一夜限りのはずが極上御曹司の甘い欲情に溺れています

碧まりる

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1巻

1-2

『あぁ!』
「~~~っ今度は何」
『転んだ』

 ――何しに来た⁉
 目的はただ一つ。男女とも一人残らず「一晩の相手探し」のはず。それなのになぜそんな女が、こんなところまで来て慈善活動じみたことをしているのか。
 それも計算か? だったら尚更タチが悪い。恩を売って何を得たい? 金か。快楽か。御曹司の正妻の座か。

『……さて、どこのご令嬢子猫ちゃんが迷い込んだかな』

 つらつらと思い巡らせていた凱には、イヤホン越しの声が上手く聞き取れなかった。

「今、なんて?」

 聞き流しても問題ない発言のようにも思ったけれど、凱は気になった。が、悠は言い直さない。

『凱、バーカウンターの下に救急箱ある? あるよね。絆創膏ばんそうこう持って、ちょっと様子を見てきてよ。可愛い膝小僧が可哀想なことになってる。バルコニーでしゃがみ込んでる、パールホワイトのドレスのね』
「そんなに気になるなら悠兄が行ったら」
『そうしてあげたいけどね。残念ながら、俺の立場だと万が一揉めた時にあの頭取の息子らには意見できないんだよね。我が社のメインバンクではないにしろ、融資は受けてるから』
「なら放って――」
『助けてあげてくださいよ。結城財閥総帥そうすいのご子息様』

 ――くそ。痛いとこついてきた。
 結城グループなどと呼ばれるそれは、巨額の融資によって他企業を支配下に置く諸企業の統一体――元来、同族経営による巨大な独占企業集団のことである。
 現代では財閥は実質存在しないとされているが、財閥のゆかりを持つ企業は今もなお生き続け、日本を牽引けんいんしている。広く知られるところでは、メガバンクの行名などに今でも色濃く財閥の名が残っている。
 その日本三大財閥の一つ、結城財閥の総帥トップが凱の父親なのだ。
 若き時代は結城グループの組織に属さず、フリーの経営コンサルタントだったという異色の経歴を持つ男で、倒産寸前の企業を何社も立て直す実力派だった。財閥の総帥そうすいの座に就いてからはその経験を生かし、業績が低迷していたグループ内の企業を次々と繁栄に導いたという。結城といえば、今や日本最大の財閥と言っていい。
 規格外の存在感を放ち、ずば抜けたビジネスセンスまで持ち合わせている父を、凱も心から尊敬している。男としても、上司としても。しかし親の背中が大きすぎるというのも考えものである。
 凱の眉が急激に吊り上がる。瞬く間に頭がかっとなり、耳から荒々しくイヤホンを抜き取った。
 無造作に救急箱を開け閉めしてからバーカウンターを抜け、飛ぶような速さでずんずん歩く。早速ルーフバルコニーに出て、小さなパールホワイト色のかたまりの前で足音を立てて止まった。
 苛立っていた。悠にではなく、仰々しいまでの自分の呼称に。
 だからか、かけた言葉が少々乱暴になったことは認める。

「ワンナイトパーティーに潜り込んだ目的は? 金目当て? それともセックス?」

 と、無遠慮に尾籠びろうな質問を投げつけてしまったことを、言い切ってからびたくなった。相手はたいそう幼い顔つきで、きょとんとこちらを見上げているのだから、良心だって痛む。
 見たところ未成年……とまではいかなそうだ。歳は凱の一回りくらい下、二十歳そこそこか。
 思わず吸い込まれそうになる零れんばかりの大きい瞳は、彼女の最大のチャームポイントだろう。
 艶々した頬もぽってりとした唇も柔らかそうで、小さな丸顔は見れば見るほどにあどけない。全体的に小柄で肢体も華奢きゃしゃな造りをしているが、その分、年齢相応のフェミニンさは体つき――主に上半身に集中していた。
 それ一枚で視線を奪う、ナイトドレスをイメージさせる装いがひどく扇情的せんじょうてきなのだ。
 特に腰から上。あまりにも悩ましい胸元をしている。オフショルダーのネックラインが、胸のふくよかさをいっそう引き立てている。たっぷりのバストがぷるんと挨拶していて、雄をとりこにする。
 上から眺めるそれは絶景としか言いようがない。とにかく顔とボディのギャップがずるいのだ。
 凱とてそれなりに女性経験はある。むしろ同年代の平均を軽く上回る経験値を積んでいた。取り立てて大きい胸が好みでもない。そんな凱が、はからずも恍惚として魅入ってしまった……彼女もそれを目的に、この格好で御曹司漁りをしに来たのだろうが。
 ここでようやく、凱ははたと我に返る。
 ひとまず絆創膏ばんそうこうを渡して、さっさと任務へ戻ろうと気持ちを立て直した、まさにその時――

「ふぇっくすです――‼」

 凱が投げつけた不躾ぶしつけな問いに対して、彼女がようやく声を振り絞った。本人すら忘れていた質問に、律儀にも返してきたのだ。しかも溜めに溜め込んで、これだ。
 堂々とそう噴射したあと、彼女の眉がふにゃっと歪み、大きな瞳は羞恥で潤む。
 それはもう、言い直したそうに口をぱくぱくさせて。

「……いや、うん。伝わった」

 宥めてから、彼女に横顔を向ける。なんでかこちらまで気恥ずかしくなり、凱は素早く左手で自身の口元を覆った。
「セックス」が上手く言えなかったのか、それほどに言い慣れていないのか――どちらにせよ、男性経験が豊富な女ではないと察知すると同時に、かつて稼働したことのなかった庇護欲という欲求で、今まさに胸をぶち抜かれたことに凱は気づいた。
 ――あー、やばいな。
 これのどこが女狐めぎつねだ、女豹めひょうだ――容姿も、内面からもあどけなさが滲み出ていて、予想に反して少女のように愛らしいのだ。
 もしかするとこの子は、自分の知る他の女とは違うのかもしれない。そこに根拠なんかなく漠然とだが、たったこれだけのやり取りでもそう思えてならない。
 ちらと視線を戻す。
 今にも泣き出しそうなまあるい瞳に映った自分の目は、おかしいくらい慈愛に満ちていた。

「もしやお嬢さん。今日がお誕生日ではありませんか?」

 そんなとき、絡んだ視線がふいに遮られる。
 名残惜しさを振り払い、どちらともなく声の源を辿ると――

「ちょいとあなた! またなの? ……もうすみませんね。この人、それっぽい娘さんを見かけると、片っ端から声をかけてしまうの」
「仕方ないじゃないか。こっちは前金をいただいているんだぞ。しかも今年がラストとなりゃ、何がなんでもお嬢さんに届けてやりたいじゃないか!」

 今もなお床にしゃがみ込んだままの彼女を、あれよあれよと中年の男女が囲んだのだ。
 会話のやり取りからして夫婦のようだが、当然ながら参加者には見えないし、第一こんな場所で夫婦喧嘩をおっ始められても困る。

「あなた方は?」

 いぶかしげにたずねると、ようやく凱を視界に入れた夫のほうが「失礼しました」と、でれっと頭を掻きながら首を傾けた。

「私どもは、こちらのホテル客室のフラワーアレンジメントを何十年と担当させていただいております。プルミエ・ラムール・フローリストの店主、もりと申します。隣のは、お恥ずかしながら家内です」
「かつて当店をご贔屓ひいきにしてくださっていたご夫婦に、数年分のご予約を承っておりまして。娘さんが二十二歳になるまで毎年、お誕生日に同じ花束を届けてほしいと。毎回同じお部屋――こちらで娘さんのお誕生日パーティーを開かれていたので」

 夫に代わり妻がこう続けたが、女性にしては太い眉が急激に力を失い、次第に目もくもっていく。

「けれどあの事故でご夫婦ともに亡くなってしまってから、この日のパーティーにいらっしゃるお客様も随分と顔ぶれが変わりまして。伺っていたご住所も表札が変わっていましたし、私どもにはこちらのお部屋しか頼りがなく……。いつか娘さんが現れてくれると、それだけを信じて、毎年同じ花束を作ってお待ちしているのです」

 丁寧な言葉でつぶさに語られたあと、「それも今年が最後」と小さく付け加えられた。そして心残りと言わんばかりに花束へ視線を落とす。
 開場してもなお会場をうろちょろしているとは、ビジネスマンとして誉められた所業ではない。何年と現れなかった「娘さん」が今年は現れるとも思えない。さらに、凱からしたら所詮は他人事。
 それでも女性の手の中にある、こぢんまりとした花束にたくされた想いが垣間見えてしまうと、苦言をていするのもどうかという気になる。
 見ると、花びらの色を邪魔しない程度にかすみ草がちりばめられている、単品花束だった。
 綺麗だとは思うけれど、花に詳しくない凱でも、記念日の花束にするような花でないだろう、くらいは見て取れた。薔薇や百合ゆりといった、一輪でも存在感を表す花を使用した花束がオーソドックスだが、それはまるで道端に咲いたものをかき集めたような、小さな花の集合体なのだ。
 とはいえ小ぶりながら可憐に咲き誇る様は、今しがた出逢った彼女に似ていて、妙に愛嬌がある。澄んだベビーブルーの花がなんとも愛らしく、花びら中央の透き通った白がいっそう清純さを引き立てる――

「ネモフィラ……」

 その花の名を、凱は彼女の鈴のような呟きでった。森夫妻の耳にも届いたようで、もの憂げな表情から一変、彼らの瞳にぱあっと花が咲く。

「ええ、そう! よく、ご存知で。こちらネモフィラのお花です。中でも最もポピュラーなインシグニスブルー。ひろさんと璃子りこちゃんの娘さんが、たいそう、お好きだったそうで」

 穏やかな声であっても、時折涙に声を詰まらせる箇所がいくつかあった。
 完全に抜けるタイミングを失い、当初はしまったと顔をしかめていた凱だったが、心を込めて作った花束を最後の年まで持ち帰らなければならない彼らの心内を汲み取れるだけに、会話の終止符の打ちどころも難しい。
 しばしの沈黙が訪れ、寂寞せきばくとしていた空気にふと休止符が打たれた。

「紘と璃子……父と母です。そして私、今日、四月三日生まれです。ネモフィラのお花、大好きっ」

 彼女がとつとつと告げた事実に一同、一驚いっきょうきっする。
 ――なんだって?
 ふと彼女を見ると、立ち姿勢のままの三人を仰いだ大きな瞳はひどく揺れている。

「あなた!」
「ああ! やっとだ!」

 森夫妻はかっと目をいて顔を見合わせ、けれどすぐに歓喜の表情に染まった。

「や、やっぱりそうか! どうりで大きな目が璃子ちゃんに似てると思ったんだ」

 森は調子のいいことをうそぶきながらも、目を真っ赤にしている。夫人においては手の甲で目をこすっていたが、そのうちはっとしてネモフィラの花束を彼女へ差し出した。

「二十二歳のお誕生日おめでとうございます。紘さんも璃子ちゃんも、あなたの成長をとても喜んでいるわ」
「そうだと良いのですが。ありがとうございます。……三年分のお花、無駄にしてしまってごめんなさい」
「いいのよ。気にしないの。あなたも若くしてご両親を亡くして大変だったでしょう。よく来てくれたわね」

 女同士の涙ぐましいやり取りが続く間も、終始凱は全くの蚊帳かやの外だった。
 偶然にしては奇跡のようで、ちょっといい話のドキュメンタリー番組を観ている視聴者の気分だ。……偶然か?

「本当に本当にありがとうございました!」

 いよいよ正規のスタッフにとがめられ、森夫妻は退出を余儀なくされた。
 けれども最後に振り返った彼らの表情は、役目を果たせた充実感で満ち溢れていた。そして凱もまた、脳裏にまとわりついていた霧が晴れた感覚におちいる。
 ――男慣れしてなそうな女が、なんで誕生日当日にわざわざこんないかがわしいパーティーに。
 改めて自問する。彼女の目的が金でもワンナイトでもなくこの部屋自体――両親の面影だったとしたら。だとすれば合点がいくが、無謀すぎる。しかしこうして今は亡き両親から花束が届いたのだから、あながち無駄足を踏んだとも言い切れない。
 バルコニーには再び静穏が戻り、ひとしきり互いに思い澄ます。

「立てる?」

 かすかに花の香を含んだ夜風が、ふわっとしたロングの髪を優しく舞い上げた。凱はたまらず、腰を折って丁寧に右手を差し伸べる。淑女をエスコートするように。
 心のどこかで安心したのだ。彼女が、自分のよく知るタイプの女ではなさそうなことに。
 そういう女ならば、二十二にもなって両親からの誕生日プレゼント――それもこぢんまりとした花束を大事そうに胸に抱きかかえたりはしないし、その格好で嗚咽おえつを小さく洩らすこともない。
 女の涙など欲望を叶えるための必殺アイテムだと信じ込んでいた。事実、凱の前で流れた女の涙はどれも濁っていて、欲が透けて見えた。なのに、今手を差し伸べている彼女のそれは、純粋に綺麗だと感じた。花の美しさなんかかすんでしまうくらい。そんな表現では無粋に思えるほどまばゆいと。

「ここを出る方法を考えよう。君のような女性がこんなところにいたらいけない」

 花束を抱きしめて小さく縮こまっている彼女にさらに迫ると、ほっそりとしたなめらかな手が、空を向いた凱の手に添えられる。

「ごめんなさい。さっきの嘘です。私、あなたに嘘をつきました」

 ところが凱がそれを握り返す前に、彼女は躊躇ためらった。華奢きゃしゃな手は脱力したように再びすとんと床に散る。

「本当は私は、そういうことを目当てにここへ来たわけではなくて。いえ、実を言うとちょっと夢見てしまいましたけど。とにかくお嬢様でも高所得者の娘でもなくて。築三十年のアパートで一人暮らしをしています」

 それにしても随分とすごいのをぶっ込んできたものだ。
 凱の勝手な偏見だが、築三十年のアパートと聞くとどうしても、なんちゃら荘というイメージが頭を掠める。

「ならあのチケットはどうやって?」
「亡くなった父と母からもらいました。昔々、そのワインを出すフランス料理店に二人でお邪魔したことがあったみたいで。入口で嘘をついて誤魔化したことは謝ります。でも盗んだりはしていません」

 悠も十年前のものと言っていた。辻褄つじつまは合う。
 まあ、嘘で嘘を塗り替えるような女なのでは、と勘ぐることはもうないけれど。

「このパーティーのことを知ったのは偶然でした。だけどそれを知るのが二十二歳のお誕生日前だなんて、なんだか運命を感じてしまって」
「それで思い切って飛び込んだと」

 結末を急いだ凱に、彼女はこくと頷く。

「私が大学を卒業する二十二歳までお祝いしてくれるという、生前の約束は記憶にあったので。一人っ子だったのもあって、随分と甘やかされて育ちました」
「その先の約束はないの?」
「二十三歳からは……両親ではない大切な人を見つけてね、と言いたかったのだと思います」

 なるほど。少しだけ彼女の背景が見えてきた。
 まず言葉遣いが上品で、不自然に語尾を伸ばしたり上げたりせず、聞き取りやすいスピードで話す。育ちの良い人は姿勢が良いと言うが、しゃがみ込んだ体勢でもそれは歴然としていた。森夫妻の話からも、両親に蝶よ花よと大切に育てられたのだとありありと浮かぶ。
 しかし、ただの箱入り娘というわけでもなさそうだ。
 スイートを貸し切って娘の誕生日会を開いていたそうだが、ここは都内で指折りのラグジュアリーホテル。一泊百万はくだらない。そこを毎年、当たり前のように娘の記念日に利用していた両親は、そこそこ高所得者であったはずだ。
 極め付きは、本パーティーの招待状となるエチケット。これを入手できるフランス料理店に入店を許される家柄となれば、『そこそこ』なんてものじゃない。言わずと知れた名家だ。
 何かが引っ掛かる。

「私みたいな人がこんなところにいたらいけない――あなたの言う通りです。こんなきらびやかな場所、私には全然似合ってない。とんでもなく相応しくない世界の住人なんだなあって、来てみてよくわかりました」

 ――まあ、そういう意味で言ったわけではないのだけど。

「この花束に出会えたので後悔はしていません。でも、ご迷惑をおかけしたことは申し訳なく思います。……帰ります」

 語尾を強め、立ち上がろうとして彼女は床に両手をつく。ただ、捻った足首にいまだ激痛が走るようで、左足が動かない。今度は右膝を立て、片脚で全体重を支える気でいるようだった。
 見るに見かねて……どうにも離しがたくて。凱は咄嗟にか細い腕を取った。

「ここのルールは知ってる?」

 はて? と彼女の全身から力が抜けたのを察し、わずかな安堵感が凱の胸を掠める。

「まず、男女ペアでないとこのスイートからは出られない。そして出たあとは必ず下の階の客室へ通される。君が飛び込んだとこは、そういうパーティーだ」
「うそ……知りませんでした。入ることだけ考えてて。どうしよう」

 気の抜けた声とともに、彼女の表情からたちまち色が抜けていく。嘘を突き通せないばかりか、すぐに顔に出てしまう。あらゆる面で素直な子のようだ。
 おそらく「助けてあげて」という言葉を選んだ悠の直感は間違っていない。暗に結城財閥総帥そうすいの息子にその役目を預け、牽制けんせいを図ったことも。
 俗っぽく言うなら彼女は「ウマそうな女」だ。ミニマムサイズの体型に愛々しい顔つき。そのわりに柔らかそうな、たわわなバスト。熟女好きは別としても、一夜のたわむれをたのしみに来ている参加者男どもにとって、彼女が格好の餌食だろうことは想像に容易い。
 彼らクラスのポジションを担う人物ならば嫌でも結城総帥そうすいの息子の顔を知っている。だからこそ今は横槍よこやりが入ってこないが、彼女を一人にした途端、アプローチ合戦が繰り広げられるに違いない。
 現に先から、日中億単位の金を動かしている御曹司らは身を乗り出すほど彼女に釘付けだ。
 となるとそれを今独占している自分は、彼らにとって邪魔者以外の何者でもないわけだ。悪くない。
 ――だからといって、俺が君にとって安全である保証はできないけれど。

「ひあ……⁉」

 この瞬間、己に潜む全身の力が腕に集中した。
 手に取ったままだった華奢きゃしゃな腕を颯爽さっそうと引っ張り上げ、即座に腰を引き寄せる。それだけでは飽き足らず、腕から放した手を太腿の裏へ回して、自分の腰の位置で彼女を抱き上げた。
 よほど父親に甘やかされて育ったのか。彼女は本能で、控えめながらも凱の首に片腕を回した。もう片手には、しっかりとネモフィラの花束を握って。
 頼りない二本の脚は宙ぶらりんになっている。けれどこれで足首に負担はかかるまい。そうして、出会い頭から高低差があった目線がほぼ等しくなり、やっときちんと顔を突き合わせた。
 吐息の触れるゼロ距離で視線が絡み、結び、心を通わせる。
 驚きで震える睫毛まつげも、恥じらいに揺れる瞳も、無防備な唇まで……
 ――ああ、やっぱり。どうしようもなく愛らしい。

「俺にしとく?」

 ぽかんと口を開けている彼女に、あえていたずらに微笑んで見せた。

の相手」
「……もお! 意地が悪いです!」

 真っ赤に染めた頬をぷうっと膨らませるところもまた可愛い。
 一度女毛嫌いフィルターが外れるともうだめで。
 タガが外れた、スイッチが入った、火がついた――頭の芯から突き抜ける、いかんともしがたいこの強烈な欲望は、男なら誰しもが持つであろうさもしい願望か、性欲か、はたまた恋情か。
 凱はなんとも形容しがたい感覚を味わいつつもあごを引いて、玻璃はりのように澄んだ瞳を覗き込む。

「今日誕生日だって? 祝いながら、ここを出る方法を考えようか。酒呑める?」
「はい。少しなら。でもお仕事は大丈夫ですか? 参加者の格好……ではないですよね」
「まあね。あっちで酒を作るのが俺の仕事」

 顔の向きはそのままで、黒目だけバーカウンターがある方向を示す。

「あ、バーテンダー? でしたら喜んでご馳走になります。できたら甘めのお酒で」
「OK。得意だ」

 なぜ自らこんなことを言い出したのか。
 少なくとも自分は仕事中だ。父親から任務とやらを与えられてここに潜入している。パートナーもいる。なのにもはや放ってはおけなかった。

「名前は?」

 思えば、女に名前を求めた記憶はない。寄りつく女は自ら名乗ったし、中には名前も知らずにベッドをともにした女もいたかもしれない。それほどに女に興味がなかったのだと、凱は今になって気づいた。

「み――あ、んっと……」

 言いかけて、言いよどむ。これを彼女は何度繰り返したろう。ここまで焦らされると余計に訊き出したくなるもので、鼻先同士をこすり合わせて無言の催促をする。

「~~~っのあ。乃木坂の『乃』にラブの『愛』です。あなたは?」

 彼女らしい名前だ。と、直感がすぐに捉えた。可愛くて柔らかくて、守ってあげたくなるような。

「凱」
「珍しい名前。海外の血が入っているのですか?」
「いや生粋の日本人。凱旋門の『凱』」
「ガイサン?」
「こら。ざっと見積もったみたいな発音やめようか」
「あ。ごめんなさい」

 くすと吐息を遊ばせた乃愛は、たおやかに目を細めた。
 男慣れしていないと言っても、男と至近距離で見つめ合っても目を逸らさない。
 思った通り、きちんと愛を受けて育てられたいい子なのだろう。

「凱でいいよ。みんなそう呼んでる」
「わかりました。凱……って、随分とスケールの大きいお名前ですね。なんでもできちゃいそう」
「まったくだ」

 全くもって親も立場も、呼称もファーストネームまで、何もかもが仰々しい。現在進行形で嫌気が差している。しかし彼女に言われると褒め言葉に聞こえてしまうのだから、困ったものだ。

「Happy birthday Noa」

 ひときわ大きなフルムーンを背景にして。ぽってりとした唇の隙間に吹き込むように告げてから、触れるだけのキスをした。すると乃愛は大きな瞳を存分に潤ませて、頬に一筋の涙を流す。
 そして凱は夜空で寄り添う二つの星に、その涙のわけをりたいと乞い願うのだ。



   王子様と蜜に濡れた夜を


『奇跡とは、願うものではなく掴むものである』

 どんなに願ったって、まず自分が動かなければ叶うはずないじゃないか――父の企業の創業者がのこした言葉だそうだ。彼がそれを有言実行したことで企業は巨万の利益を得て、そのいしずえを築いたという。これは今もなお代々語り継がれていて、末裔まつえいである乃愛にも口承されていた。
 パーティーに潜り込むことなど、起業に比べればちりほど小さな一歩。けれどその一歩がトリガーとなり、数々の僥倖ぎょうこうに恵まれるのだとしたら、どうだろう。


 にわかには信じがたい奇跡――今は亡き両親から届いたネモフィラの花々は、バーカウンターの上に横たわり、持ち主となった乃愛にわらいかけている。
 三年間諦めることなく、紘と璃子の娘を捜し続けてくれた森夫妻の熱意に、そして生きる言葉をのこしてくれた両親の愛に、心打たれ、思いがけず涙腺が緩んだ。それのみか、突如現れた王子様のような男性に本名でお祝いしてもらえたことで、さらに涙が溢れて仕方がなかった。
 岬乃愛――戸籍上の名であり、三年前の崩落事故で両親を一度に亡くした娘が捨てざるを得なくなった名前である。
 ファーストネームで呼んでくれる人はもういない。名乗ってはいけないときつく言われていた。なのでカフェで出会った彼女の「ミサキちゃん」呼びも訂正していないし、今関わりのあるすべての人にとって自分は「ミサキ」なのだ。
 それなのにどうしてか。いわゆる本能というやつが、凱には本来の名前を呼んでほしいと願ってしまった。誕生日当日、ひいてはお姫様気分を味わえる装い、行きずりの出逢い、そんな浮ついた気持ちがあったせいかもしれない。
 花束に添えられていた三年分のメッセージカードに視線を落とし、一枚一枚に目を通してから元に戻す。最後の年「Happy 22nd birthday」の一枚につづられたメッセージは、乃愛が諦めかけていた願い──『あなたにもいつか王子様が』で締めくくられていた。

「乃愛」

 バーカウンター越しに、低くもしっとりした声がその名を呼ぶ。それだけで酔いそうになる。アルコールはまだ一滴も含んでいないというのに、どうしたことだろう。
 なんて失礼な人、という第一印象を、凱自身がくつがえすまでそう長くはかからなかった。
 会話を交わしてみると思いのほか親しみ深く、しかも足をくじいて立てないところを軽々と抱きかかえてくれた。おまけに、背の高いバーチェアまで乃愛を運び、擦りむけた膝に絆創膏ばんそうこうを貼ってくれたのも彼だ。
 どこの馬の骨とも知れない女の言うことを信じ、その上世話を焼いてくれるくらいだから、もともと面倒見が良い男性なのかもしれない。

「なんでその花が好きなの?」

 花束に一瞥いちべつをくれた凱がたずねた。『ネモフィラの花が好き』と伝えた人にはだいたい同じことをかれたなと、乃愛は過去を懐かしむ。
 他にももっと女性が好みそうな華やかな花はたくさんあるのに、なぜこぢんまりとした花をなかんずく好むのか――凱の心内、こんなところだろう。

「幼い頃、両親が連れて行ってくれた公園に広大な丘があったんです。丘一面には見渡す限りのネモフィラ畑が広がっていました。どこまでも続く絨毯じゅうたんみたいに。約六百万本あったそうです。その華麗さに衝撃を受けて」
「六百万本はすごいね」

 舌を巻いたように言う凱に、乃愛はにっこりと笑って嬉しそうに頷いた。
 十数年経った今でもあの光景は脳裏に鮮やかによみがえる。
 ネモフィラは一つ一つの花自体は小さく可愛らしい。ともすると足元に咲く野の花。それも六百万本も集まるとさすがに壮観としか言いようがなかった。青い空、青い海、ネモフィラが染め上げる青一色の丘――これらが一つに溶け合った絶景パノラマは、落ち着きのない幼児が言葉を失うほど風光明媚ふうこうめいびな景色で。見渡す限りの青の世界は、花に特別興味を持たない少女をも魅了した。

「日々忙しくしていた父が毎年、ネモフィラ畑を見に行く日は必ず終日休みを取ってくれていたんです。それも好きな理由の一つかもしれません」

 最後にネモフィラ畑を訪れたのはもう十年以上も前のこと。父の仕事がより多忙になり、まともに終日休暇が取れなくなっていったのだ。その代わりにと、以降は毎年決まって誕生日にネモフィラの花束を用意してくれるようになった。
 それからというもの乃愛にとってのネモフィラは、薔薇やカーネーションなど見るもあでやかな花よりずっと価値のある花となる。もはや色も形もそのすべてに愛心が芽生え、盲目的な恋におちいったと言っても過言ではない。


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