一夜限りのはずが極上御曹司の甘い欲情に溺れています

碧まりる

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1巻

1-3

「OK。だいたい掴めた。シャンパンは呑める?」
「はいたぶん!」
「なに。たぶんって」

 とにかく萎縮していると、お酒やリキュールのボトルがずらっと並んだ棚を背にして、彼は眉尻を下げて場を和ませる。

「レモンジュース、これはグレナデンシロップ。甘めのチェリーブランデー。あとはアイスかな」

 いくつかのボトルを乃愛にも見えるように並べると、料理実況の動画を真似て、カクテルができるまでの工程をゆっくり丁寧に実演してくれた。
 一通りの材料を目分量でシェーカーに流し込み器用にそれを振る彼をこっそり盗み見て、甘い溜め息が零れる。
 ただでさえ場違いだというのに、凱のような男性にお酒を作ってもらっていることに恐縮する。いいえ、彼はこれが仕事なのだ。頭ではわかっていても、やけに胸の鼓動がうるさい。きっと凱が美しすぎるせい。男性を美しいと形容するのも語弊があるが、正直この世のものとは思えない見事な造りをしているのだから仕方ない。
 綺麗な顔立ちをしているのに、風情や体格はきっちり男らしい。時折、気怠けだるそうにまぶたを落とすときがある。この仕草がなんとも言いがたい色気をはらんでいて、次に目が合ったときにはうっかり恋に落ちてしまいそうだ。
 ほら、どこぞの令嬢たちだって今夜のお相手を探しつつも常にこちらを気にかけている。まさに凱は、通りすがりのカップルの彼女が彼氏そっちのけで目で追ってしまうような男前。
 などなど、彼を飾る言葉は尽きない。

「私ばかり構ってもらっていて平気ですか? 他の女性の目が、ちょっと」
「大丈夫。注文受けた酒はきちんと作ってるから」
「そこではなくて。王子様みたいな凱を私が独占していていいのかなって」
「王子様? 俺が?」

 まるで他人事のように微笑を浮かべながらも――

「気にしなくていいよ。俺がしたくてこうしてる」

 こういう、思わせぶりがすぎるところなんか、王子様そのもの。
 斜め上から注がれる熱視線を受けてひたと見上げれば、魅了という磁石に吸い上げられそうになる。そうなる前に、乃愛はふいと彼から目線を逸らした。
 きっと女性にはこと欠かない人生を送ってきた人。間違っても恋愛初心者が望んではいけないたぐいの大人であることはよくわかる。
 乃愛が今一度頬を引き締めたところで、さらに一杯の幸せが舞い降りた。

「見てて」

 シャンパンボトルの底を片手で包んだ凱が視線を誘導する。
 乃愛の前にすっと出された逆三角形のカクテルグラス。その底にはネモフィラの花びらの色を模したと思われるリキュール・ブルーキュラソーが沈んでおり、すぐ上の層にはシェーカーから注いだマゼンタ色のカクテルが入っている。そこへシャンパンをグラスいっぱいに満たすと、ペルルも喜ぶ春満開のカクテルが出来上がった。グラスのふちに添えられたくき付きのさくらんぼのオマケがまた嬉しい。

「チェリーフィズ。どうぞ」
「可愛い~~~!」

 歓呼の声を上げながら、乃愛は喜色満面で小さく拍手を送る。
 三年越しの花束にメッセージカード。王子様からの祝福。今夜に三年分の幸せがぎゅっと凝縮されたようで、天にも昇る気持ちだ。
 ――こんなに奇跡続きだなんて、そのまま天に召されるんじゃなかろうか、私。
 引き締めたはずの頬は再び緩み、「いただきます」と丁寧に挨拶をしてから嬉々としてグラスに口を付けた。
 含んだ瞬間に気泡が口の隅々まで広がるのに、喉越しは極めて柔らかい。最後には雑味のないチェリーブランデーの濃厚な甘さが残り、舌で感じる以上に心を甘くさせる。まるで、そう、言うなれば口説かれているみたいな。さらには、この頃にはグラス底に潜んでいたブルーキュラソーが全体に混ざり、カクテル色がピンクからパープルに変化している。少女が大人の階段を上るストーリーを描くかのように。

「……いし、い。美味しい!」
「そんな喜んでもらえるなら、作った甲斐があるよ」

 営業スマイルばりに落ち着いて返されると、子供っぽくはしゃいだ自分を恥じるしかない。
 一旦喉を整えてから、うつむきがちに慎重に口を開いた。

「女の子なら誰でも喜びます。あっと驚く素敵な演出に、キラキラした可愛いカクテル」
「どうかな。少なくとも俺の周りには、こういうのが出てきて当たり前と思ってる女しかいなかった」

 このときの凱の、温度が感じられないいだ眼差しには見覚えがあった。たしか絆創膏ばんそうこうを手にバルコニーへやってきたときにも諦念が垣間見えた。
 きっと、本来の彼ではなくさせる、良くないものだ。

「でしたら皆さん相当損していますね。最高のホスピタリティを受け取らないなんて」

 表情がわずかに揺らいだ凱に、乃愛は控えめに微笑みかける。
 サービス業でしばしば耳にする『ホスピタリティ』。
 接客マニュアルに載っているものを『サービス』とすると、『ホスピタリティ』は、マニュアルとして決められてはいないけれど、相手を思いやって尽くす、おもてなしといったところ。
 凱が何気なく作ったチェリーフィズには、ホスピタリティ――「こうしたら呑む人は喜ぶだろう」という心遣いが、そこここにちりばめられていた。

「甘さも呑みやすさも絶妙。カクテルカラーに私の大好きなネモフィラ色を取り入れてくれていますし、シャンパンを注ぐパフォーマンスを目の前で見せてくれたのもポイントが高いです。あと、さくらんぼの種は取って処理してくれていますよね。女性は特に、一度口に入れたものを出すことに抵抗があるから」

 ……それと、ペルルとともにグラス内で踊っている星型の金平糖こんぺいとうが二つ。
 再び涙腺が緩んでしまいそうなのであえて口には出さなかったが、二つの星はきっと乃愛の両親に見立ててくれている。なぜだかそんな気がしてならなかった。
 たった一杯、されど一杯。呑むほうの気持ちを大切にしてくれた彼がひどく好ましい。乃愛が噛み締めながら一つ一つ挙げていけば、凱は感心したように頷く。

「ホスピタリティね。なかなか出てくる言葉じゃないな。飲食業?」
「あたり。カフェ店員をしています。昔鑑賞したオペラが忘れられなくて」

 乃愛の返事に凱は怪訝そうに首を傾げた。カフェとオペラがどうにも繋がらないのだろう。

「カフェと同じ敷地内にオペラハウスがあるんです。『チェネレントラ』をご存知ですか?」
「ロッシーニのシンデレラ?」
「はい。オペラ自体はもともと興味なかったんですけど、『チェネレントラ』は一度で心奪われてしまって。公演中何度もオペラハウスに足を運んだものです」

『チェネレントラ』――ジョアキーノ・ロッシーニによって作曲されたオペラである。
 ヒロイン・チェネレントラは、贅沢三昧している異母姉二人にしいたげられ、日々女中のように働かされている。ここは童話の『シンデレラ』とほぼ変わりないが、まずかぼちゃの馬車や魔法といった非現実的なものは出現せず、『シンデレラ』よりも現実的な物語になっている。
 それから、このシンデレラストーリーには少しばかり捻りがあるところも面白い。
 つつましく生活していたチェネレントラはある日、物乞いにこっそり食べ物を分け与える。この物乞いは実は王子の家庭教師が変装した姿であった。この出来事をきっかけに、分け隔てのない優しさを持つチェネレントラは王子に見初みそめられることになる。
 王子との出逢いがまたいい。王子と従者が入れ替わってヒロインの実家、男爵家を訪問したとき。継父ままちちや異母姉二人が偽物の王子ばかりにこびを売っている間に、チェネレントラは従者にふんした本物の王子と出逢っていて、互いに惹かれ合うのだ。
 中身が入れ替わっていることも知らず、偽王子に求婚されても「私はあなたの従者に恋をしていますので」と毅然きぜんとして断るチェネレントラは心から美しかった。
 王子様もヒロインすら、相手の心惹かれたところが富や身分でもない。お互いが欲しいというさらな愛がそこにはあって、少女の憧れを掴むには十分すぎる極上のシンデレラストーリーだった。

「はあ」

 乃愛はうっとりした目を遠くに注ぐ。
 フィナーレを飾る、超絶技巧的な絢爛けんらんたるアリアを脳内プレイヤーで再生すると、いまだに心が震える。

「……あ。のーあ。戻ってこい」

 頭上にぽわんと吹き出しでもつけるように、完全に思いにふけっていたらしい。何度目かの呼びかけで、やっとピントが合った。撫でるに似た眼差しと。

「そんなに好きなら今度一緒に行く?」
「へっ」

 思いがけず間の抜けた声も出るというもの。
 いやそんな、まさか。リップサービスにもほどがある。二人は数十分前が初対面だ。連絡先を交換するまでの関係にもない。そうだ、カクテルトークに違いない。なのに心臓は真に受けてしまうから困る。

「いえ、また鑑賞したいというわけでは……! オペラのチケットって高価ですし。それに残念ながらあれ以来日本でチェネレントラの公演はされていないんです」

 もちろん変化球ジョークを華麗にかわせる上級スキルなど習得していない。早口でそう駆け抜けると、乃愛はグラス内のカクテルを呑み干し、取り急ぎおかわりを頼むのだった。

「そう。残念」

 シェーカーを構えて、凱は楽しそうに忍び笑いをしている。ちっとも残念そうには見えない。

「そんなに呑んで大丈夫?」
「んー。あと一杯だけ」

 こんなやりとりも二度目で、かれこれもう三杯目になる。チェリーフィズがすっかり気に入った乃愛は、グラスを下げるたびに「同じものを」と注文した。
 カウンターの奥からなみなみ注がれたカクテルが出てきて、ほっと胸を撫で下ろす。たわいない会話をしていられる時間が、また一杯分延びたと。
 凱とのひとときが心地よくて仕方ない。
 凱は三十二歳、乃愛は二十二歳と、相手は実年齢、精神年齢ともにだいぶ上だった。酔いも手伝って、たまに敬語が取れてしまう小娘をとがめることもない。同年代にはない包容力と、妙な安心感に、今日が初めてとは思えない距離感。そのどれもが、まゆに包まれたような心地にさせてくれた。
 だけど、だめ。いつまでも凱のところにいたら居心地がよすぎて離れがたくなってしまう。
 酔いも回ってきた。たぶん次の一杯を呑むと潰れるやつで、今が一番ふわふわして気持ちいいときだ。この調子なら乗り切れなくもない。

「……あのね、凱。そろそろ私――」

 言いかけて、続く言葉に迷う。
 忘れていたわけではなかった。ワンナイトパーティーのルールとやらを。
 男女ペアでないとこのスイートからは出られない……要は参加者の誰かと一夜を過ごさなければ、家には帰れないということ。
 凱はここを出る方法を考えてくれると言ったが、これは、目先の餌に釣られて考えなしにやってきた自分の責任である。
 これ以上、彼にお世話になるわけにはいかない。
 そうは言っても、抱かれるの? あの中の誰かに? 伏し目がちに、部屋に残っている殿方を見回してみる。すると数人の御曹司様と目が合った。どれも息を潜めた獣の目をしている。
 身体が強張り、手には嫌な汗が滲んだ。
 男女が同じ部屋で一晩を過ごして何もない確率はどれくらいなのだろう。そんな乃愛の甘ったれた考えを笑うように、膝までも震え出した。

「……凱なら良かったのに」

 なんとはなしにぼそりと呟く。一拍置いて、咄嗟に両手で口を覆った。
 なんと烏滸おこがましい。そもそも凱はスタッフである。ぽろっと洩れた心の声が彼に聞こえていないといい。ん? という顔でわずかにこちらへ耳を傾けた凱には、作り笑いで誤魔化す。
 この三年間、極力節欲してきたつもりだ。そうしなければと、自分を律してきた。今では随分と寡欲かよくになったものだと成長すら感じる。それが、密かな夢が叶ったことで、今夜は欲張りになっているらしい。
 時間稼ぎはこれで最後。本当に最後にしよう。凱が別の客の相手をしているうちに勢いを付けて、くっとラスト一杯を呑み下した。
 なお、きっちりさくらんぼのくきまでいただいている。
 ――これを口の中で結べたらキスがうまいって本当かな。
 口をもごもごさせつつ、彼の姿を酔眼すいがんでぼんやりと見やる。
 凱は瞬く間に、カクテルの注文を口実に近づいてきた女性たちに囲まれている。もっと言えば凱目的で列をなしているくらいだ。
 夢は夢のままで。乃愛の思考を現実に引き戻すかのように、左隣のバーチェアの座面回転部分がキイと耳障みみざわりな音を立てる。他にも席が空いているのに、短髪の男性が乃愛の隣に腰を下ろした。

「失礼。先程はどーうも」

 男は、改まった声とは裏腹の軽薄な口調で挨拶する。
 ああやっぱり目をつけられていたか、と乃愛はからのカクテルグラスに視線を落とした。
 凱と出逢う直前の出来事だ。この男が、嫌がる女性を強引に連れ去ろうとしていたので、見るに見かねて間に割って入って止めたのだった。というのもその直前、彼女の弱気な発言を乃愛は漏れ聞いていた。『男性経験などない私が、失礼がないようにお相手できるかしら』と。そんな彼女が声を上げて嫌がるほど望まない男性に抱かれる、しかも乃愛と同様未経験らしい。とても他人事とは思えなかった。気がつけば考えなしに、面長の馬顔御曹司様の肘を取っていた。

「どこのご令嬢? 見かけない顔だね、君」

 男はこなれた口説き口調で乃愛に迫る。俺の顔は当然知っているよね、という言い草である。生憎あいにくお名前は存じ上げないが、装いでいくらかは察することができた。
 初見で目についたストレートチップの黒靴に、青系のレジメンタルストライプ柄ネクタイ。綺麗にられたひげからも、銀行や証券会社などの金融業であることが窺える。
 メガバンク頭取の息子、といったところだろうか。

「人前で恥をかかされたのは初めてだ。責任を取って、今夜は君が私に奉仕しなさい」

 どんな理屈だ、と乃愛は唖然とする。が、やはり返答には至らない。
 口にはまださくらんぼのくきが入っている。不器用な乃愛には一語文を吐き出すことすら困難で、今できる主なランゲージは上下か左右に首を振るだけ。

「ほう。君は私の誘いを断れるランクのお嬢様なのか?」

 どういうわけか階級が高い人ほどランク差に拘泥こうでいする。
 すべては身分の良さと金だという考えの人は苦手だ。正しくは、ここ数年でそう思い至った。
 無論どちらもあるに越したことはない。だけどそのせいで自らの力量を過信し、人として大切なものを見失うくらいなら、生活環境もお金も必要最低限あれば充分とまで今は考えている。
 首を上下に振ってしまえば最後。それだけはと頑なに拒んでいたけれど、乃愛の反抗的な態度に、男の苛立ちは募る一方だった。

「行くぞ」

 もごもごするだけの令嬢もどきにとうとうごうを煮やし、男が乱暴に乃愛の腕を取る。

「(それが目的で来たんだろう? たのしませてくれよ)」

 意地でも椅子から離れない。力んでいた乃愛に、悪魔の囁きが舞う。
 自業自得だと諦めたはずが、どうにも身体が言うことを聞かない。手が触れただけで居竦むのに、それ以上などとんでもない。かと言って、この誘いを断ったとして、いずれは最後に残った御曹司の誰かと強制的に客室へ押し込められる。
 ――嫌。でももう、私の力ではどうにもならない……
 もしもの話。こうなることがわかっていても、両親からの花束を受け取りにここへ来ただろうか。
 男の力に抵抗しながらとりとめのないことを自問しているうちに、凱が乃愛の前へ戻ってくる。
 こんな場面、凱にだけは見られたくなかった。
 固くまぶたを閉じ、凱に最後の挨拶をしなければと、さくらんぼのくきを出そうとして口をすぼめる。

「俺に何かできることある?」

 そんな凱のなめらかな声を聞いた途端に、まぶたを開いた乃愛の瞳から懇願の涙が一粒落ちた。

「うん。わかってた」

 凱はそうとだけ告げて、少し申し訳なさそうに目尻を下げる。乃愛の視界にかげりができたとほぼ同時に、彼の思わせぶりな顔がいくらか傾いた。

「んっ?」

 気の抜けた乃愛の声が鼻から抜ける。そのときにはすでに後頭部に手を添えられていて、ああべられる、と悟った時点ではもう唇にふたをされていた。
 いったい何が起こったのか。理解が追いつかずにしばし硬直する。つぐんだ口を上下に押し開かれ、生温かい異物が口内に滑り込んできたとき、乃愛はようやっと状況を把握した。まあまあ奥行があるカウンターを挟んで、凱と唇だけが繋がっている状態だと。

「ンっ。んんぅ……ン」

 くぐもった声が途切れ途切れに零れる。

「舌出せる?」

 唇は触れたまま、吐息が吹き込まれた。頭の中に直に囁きかけられているようで、どうにも抗えない。言われるがままに舌先を押し出すと、乃愛の口内に潜んでいたさくらんぼのくきが二人の唾液の間で水遊びを始めた。

「乃愛。もっと」

 睦言むつごとのような、艶気を含んだ低い声が囁く。甘くねだられている。王子様のような凱に。

「んッん」

 かと思えば、甘えるように乃愛の舌をくきごと吸い上げる。そのうちに、乃愛は舌の上でたしかな感触を得た。彼の唇が離れて改めて確信する。ほとんど真っ直ぐだったくきが変形したと。自らの口内ですら不可能に近いというのに、自分の舌先を使って他人の口の中のくきを結んでしまったのだ。
 舌に乗ったままのさくらんぼのくきを乃愛がおずおずとつまみ出すと、やはりくきは輪っかを通って結ばれていた。

「こ、の……バーテン風情がッ」

 乃愛がぱちくりとくきを見つめるまで、一瞬のことだった。それでもこの一部始終を見せられた頭取の息子からすれば、横槍よこやりが入り、たまったものじゃない。
 彼は睨み殺しでもしそうな目つきで凱を見据えている。一方、凱はそれをものともせず遥か上から見下ろしていた。
 こうして両者を同じ視界に入れると、不思議と乃愛には凱のほうがよほど高尚こうしょうに見える。ただのバーテンダーとはとても思えない。その悠然たる様は、まさにたゆみない光。眩しくてたまらないのに一度求めてしまえばそのすべてが欲しくなる。
 乃愛が陶然とした面持ちで凱を眺める横で、頭取の息子の瞳孔がくわっと開いた。

「君、は――」
「俺の女だ。手を出してただで済むと思うなよ」

 わずかに震えた声を遮り、凱は乃愛に向けていたのとは全く異なる乱暴な言葉を投げつける。男は一度眉をひそめたが、その圧倒的な存在感に気圧けおされひれ伏し、怏々おうおうとして去っていった。
 自分を助けるために放った台詞だ。わかってはいても、凱のそれはいちいち心臓に悪い。
 したり顔の凱をひたと見上げる。

「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」

 続く言葉が見つからない。驚きの連続で、どれを何から話したらいいのか戸惑う。

「……えっち」

 戸惑った挙句の、これだ。無意識に口から零れていた。
 人目をはばからずキスのような真似をして、これでは凱はキスがうまいと知らされたようなもの。それらを次々と軽々こなして見せられると、どうしてかこれ以外の言葉が当てはまらなかったのだ。
 そんなふうに言われて凱はどんな表情するのか。

「知らなくていい。俺以外の男なんか」

 確認して、火傷やけどする。強い意志を持った眼差しが、逃がさないと訴えてくる。

「ハナっから他の男に君を引き渡すつもりはないよ。――乃愛がその気になるのを待ってる」

 一瞬、思考が止まる。凱の目つきには揺るぎない自信の色が表れていた。

「サインはずっと出してたんだけど。外では警戒されない程度にキスした。口当たりはいいけど酔いやすいカクテルを出した。デートにも誘った」

 うっかり触れてしまっただけと決めつけていたバルコニーでのアクシデントを、キスと言い切ったのにも驚いたけれど。『ここを出る方法を考えようか』と言ってくれたときから、そのつもりだったのだろうか。裏を返せば、乃愛にはもともと選択肢がなかったということになる。
 ――策士‼

「俺は王子様なんだっけ。その認識は改めたほうがいいよ」

 そのようですね。と心の内で呟く。悪い人ではない。だけど計算高くて、ちょっと意地悪だ。

「でも凱はパーティーの参加者ではないし、お仕事もあるでしょう?」
「そんなのどうにでもなる」

 凱はあくまでも、迷子の乃愛を手厚く保護してくれた善良なスタッフであって、そこまでしてもらえる心当たりもなければ義理もない。自分がチョコレートだったとしたら、今ごろどろどろに溶けていることだろう。そんな馬鹿げたたとえをしてしまうほど、信じられなかった。

「でもあなたは私のこと何も知らな――」
「お互い様だし、ここにいる誰もがそうだ」
「そう、ですけど。それに! さすがに引かれると思うんですけど、私……その、男性経験がないんです」
「そう」
「そう、って……」

 必死すぎる乃愛に対し、凱はまぶたを軽く伏せ、何食わぬ顔でグラスを布巾で拭いている。
 優しいのかそうでないのか。
 すべてを承知で乃愛の今宵の相手を引き受けてくれると言うならば、願ってもないこと。そんな夢のような話が本当にあっていいのだろうか。

「両親との思い出の部屋を訪れたいというのは、私の数年前からの願いでした。でもこのパーティーの趣旨を聞いて、もしかしたら素敵な男性と夢みたいな一夜を過ごせるのかもって、馬鹿げたことも考えていました。……なんて、虫が良すぎました」

 聞いているのか、聞き流しているのか。凱の反応はない。それでも。

「……凱がいい」

 泣きそうな声で小さく願望を口にした途端に、彼の姿がカウンターの中から消え、はっとしたときにはすでに凱はフロア側に回り込んでいた。目にも留まらぬ速さで手首を取られたので、乃愛は慌ててもう一方の手でハンドバッグと花束を掴む。
 ――凱……?
 彼の爪先はスイートルームの入口を目指しているようだが、部屋を出る手前で、凱は参加者と見られる一人の男性から無言でジャケットを引きがした。手にしたそれを自ら羽織り、再び乃愛の手を取って扉を抜ける。
 扉前の黒服に、凱も参加者であることを示すためと思われるけれど……

「あの、大丈夫なんですか? 今の方」
「大丈夫。知り合いだから」

 言いながら、凱はスイートルームをなんなく飛び出し、ひたすら乃愛の手を引く。その横顔からは表情が読み取れない。
 たとえそれがどんなものだったとしても、策士でも意地悪でも、凱は紛れもなく――狭く孤独な鳥籠とりかごの中から乃愛を連れ出してくれた王子様、そのものだった。


 無愛想な黒服に通された客室は、豪奢ごうしゃなスイートルームとは印象がまた違う。
 クロス、フロア、インテリア。そのどれもがモノトーン系でまとめられており、間接照明の柔らかな光に包まれている。中でもぱっと目につくものは四点式天蓋付きの大きなベッドだろう。

「適当にくつろいでて。シャワー浴びてくる」

 ひとまずバッグと花束をデスクの上に置くと、凱の口元が耳の裏までやってきて、ふっと囁く。
 びくっとして乃愛が肩を竦めたときには、背後から彼の気配は消えていた。
 ――くつろぐって、どこでどうやって……?
 何もかもが初めてで、どう振る舞えばいいのかわからない。
 とりあえず信じがたいことが起こっている。
 まさかこんな形で初体験を迎えようとは思いもしなかった。それも、誰もがうらやむような男性とお姫様仕様のベッドで一夜を過ごせる、なんて贅沢だと思う。一生の思い出になる予感すらしている。
 ところが凱はどうだろう。
 成り行きとはいえ、彼にしたら処女など取るに足らないのではなかろうか。
 極度の緊張と不安で、身体がまるごと心臓になったように胸の鼓動がうるさい。さしあたって、ふうと肩で息をする。
 結局何をするでもなく、足に根が生えたように一歩も動けないまま、ときは満ちた。

「お、おかえりなさいっ」

 首だけバスルームのほうを振り返るなり、息を呑む。バスローブ姿の凱がフェロモンを抑え切れておらず、ひどく扇情的せんじょうてきなのだ。服を脱ぐ前から見え隠れしていた太めの鎖骨がほのかに湿っていて、いっそう色めいている。真っ直ぐ乃愛に向けられた眼差しも心なしかしっとりして見えた。
 タオルドライしながら歩み寄る凱の一歩一歩に胸が高鳴り、まなじりは下がる。
 あと一歩というところで彼はおもむろに首を傾けた。

「わかってんの? 帰るなら俺が出てくるまでだったってこと」

 たしかに、と思う。けれど、ありったけの勇気を振り絞らなければと心しただけで、不思議とその選択肢は頭になかった。

「帰るのも、アリだったんですか?」
「もうナシになった」

 その言葉の意味どおり、背後からあっという間にからめとられる。引き締まった腕が、乃愛の腰に巻きついた。長身の男性が小柄な女性を包み込むと、『抱き締める』より『抱き込む』状態になった。

「私たぶん、凱がいつもこういうことをしてる女性みたいにはできないと思います。それでも、いいの?」
「いつもって何」
「だって、慣れてますよね」
「まあ否定はしないけど。忘れたの? 乃愛を誘ったのは俺だよ」

 そうは言うけれど、いくらなんでも経験値に差がありすぎる。ここまで気遣ってくれても――面倒な処女をもらってくれるというのに、乃愛には返せるものが何一つないのだ。

「どうして私にここまでしてくれるんですか?」

 バルコニーの一件で乃愛の境遇に同情したとして、ともに誕生日を祝ってくれたことまでは理解できる。それでも、女性に困らなそうな男性に相手にしてもらえる女だとはとても思えない。

「別にとは思ってないよ。ただ乃愛を欲しがった」

 凱は何食わぬ顔をしてさらりと言い放つ。

「全部俺のせいにして甘えきったらいい」

 その言ノ葉は、孤独な乃愛にとって魔法のように感じられた。
 もう二度と会うこともない雲の上の王子様――そんな人に愛しげに求められることに、単純にも幸せを覚えてしまったのだ。
 互いのファーストネームと、好ましいと感じる人柄、二人を繋ぐものはそのくらい。そんな一夜限りの関係に模範解答など必要ないのかもしれない。

「ちょろい女って思ってます?」
「よくこれで処女を守ってこられたものだとは思ってる」

 ――まあ、おんなじことだ。
 頭上の凱の目をひたと見据え、ぷうっと頬を膨らませて見せた。すると凱のからかうような表情を浮かべた顔がそれを覆い尽くす。

「ひぁっ⁉」

 かと思うと、腰に回った片腕はそのままに、凱が乃愛の身体を軽々と持ち上げる。いわゆるお姫様だっこというやつだ。

「凱? 私もシャワーを……」
「また浴びるの? シャボンのいい香りがするけど」

 言いながら、凱は首筋に鼻先をつーと這わせる。

「それに、乃愛の匂いをりたい」


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本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。