合はそうだったかもな……。相手が茉莉花だから、安心して役に入れたし気にならなかったっていうのもあるかもしれないけど」
藍子さんの場合は、と直接訊くのは何となく躊躇われたので、藍子さんの方からその話をしてくれたのはありがたかった。上級生の話によると、藍子さんはかなり役にのめり込むタイプだったそうだ。身も心もジュリエットになりきっていれば、相手が同性とはいえキスも些細なことなのだろうかと気になっていたのだ。
しかし、やっぱり相手による部分もあるのだと聞いて、少しほっとした。
「なるほど。信頼関係も大事なんですね」
「うん。そりゃあ、一緒に劇を作っていくわけだから、基本的な信頼関係は大事だよ。それは劇に限ったことじゃないと思うけどね。葉太郎くん、脚本の中で何か嫌な部分があったら、ちゃんと伝えた方がいいよ。でないと、那利亜も舞も調子こいて色々やらかしかねないから」
既に色々やらかされてます、という言葉を、僕はスパゲティの最後の一口と一緒にすんでのところで飲み込んだ。
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レストランを出た僕たちは、そのまま僕のアパートへ向かう路地を歩いた。
日の長い季節だから、夕食を終えてもまだ空は完全に暗くなりきっていない。人通りは何故かいつもより少なく、藍子さんのパンプスの靴音がはっきりと聞こえた。
僕の住む小さなアパートの姿が見え始めた頃、僕はふと気付いた。そういえば、アパートまで送ってもらうのはこれが初めてではないだろうか。藍子さんもずっと無言だったし、何となく流れでここまで来てしまった。本来なら男の僕が藍子さんを送らなきゃいけないはずなのに、とは思ったけれど、まさか今更引き返すとも言えない。
アパートの前まで着いて、僕は藍子さんにお礼を述べようと振り返る。
「あの、藍子さん、今日はそ……」
相談に乗ってくれてありがとう、という言葉は、しかし途中で断ち切られた。
藍子さんの顔がすぐ目の前に。
その大きな瞳はそっと閉じられている。
唇に触れる柔らかい感触。
鼻からはフローラル系の芳しい香り。
そして口には、コーヒーのほろ苦い香りが微かに感じられる。
辺りはまるで時が止まったかのように静まり返っていた。
理解が追いつかず、僕はただただ五感が知覚する情報を受け止めることしかできない。
世界が完全に静止し、まるで麻酔にかけられたように、一瞬にも永遠にも思える感覚。
全く反射的に、僕も瞼を閉じていた。
やがて唇は離れ、その隙間に、ほんの少し夜の気配が混じった冷たい空気が忍び込んでくる。
ぼんやりとした意識を奮い立たせながら目を開くと、藍子さんもゆっくりと瞼を開けるところだった。
藍子さんは無表情のまま、素っ気なくさえ感じられる口調で言った。
「ね、簡単でしょ? キスなんて」
何か返事をしなければ。頭ではそう考えるものの、全く言葉が出てこない。
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